差別と自死で煙に巻かれた本筋~奈良・月ヶ瀬女子中学生殺害事件③~

放火疑惑と花瓶事件

誠人の生い立ちに話を戻そう。
誠人については、村の人たちの多くが幼いころは素直ないい子であったと話す。母方の祖母も、気遣いのできる優しい子であったと証言している。
同級生らの証言も同様で、事件後のあの誠人の姿に目を疑う者もいた。
誠人が小学3年生(5年生という説も有)の時、嵩集落の集会所が全焼した事件が起きたが、それが誠人のせいにされた、というのはいろいろなところで報じられている。
火が出た直後、「誠人!逃げ!」という声を聞いた村人がおり、それだけで誠人がやったと思われたとなれば少しかわいそうな気がするが、実はその前段階の話がある。

火が出る前に、誠人とその姉らが火遊びをしていたことを目撃していた人がいたのだ。
しかし、このことは実際には「村の管理不行き届き」ということで決着しており、誠人やその姉らには一切の咎めはなかった。
もし、仮に誠人らの仕業であったとしても、子どものしたことだから不問に付そうと進言したのもほかでもない、浦久保定宣氏であった。

ただ、不問には付されたが、村人らの心には丘崎家に対する苦い感情があったのも事実であろう(そりゃことがことだけに普通は眉をひそめる)。

この事件の後、誠人と遊ぶなと親に言われたり、噂の範疇でしかないが、誠人が遊びに来るとおやつを引っ込める親などもいたという。しかし、小学生時代の誠人の評判はそこまで悪くはない。
そして、中学に入った誠人が心を閉ざす決定的な事件が起こる。

休み時間に友達と遊んでいた誠人は、教室内にあった花瓶を割ってしまったという。
本当に誠人だけのせいなのか、そのあたりが不明であるが、教師は誠人をこっぴどく叱った。
教師に理不尽な叱られ方をするなど、誰しも経験のあることにも思えるが、誠人はその日を境に学校に来なくなってしまった。
詳細な記録がないため推測でしかないが、誠人の言い分などは聞いてもらえなかったのかもしれない。また、誠人が割ったわけではなかったのかもしれない。
誠人は高野弁護士に、教師がえこひいきしていたと話している。しかも、その時どうやら体罰もあったようだ。
法廷で証言した教師は、体罰については否定しているが、それまでじっとうつむいて話を聞いていた誠人が、その瞬間、顔を上げ教師をじっと睨みつけたという。

誠人が不登校になってからの学校側の対応は、高野弁護士によれば学校と母親との証言がまったく違っているという。
学校側としては、同級生や教師らが丘崎家を訪ね、学校に来るよう説得をしていたと言うが、誠人の母親の証言によれば、1年半で2~3回しか話していない、としている。

高野弁護士は母親の証言に重きを置いているようだが、思い出してほしい。誠人の母親が放任主義であったのは紛れもない事実である。そもそも教師らが訪ねてきたときに家にいたのか、応対したのかすら不明である。(※ただ、これも新潮45の記事だけは、校長や教師らが訪ねてきたのを「恐縮して出迎える」母親の姿を報じている。しかし、そうであるならば、裁判での母親の証言や定宣氏の証言とは相いれないものとなってしまうのだが。)
また、浦久保定宣氏によれば、民生委員として、近所の大人として丘崎家を訪ね、誠人に「みんなで卒業するんや」と諭しても、普段子どもの教育などそっちのけの母親が出てきて、学校が悪いとがなり立てて定宣氏を追い返したこともあるという。
高野弁護士ももちろん、裁判の過程で母親をはじめとする家庭環境の複雑さ、母親の放任主義などについてもきちんと追求しており、決して母親の話を鵜呑みにしているわけではないようだが、この辺りから「何もかもが差別」で片付けてしまっていないかという印象が少なからずある。

そして、とうとう登校しないままに誠人は卒業を迎える。同級生が誠人と最後に学校で交わした会話は、「わしの机どこや」「わしは一人でえぇんや」というようなものであった。
卒業式が終わると、級友の一人が卒業証書を手に丘崎家を訪れた。しかし、誠人はその卒業証書を破って燃やすのである。
この時の誠人の感情は、ほんの少しだがわからないでもない。
「本当は心の中では自分なんか学校におらんでも良かったんちゃうんか、心配なんかしてへんかったくせに、かたちだけ取り繕うて、とりあえずこれ持っていっとけくらいの軽いもんやろ!」
この誠人の思いはほぼ間違いないであろう、担任ではなく、級友が持ってきたというのもなんとも雑な話ではないか。給食のパンと牛乳を持ってくるくらいの軽さで、卒業証書を持ってこられた誠人の心を思うと、少しやるせない。
高野弁護士もこの点には非常に憤りを感じていたようであるが、私も同感である。

叱られることを知らずに育った男

中学を出た誠人は、奈良県内の測量事務所でアルバイトをして、半年したころ大阪の専門学校へ通う。
しかし卒業できず、そのまま東京で住み込みの見習い調理師として働くが、住み込みが合わず、1年程度で月ヶ瀬に戻ってきている。
誠人は、「この村が嫌いや、出ていったら二度と戻らん」そう同級生らに話していたようだが、現実社会はそんなに甘くはなかった。
誠人は両親が放任であったため、他人から叱られるという経験が乏しく、それがあとあとまで誠人の人生に影を落とすことになる。
住み込みが性に合わないというのは建前で、本当のところは職人の世界の厳しさについて行けなかっただけであろう。
18歳ころまでは実家でぶらぶらとしていたようだが、親戚が営む左官会社にて修業を始める。
仕事ぶりは真面目であったと言うが、とにかく遅刻の常習であり、その他些細なことを注意されると途端にへそを曲げる、それが勤務先での誠人の評価であった。
親戚の口添えで働いた工務店でもそれは変わらず、結局すぐに辞め、あれほど忌み嫌っていた嵩の実家へと舞い戻るのであった。


定宣氏もこう証言する。
”親に叱られたことがないせいで、誠人は叱られたり注意されたりすると、すぐカッとなって物事を投げ出してしまうようだった。~中略~放火事件の時にきちんと叱っておけば、充代の事件は起こらなかったかもしれない、と村で話し合ったこともあります。”

誠人は確かに、村の空気や自分を含めた家族に対するどこか含みを持った視線を感じていたし、それもある程度は事実である。
ただ、なんでも人のせいにする、そういう性格を持ち合わせていたのも事実で、その「他人のせい」にする心が自分への言い訳に差別を持ち出したとは言えないのだろうか。
こんなことを言うと、天国の高野弁護士にこっぴどく「それは差別をしている側の人間の発想だ!」と叱られそうだが、それでもそう言いたいのには訳がある。
私が幼いころ、幼馴染の女の子がいた。仲良しで、いつも家を行き来して遊び、ずっと親友だと思って過ごしていた。
しかし、ある時からどうも彼女の自慢する性格や、何気ない言葉の行き違いなどで私は彼女と過ごすことが苦痛になってきた。
いろいろと考えた挙句、別に自分が誰と仲良くしようと勝手であり、彼女と親友でいる必要もないのではないかと考え、彼女とは少しずつ距離を置いた。
すると、その数日後、担任に呼び出され、「お前はいじめをやっているのか」と突然言われたのである。
いじめ、という言葉の強烈さに驚いた私は一生懸命説明したが、彼女がいじめだと思っている以上、なにを言っても聞き入れてはもらえなかった。
彼女の親からも罵倒され、私はとんでもないことになってしまったと思う一方で、なんと理不尽なことかと憤りも感じていた。
自分がこれまでどんな態度だったか、彼女は一切振り返ることなく、たまたま通りがかった先生の目の前で背中を向け、1人こうつぶやいたのだという。
「あーあ。いじめの輪が広がっちゃった・・・」

この時のことはいまだに忘れようがない。
誠人の場合は同じではないが、それでも誠人にも反省すべき点は当然あった。それを全て村の差別がそうさせたのだと断じるのはあまりに酷くはないか。

誠人が囚われた呪縛

二度と戻らないと言った故郷に、誠人は幾度も舞い戻った。
長姉以外にも女兄弟があと2人おり、1人は専門学校へ通っていたようだが事件当時は全員嵩の実家で暮らしていた。
両親と姉妹、そして長姉の3人の子ども。これが誠人の「家族」である。
奔放な長姉と母親、その微妙な気配を感じながら、誠人は大人になっていった。
村では、長姉のこどもの父親についてのうわさはあったろう。
差別を受けていたというならば、どうしてその村を捨てなかったのか。
それについては他の家族も同様である。出ていくという選択肢はあったはずだ。
貧乏であったから?丘崎家は貧困にうめいていたという話は確かにある。しかし、長姉も父親も働いており、現に誠人はソープランドに通い、パチンコに興じ、何台も車を買い替えている。
次姉は無職であったようだが、それとて体が弱いとか、なにか働けない要因があったわけではない。
誠人の遊ぶ金はどこから出ていたのか。
それらはすべて、両親が与えていたものだ。何台も買い替えた車は、父親が農協にローンを組んで払っていた。
差別され、それこそ人を殺すまでに追いつめられたというのであれば、なぜその村にとどまり続けたのだろうか。
それはひとえに、誠人の、「なんでも人のせいにする」性格が原因である。
村の差別がそうさせたのではない、ましてや、浦久保家が誠人を追い込んだわけでも断じてない。
田舎の因習について、都会で生まれ育った人には驚愕の事実だろうが、四国のド田舎で育った私からすれば「普通」。
組内があり、不幸があれば組の人総出でお手伝いをする。神社の修繕などお金がかかるときも組内で話し合って、寄付金などが決まる。
何か困ったことがあれば、区長や嵩集落でいうところの与力にあたる年長者が間に入って円満な解決を模索する、そういう煩わしいことも含めて、地域の伝統や習わしは守られているのだ。
現に今でも、私が住んでいる地域は田舎と言えども県庁所在地であるが、多くの地域はこの嵩集落に似たやり方で日常が成り立っている。

誠人の居場所は紛れもなく、この嵩集落であった。ここに居さえすれば、衣食住と気ままな日常は確保される。差別の苦しみよりも、そちらを誠人は選んだのだ。
それは、幼少より誠人を放任し、叱らずに甘やかし、しつけや教育を放棄してきた丘崎家のある意味呪縛であった。
このことこそが、誠人が事件を起こした一番の要因である。差別が一切なかったとは言わない。しかし要因として、差別はその次だ。

被害者遺族への中傷と「人の道」

丘崎家は誠人の逮捕後、2か月ほどは嵩にいたようであるが、9月に入ってから数回に分けて家族は嵩から姿を消した。

定宣氏は、もし丘崎家の人間が線香をあげに来たら、「人の道」であるから、家にあがるのを許すつもりでいた。
しかし、定宣氏、充代さんの父・巧氏によれば、丘崎家の人間は誰も浦久保家を訪れていないという。

ただ、祖母の千代子さんの話は少し違う。誠人が逮捕されたのち、誠人の両親は浦久保家を訪れ泣き崩れたという。そして、「人の道」として充代さんの仏前に花を供えることを許されている。
おそらく、事件後(逮捕後)の混乱の中で、浦久保家の祖父、父はなにかと家を空けざるを得ない場面があったのだろう。その結果、両親の訪問に立ち会えなかったのかもしれない。
誠人の両親とて、事の重大さを考えればすぐさま足を運ぶことに躊躇があったとしても一応理解はできる。
定宣氏らの証言の後に、誠人の両親が訪れていたとも考えられる。

浦久保家の遺族にすれば、何の非もない大切な孫娘をよりにもよって近所に住む男に殺害され、しかも数か月にわたって充代さんの居場所を隠蔽され続けたことで、家族は充代さんを抱きしめてやることすら叶わなかった。
村では逮捕前から誠人の関与を疑う声は複数あった。そして、それは祖父・定宣氏の耳にも届いていた。
充代さんの捜索に誠人が参加の意思を示していると聞いた村人が難色を示した時も、「参加を断ったら、誠人が犯人だと決めつけることになってしまうから」と村人を諫め、誠人の捜索参加を認めてたのも定宣氏である。
しかし事件後、詳細が明るみになるにつれ、定宣氏ら遺族に対してもいわれなき中傷めいたものが囁かれる事態となった。

充代さんにしてもそうである。
誠人は充代さんをはねた動機として、せっかく人が好意で言ったことなのに、あいさつもしやがらん、たとえば「家はすぐそこですから結構です」くらい返事があれば何とも思わなかったのに、チラッとみただけで無視したことで、こいつも村の人間と同じで自分を見下し、差別していると感じ、積年の鬱憤が爆発して犯行に及んだ、と述べている。
この誠人の供述に対し、なんと一定の理解を示す人もいるから驚きだ。
これについては、高野弁護士による手記によるところが大きいと言わざるを得ない。
最後の情状証人であった高野弁護士は、事件後、この裁判の問題点について「部落解放なら第12号『月ヶ瀬事件と差別』」に寄稿し、第5章で誠人の犯行に至った経緯を「自身の言葉」で記している。
近所の顔見知りの子であるから、また、充代さんが幼いころには実際に車に乗せて送ったこともあると言ったことから、親切心で声をかけただけなのに、充代さんの反応が冷淡であったことが、さも村全体の誠人への対応を端的に、冷淡に示したものであった、さらには、誠人の親切心やその親切心が沸き起こるに至ったウキウキとした気持ちが、「被害者による被告人の無視という行為によって」絶望的な現実に引き戻した、というのが高野弁護士による誠人の心の代弁である。

なんの学もない、ただの素人が大変申し訳ないが、この部分については全く賛同できない。
充代さんがとった行動は、悪意に基づくものではなく、思春期にさしかかる少女のものとして微塵の不自然さもない当たり前の態度である。私にだって覚えがある。
隣の家に住む私より10以上年の離れたお兄さんに、ある時「連れて帰ってあげようか」と声をかけられた。そのお兄さんは独身で実家にいたが、正直そんなに話した記憶もないし、突然のことで私はめちゃくちゃ驚いた。

そこで私が言えたことと言えば、「いいです、いいです」しかなかった。
別に、そのお兄さんが恐いとか、変な意味じゃなく、家も近くだし、家族以外の男性の車に乗るなんて恥ずかしくて無理無理!!ただそれだけだった。

それと同じで、充代さんもたとえ顔見知りであっても、なんの意図もなくても、突然そのような声をかけられたら驚きもあるだろうし、恥ずかしさもあったかもしれない。
もっと言えば、ふらふらと定職にもつかず、大音量で音楽を鳴らしながら車を走らせ、時には車の往来をめぐって村の人とトラブルを起こしていたこの青年を、「怖い人」と充代さんが感じていたとしても全く不思議はないのだ。
というか、そういう危機意識を持つことは大切なことである。ましてや、子どもであればうまいいなし方を知っているわけはないし、知ってたらそっちの方がちょっと怖い。
無視しなければやってなかったと誠人は言うが、もし充代さんが「家は近いし結構です」と言ったとして、それならそれで不満だったのではないか。
しかもこんなの、真実かどうかすらわからない。充代さんとしてみれば、会釈くらいはしたのかもしれないし、「いいです」と小さな声で言っていたかもしれないじゃないか。なんで誠人の言い分だけを信じるのかさっぱりわからん。

その後

冒頭でも書いたように、誠人は一審こそ控訴したものの、一審での判決が懲役18年であったのに対し、控訴審ではなんと無期懲役の判決となってしまった。
当然、高野弁護士は上告したが、誠人はそれを取り下げ、刑は確定した。
そして、独居房でひとり、命を絶ったのだ。

嵩のあの家から抜け出せた誠人は、2度と戻れないひとりになってようやく自分と向き合えたのかもしれない。
そして、向き合った結果が、自死であったのではないかと思う。
しかし一方で、やはり「嫌なことから逃げる」性格が最悪のかたちで表れたのかな、とも思ってしまう。

その日が充代さんの月命日であったことから、そこに意味を持たせようとする人もいるようだが、実際はどうだったのだろう。
嵩では、月命日になるとすでに他県へ越していた誠人の両親が、充代さんの埋墓に参り、花や線香を手向ける姿がかなり長い間見られたという。
誠人の両親は、草生い茂るその埋墓周辺の草を丁寧に刈り、充代さんに許しを請うかのようになにごとかを墓に語り掛けているという。
両親の心には、少なくとも「人の道」があると言えよう。

誠人はどうだったか。
最後まで寄り添ってくれた高野弁護士も、2011年に亡くなった。高野弁護士は、どんな思いで誠人の死を知ったのだろう。
充代さんは、今でも実家のすぐそばにあるお堂で、ちいさな可愛らしいお地蔵さんに姿を変え、嵩の集落を見守っている。

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