それでも家に帰りたかった、”きみはいい子”①~南国市小5男児暴行致死事件~

平成20年2月4日

その男児は、いつも池のほとりで一人佇んでいた。
来る日も来る日も、放課後の校庭の、支柱のついた丸時計が見えるその場所で、なにをするわけでもなくひとり、いた。
雨の日も、冬の寒い日も、陽が落ちて暗くなっても、男児は18:00までずっとそこにいた。

「彼はサインを出していた。それを僕がよう受け止めなかった」

事件後、男児が通っていた小学校のある教諭は、こういって涙をこぼした。

高知県南国市で小学5年生の藤岡和輝君が、母親と内縁関係にあった無職の男に暴行され、右硬膜下血腫などによる心肺停止で搬送され、びまん性軸索損傷により死亡した。
11歳のあっという間の人生であった。

事件の概要

事件の前日の2月3日は、和輝君が通う大篠小学校で授業参観が行われていた。
その日の夜、おなかが空いた和輝君が、冷蔵庫から勝手にウインナーを取り出して食べたことを母親(当時31歳)が叱りつけた。
和輝君は1月30日から食事を家で与えられていなかった。

母親が謝罪させようとしたが、和輝君が思うように行動しなかったことに腹を立て、母親は執拗に和輝君を叱責していた。
別の部屋にいた母親の内縁関係であった寺岡省二(当時31歳)は、母親の叱責の声に気づくとその部屋へ行き、椅子に座っていた和輝君を椅子ごと後ろ向きに倒し、正座させた。

「どうして謝らんのか!」

和輝君は思うことがあったのだろう、ものすごい剣幕でがなり立てる二人の大人を前にしても、謝らなかった。
思い通りにならないことに激昂した寺岡は、和輝君を両手で抱え上げ、頭を下にした状態で畳に叩きつけた。1度では収まらず、さらにもう一度叩きつけた。

和輝君は口から血を吐き、ぐったりしていたが、母親も寺岡も、和輝君が息をしていることだけを確認してそのまま布団に寝かせただけで、病院へ運ぶなどはしなかった。

一時間ほど経過したのち、和輝君が息をしていないことに気づいたふたりは、近くの南国消防署へ運び、そこから救急搬送されたが、翌未明に死亡。

当初寺岡は殺人未遂で逮捕されたが、和輝君が死亡したため傷害致死容疑で逮捕された。

内縁の夫のそれまで

寺岡の生い立ちについてはほとんど情報がない。10年前の事件であることや、同じ時期に埼玉県蕨市と奈良市で幼い子どもが犠牲になる事件が発生しており、そちらの2件の事件の方が大きく取り上げられたこともあってこの和輝君の事件自体を覚えていない人も多いのではないだろうか。

いろいろと調べてみると、寺岡は小学校のころから同級生らの印象は良くない。
ただ、本人だけではなく周りの環境も良くなかったという声もあり、複雑な環境で育ったのだろうなという察しはつく。一部情報では、児童養護施設で過ごしたこともあり、そこで兄を亡くしたという話もある(真偽不明)。

中学を出た後はいったん土木作業員になるもすぐに辞めてしまい、以降は転職を繰り返すなどし、窃盗で保護観察、少年院へも行っている。
二十歳のころ、最初の結婚をし長女が生まれるも、ほどなくして離婚。その3年後に再び結婚、しかし今度も男の子を授かったがおそらく1年もたたずして離婚している。
しかもその間、弁当持ちだったにもかかわらず傷害と建造物侵入で処分されており、執行猶予は取り消され、傷害と毒物劇物取締法違反(麻薬取締じゃないあたりがこれまた)で1年6か月の実刑を食らった。

出所した25歳当時、とうとうというか、いまさらというか暴力団の構成員となった。ところがそこでもケツを割った寺岡は、1年足らずで組を辞める。もうここまでくると清々しいほどのヘタレっぷりである。

そして和輝君の母親を捕まえたのちは、さっさと仕事を辞めてそこから逮捕される2年間、無職である。

ウサギ事件

和輝君は2006年1月まではもともと、当時31歳の母親と3歳年下の弟の三人暮らしであった。
母親が出会い系サイトを通じて寺岡と知り合い、交際するようになった後、同年4月に引っ越したと同時に4人での暮らしが始まった。
それまで通っていた小学校を5月に転校していることから、以前住んでいた場所とは離れた場所へ越したものとみられる。
和輝君は弟の面倒もよく見て、一緒に遊ぶ姿も良く目撃されたという。
当時(ていうかその後ずっと)寺岡は無職であり、昼頃起き出してはゲームをするような暮らしであった。日々の生活は和輝君の母親(おそらく水商売)の収入に頼っていた。

しかし、6月になって、当時住んでいたアパートから和輝君と弟がウサギを落として死なせてしまったことがあった。
故意なのか、不注意であったかは定かではないが、これについて同居していた寺岡は「生き物を大切にできない子になってしまう」との恐れもあり、おもちゃのピストルで兄弟を殴りつけるなどしたという。
寺岡の供述によれば、これが「しつけ」と称する暴力行為の発端であったというが、その後もことあるごとに寺岡は暴力を用いて「しつけ」を行った。

ウサギの件はそれが故意であるならば、確かにぶん殴られても仕方ないことかもしれないが、それ以外はおよそ言って聞かせれば済むレベルの話であった。
たとえばトイレの電気を消し忘れた、片付けが出来ていなかった、曖昧な返事が気に入らなかったなど、当時小学1年生と未就学児の兄弟ならばどこの家庭でもあるようなことにまで、寺岡は暴力で対応した。
それは平手打ちではすまず、時には足で蹴る、木刀で殴るということも少なくなかった。
そしてその暴力は、母親にも向けられていたようだ。

母親はというと、子どもたちのしつけは放任状態であったようで、寺岡はそれを持ち出して「母親がまったくしつけをしないから、自分がしなければと思うようになった」などともっともらしいことを抜かしていた。

母親は自分の子どもが殴るけるの暴力を受けても、寺岡を制したり助けを求めたりといった行動はとっていない。
それどころか、寺岡と一緒になって和輝君を家から閉め出したり、食事を与えないなどの虐待を行っていた。

兄弟と虐待の日々

寺岡は、先述の通り同居し始めて間もないころのウサギ事件が発端となり、日常的に兄弟に対し暴力行為に及ぶようになった。
夏ごろから2~3日食事を与えないことが常態化し、週に数回は木刀で頭を叩くなどの危険な行為も行っていた。
2006年の11月ごろには兄弟が言うことを聞くようになったことで寺岡も暴力を振るう回数が減ったというが、翌年2月には再び暴力が始まり、食事を満足に与えられてなかった状態が続いていたために兄弟ともに傍からみてもわかるほど生気を失っていった。

和輝君よりも弟の方が虐待が激しかった節もあり、弟だけ食事が与えられないこともあった。
また、木刀で叩かれるのも弟の方がひどく、一度は頭から流血するほどの大けがを負った。
和輝君は外から見て見える部分に外傷はなく、元気がないということ以外は虐待をうかがわせるような身体的所見はなかったという。
しかし、遅刻が多い、運動会に長靴で参加する、同じ服を何日も着ていることなどから学校側は早い時点で虐待(ネグレクト)を疑い児童相談所への通告も行っていた。
しかし子供のいうことであるため要領を得ない部分も当然あり、また法律の面からも強制的に引き離すことが難しい段階と判断され、内縁の夫の情報などを小学校、児童相談所、警察が共有するということで終わっている。

4月になって、事件が起こった。
当時5歳の次男が、1人ゴザにくるまっているのを近隣住民が発見し、通報。やせ細った次男は、この頃食事を与えられておらず、空腹に耐えかねての家出であった。
なんと次男は自宅から出る際、ラーメンと鍋を持って出てきていた。そして家に戻ることを拒んだ。
駆けつけた南国署員によって保護された次男は、そのまま児童相談所へ身柄もおくられ、一時保護となる。
翌日児童相談所の職員が自宅を訪れ母親と面会、そこでどのような話が行われたのかわからないが、なぜか母親は罪に問われることもなく次男の処遇についての話し合いだけしかなされなかった。
母親は次男を施設に入所させることに同意したため、次男は児童養護施設への入所が決まったが、和輝君については在宅のままでの支援となってしまった。
お決まりのパターンではあるが、面倒をロクに見ない親ほど、子どもと引き離されるのを極端に嫌がる。
愛情からくるものではなく、単純に自分の意思に反することをされるのが嫌なだけだ。子供は邪魔だけど、いなくなったら周りになんと言われるかわからない、プラス、行政から支払われる手当の問題がある。
一緒に暮らしていなければ、手当てを受け取れなくなる場合があるからだ。
ただこの時は、和輝君も「家がええ」と言っていたため、無理強いできない部分もあった。

次男が施設に入所したことで、直後は母親も寺岡も反省したのか、和輝君への当たりは和らいだという。
しかし、すぐにまた寺岡による暴力は再発し、次男がいない分、すべてを和輝君一人が受け止めざるを得ない状況に陥っていった。

同じ頃、施設に入所していた次男の頭のケガについて、寺岡の暴行によるものだという情報が伝えられた。
家に残された和輝君が心配になってもよさそうなものだが、それでも和輝君には積極的な支援は行われなかったようだ。

6月。
和輝君が「触法通告」される。
これは、青少年が法に触れる行為をしたことを意味するが、詳細は不明だ。
おそらく、ではあるが、「万引き」ではないかと思われる。
これを機に、児童相談所は月一回の母子面接を行うことにしている。
この間も、近隣住民から「虐待ではないか」といった通報があったり、学校からも「家に入れず夕方6時ころまで外に出されている」といったことが寄せられるも、訪問した児童福祉司には和輝君から切迫した危機感を感じ取ることが出来なかったとして次の一歩が出なかった。

ある教師の痛恨

和輝君が通っていた大篠小学校でも、和輝君兄弟の家庭環境は把握されていた。
先述の通り、運動会に長靴で来るなど、常識的に考えておかしなことをする、いや、させられている和輝君を、誰もが何かおかしいと気づいていた。
給食を山盛り食べていた和輝君は、他の同学年の児童よりも小柄だった。参観日にすら母親は来ず、服は着替えている様子すらなかった。

「あれは何かやりゆうで・・・」

児童相談所への通告も何度も行っており、警察とも情報を共有していた。しかし、結果として和輝君は家で殺害されてしまった。

夏休みに行われたイベントで、ある教師(以下、A教諭)が和輝君に声をかけた。担任ではなかったが、和輝君がいつも校庭で夕暮れまで一人佇んでいるのをA教諭は見ていた。
何気なく聞いた、「昼ごはん、食べたか?」というA教諭の問いに、和輝君は「はい、朝ごはん食べました」と返した。
ずれた答えに言い知れぬ違和感を覚えたA教諭は、夏休み中に行われた関係機関(南国署や福祉事務所など)との会議で、和輝君が寺岡から「午後6時までは外で遊んで来い」と言われているために毎日校庭でいるのだということを知る。
寺岡や母親の言い分としては、「和輝君に友達を作らせるため」にしたことだという。
さらに、「帰ってくるな、とは言っていない」とのたまった。

母親とは継続的に面会を行う予定であったが、3回ほど通所した後は、「通所が難しい」というわけのわからない理由で母親は姿を見せなくなった。
1月にも大篠小で和輝君も一緒の面談の予定があったが、母親は来校しなかった。

1月20日、日曜日のその日はPTAの催し物が小学校であり、和輝君は朝8時ころには校庭にいたという。
雨が降る中、和輝君は東門のところでいつものように1人でいた。その日も、A教諭は和輝君を見ていた。

「そういえば、休みの日もずっとここにおるなぁ」

イベントが昼過ぎに終わり、寒さもあって来校していた保護者や児童らも早々に帰宅したのに、和輝君は家に帰ろうとしなかった。
イベントで振舞われてお餅をたべさせた後、温かいココアも飲ませてしばし雑談しながらA教諭は和輝君の様子を観察していた。
午後二時を過ぎたころ、A教諭は
「先生ラーメン食べにいくけんど、一人でよう食べれんき、一緒に付き合うてくれんか」
と和輝君を誘った。大盛のチャーシュー麺を和輝君は一人で食べきったという。

そして、午後3時を過ぎたころに、行く場所もないうえ学校にも置いておけず、A教諭が付き添って家へと向かった。
しかし、驚くべきことに和輝君が家に入ると、奥から罵声が飛んできた。
「なんで今頃帰ってくるがな!!」
家でゲームに興じていた寺岡の声だった。A教諭は仰天する。
そんなA教諭に、家から出てきた和輝君はこともなげに首をすくめ、ほらやっぱりね、という顔をしたという。
A教諭は寺岡という男の凶暴性に驚きつつも、あれほどの罵声を浴びても平然としている和輝君にも驚いていた。

「これは今に始まったことじゃない、ずっと前からのことだから、今更怖いとか、そんな感情はもう通り越しているんだ」

A教諭はとにかくこれは異常なことであると考え、和輝君を連れて南国署に相談した。
南国署から通報を受けた児童相談所が、和輝君に一時的に相談所へ来ないかと誘ったが、和輝君本人が拒否。
今後は保護を念頭に置いた対応をしていくということでまとまり、今日のところはA教諭が責任をもって自宅へ戻らせるということになった。

午後五時を過ぎて、辺りはすでに暗くなり、校舎に入れないためA教諭と和輝君は外で時間を潰していた。
しかし、あまりにも寒く雨も降っているため、A教諭は6時を待たずに和輝君を家に帰そうとし、渋る和輝君をなだめまずはA教諭だけで自宅へ行き、家に戻っても良いという確認をとることにした。
和輝君の家がある大埇の借家へ向かったA教諭だったが、母親も寺岡も不在であった。少し待つと、2人が車で帰宅したため、A教諭は努めて穏やかに、低姿勢で寺岡に対し「懇願」した。

「もう暗いですし、雨も降って寒いですき、おうちに入れてはくれんでしょうか?和輝君を迎えに行ってやってはくれんですろうか。」

A教諭のあえての懇願に対し、寺岡は怒声を浴びせた。

「ひとりで帰らせや!友達が出来んき、わざと外におらしゆうがよ!」

母親も続く。「『帰ってくるな』とは言うちょらんき。『遊んでこい』と言うたがよ」

寺岡はさらに威圧的な態度でこういった。

「本人が『帰ってくるなと言われた』いうて言いよるがか?」

矛先が和輝君に向くことを恐れたA教諭は慌ててそうではないと言い、「連れて帰ってもええんですね」と念押ししてから、学校へ和輝君を迎えに戻った。
不安を払しょくできないまま、和輝君を家に連れ帰ったA教諭は、和輝君が家に入った後もドアの外で様子をうかがっていた。

”お前は人に迷惑ばっかり掛けてぇ、何でも人のせいにしよらあや。そんなことやき、友達ができんがよやぁ。外でいらんことをベラベラしゃべってきたがや、ないろうにゃあ。全部、親のせいにしゆろうがぁ…。(2008年02月08日高知新聞より引用)”

寺岡の罵声が止むと、入れ替わるように鈍い音が響いてきた。
A教諭は、何度かドアに手をかけかけた。しかし、和輝君らしき子供の悲鳴や助けを求める声などはしなかった。もし暴力などではなかったら、立ち入ったことが問題になるのではないか、さらに、和輝君を追い込んでしまうことにはならないだろうか…
悩んでいる間も罵声と鈍い音の繰り返しは30分に及んだ。
A教諭は携帯で児童相談所へ連絡したが、担当者まで繋がらなかった。

A教諭はやり切れぬ思いを抱えたまま帰宅したが、この時のやり切れぬ思いはその後A教諭を打ちのめす結末となって戻ってくることになる。

 

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