差別と自死で煙に巻かれた本筋~奈良・月ヶ瀬女子中学生殺害事件②~

高野嘉雄弁護士の存在

それに着目したのが、奈良弁護士会の高野嘉雄弁護士である。
殺人事件、少年犯罪などの刑事事件で弁護を重ね、裁判では情状面を非常に重視する弁護士としても知られる。
「弁護人は(被告にとって)最後の情状証人」であるとし、たとえどんな犯罪を犯した人間であっても、自身の感性を研ぎ澄ませ、全力でぶつかり弁護していくという、弁護士からも尊敬される大変優秀な弁護士である。
甲山事件、奈良の小一女児殺害事件などの有名な刑事事件を手掛けたほか、無銭飲食、窃盗などの比較的軽微な事件でもその精神は同じであった。

誠人の弁護には3人であたっており、弁護と言うよりも誠人の心をどうすれば開かせることが出来るのか、誠人の本当に言いたいこと、苦しかったことをきちんと世間に伝えたい、その上で、誠人に立ち直ってほしい、そういう思いをもってこの事件に臨まれたと推測する。

高野弁護士は、丁寧に真摯に、時には情熱的に誠人に向き合い、彼の心の声を一つ一つ汲みあげた。
そこには、幼少期からの誠人に対する周囲のみる目、学校での出来事などが詳細に語られてはいるが、だからといって誠人が犯した罪が軽くなっていいわけでもない。
高野弁護士としても「(殺害の)事実については争うものでもないし、ましてや責任転嫁できるものではない」として、裁判での弁護方針としては「差別」を前面に出してはいない。
しかし、事件が起こってしまったことをこの「差別」抜きで論じて量刑が決められ、誠人だけが処罰されて終わりになっていいのか、それでは根本的な解決とは言えないのではないかというのが弁護人としての基本的立場であるとしている。

誠人がこの高野弁護士に出会えたことは、彼の人生の中でも特筆すべきことであるだろう。
高野弁護士ほど、「まともな感性」を持った上で、誠人の心に寄り添った人はおそらく一人もいなかったのではないか。
高野弁護士もまた、どうにかこの丘崎誠人という青年に、再び人としてしっかりと歩んでもらいたい、罪を悔い、償ってほしいと「人として」心から願っていたに違いない。
高野弁護士はのちに、「彼は心を閉ざしていた。検察だけでなく、弁護人にも閉ざしていた。その心をこじ開けられなかったことを弁護士として慚愧に思う」と語っている(新潮45 「殺ったのはおまえだ」p270~271)。

高野弁護士は、殺害した事実については争わないとしながらも、その事件の背景にある差別を抜きで語るのであれば承服しえないとして、控訴審での無期懲役を不服とし最高裁へ上告した。
しかし、誠人は判決を聞いても動揺するそぶりも見せず、後に上告を勝手に取り下げ、無期懲役が確定した。

そして、刑が確定してからおよそ1年後の2001年9月4日。
充代さんの月命日でもあるその日に、収監されていた大分刑務所の独房において、誠人は自ら命を絶った。

与力・区入り制度

誠人の供述以外でも、この月ヶ瀬の地で、嵩集落あるいは近隣の山村において、与力制度、区入り制度なるものが受け継がれていたことが語られる。

主なものとしては、
①与力制度の下、新しく越してきた家は地元民2名の推薦を得て初めて区入りできる
②集落におさめる負担金は、家のランクで額が決められる
③田畑を持つ家とそうでない家とでは田畑を持つ家の格が上
④区入りできないと、与力の協力を得られないため実質関りが薄くなる
⑤葬式と火事だけは助けてもらえる、これはいわゆる「村八分」の語源そのもの
※ちなみに残りの8つは成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行であり、これらについては助けを得ることは出来ない
というものが挙げられ、裁判の過程でも指摘された。

誠人の家は、京都の山添村から越してきたため、このしきたりに倣わなければ区入りは出来ない。
推薦者となるものは推薦した家の与力となり、以後親戚同様の付き合いをし、村の行事ごとや各家庭の冠婚葬祭などを取り仕切ることになる。
しかし丘崎家は30年も居住しながら、与力を持つことはなく、したがって区入りもできていない状態であった。
また、法廷で誠人の母親は、「葬式と火事の時だけは助けてやる、それ以外の付き合いはしない」と集落の人に言われたと証言。
このいわゆる「村八分」については、一部住民が個人的に付き合いをしないこと自体は法(名誉棄損、脅迫罪)に触れるものとは言えないが、それを村全体のこととして「通告」するという行為は、刑事罰に触れると判断されている。
嵩集落の場合、母親が言うように個人的に付き合いをしない家はあったかもしれないが、被害者の浦久保家をはじめ、付き合いを拒んでいない家も存在しており、また、村の行事への参加を拒む、口を利かないといったことまでは確認されていない。
裁判では被害者側にあたかも落ち度があったかのような報道を懸念してか、殺害された充代さんの母親までもが証言台に立ち、「差別など聞いたこともないし、そんなことをしている人はいない」と話す事態となった。

区入りが出来ていなかったのも、丘崎家自体が区入りに積極的ではない、といったこともあって、いわば形式上そのまま、という形であったといえる。
また、区入りすることのメリットが、山林の共同所有が出来るとかそういうことがメインであったために、田畑を持たず土木作業などの日雇いで収入を得ていた丘崎家には、メリット自体もなかったのかもしれない。

ただ、前述の高野弁護士によれば、それは差別をしている側の典型的な言い分であり、実質その根底には丘崎家に対する差別が潜在的にあったと指摘する。

丘崎家はそういう事情で与力を持っていなかったが、それでも嵩集落に住むことが出来たのは、ほかでもない、浦久保家のおかげでもあった。
民生委員でもあった充代さんの祖父が、自身が与力となっている家の使っていない物置を、丘崎家に貸与する話をまとめたのだ。
実際、その家主としては丘崎家に貸したくなかったような話もあるが、それでも浦久保さんからの要請だからと、月1万にも満たないような額で丘崎家の住まいとして貸し出された。

浦久保家との関係


事件後、裁判や報道などでこの地域の因習や誠人のいう「差別」が報じられると、世間は女子中学生が殺害されたことを忘れたかのように、誠人と丘崎家に対して過剰な同情を寄せる動きも見られた。
それは時として、ネット上のデマでは済まされないような「根も葉もないうわさ」までまことしやかに伝えられた。
その中でも、被害者である充代さんの祖父や、浦久保家自体があたかも率先して差別や嫌がらせをしていた、というようなものがあった(ていうか今でもある)。しかし実際には、誠人をよく知る姉の勤務先でもあった居酒屋の店主によれば、「誠人も感謝していた」と話しているし、学校に行かなくなった誠人に、「みんなで卒業するんや」と諭していたのも充代さんの祖父、定宣氏であった。

新潮45にてこの事件のルポが掲載された後は、その丘崎家の詳しい内情が判明したこともあってネット上にも浦久保家に非があるかのような書き込みが多数見受けられるようになった。
丘崎家が住んでいた「家」は、到底家と呼べるものではなかったのは事実である。
新潮45によれば、「ジンド建て」と呼ばれるその家の形状は、あばら家同然であった。
同誌に、家のつくりや間取りなどが詳細に書いてあるものの、想像しても「???」となるような、とにかく説明すら難しい特殊なつくりであった。
五右衛門ぶろはあったようだが、下水道をひく金がなかった(丘崎の父による証言)ため、事件が起こる数年前まではトイレという「場所」すらなく、穴を掘ってそこで用を足していた。
私の実家も非常に山奥で、農家であるためそういったいわゆる小屋と呼ばれるものはあった。最近ではちゃんとした倉庫もあるが、昔からある小屋は断熱などは考慮されていないし、雨が凌げればよし、というものも少なくない。
丘崎家も、そのようなところに住んでいたのであれば、相当キツイのは想像できる。

そんな住める状態でない場所を提供したことも、浦久保家が丘崎家を蔑んでいたからではないかと言う人もいるようだが、それは全くの的外れで、差別的でよそ者を嫌い、因習に凝り固まったような地域であればそもそも住まわすことを許さないだろう。
現に、家主は貸し渋っていたのを浦久保さんが口を利いてくれたことを見ても、浦久保家が丘崎家を忌み嫌っていたとは思えない。しかも丘崎家と浦久保家はさほど離れていない。
私が差別の心を持っていたのであれば、近くに住まれるのは躊躇したかもしれない。

また、祖父である定宣氏は、誠人が生まれた直後の丘崎家の様子をこう話している。

”わしが田植えをしとったときにね、『子どもが生まれた』といって丘崎一家がニコニコ笑いながら、赤ん坊と一緒に帰ってきた。それが誠人だったんです(週刊現代 1997年11月ノンフィクションルネサンス第3弾 p162より引用”

このようなことから見ても、決して浦久保家が丘崎家を無視したり、差別していたというような印象はない。
ニコニコして家路につく一家を、定宣氏は微笑ましい思いで見ていたのだろうし、祝いの言葉もかけたであろう。
しかし、この日から25年後、その赤ん坊によって、定宣氏の孫娘は殺害されることとなってしまった。

家族をして「根源」と言わしめた母親

誠人には京都に母方の祖母がいた。
南山城村に住んでいたその祖母の家は、誠人にとってある意味逃げ場所であったようだ。
幼いころは、畑仕事をする祖母を気遣うような優しい少年であり、それは嵩集落の人も、「おとなしいええ子やった」という証言をしている。
しかし、両親に話が移ると、途端に口調は重くなる。
両親は婚姻しておらず、また一部では誠人と父親の間に血のつながりはないとする証言もあるようだが、裁判でも各種資料を見ても信頼できるものが無い。
ただ、祖母が「父親は内縁関係ということもあってか、誠人の教育には無関心だった。誠人のことはようわからんといっていた」と言っていることから、もしかするともしかするかもしれない。

父親は朝鮮国籍であるが、村の人々の評判は決して悪くない、というより働き者の真面目な人と言う印象だ。
田畑を持ってはいなかったものの、仕事はまじめにしており、農協でローンを組むことも可能であった。
誠人の母方の祖母も、この父親を「苦労しながらも一生懸命汗水たらして働いていた」と評価している。
一方で、母親については様々な証言がある。
働き者と評価する人がいる一方で、浪費癖がひどい、子どもの教育は放任、そのくせ何かあればすぐ学校のせい、人のせいにして怒鳴り込むというような、エキセントリックな母親像がそこに見てとれる。

下水道をひく金がなくトイレがなかったにもかかわらず、大阪で買い物をして30分以上かけてタクシーで嵩に戻る、そんなこともあったようだ。
また、育児についても問題ありで、前出の祖母は自身の娘であるにもかかわらず「悪いのは母親」と酷評している。

”(娘は)誠人が赤ん坊の頃からあまり面倒を見なかった。自分は買い物に出掛けたり、遊んだり、好き放題やっている母親でした。わしが『誠人がかわいそうや』と注意すると『ほっとけ!』と怒鳴るだけ”

”誠人が小学5年生の時やったか、『お母ちゃんが朝飯も昼飯も食べさせてくれへん。おばあちゃん、何か食べさせて』というてきたんですわ。
誠人がかわいそうでかわいそうで……。親というのは自分は食べなくても、子供には食べさせるんと違いますか!”

幼き日の誠人が味わったのは、差別よりもこの母親の無責任さ、薄情さではなかったか。
さらに、誠人が心を閉ざしていく一つの要因として、母親と長姉の奔放さがある。
ふたりは性格的にもよく似ていたと言い、母娘で怒鳴りあいもしょっちゅうであった。快活な性格も同じで、長姉は村の居酒屋で仕事をしていたようだが、そこでの評判は悪くない。また、丘崎家の炊事などもこの長姉が担当していたようだ。
しかし、似てほしくない部分まで似ていた。
誠人の母親は、その性格ゆえなのか、常に男性とのうわさがあったという。そして、長姉も同じであった。
誠人が12歳の時、当時二十歳の長姉が妊娠し、出産もしたが、結婚どころか父親はその長姉と子供と暮らすことはなかった。
さらにその4年後にも、再びの妊娠出産。今度は双子だった。͡͡この時もまた、子どもの父親は出てこなかった。
ネズミが這い回るあばら家で、突然長姉が産んだ赤ん坊を、思春期の誠人はどう思ったのだろうか。そして、母親と姉の女としての生きざまを、どう感じたのだろうか。

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