母の名は、女~山形・村山市6歳男児殺害死体遺棄事件②~




母子のそれまで

有美は秋田県由利町(現・由利本荘市)の出身。
田畑の中を国道108号線が走り、そこから各集落へと進むとどこも似たような長閑な田舎の風景が広がる。
旧由利町の中心部こそ商店や施設が立ち並ぶものの、石巻から由利本荘市までをつなぐこの国道沿いとはいえ、由利町は通過点の町、といった印象だ。

この町で有美は高校卒業まで育った。

高校は隣町の普通科へ通ったというが、当時学級崩壊と言えるほどに荒んでいたその高校の中で、有美はどちらかというと先生にも丁寧な言葉を使うおとなしいまじめな生徒だったという。
両親が不仲な家庭で育ったとはいえ、有美は非行に走ることもなく育っている。
親せきの話でも、有美は家族の手伝いなども進んで行い、親せきの人たちにも素直な子、という風に見られていた。

高校卒業後、地元のスーパーで勤務していたが、同じ年に翔くんを19歳で出産している。
その後、由利本荘市内で翔くんと夫と3人での生活を始めた。
しかし4年後、夫婦は離婚。一部報道によれば、夫がパチンコにのめりこみ、生活費まで手を付けるようになったから、というのが理由のようだ。
また、翔くんに先天性の腎臓病があったことを、「お前の家系のせいだ」と言われていたことも離婚理由の一つだと周囲に話していたという。


離婚後は、由利町の隣、岩城町の町営住宅に入居、町内のテーマパーク「天鷺村」や、駅での切符販売の仕事をしていた。
月給は6~7万円程度だったようだが、それでも町営住宅に入居していたことで家賃が抑えられ、母子手当などがあったであろうから、なんとか母子二人の生活は成り立っていたようだ。
ちなみに、だが、離婚した前夫からは養育費は支払われていなかったようだ。
有美の生活について、例えば借金があったとかとりわけ生活に困窮していたという話は出ていない。民間のそれより安いとはいえ、町営住宅の家賃滞納もなかった。
実家との関係は悪くなかったことから、物的な支援などがあったのかもしれないし、それ以上に有美が自分の経済力に見合った生活を心がけていたのだと推測される。

由利町の実家でも、翔くんのおもちゃが置かれ、有美とともに実家の庭先で嬌声をあげる翔くんの姿は頻繁に目撃されていた。
腎臓病を患う翔くんが、食事制限を続けていることを不憫に思いながらも、いつか手術を受けさせ、美味しいものをたくさん食べさせたいと、わずかながら医療費の貯金もしていたという。

一方の翔くんも、母親の有美に非常に懐いており、「かー」と呼んで慕っていた。有美が仕事で買い物に行けないとき、知人が翔くんを連れて買い物に行ったことがあった。翔くんはプリンをかごに入れ、「これは、かーの分」と嬉しそうだったという。
職場でプリンを受け取った有美も、本当にうれしそうに微笑んでいたのを見て、この知人は「うらやましい親子関係」とまで思った。

間違いなく、有美は正しく愛情あふれる母親だった。

それが、まるで土石流にのまれるかのごとく、あっという間に我が子を殺す鬼になったのはなぜなのか。




変わり果てた「かー」

出会い系サイトに、日ごろの愚痴を書き込んでいた有美は、ある時写真付きのメッセージに目を止めた。
29歳、なかなかハンサムな彼は、翔くんと同い年の子供の父親。それが板垣だった。
やり取りを重ね、ふたりはお互いの子供を連れて会うことになった。
当時、村山市内の父親方で暮らしていた板垣は、その父親宅に有美親子を招いた。
同い年の子供たちはすぐに仲良くなり、板垣の父親も微笑ましくそれを見ていたという。

平成15年5月、出会って一か月足らずの二人は、村山市内のアパートで子供たちとともに同棲生活を始めた。
ある時、翔くんがお巡りさんごっこをしていたのを板垣が見咎めた。
なんてことない、だれしも経験のある子どもの遊びだったが、自身が執行猶予中であった板垣は苛立った。
板垣はその時、棒で翔くんを殴ったという。さらに、「お前のしつけがなってねぇからだ」と、有美にも同じように叩くよう仕向けた。
戸惑いを隠せない有美だったが、翔くんのお尻を10回ほど叩いたという。

以降、板垣はことあるごとに難癖をつけては、翔くんに暴力を振るった。そして、有美はもちろん、自分の息子にも翔くんを殴るよう強制した。
有美はこの時、板垣に捨てられたくないという思いに駆られていたといい、翔くんを叩きながら「お願いだから言うことを聞いて!!」と心の中で念じていたという。

翔くんは笑顔を見せなくなり、有美のことを「かー」と呼ばなくなっていた。




虐待はエスカレートの一途をたどった。
腎臓病の影響で尿のコントロールがうまくいかない翔くんに対し、おねしょをしたと言っては制裁を加えた。
有美はそれを恐れて、翔くんの命にかかわることを把握していながら、与える水分を制限した。
若干発達にも遅れがみられた翔くんが、同い年の板垣の息子よりも動きが緩慢だったり、食事をこぼしたりすることも、板垣は許さなかった。有美も、理不尽だと思いながらも、翔くんの発達の遅れを気にしていたこともあって次第に苛立ちを隠さなくなっていく。

同棲生活が進むにつれ、有美の中に翔くんに暴力を振るうと「スカッとする」気持ちが生まれていた。

我が子の墓穴

通院が欠かせなかった翔くんだったが、村山市に越して以降、通院の記録はなかった。
理由は、通院させられなかったから、それだけである。
有美は通院が不可欠なことは知っていた。しかし、それによって虐待がバレることを恐れ、また、板垣からも釘を刺されていたこともあって通院していなかった。
水分を減らされ、食事も制限されていたという翔くんは、ここのところ白米しか与えられていなかった。
板垣の一方的な暴力だったものが、このころには有美も同じように加わるようになっていた。
エアガンで撃ったり、「消毒」として65度の熱湯をかける、ハサミで腕を切りつけたこともあった。
おねしょしてしまう翔くんを、衣装ケースに正座させ、そこで用を足させた。さらには、トイレの水や衣装ケースに溜まった尿を飲ませたりもした。




6月15日。
有美は翔くんの顔が歪んでいることに気付いた。
顔の下半分がずれていて、翔くんも強い痛みを訴えていた。板垣の暴行を受け、翔くんは下顎は真っ二つに割れ、右顎も剥離骨折していたのだ。
それでも病院に連れていくことなく放置し、寝たきりとなった翔くんの傍らに水と白米を置いただけで看病も、水を口に運んでやることもしなかった。
その2日後、翔くんは6歳という短い一生を終えた。

翔くんが死亡したのちの行動を指示したのは板垣だった。
なぜか山に詳しい板垣は、山に埋めることを提案してきた。ただその際、「俺には前科があるし…」と言ってきたという。それに対し、有美は「わかってる、私一人で行ってくる」と答えた。

「一回山に入ったら終わるまで戻るな。」
「山菜取りの人が入りそうな場所は避けろ」
「伐採間近の印がある木のそばは避けろ」
「穴が浅いと野犬に掘られるから深く掘れ」
「供え物はするな」

有美は言われた通りの場所を下見したうえで見当をつけ、板垣が東根市内のホームセンターで購入したスコップを積み込むと、スポーツバッグに翔くんの亡骸を入れ、防虫剤や防湿剤なども車に持ち込んだ。
6月19日午後7時半過ぎ。林道を車で入れるところまで入ると、スギ林を分け入り黙々と我が子の墓穴を掘った。
気付けば日付は変わっていた。有美は6時間も穴を掘り続けていたのだ。

無職だった二人は、有美のそれまでの貯えやお互いの児童手当などで生活していたようだったが、8月になるとそれらも尽きた。
そこで、板垣の紹介で東根市内のスナックに有美は働きに出るようになっていた。

一方で、秋田の有美の実家や元の職場では、有美と翔くんの行方が取りざたされていた。
実は、有美は実母に内緒で、職場にも何も言わずに板垣の元へ「逃げて」いたのだ。




 

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