悲しみのある風景~自死・無理心中からみえるもの④~

居住者以外の自死

警察庁や厚生労働省が発表する自殺者数は、自殺が発生した地域別になっていることが多い。したがって、たとえば愛媛県で自殺した人の中には、旅行者や出張で来た人なども含まれている。

先の文春オンラインでの統計は、居住者別のものも掲載されているので参考にしてもらいたい。

松山市の自殺死亡率が高いのは、実はこれも関係しているのかなと考えた。
松山は海も山もあり、本当に美しい自然が多く残る街だ。
瀬戸に沈む夕日はいつ見てもため息が出るほど美しい。
そして、よく新聞に載るのが、「航行中のフェリーから人が転落」「下船者の人数が足りない」という記事だ。
松山から出港するフェリーはいくつかあるが、やはりフェリーから身投げする人は一定数いる。
間違いなく死ねるだろう点と、やはり海というものへの畏敬の念というか、誘(いざな)うものがあるのだろう。
山もそうだ。死に場所に山を選ぶ人も少なくない。特にお年寄りが家族とふらりと山にドライブに出かけ、姥捨て山の発想なのか、覚悟のうえで行方不明になるという話もいくつも聞いた。

死に場所を求めていた人に出会った人もいる。
数年前、私の友人が出会い系サイトを通じて知り合った男性がいた。彼は出張で松山に来ており、ビジネスホテルの一室で会ったという。
出張らしく、着替えのスーツが窓際にかけられ、スーツケースもあった。そこで、お酒を飲みながら他愛もない話を12時間ほどしたが、特にそれ以上のことはなかった。
翌日、再びその彼から会ってほしいと言われた友人は、特に何も思わずまた彼のホテルの部屋を訪れた。その時彼は、家族のことや子供のこと、仕事のことなどをたくさん話したという。
話し相手が欲しかったんだな、そう思った友人は、その日も話をしただけで彼と別れた。
その翌日、友人の携帯に警察から電話があり、死亡したとある男性の携帯電話の履歴の最後があなただったので連絡した、と言われた。当初は意味が分からなかった友人だったが、その男性はあの出張できていた彼だったのだ。
彼は自殺で、友人に遺書を残しており、「見ず知らずの人間の最期に優しくしてくれてありがとう」と書いてあったという。

本気で死のうとする人ほど、最期に幸せを感じて死にたいと思うのかもしれない。そんな時、たまたま出張で訪れた松山で、表面的であったとしても人のやさしさに触れられた彼は、それまで漠然としたものだった自分の人生の終わりを、ここにしようと決められたのかもしれないなと思った。
悲しい結末ではあるけれど、死んで彼が楽になれたのであれば、たとえ表面的でも本音でなくても、松山の人間が醸し出す親切な態度というのは、意味のあることなのかもしれない。

第一次産業における自死

東京慈恵医科大学大学院医学研究科環境保健医学(当時)の鈴木隆司氏、同准教授の須賀万智氏、同教授の柳沢裕之氏の論文によれば、自殺者が急増する前(1990年~1995年)と急増した後(2000年~2005年)において、様々な指標と照らし合わせ、変化がないものについて関連性があるとした研究の結果、経済分野としては課税所得(特に男性)、環境分野で日照時間、そして、労働分野では第一次産業従事者について関連性が認められたのだ。

第一次産業とは、先にも述べたが農業、林業、水産業を指す。
今でこそ機械化が進み、法人化して異業種が参入するなどハイテク化も進んでいるところも多いが、依然として多くの個人就労者は厳しい状況に置かれている。
名作「北の国から」で、北海道の酪農や農業で失敗したら自死か夜逃げ待ったなしといった厳しさを知ったが、愛媛県全体でみると第一次産業従事者の自死というのは突出して多い印象はない。
高齢者の自死(原因問わず)の場合、愛媛県の場合第一次産業従事者が多いのでおのずと数に計上されるが、第一次産業に従事していることそのものが要因になっているとは思えない。

しかし調べていくと、とある地域で明らかに第一次産業従事者であったがために自死に追い込まれたというケースがあることを知った。
場所は九州、佐賀、長崎、福岡の漁協関係者の自死だ。
ピンと来る人も多いと思うが、これは2002年ころから増え始め、2004年から2005年の2年間には11名という自死者(未遂含む)を出しているのだ。限られた職種、限られた団体の中でこの数というのは異常だ。
その中でも、海苔漁業と潜水業に携わる人が多く、中には高齢の母親を道連れに無理心中(本人は死にきれず)した人までいる。老人はおらず、みな、30代から60代の働き盛りの人々である。
これには、大きな出来事が関係していた。諫早湾の大規模干拓事業である。

1952年に、水害を防ぎ食料増産のために農地拡大を進める「長崎大干拓構想」が発案され、1989年に着工。当初の事業費は160億円程度だったが、最終的には2500億円に達する大規模国営工事となった。
この地域では多数の犠牲者を出した水害も発生しており、水害によって農作物が甚大な被害を受けたこともあり、干拓事業でそれらに加えコメ不足も解消できるとして始まったものだが、その後長きにわたる苦悩を地域住民にもたらすことになる。
漁業被害を懸念した地元の漁協関係者らは、潮受け堤防設置に反対、抗議行動なども行ってきたが、1997年、潮受け堤防の293枚の水門が閉じられた。
漁業関係者らには保証金も支払われたというが、漁協は漁業権を失い、または一部制限されることになる。
水門が閉められた直後から、有明の海には異変が起こった。それまで多い時には9000トンもの水揚げがあったタイラギ貝が極端に獲れなくなったのだ。さらに、アサリが死滅したり、海苔が赤茶けるなど、水門が閉められて以降、海の生き物はどんどん減っていった。

この後の動きに関しては長くなるため割愛するが、この水門が閉められて以降10年の間に、漁協関係者が判明しているだけでも23名の自死者(未遂含む)を出しているのだ。2004年からの2年間に突出して自死者が増えたのは先述の通りである。
裁判の原告と支援者でつくる「よみがえれ!有明海訴訟」原告団・弁護団・支援する会の岩井三樹事務局長は「漁業不振に陥ったのが原因で自殺した漁業者や家族は有明海周辺では事業開始後、70(!)人が自殺しているが、いずれもこうした生活苦などが遠因とみられる」と強調する(2004/08/28中日新聞朝刊)



自死者の多くは極端な水揚げ高の減少と、設備投資での借金を抱えていたこと、それらが複合的に絡まりあったことが動機とされるが、それに加えて人間関係の不和もあっただろう。
各漁協は一致団結して抗議活動をしていたというわけではなく、各漁協によって考え方は様々だった。国が基金として出した100億円をもとに、新しい形で再生しようとする動きもあったし、実質反対していたのは長崎の漁協がメインだった。
しかし自治体として長崎県は水門の開門には反対しており、さらには開門に必要な工事に県が協力しないなど、こじれにこじれた。
また、国からの補償金などの提案に合意した当時の漁協組合長は、ハンコをついたことで周囲からは様々なことを言われたという。
そういった仲間との軋轢、不信感、家族内での不和などが心労となり、精神をすり減らしてしまったが故の自死も少なくはなかったろう。現に、漁協関係者の「家族」が自死しているケースもいくつもあった。

諫早湾干拓事業は、当初は戦後の食糧難から米の生産量を増やし、食糧確保が目的だった。しかし、しばらくするとコメが余り始め、減反政策が推し進められる。すると今度は防災目的、といった風に、もはや止められない国の大規模事業を何としてでも推し進めるために、さまざまな理由が後付けされていったのだ。

もちろん、干拓事業のおかげでのちに起きた大雨でも大きな被害はなかったし、農地では多くの事業者が野菜などの生産に力を入れている。
しかし、その農地で成功しているのは母体が大きな他業種だ。資金があるために設備投資も惜しまず、大規模なハウスでの安定した栽培、加えて土地の改良のための機械の販売などで売り上げを上げたという。
資金力のない農家は露地栽培を余儀なくされ、カモなどによって作物を荒らされるなど、被害を受けているところも少なくない。そのカモはどこから来たのかと言えば、干拓事業で新たに作られた調整池に飛来してくるのだというから笑えない。

諫早湾の無理心中

漁協関係者の自死では、海苔漁業者が圧倒的に多い。海苔は黒いダイヤと呼ばれ、平均的な水揚げ高は1500万円~2000万円といわれ(当時)、多い人はワンシーズンで1億円を超える人もいたという。
もちろん、設備投資にも莫大な金がかかる。乾燥機や漁船など、数千万単位でかかってくるばかりか、それはいずれ壊れてしまうため買い替えや修理の費用も必要となる。
母親を道連れに無理心中をした男性は、1500万円~2000万円ほどで安定して推移していた水揚げが、2000年にはなんと340万に落ち込んだという。当時男性には父親の残した借金1000万円と、船を新しくした際の1500万円、計2500万円の借金があった。
水揚げは激減したが、もともと生真面目な性格で遊ぶこともせず、漁の合間にもアルバイトをするなど働き者だったこともあり、なんとかその後23年は踏みとどまっていた。
しかしその間も漁船の修理などで出費はかさみ、借金は3400万円になっていた。
さらに追い打ちをかけるように、ノリ小間と呼ばれる漁場の賃料の一括払いを求められてしまう。
男性は水揚げの中から8割を借金返済で漁協に天引きされており、手元に残るのは2300万しかなかった。そこからノリ小間の賃料(5年分100万円)を払うなど、到底無理な話だった。
それでもまじめな男性は、借金をしてでも払おうとしたという。しかし、もはや男性に借金をさせてくれる金融機関はなかった。

男性の窮状を兄弟らは一応知っていたが、男性は助けを求めてこなかったという。むしろ、わざわざ電話で「借金返済のめどがついたから」などと、安心させるようなことを話していたという。破産など、考え付きもしなかった。
男性は死を選ばざるを得ないと思うようになっていく。
ノリ小間の賃料が払えそうにないことを、長年一緒に海苔業をやってきた母親には打ち明けた。母親は、「お父さんが作った借金、かつがせてごめんね。お前となら、死んでもよかよ。」そう言ったという。
そして母親は刺身包丁と菜切り包丁を自分で持ってきて、海苔小屋にいるからと男性に告げた。
男性は仏壇に手を合わせ、先祖に詫び、結婚して間もない妻と、親族に宛てて遺書を書いた。
そして、母の待つ海苔小屋へと向かった。

結局、男性本人は死にきれなかった。手首を切ったが死ねず、漁船に乗って海に出、ガソリンを被ったがライターをつけることはどうにもできなかった。
陸へ戻って車で彷徨っていたところ、妻から通報を受けた警察に発見されたのだった。
裁判で男性には、嘆願書が4000筆も寄せられた。判決で裁判長は、「働いても働いても苦しくなる一方の生活に絶望したために心中を決意して実行したものであって、誠に同情を禁じ得ない。」と心を寄せた。そして、母を殺害したときに、「全身の力が抜けた」という男性に対し、「(あなたが自殺できないように)力をお母さんが持って行ってくれたのだと思います。」と語りかけたという。

自営業者、特に第一次産業の自営業者は同じ経済的な問題であっても、その額と重圧はサラリーマンとは桁が違う。
住宅ローンがかさんだなら最悪売ればいいし、破産という手もある。自営業者にも破産はあるが、第一次産業従事者の場合、同業者=苦楽を共にしてきた仲間が連帯保証についていることが多いため、おいそれと自分の都合だけで破産などとてもできることではないのだ。
設備投資にかかる額も住宅ローンの比ではない。35年かけて払う5000万円と数年で払う1000万では重みが違う。しかも何年かごとに数千万の借金を新たに背負うことも珍しくはない。
生き物、自然を相手にしている以上、不測の事態も多い。経営手腕だけでどうにかなる世界ではない。

一方で、諫早湾の変貌については、干拓事業以前から異変が起きていたと指摘する声もある。なにもかもが干拓事業のせいとまでは言い切れないのも事実だ。
しかし、私でも思ってしまうだろう。もしもあのギロチンが下りていなかったら、と。

ある漁業関係者は言う。あの時、俺たちはムツゴロウと一緒に死んだ、と。


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