夫と子供を殺した女が欲しかったもの~佐賀・長崎父子連続保険金殺人②~

運命の出会い

礼子は疲弊しきっていた。
そんな折、克彦さんと口論になった際、「お前はお手伝いさんたい」と言われ唖然とする。
平成4年の正月には克彦さんの母親からも、「克彦が離婚ば考えよるとよ。財産は全部こっちのもんやけんが。子供らも全部引き取ってうちで面倒ばみるけん」と追い打ちをかけられた。

Aさんとの関係はいまだに続いていた。仕事はパートを転々としてはいたが、自分一人で自立できるには危うく、ましてや子供たち3人を連れていけるわけもなかった。
さらに、家計が回らず、町内会の会費を60万円使いこむなどしており、その穴埋めのために山口夫婦は相当な借金があった。礼子名義の借金だけでもなんと一千万円に上っていたという。

そんな時、スナックを訪れたのが外尾だった。

克彦さんの母親から離婚の話を聞かされる少し前、礼子が勤めるスナックの客として訪れたのが、外尾だった。
外尾は礼子を指名し、接客下手な礼子にも優しかった。時には、経済的に困窮している礼子に対し、小遣いを渡すこともあった。
そんな外尾に対し、礼子は本来自分が求める男性像を見出すようになっていく。
会話の中で、礼子がAさんに脅されていることを知った外尾は、スナックの中でAさんを呼びつけ殴りつけた。
この時の外尾は、礼子にとってみれば「救世主」であった。この男こそ、自分をこの泥沼から引き揚げてくれる存在であると思えたのだろう。

Aさんの背後には暴力団があった。外尾は、それにもしっかり手をまわしていた。そのため、Aさんも礼子と関係を切らざるを得なかった。
外尾の登場で、礼子はその「泥沼」から抜け出せた。はずだった。

しかし外尾は白馬の騎士ではなかった。
外尾はこれまでも、女性を食い物にして金をせびってきていた。今回のターゲットは、礼子だった。
スナックに通ううち、礼子の境遇を嫌でも耳にした。礼子から直接話も聞いた。そこで、外尾はある算段をしたのだ。
Aさんに手をひかせ、男気のある所を礼子に見せた上で、礼子を食い物にしようとしていたのだ。
しかし、外尾の皮算用とは裏腹に、その後礼子と克彦さんは連れ立って、「また二人でやっていくから」とスナックを辞める挨拶をしに来た。
その時のことを、裁判で証人として出廷した外尾の知人は、「外尾は二人が元のさやに収まったと聞いて『金にもならんことをしてしまった』とボヤいていた」と話す。

礼子はAさんから解放され、夫もスナックのママと別れ、もう一度家庭を再構築しようとしていたように見えたが、その半年後、克彦さんが死亡する。

外尾のそれまで

外尾は、昭和22年に佐賀県鹿島市で生まれ、小中と鹿島市内の学校を出た後、高校を2年で退学すると上京し、トラック運転手や遊技場の従業員として働いた。
昭和48年に結婚し、3人の子供にも恵まれる。
しかし、元来ギャンブル好きだった外尾は、結婚して間もない昭和51年ころから数百万の借金を負う。
さらに、妻に対する暴力行為もあり、昭和59年に離婚。
昭和63年には勤務していたバス会社で事故を起こし、実父の死去という事情もあって同年5月には佐賀の実家へと戻った。
外尾の父親は古物商で、父の死去に伴って外尾はその跡を継ぐ形で古物商を営むようになったが、それは形だけで、依然としてギャンブルにのめりこむ日々であった。
店の商品は次々に売り払い、武雄競輪、佐賀競馬、大村競艇とつぎ込んだ。店には売るものがなくなり、常にカーテンがかかっていたという。
一方で、地元の人々の外尾に対する印象はそこまで悪くない。
地域のどぶさらいにも参加し、近所の子供らにも気さくに声をかける優しいおじちゃんだったという。
外尾の拠り所は、自身の4人の兄と姉の障碍者年金だった。兄と姉らは、昭和28年ころから昭和53年にかけて相次いで精神を病み、全員が長期入院状態にあった。
そのため、障碍者年金を外尾が管理しており、それを担保に金融業者から借り入れをしたり、両親の共済金、さらには知人女性らから借り入れるなどしてそれらのほとんどをギャンブルに費やしていた。
当時、外尾を知るタクシー運転手は、
「いつもタクシーで乗り付けて、1レースに2~30万、時には100万円以上を突っ込むような賭け方をしていた。」
と話す。
博才はゼロに等しく、外尾が最終的に外した金額は、押収されたはずれ馬券などを計算すると3億8420万円である。

しかし、そんな外尾も、一部の女性からすると酷く魅力的に見えてしまうというからなおタチが悪い。
どこか危うい雰囲気、いや実際にめちゃくちゃヤバい奴だったわけだが、そういった普通の男とは違う外尾は、それまで真面目だったり、家庭に収まっているような平凡な主婦にしてみれば惹かれる部分もあったのだろう。
礼子と付き合う直前も、年上の女性を丸め込んで金を出させ続けていたという外尾。礼子に目を付けたのは、その金づるの女性と別れた直後だった。

殺害計画

事件後の裁判や報道では、吉則君の殺害にばかり焦点があてられ、最初の殺人である克彦さんの事件についてはスルーされている感が否めない。
それが、この一連の事件の真相を見え難くしていると私は思っているのだが、それは後述するとして、礼子はAさんと別れた後克彦さんとやり直していたはずだった。
しかし、克彦さんは新たに若い愛人を作るなどし、家庭を再構築する気などないかのようにふるまった。

そもそも、礼子はAさんに脅されて関係を強いられていたことを、そのトラブルの張本人である克彦さんがまるで他人事のようにとらえていたことに強い不満を抱いていた。
そこへ、克彦さんの実母からの言葉や、克彦さん自身の態度にその不満は次第に殺意へと傾いていた。
その理由に、克彦さんにかけられた多額の保険金の存在があった。

克彦さんは昭和47年に就職した後、保険に入っている。その後、平成3年までに、普通死亡保険金として3700万円、災害時死亡保険金として4900万円を、礼子を受取人として契約していた。
さらに、克彦さんの実母が別の生命保険会社の外交員であったことから、昭和60年にはそちらでも普通死亡保険金として4000万円、災害時死亡保険金として5000万円の保険にも入っており、そちらの受取人も礼子だった。
この、保険契約に関しては礼子はまったく関与していない。しかし、受取人であることや、保険の内容については当然知っていた。

日々の生活に疲れ、一千万円以上の借金があった礼子にとって、ふと、「この人が死んでくれれば」と考えたことは1度や2度ではなかったろう。不仲の夫婦であれば、礼子でなくともそのような考えをふとしてしまう人は少なくない。

しかし礼子は、それをかなり本気で考えていた。
その証拠に、礼子は外尾にさりげなく夫を殺したい、という意思を告げている。
話半分で聞いていた外尾に対し、実際の保険証券を見せるなどして、克彦さんが死ねば総額1億円に上る保険金が入ることを教え、さらには克彦さんが死亡することで礼子と外尾との新しい生活にも踏み出せる、そういって外尾を説得した。
この時期、二人の関係はかなりあけすけであった。
克彦さんの留守に、外尾の自動車が山口家に横付けされているのはしょっちゅうで、自らも愛人がいた克彦さんもそれを黙認しているという話もあった。

克彦さんの中では、おそらく礼子は本気で「お手伝いさん」だった。
自分は気ままに散財し、よそに女を作り、家庭のことは礼子に放り投げた。
こういうと、克彦さんだけが非情な人間に思えるが、そもそもとして山口家に養子に入った時点に話を戻してみたい。

クヨさんの資産を管理するための養子縁組だったが、高齢のクヨさんには「介護要員」が必要だったのだ。この当時、今ほど介護サービスは充実していなかったし、田舎では「嫁が介護するのが当たり前」であった。
山口家の財産を手に入れるためには、それと引き換えにクヨさんの介護を引き受けなければならなかった、だから、病院勤めの礼子は「ちょうどよかった」と言って差し支えないだろう。むしろ、克彦さんはそういった女性を探していたはずだ。

ただ、礼子もそれを「わかっていた」のではないか。でなければ、なんで高齢の介護待ったなしの人間がいる家に入ろうなどと思うだろうか。
しかも、手に職をつけるために入った看護学校を辞めてまで。
いずれ手に入る山口家の財産を、克彦さん同様礼子も「狙っていた」。
克彦さんとは、恋焦がれて夫婦になったというより、「損得勘定」での婚姻だったと私は思う。ていうか絶対そう。

もちろん、そうはいっても子供も生まれ、やはり愛情も育まれたとは思う。いくら損得とはいえ、礼子の結婚生活は礼子だけが損をするような日々が続いていたのも事実だ。
しかし、そもそもの始まりがそうであったなら、もはやこの男に用はない。
この男が消えさえすれば、経済的な不安も、泥沼のような生活も一緒に消えてくれるのだから。

いつもは自分の口車に女を乗せてきた外尾だったが、この時は、礼子に乗せられた。

平成4年9月11日

その日までに、礼子と外尾はどうやって克彦さんを事故死に見せかけて殺すかの相談をしてきた。
礼子運転の車で外出した際に、わざと川に転落し、礼子だけが脱出するという引田天功も真っ青の計画を立ててみたり、大雨の日を見計らって自宅横の増水した川へ突き落す、克彦さんの車のブレーキに細工するなど様々な方法を考えた。
結局、外尾の兄姉に処方された向精神薬や、礼子が不眠を訴えて処方してもらった睡眠薬などを食事に混ぜて克彦さんに食べさせ、釣りの最中に誤って海に転落したように見せかけることにした。

平成4年9月10日の夜、克彦さんの好物であったカレーを作ると、そこに薬を混ぜ込んだ。
日が変わり、11日の午前零時すぎ、ヨットの係留場脇の駐車場にやってきた外尾と礼子は、克彦さんを抱えて高さ8メートルの堤防に置いた。
子供達にもあらかじめ、今日は釣りに行くなどと話し、子供達にも睡眠薬入りのカレーを食べさせた。
意識もうろうとしている克彦さんに対し「お母さんが呼んどるよ」などといって車に乗せた。
釣りを装うために、餌や缶ビール、おつまみなども準備し、ことの後で110番するために駆け込む家まで決めていた。
意を決して、克彦さんを海へと転落させたが、海に沈んだはずの克彦さんが叫んだ。
「おいば殺す気か!!」
その声を聞いた外尾は、「刑務所に行きとうなかぁーー!!」そう叫ぶと海へ入って克彦さんを抑えつけたという。
礼子は、海から上がった外尾を自宅へ送り届け、すでに寝入っていた子供たちを車に乗せると再びあの海へと車を走らせた。
周囲に他殺を思わせるようなものがないかを確認し、さらには克彦さんの体をゆするなどして死亡していることを確認、克彦さんのサンダルを脱がすと、滑り落ちたことを表すためサンダルを堤防にこすりつけた。

そして、なぜここにいるのかもわかっていない寝ぼけ眼の長男と次男に対し、「お父さんが海に落ちたから助けに行って!」と促し、自分はかねてから目星をつけていた家に飛び込み、夫が海に落ちた、電話を貸してと取り乱して見せた。

警察の調べでも不審な点は見当たらず、礼子の証言だけで事故死として処理された。
そして、総額1億円近い保険金が、礼子の懐に転がり込んだのである。

しかし、礼子の生活は上向くどころかさらに地獄への一本道を転がり落ちていくことになってしまう。

数か月で消えた1億5千万円

礼子には、生命保険金のほか、克彦さんの退職金や団体定期保険、弔慰金なども振り込まれた。生命保険金と併せると1億円を超える額である。
当初、多額の保険金を受け取った礼子を心配し、礼子の実兄がその管理をし、礼子や克彦さんの借金の清算などをしていた。数千万円の借金を作った人間に大金を持たせたらどうなるか、それは誰もが予想しうることであり、実兄がそうしようとしたのも十分理解できる。
事実、多額の保険金を律義に借金返済に充て、残りの金については、子供達の将来のためにと管理することにしていた。
しかし、それでは納得できないのが外尾である。外尾は、生命保険金を受け取れるからこそ、礼子に持ちかけられた克彦さん殺害を承諾したのだから、兄にそれを握られたのでは意味がない。
連日のように外尾は礼子の兄宅を訪れては恫喝した。さらに、礼子に兄を告訴させたりもしたという。
たまりかねた兄は、保険金を全額渡し、今後外尾と別れない限りは一切の関係を断つ。実家の母やほかの兄弟にもそうするよう伝えた。

礼子はその金の半分をまず外尾に渡した。そして、今後2人が結婚して夫婦になった場合は、全ての金の管理を外尾に任せるという「念書」を書いていた。
二人はとりあえず3,000万円で借金を返済し、礼子が使う軽自動車を購入、外尾の兄姉の入院費などに使用した。
そして、克彦さんの死から数か月後には、外尾は山口家に入り浸るようになって内縁関係となっていく。
内縁関係となったことで、婚姻には至っていないものの礼子が書いた念書の通り、外尾は保険金を自由に使い始めた。
しかしその行先は案の定、ギャンブルだった。
平成4年10月に手にした1億円は、平成5年の夏までに底をついたというから外尾の博才の無さには同情すら禁じ得ない。
保険金が底をつくと、外尾と礼子は山口家の資産を食いつぶし始める。
これには実はきっかけがあり、以前たまたま山口家の近くにバイパス道路が抜けることになり、それに伴って田の一部を売却したのだが、それで思いついたとみられる。
そこから平成9年までの間に、930㎡の田を2,400万円で、農地1000㎡を3,000万円で、さらにミカン山も100万円少しで売却した。
それでも外尾の浪費には追い付かず、土地を担保に借金も重ねる。地元の資産家から340万円、自宅の土地を担保に数百万円、そして平成6年には大手消費者金融から1100万円の根抵当権を設定された。
土地の売買がうまくいかないときは、外尾が出てきてこう言ったという。
「自分も礼子に金を貸している。お宅に土地を買ってもらわんと金を返してもらえんで困る」

子供達の生活自体も困窮状態にあった。
礼子はいよいよどうにもならなくなる平成7年9月まで、無職であった。本来手にできていたはずの外尾の兄姉らの障碍者年金もすでに担保に取られていたため、日々の収入はほとんどない状態だった。
困窮から脱するために克彦さんを殺してまで手にいれた金は、礼子の実兄が懸念した通りになってしまう。
借金を清算したにもかかわらず、子供達の学校の費用も事欠き、光熱費や病院代などありとあらゆるものを滞納していた。
子どもたちが通う学校では問題にならなかったのかとも思うが、ある高校の関係者はこう証言する。
「本人が学校に来ていれば、たとえ授業料や給食費の滞納があったとしてもさほど問題にならなかった。リストラや家庭の事情で授業料を滞納する家庭は多かった」
実は、礼子の子供たちは協力して家事や弟、妹の面倒をみていた。
礼子は経済観念のみならず、子供のことに関しても両極端の評判がある。
特定の発音が苦手だった吉則君に対し、幼いころから言葉の教室に通わせたり、参観日にもPTAにもきちんと顔を出す料理上手な良いお母さんだったという人もいれば、幼い長女を保育園に預けっぱなしで自分の用事を優先させたり、食事の時間に自分が家を空けるとわかっているのに、あらかじめ子供たちの食事の用意をしておこう、という気配りができないといった話もある。
外尾と生活を始めてからは朝も起きられず、兄が妹の朝食を作ったり、自分たちでパンを買って登校する姿も目撃されていた。
実の兄からも、「金にルーズ」と言われていた礼子は、その言葉通り金がいくらあっても足りない女であった。

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