鬼畜の宴~群馬・赤城村男性リンチ殺害事件~

平成14年4月23日

「また行き会ったな。早く車に乗れや。」
早朝の群馬県渋川市の路上で、男性(当時39歳)は男らに声をかけられた。
男性が躊躇していると車から男らがおりてきて、男性を押さえ込み、そのまま車に無理やり乗せられた。
車はそのまま市街地を離れていき、北群馬郡榛東村へと移動した。そこの路上で男性は男らにこう凄まれる。
「お前、俺に金を借りて渡すって約束したろ。嘘ついてねぇで今日こそ金作ってこい」
男性は過去に、男らのうちの一人に言われるがまま、消費者金融で借金をしてその金を渡していたことがあった。
ただ事ではないと悟った男性はその場をやり過ごし、前橋市内の消費者金融までついていった。
そこで、「20万で許してやる」と言われて消費者金融の窓口へ行くよう命じられる。
男性はそこで警察に通報し、難を逃れた。

しかし、男たちはこれより前に、ひとりの男性を激しいリンチの末に殺害し、山中に遺棄していた。

もう一つの事件


群馬県赤城村樽(現在は渋川市赤城町)。
この地域で、2001年の春、ひとりの男性の姿が消えていた。
男性は島村昭二さん(当時41歳)。父親と兄妹との4人暮らしだった。
島村さんはとび職や建設現場の作業員などをしていたが、安定した収入はなく、その時その時で職を転々としていた。
行方が分からなくなった後、当時乗っていた軽自動車が群馬県北群馬郡子持村(当時。現在は渋川市)で発見されていたが、足取りはつかめていなかった。

島村さんの行方が分からなくなってから一年半がたった2002年の暮れ、赤城村深山の山中で成人の遺体が発見される。
遺体は焼かれており、損傷が激しかったものの司法解剖の結果、島村昭二さんであることが確認された。
その後の警察の調べで、島村さんと同じ赤城村津久田在住の角田篤人(当時48歳)、北群馬郡子持村中郷の解体作業員信沢藤利(当時40歳)、そして渋川市坂下在住のとび職七海幸一(当時34歳)の3名が、島村さんの遺体を遺棄した疑いで逮捕された。
逮捕当時、角田は別の窃盗の罪で金沢刑務所に服役中の身であった。

島村さんとこの男たちはどうつながっていたのか。
そして、なぜ島村さんの遺体を遺棄したのか。調べが進むにつれ、そして裁判が始まると、その凄惨極まりない所業が明らかになっていった。

男たちの素性

角田は赤城村の中学を出た後、一応は工員や建設作業員などの職に就くものの、長く勤めることはなく、あらゆる職場を転々としていた。
赤城村にある実家に暮らしながら、そこには実母と妻、そして4人の子供がいた。
生活は困窮していたにもかかわらず、一家の大黒柱としての役割は一切果たさずだらだらとした生活を送っていた。
信沢も似たようなもので、中学を出た後は建設関係の仕事を主にしていたがこちらも長続きはせず、角田とともに恐喝まがいのことをしてはその日をしのぐための金を得ていた。
島村さんの事件が発覚した当時は、角田とともにやった窃盗で執行猶予を受け、型枠解体工として働いていた。
妻と娘がいたが、すでに離婚し実家で母親と二人で暮らしていたという。
七海は福島県の出身で、須賀川市内の中学を出た後は上記の2人と同じように塗装工などの仕事を転々としながら無為徒食の生活を送っていた。
七海も同じく窃盗にかかわっていたことから、信沢同様執行猶予判決を受け、この当時はとび職だった。
離婚した妻とそのまま渋川市内で同居し、子供は4人いた。

この、クズを絵にかいたような男たちは、汗水たらして働くこともできずど底辺の生活をずっと長いこと送ってきた。
資料がなぜか全くないため、詳しいことはわからないものの、どんな暮らしぶりだったかはおおよそ見当がつくというものである。
ともあれ3人は、特に角田と信沢は実家で暮らしていたこともあって住む場所だけは確保できていた。

だからなのか、自身の遊ぶ金さえ稼げればよいと考えていたのか、どうやってこいつらが生活していたのかは全くわからないが、おそらく相当な貧困状態であったのではないかと思われる。

捕獲

いつからこの3人がつるむようになったかは定かではないが、角田と信沢は金に困ると自分らに歯向かえないような気弱な人間を見つけ出しては、恐喝したり時には消費者金融で借金をさせてまで金銭をたかっていた。
平成12年の正月、角田は信沢に対し、そういった気の弱い人間を紹介するように命じ、それを受けて信沢が以前同僚だった島村さんを思い出した。
島村さんは確かにおとなしい性格だったようで、近所に住む人々も島村さんを「昭ちゃん」と呼んで親しく付き合っていた。
平成12年の秋ごろ、島村さんの職場や自宅などを特定した角田らは、何かと理由をつけて島村さんを呼び出すようになる。
島村さん自身も職を転々としており、金銭に余裕は全くない状態だった。角田らは島村さんをなだめすかして消費者金融で借金をさせ、その金を巻き上げた。
時には家電量販店で高価な電化製品をローンで購入させ、それをすぐさま質に入れるなどして金に換えて奪った。

金を借りさせるために当初は角田も信沢も島村さんに対しては友達のように接していたという。
しかし、消費者金融への返済が滞ったことなどで新規の借り入れが不可能になると、苛立ちもあって島村さんに対し暴行を働くようになる。

島村さんの異変に気付いたのは同居する父親だった。
おそらく督促状や支払いを迫る電話などで気づいたのだろう。それを角田らも知り、警察沙汰を恐れて一旦は島村さんとの接触を断った。
しかし、すぐにそのような事にはならないと踏んだのか、2週間ほどするとまた島村さんを探しだし、暴行を加えて新たな借金をさせた。

今でこそこんな無茶な借り方は消費者金融側がシャットアウトするところだが、事件当時はまだまだ甘く、消費者金融としてもかなり簡単に貸してくれていた。
ちなみに我が夫もこのころとんでもない外道だったので、金に困ると取り巻きの女性をデートに誘い、消費者金融業者のATMがひしめくビルの前でジャンピング土下座してはお金を借りてもらっていた。死ねばいいのに。

再び角田らの餌食となった島村さんは、この頃から家に帰れなくなっていたとみられる。
子持村の信沢の自宅に強引に寝泊まりさせ、金がなくなると島村さんに借金をさせた。しかしこの頃ほとんど島村さんは借り入れができなくなっていたとみられ、借り入れを断られるたびに角田らは激しい暴行を加えるようになっていた。
島村さんは軟禁と言っていい状態に置かれていたが、平成13年の1月半ば、逃走を図る。

自宅へ逃げかえったのもつかの間、翌2月下旬には角田と信沢がなんと島村さん宅へ押し入り、家族がいない間に島村さんを無理やり連れだしてしまう。
またもや激しい暴行を加えられた島村さんは、信沢宅での生活を強いられたが、同居する母親の手前もあったのか、子持村内にある公園に軽四を移動させられ、そこで寝泊まりするよう命じられた。しかも、車のカギを取り上げて移動できないようにし、さらには食事も与えないという仕打ちで島村さんの気力と体力を奪っていった。

4月、島村さんの父親が亡くなった際も、おそらく島村さんは帰宅できなかった。
さすがに不憫に思ったのか何なのか、その後2回ほど島村さんを自宅へ連れて帰り線香をあげさせたようだったが、それ以外は車中で生活をさせていた。
この一時的な帰宅も、おそらく兄や妹らが不在の時を狙ってのことと思われる。
この頃、勤務先で知り合ったのが七海である。七海は渋川市内で同居する妻と子供がいたが、妻とは戸籍上は離婚していた。
七海は信沢宅に入り浸るようになり、そのまま居候のような形で生活し始める。そこで角田とも知り合った。
そして、島村さんの存在と、島村さんの「使い道」を聞いた七海は、自分もその分け前をもらおうと考えて二人とともに行動し始めた。
しかし島村さんは食事も与えられず極端に痩せ始めており、また、新たな借金や家電店のローンも通らなくなっており、すでに金づるとしての役目は終えていた。

カタツムリ

信沢には懇意にしている女性がいた。
東京在住のその女性は、6歳になる子どもがいたというが、週末を利用してたびたび信沢宅へ子供とともに遊びに来ていた。
角田らは、その女性と子どもにも島村さんの存在を隠さなかった。むしろ、親子の目の前で虐めて笑いものにするなどしていたという。
ある時、その6歳の子供がカタツムリを捕まえてきた。それを、3人は島村さんに無理やり食べさせた。
おそらくだが、その場で「こいつは何も食べて無くて腹が減っているんだ」といった「設定」を持ち出したのだろう。腹が減って自ら進んでカタツムリまで食べた、という状況を面白おかしく作り出したのだ。
そして、カタツムリを食べられて悲しむ子供の前で、「なんでこの子をカタツムリを食べたんだ」といって殴る蹴るの暴行を加えた。

この頃にはすでに島村さんは人前に姿を現せるような外見ではなくなっていた。
極端にやせ衰え、ことあるごとに殴る蹴るの激しい暴行を受け、もはや逃げ出す気力すらなくなっていた。
角田らはそれでも島村さんを利用する手段を考え、島村さんを連れて島村さんの実家へ忍び込み、金目の物を盗み出すなどしたという。
そして、子持村の公園駐車場に置いていた島村さんの軽四ごと、利根川沿いの河川敷へ移動させてそこでの寝泊まりを強要した。いや、もはや放置であった。

島村さんは殴る蹴るといった暴行に加え、頭髪を剃られてなおかつ金髪に染められたり、スプレーにライターの火を近づけ火炎放射器のようにして顔面に噴射されるなどの虐待も受けていた。
さらに、眉毛をそり落とし、そこへ刺青をして笑いものにした。笑いものにするのだから、そこに彫られた刺青がいわゆる眉墨のような類ではないことは明らかだ。
その一連の虐待の様子も、件の知人女性が遊びに来ていた際には子供にも見せていた。

島村さんの心は破壊されつくされ、利根川河川敷で一人置き去りにされても、そこから逃げ出すことすら、もうできなくなっていた。

あいつ生かしといても仕方ねぇべ

島村さんの命の行方は角田らの手の中にあった。
同時に、人の目に触れさせられない状態になってしまった島村さんを、角田らは持て余し始めていた。
難癖をつけて憂さ晴らしの暴行することでの「利用価値」はあったが、もうそれもこの3人にしてみれば「面倒」なことであった。

4月中旬には、角田が暗に島村さん殺害をほのめかすようになっていく。

5月に入ると、島村さんの衰弱は一層激しくなった。
感情を壊された島村さんの形相も異様なものとなり、3人は心のどこかで言い知れぬ恐怖を抱いていたのだろう。
このところ新しい金づるも見つからず、島村さんもことごとく借り入れを失敗していたことへのいら立ちもあった。
ゴールデンウィークが過ぎたころ、角田は2人に対してこう告げた。
「明日にでもあいつ殺しちゃうべ。もう使えねぇし、あのままじゃまずいから」
あのままじゃまずい、その言葉に反応したのか、二人も角田に同意する。

翌日、東京から知人女性と子どもが遊びに来ていた。
角田らは自分の乗用車に女性と子供を乗せ、トランクには角田さんを押し込んだ。
知人宅へ立ち寄った際は、島村さんも知人宅へあげた。
角田ら3人と知人女性親子はその知人宅で飲食をしたが、島村さんはその場に居合わせながら一切の食事をさせてもらえなかったという。
その代わりに、子供が食べ残したカップラーメンに大量の七味と煙草の吸殻を入れたものを食べるように強要された。

日が暮れ、あたりが暗くなったころ、角田は島村さんに対し
「てめえを山に連れて行くから。これで最後だから。覚悟しろよ。」
と告げる。
そして再び、島村さんをトランクに押し込むと、知人女性親子とともに車に乗り込んで子持村の山中へと車を走らせた。
山道の途中で車を停めると、島村さんをトランクから引きずり出し、全員で歩いて山奥へと向かった。
この時の様子を裁判所は、「屠殺場に赴くように追い立てられ」と表現したが、まさにその通りの状況であったろう。

島村さんには、もう逃げ道はなかった。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です