難病の息子に手をかけた老母の「限界」~塩釜市・息子殺害事件②~




その夜

遺書をしたためて以降、なるべく早いうちに決行しなければと思いはしたものの、それでも富久男さんの顔を見るとその決意は揺らいだ。
そして5月22日の夜、様子を見に行った際に富久男さんが寝入っていることを確認したとき、母の心は決まった。

「眠っている時ならば、苦しまずに死ねるのではないか」

タケヨは富久男さんが使用していたベッドの下に、電気毛布があるのを認めると、そのコードをハサミで切断して2本の紐をつくった。
そして、遺書を書き始めたとき、既に娘と親族あての遺書を作っていたことを思い出してそれを破り捨てた。
自分も後を追う気だったタケヨは、富久男さんのベッドの横に自身の布団を持ち込んで敷いた。

タケヨはじっと富久男さんの寝顔を見た。幼かった頃、夫亡きあと苦労を重ねてきた自分に常に寄り添い、支えて来てくれた息子の顔を、母としてタケヨはどんな思いで見つめたのだろうか。

紐を二重に富久男さんの首に巻き、そのまま両端を一気に引っ張った。
富久男さんは、もはや抵抗する体力は残っていなかったとみえ、そのまま母の手によって殺害されたのだった。

タケヨは冒頭の通り、横浜で暮らす娘に電話をかけた。そして娘からの通報によって、富久男さん殺害容疑で逮捕となった。
警察官が駆け付けた際、富久男さんの枕元にはタケヨが書いた遺書が置いてあったという。

平成14年6月12日、検察はタケヨを殺人容疑で起訴した。




嘱託殺人

裁判は7月15日から仙台地方裁判所で始まった。
検察は富久男さん自身が書いた遺書があったわけでもなく、殺害したとき富久男さんは就寝中で意思の確認が出来ていないことなどから、殺人として起訴していた。
当然ながら弁護側は、富久男さんに殺してほしいと頼まれていたことで、追い詰められノイローゼ気味になっていたタケヨが思い余ってそれを引き受けた、いわゆる嘱託殺人の適用を求めた。

弁護側は、病院の医師からの「病気が進んだね」という言葉が引き金になり、富久男さん自身が将来を悲観し、唯一の身近な存在であったタケヨに殺害を依頼した、さらに、その富久男さんの言葉がたとえ本心からのものでなかったとしても、タケヨは錯誤してしまったと主張。
加えて、パーキンソン病を診ることのできる病院の不足、公的支援の不足が事件の背景にあると訴えた。

また、タケヨは娘に電話した際、異常を察した娘に説得されて自ら119番通報もしていた。
遺書も書き、自らも死のうと決意していた点についても触れた。
富久男さんを持て余し、自己のために身勝手な理由から富久男さんの命を奪ったわけではない、弁護側は繰り返し主張した。

状況から見ても、この弁護側の主張は無理のないものに思えたし、なによりタケヨと富久男さんのそれまでの生活ぶりを考えれば、親子にしかわからないやり取りが重ねられた結果であり、富久男さんの思いを果たせるのはもはや母親の自分しかいないとタケヨが思い込むのも無理からぬことに思えた。

しかし、こういったケースの場合は、検察も殺人より嘱託殺人での起訴を考えたのではないか、なぜ、殺人なのか。

実は検察はタケヨの心情を受け止めた結果の、殺人での起訴だったのだ。




富久男さんの本心

平成14年9月20日。仙台地方裁判所の本間榮一裁判長は、タケヨに対し、懲役3年(求刑5年)、執行猶予5年の判決を言い渡した。嘱託殺人という弁護側の主張は退けた。
そしてその上で、タケヨの献身とその限界には同情を禁じ得ないとし、「今回に限り特に」という文言をつけた上で刑の執行を猶予した。

裁判所は、そもそも富久男さんが発した、「母ちゃん、殺してけれ」という言葉を殺害の依頼だと認定しなかった。
当時の富久男さんは、左手足が思うように動かず、かろうじてトイレには立てるものの、自身でズボンを引き上げることが出来ずにオムツを着用するしかなくなっていた。
また、痰が絡むことで夜も寝られず、酷いときは一晩でティッシュの箱を一箱あけてしまうほどだったという。
座っていても首をうまく支えられず、とにかく何をするにも疲労困憊の様子だった。
さらには精神的な落ち込みもあったのか、ほとんど昼食を口にしないなど、食欲不振も顕著だった。

これらを踏まえ、弁護人は富久男さんの心に自暴自棄な気持ちが強く芽生えていた、と考えたわけだが、実際は少し違っていた。

富久男さんは病院で医師から病気が進んでいることを告げられ、たしかに落胆はしたものの、その後も指示通りに薬を服用し、それまで通りにリハビリにも通っていた。
そこでの様子には、無気力であるといった様子もなく、午前9時から午後4時までのリハビリをきちんとこなしていたという。




また、タケヨに対して過度の束縛をみせるようにもなっていた。
タケヨは時々、バスで買い物に出かけることを楽しみにしていた。しかし、富久男さんはそれを嫌がるようになっていたというのだ。
短時間であっても一人にされるのを極端に嫌がるようになり、どこへ行くにも何をするにも、タケヨに傍にいて欲しがった。
病気で心細くなればだれしも信頼できる人に傍にいて欲しいと願うものだろうが、それは母であるタケヨが辟易するような、わざと困らせているとしか思えないようなこともあったという。
それをタケヨは、「私に甘えていたんだと思う、その一環で、死にたい、殺してくれと言うようになったと思う」と供述していた。
となれば、富久男さんの「死にたい」は、今でいうところのかまってちゃん状態に近く、本心ではなかった可能性は十分にある。

さらに、検察はタケヨの、本当の胸の内を知っていた。




母の叫び

タケヨは逮捕当初は、弁護人が主張するように
「殺してくれと何回も頼まれるうち、本気で行っていると思うようになってしまい、息子を殺して自分も死のうと思った」
と話していた。

しかし、検察の調べに対しては、その供述は変わっていた。

「富久男から殺してくれと頼まれたわけではない」

タケヨはきっぱりこう供述していた。

ではなぜ、頼まれて殺したなどと言ったのか。
タケヨは、自分が自分の意思で富久男さんを、息子を殺したなどと言うと、世間から娘の家族が悪く言われる事を恐れていた。
タケヨは若くして夫を亡くした後、人様にだけは迷惑をかけまいと必死に生きてきたという。富久男さんの難病のことを周囲に知られまいとしたのも、なにもかも自分で抱え込もうとしたのも、それはタケヨという人の生き方だったということに他ならない。
それでもタケヨは、捜査段階から自身のとっさの嘘を認め、こう供述している。

「本当の話をしなければ、富久男が浮かばれないし、なにゆえ私が自分の大事な息子を殺さなければならなかったかという本当の気持ちを分かってもらえないと思ったから、今は正直に私が富久男を殺したと話している。」

富久男さんが殺してくれと何度も頼んできたのは事実だ。しかし、頼まれたから殺したのではない、と、タケヨはそこにこだわったのだ。
それはなぜか。




「富久男に殺してくれと頼まれて、簡単に殺せるくらいなら、富久男が病気になって左半身が不自由になってからこれまで、富久男の面倒を看てきたりできない。私は、富久男から頼まれたからというのではなく、富久男の病気がますます悪くなって、年取った私では、もう富久男の面倒を看れなくなるとか、私が先に死んだら、残された富久男はどうなるのだろうとか、横浜で幸せに暮らしている長女に迷惑をかけてしまうとか、いろいろなことを考え、富久男を殺してしまった。」

そう、タケヨは出来ることをすべてやり切った。そしてそれは今後も続けるつもりだった。しかし、もう限界だったのだ。
タケヨの遺書にはこう記してあった。

「息子病気良くならないのでわるくなるばかりです。病気はパーキンソン病といふ病気です。手と足が動きがわるくなるばかりです。私も足がいたいのでがんばって来たけど此れ以上出来ません。」

これが全てだったのではないか。頑張ってきたけど、もう出来ない。これ以上に、言葉がいるだろうか。

弁護人は、パーキンソン病についてや、公的支援の不足について言及されなかったことは遺憾としながらも、執行猶予判決は評価できるとした。
個人的には、たとえ嘱託殺人であろうと、その背景に無理からぬ理由が複数存在しようとも、命を奪った以上は刑に服すべきだと考える。
介護する人の方を殊更擁護し、同情することは、時に被介護者にあらぬ罪悪感を押し付けることになる可能性も危惧する。
そしてなにより、執行猶予や求刑に対しての大幅な減刑は、被告本人のためにならない場合もあると思うからだ。

被害者を心から慈しんでいた場合はなおさら、ましてや一緒に死ぬことが叶わなかった場合は誰よりも罪の意識にさいなまれているのは本人だからだ。

文中は仮名にしてあるが、タケヨの本名は、男性的な名前である。女性でこの名前の人は聞いたことがない。
時代が違うとはいえ、タケヨはその名の通り、「強い人」であった。一番夫の支えが必要な時期に、夫を亡くしても立派に子どもたちを育て上げた。その責任感と、世間に迷惑をかけてはいけないという気持ちの強さは、泣きごとを言って甘える息子にもおそらく向けられたのではないか。

タケヨはその後、長女が一緒に暮らして静かな人生を送ったようだ。


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