本当に辛かったのは、誰か~深谷市・利根川心中未遂事件②~

批判の矛先と雨宮処凛

生活保護を申請しながら、しかもほぼ生活保護受給が決定するであろう状態で一家心中の道を選んだこの事件は、それまでの心中事件とは異なっていた。
このサイトでも取り上げている京都伏見の母子心中未遂事件では、生活保護の受給が出来なかったことも大きな要因と認定されているし、それ以外の介護や貧困が根底にある心中や自殺などでも、役所の怠慢や故意に受理しないと言った現状も問題視されてきた。

しかし、今回のケースは、役所や福祉事務所に落ち度は見当たらない。
相談に訪れた敦子に対し、その場で母親に対する介護サービスの実施、そして生活保護の申請に関する説明を行っている。
敦子も先延ばしにせず、半月もしない間に審査に必要な聞き取り調査までこぎつけ、その2週間後にはおそらく受給決定がなされていた。

それでも貧困問題に取り組む有識者や著名な活動家は、どこかに怒りの矛先を向けずにはいられない。本能みたいなもんだから仕方ないいしても、この事件でも福祉事務所や裁判所にその矛先が向いた。

その中で、作家で政治活動家でもあり、貧困や女性問題にも詳しい雨宮処凛氏が、NHKクローズアップ現代において自ら足を運んで取材したものは、確信をついているといえる。
私は彼女をあまり知らないが、上っ面の印象だと相容れないタイプの人なので、どうせまた行政ガー!男ガー!!自民党ガー!!!みたいな奴だろうという偏見MAXで挑んだのだが、見終わってなんと丁寧で思慮深い取材だろうと感心した。

雨宮氏は実際に調査団として福祉事務所の課長らと面会し、経緯の説明を受けた。それより以前の聞き取りで、生活保護申請の対応として問題がなかったことも確認しており、まとめられたレポートでもそこはきちんと問題がなかったことに言及している。
いろいろ調べると、雨宮氏以外の有識者の中にはそれでも行政に問題があったという人もいるが、雨宮氏も敦子がたらいまわしにされず、初めて役所に行ったその日に生活保護の窓口に案内されていたと確認している。

雨宮氏が解せなかったのは実はそこなのだ。
なぜ、生活保護を受けるために自ら役所に行き、そしてそれがスムーズに進んでいたにもかかわらず死を選ばざるを得なかったのか。

雨宮氏は近隣の人や慶秀さんの勤務先にも取材し、丁寧に話を聞きとっている。
そして見えてきたのが、「生きる意味」と、「自尊心」である。

先にも書いたが、敦子は面会に来た福祉事務所の課長に対し、「本当は生活保護など受けたくなかった」と話した。
雨宮氏が取材した当時はまだ裁判が始まっていなかったが、結果、法廷でも敦子の口から「惨めな人生」という言葉が聞かれた。
敦子ら一家を思って迅速に、ていねいに行動した結果が、かえって敦子と慶秀さんに自身の人生を振り返らせる羽目になってしまったわけだ。
取材の中で、雨宮氏はこう危惧していた。

彼女の言葉の真偽のほどはわからない。だけど、死を考えるほどに抵抗を感じていたとすれば、その抵抗や恥の思いは、この社会が作り出したものではないのか。一部メディアの心ない報道や、人々の差別心が生み出したものではないのか。確かに、誰だって生活保護は受けたくないだろう。だけど、それは当たり前の「権利」だという常識が定着していれば、今回のような悲劇はもしかしたら防げたかもしれないのだ。
(出典元 「マガジン9:http://www.magazine9.jp/」 雨宮処凛がゆく!第360回より引用)

事実、生活保護が必要と思われる高齢者の中にも頑なに「お上の世話になどならない」と突っぱねる方や、「税金を使ってもらってまで生きながらえるのは恥」と考える人は少なくない。
一方で、不正受給の増加などで「本来、生活保護を受けるべき人」までが同じような目で見られるケースもある。皮肉なことに、早急に保護されて当然の立場にある人ほど、「申し訳ない、迷惑をかけられない」と感じるケースが多い。
そして今回雨宮氏が指摘したのは、そういった偏見と、比較的若い敦子の世代(40代~50代)が生活保護該当レベルとされたことでの、おそらく本人もそれまで気づけなかった「自尊心」の存在である。

裁判で敦子はどうして心中しようと思ったのか、という検察官の問いに、父は全てが無くなって解放されるから、というと同時に、何からの解放かについても述べている。
父の体調悪化の苦しみ、母の介護、そしてもうひとつ、「生活保護の調査を受けたこと」と言った。
この言葉からは、生活保護を受ける屈辱というよりも、調査を受けた時に自分たちが思い返すことでこれまでの人生の惨めさを実感「させられた」ことがきつかったという印象がある。誤解のないように、だが、担当者らに落ち度はない。彼らは気を使い、神経を使い、聞かなければならないこと、聞いてはいけないことなどを考えながら質問していた。
電気や水道が止められていないかを確認する、というのがあるらしいのだが、水道についてはわざわざ蛇口をひねって確認などということはしていない。「失礼だから」だ。

しかし、父と娘はお互いに深く傷ついていた。

父の本心

この事件を調べていくうちに、私はこの敦子という女性のもう一つの側面というか、心の叫びというか、そういうものを感じずにいられなくなった。
近隣はじめ、この一家を知るすべての人が敦子の献身、父親の愛を語った。報道でも加害者である敦子を責める声は全く聞かれない。
愚痴もこぼさず、明るく振舞い、認知症の母親が奇声を発して騒ぐたびに、「ご迷惑をおかけしていませんか」と近隣に頭を下げることもあった。
父親が仕事に出かける深夜から早朝にかけて、ヨキさんの声が家の外まで聞こえることはたびたびあった。早朝ゴミ出しに出かけた近所の主婦は、「これではろくに眠れていないのでは」と心配していたという。
嫁にも行かず、ましてや恋愛や友達付き合いもかなぐり捨て、母のためだけに生きてきたと言っても過言ではない敦子の人生。

本人は、その人生を「惨め」だと言った。ここを誰もが見逃がしてはいないだろうか。

「今思えば、私と母は相似形の親子でした。父も含めれば三位一体だった。」
最終陳述での敦子のこの言葉は、涙にかき消された。
弁護側も、母を、妻を愛していたからこその殺害だったと主張した。
その、愛してやまなかった母との、母にささげた人生を、敦子は「惨めだ」と言ったのだ。

そもそも父・慶秀さんに対して敦子はどういう思いを抱いていたのだろう。
幼いころに慶秀さんが父親としての責任を果たさなかったがゆえに、一家は困窮し、姉とも別れ、母は苦労に苦労を重ねた。
ひょっこり帰ってきた父を、妻であるヨキさんは受け入れたが、はたして敦子はどうだったのだろう。
姉の一人は言う。
「私は父のことをお父さんとは呼べなかったのに、敦子はお父さんと呼んでいて、そう呼べる妹がうらやましかった」
慶秀さんも生前職場の人に打ち明けている。敦子がお父さんと呼んでくれた、と。

父の苦労を知っているから、生き甲斐を失った父の心がわかるから、父からの心中の申し出を受けた、そう敦子は語った。
本当だろうか。
そもそも、そんな会話があったのかどうか、敦子意外に知る人間はいない。慶秀さんが心中を持ちかけたというのは裁判でも認定されていることだが、ならばなぜ、慶秀さんは自分で言い出したことを躊躇したのだろうか。そして、敦子はその父親の躊躇を咎めたのだろうか。
実は心中の決行日を敦子が早めた際、慶秀さんは渋ったという。踏ん切りがつかない様子で、21日のその日、「やっぱり明日にしよう」と言った。
それをイラついた態度で「じゃあ置いていくよ?死ぬ気あるの?」と言ったのが敦子である。
検察も裁判所も、この時点ではすでに心中は敦子主体で動いていたとしているし、そうだと思う。
慶秀さんは本気で死ぬつもりだったのだろうか。そして、敦子は「父から心中の申し出がなかったら死のうと思っていなかった」というが、本当だろうか。

敦子はレポート用紙に走り書きした遺書めいたものを残していた。そこには、
「一人でいくのは両親に悪く、父から切り出されて気持ちが軽くなった」
とあった。裁判では、「心のどこかに死にたい気持ちがあったのかもしれない」と述懐した。

私はふと思った。この家族の中で誰より自分のふがいなさを嘆いたのは、悲観したのは父ではなかったか。
それでも手術を受けて仕事復帰に一縷の望みをかけていた。事実、新聞販売店の店主にも、「あと5年は働きたいから」と笑って話したことがあった。
仕事復帰のための手術、そのための生活保護だったのではないのか。

しかし敦子はいう。
「手術しても良くならないと思うほど悪かったんです。父も寝たきりになるかもしれないと言っていました。」
どうもつながらない父親の姿がそこにある。父が心中というか、死にたいという気持ちを口にしたのは、自身の今後を嘆いたというよりも、人生を「惨め」だと思っていた敦子の気持ちを汲んでのことではないのか。
敦子の姉にも「辛い」とこぼしていたことから、慶秀さんが苦悩していたのは事実だろう。

ただ、本気で死ぬ気だったのだろうか。個人的には、死ぬのを「明日にしよう」といった時点で慶秀さんに死ぬ意思はなかったと思う。たとえ心中を持ちかけられ、一旦はそれを受諾したとしても、言い出した方が迷いを見せたらそれこそ、「じゃあもうちょっと頑張ってみよう」と思うような気もする。
しかしそれを敦子は、一蹴した。

娘の生き甲斐、存在意義

わたしたちは学校を出てそれなりの人間関係を築き、社会に出て何かしら躓きながらも解決を模索し、環境の変化や家族の変化でスキルアップしたり、それなりの社会関係の中で生きていく。

敦子はどうだったか。

本人が言うとおり、普通の人が当たり前に経験していくことから少しずつ外れた場所で生きてきた。
わかりやすく言えば、社会に敦子の居場所はなかった。学校でも職場でも、敦子がここだけは、と思える場所はなかった。
その代わり、母のいるあの小さな古い家の中だけは、敦子にとって、というか、敦子がいなければ成り立たなかった。
母親の介護は、常識的に考えれば大変だし、出来れば自分だけではなく、介護サービスの利用やほかの家族の助けを得ながらがベストだといえる。
しかし、敦子にはそもそも助けてくれる家族はいなかったし、最初は辛く理不尽に思うこともあったと思う。
それが、いつしか母の介護は敦子にとっての存在意義となっていったのではないか。
父は経済的に家庭を支える存在、自分は母の介護を一身に引き受けることで、無職であることも、結婚していないことも、すべて大義名分が成り立っていた。
社会に出ても、敦子がいなければ回らないということはないわけで、結局誰からも認められないし、褒めてももらえない。
でも、母の介護という「仕事」は自分にしかできないことだし、しかも母本人や父親のみならず、嫁いだ姉や近所の人からも褒められ、感謝までされる。

社会性のある人ならば、いずれやってくる両親の老後を考えれば、この生活は破綻すると想像しそれなりの手を打つわけだが、敦子の場合、母が脳梗塞で倒れても認知症を発症してもパーキンソン病を発症しても、何の対処もしてこなかった。自分がいるのだから。
無年金の高齢の父の収入のみに頼ったのも、いつか働けなくなる日が来るのはわかっていても、病気がちで年上のヨキさんがおそらく先に亡くなるだろう、という甘い算段もあったのかもしれない。
慶秀さん自身も、こんなに早く働けなくなるのは大きな誤算だったのだろう。

慶秀さんが働けなくなって初めて、これではまずいと思って生活保護申請をしたものの、敦子はそこで気づいたのではないか。
介護サービスを受け、生活保護を受けるということは、敦子にとっても助かるはず。しかし、自分の存在意義はどうなるのだろう。
50歳目前、独身の自分はこの母のためにすべてを捧げてきた。それが、今たとえ楽になってもその後は?介護だけが理由で職を離れたのではない、敦子自身の問題もあった。
母を看ることで全てから逃れられてきたのに、母を取り上げられたらもうその言い訳は通用しない。すべきことが無くなれば、仕事をしていない生活保護の50女はそれこそ、惨めである。

そんな敦子の心を、慶秀さんは見透かした。だから、ならばいっしょに死なないかと持ちかけた可能性はないのだろうか。本当に慶秀さんから持ちかけた心中ならば。

隠された怒り

敦子は事件後に姉らと面会した際も、泣いてはいたが明るく振舞おうと努めていたという。
姉らにしたら贖罪に近い気持ちしかないわけで、妹を責める気がないのは誰の目にも明らかだった。

妹である敦子も、姉たちに同じように思っていただろうか。

興味深いやり取りがある。
「なんで心中したの?」
そう姉が聞いたとき、敦子は
「家族だから」
と答えた。

こういわれて、姉らは言葉をなくさなかったのだろうか。敦子の心の憤怒に気づかなかったのだろうか。
家族は父と母、そして私であって、父と母の子であり姉であっても、あなたたち二人は家族ではない。そういわれたのだ。
もちろん、嫁いだから、という意味で言ったのだろう。しかし、私が姉の立場ならばこの一言で全てを察する。そしてこれまでのことを悔いる、というか、自分たちの心の中を妹はわかっていたのだと思い顔から火が出る思いであろう。
妹・敦子は姉たちとの溝を、姉たちの希望をわかっていた。えらい、すごい、姉たちは妹をこう褒めたたえた。それは、自分たちがすべてを妹に押し付けていたことを理解していたからだ。
だから助けも求めなかったし、相談もしなかった。しても意味がないからだ。

父、慶秀さんに対してもどうだったのだろう。姉も慶秀さん自身も、敦子だけは家出をした慶秀さんを「父さん」と呼んだと話しているが、当の敦子は否定する。
「姉の証言にもありましたが、私は父のことを「お父さん」と呼んだことはありません」と。

どちらが本当か、というより、敦子はずっと慶秀さんを父と認めていなかったのではないか。
そんな父でも必死で働いてくれ、だから自分は仕事をやめられたし、母の介護で自分の価値を見出すこともできていた。
なのに、働けなくなったうえに介護まで…そしてそれでも何とか踏ん張ろうと思ったのに、死にたいとこの父は言った。
ならばその願いをかなえてみせよう、敦子がそう思ったとしても何ら不思議はない。

「あっちゃん、ごめんな」

引き揚げられた車は、運転席の窓以外はドアも閉まっていた。
水が入ってくる車の中で、母ヨキさんは恐怖に震えていた。
「冷たいよ、死んじゃうよ!」
そう叫ぶ母親の服をつかんで水の中に引きずり出し、そしてそのまま川の流れに任せた。
父の服もつかんでいたが、父はその手を突き放し、自ら沈んでいった。
利根川に車で進入していく際、後部座席にいた慶秀さんがこうつぶやいたという。
「あっちゃん、ごめんな」
なんどもなんども、引き返すタイミングはあった。この父の言葉を聞いても、敦子は両親を死なせることをやめなかった。
死にたい気持ちがあったという敦子だったが、死をためらった慶秀さんは死に、敦子は助かった。溺れもせず、結局自力で浅瀬にたどり着いた。

裁判員から、「事件の結果についてどう思っているか」と聞かれた敦子は、
「父が死に切れたことはよかったと思っている。もしも生き残ったのが父で、この場にいるのが父だったらそっちの方が残酷だった。生き残ったのが私で良かった」
と答えた。

しかし父からすれば、そっくりそのまま返したい思いだろう。躊躇した自分が生き残って、裁きを受けるべきだったと。
その一方で、敦子にもう重荷を背負わさないで済む、そうも思ったであろう。
生前、敦子の献身を職場の人に話した際、敦子への賞賛とともに、
「(嫁に行かすために)早く手放さなきゃだめだよ」
という言葉をかけられた。慶秀さんは複雑な顔で、
「そうなんだけどね・・・」
と言葉を濁したという。
ここにも、慶秀さんの胸中にあるものが私には痛々しい。
手放して自由にしてやりたい、しかし、それを敦子は望んでいるのだろうか?
慶秀さんにはわからなかった。

雨宮処凛氏は、自身の取材を通して社会全体にはびこる生活保護、貧困層への偏見や差別がこの利根川心中を引き起こした要因の一つではないか、と投げかける。
私もそれには同意だし、おそらく敦子の「惨めな人生」という言葉がそれを表していると思う。
しかし。
敦子自身の中に、そういった貧困に対する嫌悪、偏見はなかったか?それは同族嫌悪とでもいうべきか、敦子自身がそもそも生活保護や貧困に対しておもうところがあったのではないか。だから、惨めだと思ってしまうのだ。
敦子は自分自身を正当化はしたが、ありのままを受け入れることをしていなかったように思う。
貧困にあえいだのは自分のせいではない。しかし、そこから抜け出す努力をしたのかどうか。こう言ってしまうと、貧困を知らない人間の詭弁だと怒られるだろう。ごめん。
でも、敦子はしていなかったと私は思う。貧困から抜け出すことは大変な努力を強いられるし、イコール、自分の居場所をなくすことに他ならないからだ。
生活保護受給を目前にしながら、経済的不安から一時的にでも救われるにもかかわらず、「私は生活保護なんか受けたくなかった」と言ったのは、生活保護を受けることで自分の居場所、存在意義を失う恐怖があったのではないのか。どうしてもそう思ってしまう私がいる。

懲役を終え、敦子はどこに帰るのだろう。
かつて暮らしたあの平屋はすでにない。出所したところで、結局は生活保護に頼らざるを得ないのではないか。
その時はどうか、そんな自分も丸ごと受け入れ、父も母もいないところでもう一度、裁判で述べた通り「何があっても生き抜く」ことをしてほしいと思う。
それがどんなにつらいことでも。

「本当に辛かったのは、誰か~深谷市・利根川心中未遂事件②~」への2件のフィードバック

  1. なんか。いろんな事件の背景を知るたびに色々思うことはあるけれど
    私自身もいろんな経験をして今がある人間なので、
    恥ずかしながら、被告人側の心情が
    「わかるわ」と思ってしまうことがこれまでも何度かあったんですが、
    私も様々な事情から福祉事務所に行って相談までしたことがありまして。
    結果として私は生活保護は受けることなく何とかなったんです。
    なったんですけど、敦子のその時の気持ちがすごくわかるんですよ。
    相談に行くのも本当は嫌だった、恥ずかしかったから「私はその相談じゃないんです」臭を
    振りまきながら事務所訪問したりして。
    でも若い子供連れの女性が事務所に入ってきた私に向けた視線は
    たぶん一生忘れないし、この先、心底困って相談に行かなきゃならない状況が来ても
    行くのも嫌だと思います。
    ※職員の方はみな非常に親切でやさしかったのが救い。
    そして意外といろいろ話をきちんと聞いてくれるのにも正直驚いた。

    今はその時からは考えられないほど仕事もうまく行ってて
    福祉事務所のお世話になることはなさそうですけど
    雨宮さんの書いてる通りであるし、とにかく他人のことに対して
    弱ってると見るや親の仇のように突然「善良な常識人」ぶって叩く人の神経が理解できない。背景も知らないのに。
    下村早苗の事件の時に、「こういう人こそ生活保護を~~」っていう
    コメントを何度か見かけたことがあるんですよね、
    その時読んでてものすごくイラっと来たので
    「でも実際その人が受けてたら受けてたで事情も知らないのに批判するじゃん、
    受けなきゃ受けないでいい人ぶって「こういう人こそ」と言い出す、
    困ってる人がそもそも相談すらいけない状況作ってる自覚もなく叩きまくる、
    お前らみたいなのは偽善者であり、異常者だわ」と返信してしまったことがあります。
    でも事実だと思う。
    もう少し「助けあう」っていうことに寛容になってほしいなと心底思います。
    ある人は、生活保護が受けられることになったので、
    指定病院に行って健診するよう言われて病院行ったそうなんですが
    そこの医師に、”医師に”ですよ、
    「あなたと同じ症状でも生活保護受けずに頑張ってる人も大勢いるでしょ、
    人の税金で食べていくことばかり考えずに仕事を探したら?」と言われて
    その後欝になって結局働くことも困難なほどになった人がいます。
    まさかの医者の言葉がそれとはね、とびっくりっていうか笑えてきたっていうこともありました。マジで。
    この点米国や英国とは面白いくらい真逆ですね。
    米国なんかじゃ「お隣さんが困ってる!」と見るやヤードセールで小銭稼ぎに始まり、
    クラウドファンディング立ち上げて寄付募るとか、たとえ騙されたとしても
    (実際そういう事件もあったりで)
    すぐさま困ってる人のために動こうとするけど、日本は叩く。
    そして「尤もなことを言ってる」と思ってる自分に酔う。(笑)
    事情はどうであれ「困ってる人を助けるのは当たり前」「頼られると嬉しい」
    と普通にいう欧州米各国の数人の友人がいますけど、そう言う話になるたびに
    「早く話題変えろ!!」と心の中で舌打ちしまくりです。

    というかね、私、相談行ったときに
    「じゃあ自分の払ってきた税金でも誰かが助かったんだな」と思って少し嬉しかったんですよ、しょーもないことですけど。
    その1~2年後くらいかな、突然生活保護たたきがすごくなったのは。
    こんな人たちが「韓国人の民度がーー」とか書いてるの見ると、
    「とりあえずお前の出自をきちんと調べろよ」といつも思ってしまいます。

    ※毎度長くなってすいません。気を付けますので。

    1. 長いコメントは大歓迎です、お気になさらず。
      色んな立場があって、実際に生活保護を受けた人、今も受けている人、考えたけど相談にも行かなかった人、相談に行ったけど受けずに済んだ人、そして、そんな話とは全く縁がない人、様々ですよね。
      生活保護を受ける、確かに恥ずかしい、その気持ちは多くの人が抱くはず。
      上手く言えない自分がもどかしいですが、「その時の自分のありのままを受け入れる」ことができるかどうかだと思うんです。
      私はこんなはずではない、と足掻くことほ大切ですが、敦子の場合、もう最初から詰んでるわけです。
      それを見て見ぬふりをしてきた、それは否めないと思います。
      おそらく彼女は認めたくなかった、けれどどう見ても彼女の場合は認めざるを得ない状態だった、好むと好まざるとに関わらず。批判を承知で言いますが、一家が住んでいた家自体、明白だった。はっきり言って誰も驚かない、生活保護をもらってると聞いても。
      なのに、敦子だけはそれを認められなかったと思います。
      生活保護を受けて、そこからどう立ち直るかがたいせつなわけですが、そこまでの思いに至らなかった。
      でも、彼女には生きて欲しいし、どうかできることを見つけて自分を認め、受け入れて欲しいと思うのです。
      それが出来なければ、誰であっても生きていくのは難しいものです。

      お医者さんの話は私も憤慨しました、信じられませんね。
      他人の税金でって、いやいや必要な人のために使われるのだからその言い草はおかしい。程度が低すぎますね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です