それでも家に帰りたかった、”きみはいい子”②~南国市小5男児暴行致死事件~

他人事の母親

最初に断っておくが、この事件で母親については全く罪に問われていない。法律的には、和輝君の母親は罪を犯していないことになっている。

しかし私は、この母親はなにか人格的、あるいは発達的な障害を持っているのではないかと真剣に感じている。

母親は和輝君が死亡した翌日に、朝日新聞による取材を受けている。その記事によれば、和輝君の死を母親はある意味「しかたがない」と受け止めてさえいるような印象であった。
当時の状況を聞かれた母親は、「悪いことをしたのに(和輝君が)謝らなかった。しつけの範囲で叩いた。これまでも叩いていたが、あざが出来たりしたことはない」と答えた。
それはしつけの範疇を超えているのではないか、との記者の問いには、「こういう結果(和輝君が死亡した)にはなったが、昨日はたまたま手加減できていなかっただけ。そもそも、持ち上げて投げるようなことはこれまでしたことはない」と、あたかもその程度で死んだ和輝君が悪いと言わんばかりであった。

さらには、我が子を死に至らしめた寺岡に対し、寺岡だけのせいだと思っていない、普段はやさしいところもあったし、将来的には結婚しようと考えていたとのたまった。

事実、和輝君の母親はその当時妊娠4か月であったといい、寺岡が罪を償ったら結婚するつもりであるとも答えている。もはや理解不能である。

自分の子どもふたりに殴るけるの暴行を加え、挙句殺されて、その元凶の男を愛しているというのだ。しかもその男は働かず、世間からも相手にされない正直どうしようもないレベルの男だ。
和輝君に対しての思いは?との問いには、「ごめんと言って謝りました」
・・・・・・って終了かよ、それだけかよ?!

しかも翌日の6日午前に執り行われた和輝君の葬儀には、次男と共にその場にいたというから想像を超えている。
どの面下げて、どんな思いでその場に居られたのか。
何年にもわたって暴行を許し、時には自身もそれに加わっていた母親。寺岡が極悪なのは間違いないにせよ、増長させ、調子に乗らせ続けたのはほかでもないこの母親ではないのか。
自分も殴られていたというこの母親は、自身の痛みも、我が子の叫びにも鈍感であった。

このどこまでも他人事、これは自分の身に起きたことであり、なおかつ自身が大きくそれ(和輝君の死)に関与しているということを認めたくないのはわかるが、それにしてもこの事件直後のやりとりは近所の人のコメントよりも遠く感じる。
母親からすれば、使っていたバッグが壊れた、茶わんが割れた、その程度のことなのだろうか。
そうではないのだろうが、それを伝える術すら持たないのは事実なわけで、そう言う意味でこの母親は何がしかの障害を持っているのではないかと思うのだ。

というかそうでも思わなければやってられん。

民間人校長は失策か

事件後、南国市では大きな問題として市議会などでも和輝君の死を防げなかったことについて、様々な議論が交わされた。
福祉事務所は他の機関との合同会議にたったの1度しか参加していなかったこと、児童相談所の電話が担当者につながらなかったこと、教育委員会が数字でしか報告の中身を把握していなかったことなどが反省材料として取り上げられたが、その中のひとつとしてこの南国市立大篠小学校が「民間人校長」であった点が挙げられた。

大篠小学校は、事件が起こる5年前に県で第一号となる民間人校長を就任させている。
当時大阪市などでも公募による民間出身の校長先生や区長などが取り上げられ、旧態依然の公立学校運営を改革する試みが行われていた。
南国市でも、その取り組みが評価された大篠小学校は、優秀な教育実践を行った学校に送られる「坂本教育賞」を受賞している。

民間出身のH校長は、校長室を開け放し、子どもらと校長室で遊ぶなど開放的な校長先生として保護者らからも支持されていた。
事実、和輝君の事件がH校長の任期満了にあたる5年目の終わりに起こったことで、「先生も最後の最後でお気の毒」といった声も聞かれたという。

しかし一方で、学校改革という名のもとに見過ごされてしまったこともあった。
H校長は悩まない人であったという。民間ではその時その時の判断力は非常に重要で、チャンスを逃したり躊躇することが重大な損失につながるケースは多い。
そのためか、H校長は次から次へとトップダウンで方針を打ち出し、それらについてのプロジェクトチームを教員らで作らせる、その時々の重要方針についての会議が頻繁に行われるなど、それまでの大篠小学校とはまるで違う運営であったという。

そのため、前校長らが引き継ぎ守ってきたいわゆる「大篠小学校らしさ」というものは失われ、H校長の方針にそぐわない教員はあからさまに排除されたという声がある。
もちろん、学力向上や教職員の待遇改善など、民間人校長の登用には期待すべき点もあるだろう。
しかし、和輝君の事件については、少なくともこのH校長(以下、教頭二人を含む管理職)が職務を果たしていたかというと疑問が残る。

平成20年3月7日に行われた第330回市議会定例会(南国市)での、日本共産党福田佐和子議員の質問に、大篠小学校とH校長ら管理職の対応にいくつか気になるものがあった。

”学校内が物言えぬ雰囲気であったこと、そして地域には民生児童委員など多くの支援がありながら、地域へも全く知らせず、協力を求めることもしていないなど、モットーにしてきた開かれた学校づくりや地域との連携とは逆行していることがこれまでにも明らかにされました。その上、同じ学校の生徒の問題を他の先生が知らないなどということは、幾ら規模が大きい学校であってもあり得ない話です。 ”

私は息子が中学生だった頃、地域の役員をしていて毎月学校で警察官、学校嘱託医、保護司、民生委員、近隣の小学校の教諭らと会合を持っていた。別に学校でトラブルがなくても、気になる生徒についての情報、対応について、その他地域からの報告などを共有し合っていたのだ。
大篠小では、和輝君のことを把握していながら、プライバシー保護の観点から民生委員らに情報を下ろしていなかった。
うちの中学でも、問題を抱える生徒についての情報は慎重に扱われたが、文書を配布した後、その場で文書を回収するなどしていた。
そもそも、プライバシーが云々と言っていたら情報の共有は出来ない。関係の無い他者にやみくもに、かつ、噂話として吹聴するのでなければ、近隣の人らとも情報を共有するのはプライバシーの侵害とは言えない。
さらに言えば、命とそれとどっちが大事だよという話である。

”(職員会議での)話し合いの内容は、和輝君の求めていたはずの食事や安心感ではなく、服装や家庭への見回り、支援の方法だったことがわかりました。また、20日の日に危ないと感じた先生が翌日校長先生等に訴えた後も、「見守ろう」と終わっている”

A教諭は、和輝君を自宅へ送り届けた日のことを翌日すぐに担任教諭へ相談している。担任教諭が和輝君の外見上の虐待の後などを調べたが、特に見当たらなかったということではあったが、「この家においてはダメだ」と確信していたA教諭は、H校長と教頭らにも対応を急ぐように促したが、H校長らの反応は薄かった。
結局、危機感を持った対応はなされず「当分は担任を中心に見守る」ということにしかならなかった。
この点については、教育員会の大崎教育長(当時)も、「学校関係者こそ第一当事者であるという危機感を持ったリーダーシップの発揮ができなかった」と認めている。
さらに、その週末に行われた会議の場でも、A教諭が「和輝君の様子は?」と全体に問いかけたものの、和輝君の様子について議題に上ることすらなかった。

”高知新聞の「話題」という欄にはこんなふうに書かれました。「思い出せない。校長も2人の教頭も頭をひねる。何とか思い出そうとしてくれたが無理だった。虐待で亡くなった南国市の大篠小5年の藤岡和輝君、事件の2週間前、担任外の男性教員が事態の深刻さに気づき、校長らに対応を求めたとき、話し合いの結論は、担任を中心にみんなで気をつけて様子を見守ろうだった。気をつけたというので、話し合いの当日や翌日、和輝君の姿を教えてもらおうと訪ねたら、だれも覚えていない。教頭は2人とも事件まで全く声をかけず、校長は一度あいさつしただけだった。これでは彼らの記憶からは和輝君の姿が見えてこない。こんな大篠小学校が、学校関係者の間ではすぐれた教育校として評価をされていた」”

H校長らは、和輝君の異常事態を真剣に受け止めていなかったと言わざるを得ない。
全校生徒250名あまり、少ないとは言えないが、5年間もいたH校長が、その間何度も児相や警察に通報が行き、和輝君自身も触法通告されている事実があるにもかかわらず、「見守ろう」とは恐れ入った。
そんな時期ははるか昔に過ぎ去っていたというのに。

H校長については、そもそもいろいろと問題があったという。民間からの登用第一号ということで力が入っていたのはわかるが、児童らのことを「顧客」と見ており、学校という場所を子供のためというよりも大篠小をなにか自分の力でブランド化しようとしていたのかと思うほど、その運営にこだわった。
着任して4年目には坂本教育賞を受賞し、H校長は自身が行ってきた運営が対外的にも認められたと自負したであろう。
しかし、そもそも民間人校長というものをとりいれたのは県の教育委員会であり、言ってみればどんなことをしてでも評価されなければ面目丸つぶれであるわけで、この坂本教育賞にどれほどの意味があったのかは今となっては疑問である。
H校長が大篠小のブランド化を図り、イメージを重要視したと推察するには他にも理由がある。
事件後、大篠小が発行した保護者向けのたよりには、和輝君の事件を取り上げながら、「現在、学校で最も大切にし、願っておりますことは、児童たちが一日も早く普通の学校生活に戻ることの一点です。」としている。
児童が壮絶な死を遂げた直後の言葉としては、いささか和輝君への思いに欠けてはいないだろうか。
在校児童らへのケアはもちろん大切だが、その一点のみを願うという言葉のチョイス、それはまるで和輝君の存在自体をなかったことにしたいのではとさえ思える。

現場の教諭からは、他にも学校の責任を問う声がある。
H校長が推し進める研究授業に時間を取られ、教師たちは子どもに向き合う時間などなかったという。
それが、いつしか障害のある児童の横を教師が素通りするようになり、問題が起きていた和輝君の5年生でのクラス担任は新任であった。しかも、10年次研修を受ける予定の教師であり、そもそも担任につけるのが妥当であったかも疑わしかった。
H校長は、学力などの数字でしか評価を見いだせず、和輝君の担任教諭やA教諭らに管理職として向き合うことなど「面倒」であったのだろう。現に、教頭らに任せきりで自身は3つの検討委員会に出席することに忙しく、学校で落ち着いて全体を把握することなど不可能であった。というか、する気がなかった。
民間からの校長先生の登用はメリットもあるが、デメリットは実は計り知れない。大阪では着任して3か月で「年齢で給与が低く設定されるのが不満」として、38歳の校長が辞職。その際、「悪いことをして辞めるわけじゃないから謝ったりしない」と笑いながら言い放ち、当時の橋下市長の怒りを買った。
また、広島では国旗掲揚、国歌斉唱をめぐって教員と対立した民間人校長が自殺するという事件もあった。
それ以外にも、校内のパソコンから以前の職場にメールで指示を出したり、校納金の扱いをめぐってトラブルになる校長もいた。
分母の数でみれば、民間人校長のダメさ加減は結構目に余るレベルだ。

和輝君の事件は、H校長だけの責任ではない。
しかし、現場の教諭や近隣住民のネットワークを軽視し、指導力を全く発揮しようとしなかったH校長の管理職としての能力は皆無と言ってよいだろう。

「サンタさんの来ない家」とA教諭

高知県出身の作家、中脇初枝氏の「きみはいい子」という小説をご存知だろうか。
2015年には高良健吾、池脇千鶴、尾野真千子らが出演し映画化された。

実はこの映画で高良健吾演じる「岡野先生」の、ある児童とのエピソードは、この藤岡和輝君とA教諭の物語である。
小説では「サンタさんの来ない家」として描かれている。
はっきりとそうだと言われているわけではないが、作品の中での設定やキーワードなどは事実そのまんまである。

A教諭は事件後の取材に対し、こう話している。

「僕は二度、逃げた」と。

一度は和輝君宅の玄関で。そして二度目は、事件直前の職員会議で、一度は挙げた手を下ろした時だった。

A教諭は事件の後、和輝君が佇んでいた場所に立ってみたという。
その場所からは、校庭の時計がよく見えた。その時初めて、和輝君は6時になるのをずっと待っていたことに気がついた。

和輝君が時間を気にしているのはわかっていた。和輝君を自宅に送ったあの日の翌日、職員室で和輝君にココアを飲ませた際も、時間を気にして和輝君は泣き出したという。
その時は、「6時まで帰れんだけやのうて、6時ぴったりに帰らんといかんがやろか」と思っていた。

しかし、和輝君の目線に立ってみた時、和輝君は6時になるのを「待っていた」ことに気づいた。

A教諭が和輝君の心をどう捉えたかはいくつかの解釈ができるが、私が思うに、和輝君は6時になれば「家に帰れる」と思っていたのではないか。それが意味することは、和輝君にとって家は紛れもない「帰る場所」であったということなのではないか。

和輝君の作った詩がある。
事件当日の授業参観で発表された詩だが、その日この詩を和輝君の母親も寺岡も、耳にすることはなかった。

「友だちと遊んだ」
友だちと遊んだ
友だちと遊ぶときは、5時までの門限で帰る
友だちと野球で遊んだり、ゲームをしたりする
いっつものように遊ぶ
一緒に遊んでくれるのが、ぼくにはありがたい
友だちを大切にしないといけないと思う
帰って、また明日遊ぶぞ

和輝君は寺岡から、「外におっても友達おらんがやろ」と悪意を込めて言われていた。
実際には、和輝君と遊ぶ友達はいなかったわけではなかったが、校庭で夕方まで一人でいる和輝君が頻繁に目撃されていることから、放課後は一人でいることが多かったのだろう。

しかし私は友達のことよりも、二度も出てくる「帰る」という言葉が胸を掻き毟る。
暴力を振るわれ、食事も満足にもらえないあの家。幼い弟は自ら家を出て施設に入るといったほど、愛も温もりも欠片もない劣悪なあの家。
その家に、和輝君は帰るといった。何度聞かれても、家がいいといった。
そしてこの詩にも、家に帰る描写がある。
和輝君にとっては、それでも帰りたかった家であったのかもしれない。

中脇氏がどんな思いでこの小説を書いたかはわからないが、ラスト、岡野先生は1度は逃げたあの児童の家へ向かった。走って走って、息も絶え絶えにその児童の家へと向かった。
一度ノックして、返答がない。しかし、息を整えた岡野先生は、意を決したようにもう一度ノックをするのだ。
作品はそこで終わる。唐突に。
A教諭の痛恨を、この作品はもう一つの選択肢として描いている。
しかしそこから先は描かれていない。作品の中でも、和輝君の未来は変わらなかったかもしれない。
それでも、遺された人間は人生が続くのだから、もう一歩の決意を持たなければならない。
A教諭には正直辛かったかもしれない。しかし、あと一歩が足りなかったとしても、逃げたとしても、それでもたった一人和輝君に寄り添ったのはA教諭であったと私は思う。

その後

個人的な話であるが、事件のあった南国市大埇という土地は、夫が出張で数か月間ではあるが生活しており、私もたびたび訪れた土地である。

借りていた住まいから大篠小学校は徒歩数分の距離で、和輝君も大埇に住所があったことから、和輝君が育った場所を私も知っていることになる。
この土地の人はみな、優しく豪快で、食べ物もおいしい。そんなあたたかな土地で、和輝君は幼い生涯を終わらされた。

寺岡は事件後、罪を認め涙を流して和輝君への謝罪の言葉を口にした。
裁判では特に争うこともなく、やる気の出るはずもない弁護士の情状酌量を求める言葉がむなしく響いて、たった2回の公判で判決となった。
裁判は、和輝君を知る人々も傍聴していた。傍聴した人からは、寺岡も母親も、しつけのつもりで行っていたと主張しており、それについて司法の判断がなされなかったことへの不満も聞かれた。
懲役7年。寺岡は収監された。

償って済む罪と、償えない罪がある。人を、ましてや抵抗できない年齢の子供を殺害した罪というものは、消えてはならない罪である。そこにいかなる理由があろうとも、子どもはダメだ。

寺岡という男は、弱いもの、抵抗できないもの、自分が年齢や体力で圧倒的優位に立っている相手にしか、虚勢を張ることすらできなかった哀れな男である。
和輝君はそんな情けない男を、いつからか醒めた感情で見ていたのではないか。

和輝君は、母親が連れてきたこの寺岡という男のことを恐れていただろうか。
多分、全然怖がっていなかったと思う。むしろ、怖がっていたのは寺岡の方だった。

事件から10年経過しており、寺岡はすでに出所している。
10年もたてば事件のことも多くの人は忘れているかもしれないと思ったが、事件から7年の2015年。
突如、某地域密着型のサイトの高知県板に、寺岡のフルネームを冠したスレッドが立った。
事件のことは一切触れず、出所後名前を変えている、とだけ。
このタイミングは何だろうと思った。出所するタイミングに合わせて、まるで風化させてなるものかといわんばかりに。

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