妻だけを生かした一家皆殺し男の「本音」~中津川・一家6人殺傷事件①~

2005年2月27日

すぐ目の前に山が迫る岐阜県中津川市・坂下町の「住宅」。
その男性は、なにか心のざわつきを感じながら、勝手知ったる「その住宅」の玄関を開けた。
昼間ではあったが、家の向きの関係で家の中は薄暗く、いつもならば昼間でも電気がついているはずなのに、その日はついていなかった。
この日、男性はインフルエンザで体調がすぐれず在宅しており、実家である「その住宅」に子どもたちを連れて遊びに行った妻の帰りを待っていた。
そこへ、ひょっこり妻の父親が顔を出した。
「下(実家)でみんな待っとるから、行こうか」
小柄でにこやかな義理の父は、いつもと変わらない表情でそう告げ、男性と共に軽自動車で「その住宅」へと向かった。
子どもたちもいるはずの家の中は静まり返り、男性は不安を覚える。背後にいる義理の父に、みんなは?と聞くと、「ばあちゃんの部屋におる」と言うので、その部屋へ向かうが、その部屋は真っ暗で人などいる気配もしなかった。

「Tさん、死んでくれ」

気がつくと、男性は腹部に包丁が刺さっていた。

事件の概要



男性は死に物狂いで抵抗し、なんとか振り切って「その住宅」を飛び出した。
腹を抑えてうずくまっているところを通報により駆けつけた警察官に保護される。
男性から事情を聴いた警察官らが「その住宅」で見たものは、老齢の女性、乳児と幼児を抱きかかえた30代くらいの女性、同じく30代と思われる男性のあわせて5人、そして2頭のシェパードの惨殺遺体であった。

さらに、浴室で首に包丁を突き刺したまま朦朧としている初老の男性を発見。
一命をとりとめたその男こそが、「その住宅」の主で、殺害された被害者の息子であり、父親であり、おじいちゃんであった。
名を、原 平(当時57歳)という。

その日、妻は旅行で不在であった。
午前6時ころ起床し、旅行に行く妻を駅に送った後、自宅に戻った。
自宅には85歳になる母親のチヨコさんと、整体師の長男・正さん(当時33歳)がいたが、まだ二人とも寝ているようだった。
原は、眠っている正さんの首にネクタイを巻き付け、一気に締め上げた。目を覚ました正さんは、「お父さん、なに?」と苦痛と困惑の表情で問いかけるのが精いっぱいで、抵抗も出来ずにそのまま絶命した。

「いよいよ始まったな」

我が息子を殺害した原は、なぜか落ち着き、むしろ意気揚々とした感覚で1階の母親の部屋へ向かった。
正さんを殺めたそのネクタイで、微睡むチヨコさんも同じく絞め殺した。気位の高いチヨコさんは、妻をはじめ、家族を苦しめていた。今朝も、何度も解約しているにもかかわらず新聞購読をせがみ、さらには原の娘のことを「孫の顔も見せに来ない」となじった。
「これで解放された、もう嫌がらせをされることはない」

次に原が行ったのは、警察犬として慈しみ育て上げてきた2頭のシェパードの「始末」であった。
車に乗せて、糀の湖付近で木につなぎ、持参した包丁を何度も犬に突き刺した。
訓練された犬は、主人に歯向かうことなく、その場に崩れ落ちた。

その足で、今度は娘・こずえさん(30歳)の自宅へと車を走らせた。
自宅にはこずえさんと生まれたばかりの彩菜ちゃん(生後3週間)、2歳の孝平ちゃん、そしてこずえさんの夫であるTさん(当時33歳)がいた。
「ばあちゃんが孫の顔を見たいと言ってるから」
原はそう言ってこずえさんと子どもたちを車に乗せた。Tさんはまだパジャマ姿で、体調もすぐれなかったためその時は行かなかった。

実家へ着いたこずえさんは、子どもたちと家の中に入るが、すぐさま雰囲気がおかしいことに気づく。
彩菜ちゃんを左腕に抱えて、チヨコさんの部屋へ行くが、電気もついていないその部屋で異様な状態のチヨコさんを見て、「何か変じゃない?」と父親に聞いた。
「そうか?もっと近くへ行ってみな」
父親に促されるまま、心配そうにチヨコさんをのぞき込んだその時、こずえさんの首にネクタイが巻かれた。
「お父さんっ…!?」
あっけにとられた表情のこずえさんは尻もちをつき、そのまま仰向けに倒れ込んだ。左手にはしっかりと彩菜ちゃんを抱いたまま。
原は、愛娘の顔から血の気が失せるのを見たくなかったのか、顔を背けていたという。
こずえさんが動かなくなったのを確認し、ふと顔を上げると、部屋の隅で固まっている孫の孝平ちゃんと目があった。
幼いながらも、目の前で繰り広げられたこの一部始終が恐ろしいことであると察していたのだろう、不安そうな顔で「ママ、大丈夫なの?彩菜は?」と聞いたという。

原は、孝平ちゃんの首にもそのネクタイを巻き付け、そのまま締め上げた。

不意に、こずえさんの腕の中にいた彩菜ちゃんが火がついたように泣き始めた。我に返った原は、その彩菜ちゃんの首をつまむと、そのまま力を入れて息の根を止めた。

時間は午後零時半になっていた。

原はその後、冒頭のように再びこずえさん宅へ行き、何も知らない夫のTさんを連れ出してTさん殺害も試みるも、抵抗され未遂に終わった。
Tさん殺害を諦めた原は、そのまま自身の体や首を包丁で刺し、自殺を図る。失血死を試み、浴槽の中に隠れていたが駆けつけた警察官によって病院へ搬送され、12日、5人殺害とTさん殺害未遂で逮捕となった。

不可解な動機



犬も含めた一家惨殺、さらには血のつながりのないTさんまで殺害しようとしたその背景や動機は、いったい何だったのか。
調べでは、母親であるチヨコさんへの積年の恨みと、妻に対するチヨコさんのいびり、嫌がらせに耐えかねたとする供述があり、裁判でも概ね認められている。
チヨコさん以外の家族は、こずえさんの夫であるTさんを含めて仲が良かったとされ、ゆえに殺人犯の家族として生きていくのは不憫であるという原の勝手な思い込みによって、一家もろとも可愛がっていた犬まで一緒に死ぬ以外にないという「無理心中」であるとされた。

しかし、ここで大きな疑問がある。

妻の存在である。妻はその日日帰り旅行に出ており、原自ら駅まで送っている。
しかし、原はあえてこの日を選んで殺害を実行した。
原の中で、母・チヨコさんから逃れるには殺害以外にない、という妄信があり、それを実行することに迷いはなかった。おそらく自身も後に自害するつもりがあったのだろう。
ただ、そうなれば遺された家族は世間の好奇の的となり、申し訳ないから、生き恥をさらすよりも良かろうということで連れて行こうと思ったわけである。
であるならば、なぜ妻を連れていかなかったのか?

原の供述によれば、妻のことは愛していたし、なにより妻をチヨコさんから解放するのが目的であるのだから、妻を殺そうとは思わなかった、だから妻がいない日を選んだ、となっている。

これでは矛盾していないか。片方で愛する娘や孫たちを殺しておきながら、同じく愛してやまない妻は生かす。
妻とて、1人残されてしまえば死ぬほどつらい日々が待っているわけで、決してチヨコさんから解放されて良かったなどと思うわけがない。
家族全員が妻をいびり、蔑ろにしていたというならばわかるが、そんな事実はない。

わたしはこの顛末を知った時、「これじゃむしろ妻への嫌がらせでしかない」と思っていた。
しかし、新潮45などで発表されたルポや裁判記録を読んでも、どこにもこの私が抱いた疑問を払拭させる話は出てこず、長いことわたしはこの一家殺傷事件が起こった動機、背景にモヤモヤするものを抱いていた。

そして、長い時間を経て見つけたある記事が、私が感じた疑問をずばり「やっぱりそうか」と思わせてくれたのだ。

それは、自身も負傷させられ、妻を幼い子どもを殺害された被害者・Tさんの手記であった。

母と息子のそれまで



原は、大正9年生まれの父親と、広島県出身の母・チヨコさんの長男として昭和22年に長野県で生まれた。
父親も長男であったが、出征していたこともあり実家の跡継ぎは14歳下の弟であった。
小さな山村では、古くから地域の中での婚姻が多く、広島出身のチヨコさんが嫁いできたのは珍しいことだったという。
広島の裕福な家の出というチヨコさんだったが、実際にはチヨコさんの代では資産はほとんどなく、また戦争へ突き進む時代でもあり幼いころから経済的には苦しかった。
チヨコさんは妊娠を機に結婚を決め、夫の生家がある長野へと移り住んだ。その翌月には、原が生まれている。
言葉が違うチヨコさんに対し、もともと「よそ者」意識を持っていた夫の実家とその地域の人は、あまり親切ではなかったという。
それでもチヨコさんは、革職人の夫を支え、経済的に安定するまではと慣れない土地で友達もいない中、嫁として妻として母として努力していた。

3年後、次男が誕生し、松本市内で夫婦と子供たちの生活が始まった。
経済的にはまだ不安定だったが、原が小学校5年生のころには生命保険の用務員の職を得、父親の収入も少し増えた。
チヨコさんは清掃員の仕事などをして家計を支えたが、夫婦の間には経済的なことの諍いが絶えなかったという。

原の幼少期はというと、おとなしく目立たない子供だった。しかし、父親が転職したことで転校した際、仲良くなった友達が活発で目立つタイプの子どもであったことから、次第に原自身も性格が明るくなり、学校でもリーダー的な存在となっていった。
しかし家庭では、相変わらず両親の諍いは続き、気性の激しいチヨコさんから八つ当たり的にベルトなどで叩かれることがあった。
チヨコさんはその当時から、家の中で物が無くなると必ず家族を疑ったという。自分が置き忘れたと考えるのではなく、原や弟のせいにした。
弁解を聞き入れることはなく、それは子どもたちの交友関係にも及び、友達の家に遊びに行こうとした原に対し、「あそこは親が芸者だから付き合うな」と言ったりもした。

このようなことが重なって、小学校高学年のころから原はチヨコさんを疎ましく思うようになり、口をきかない、無視することで母親の過干渉をやり過ごすようになる。
一方、3つ下の弟は如才なくチヨコさんと渡り合う術を身につけていたとみられ、チヨコさんとの関係は表面上良好であったという。
原は、父親とは普通に接するも、チヨコさんにはあからさまな態度で接していたため、次第にチヨコさんも原に対して接触自体を持たないようになった。

原は、自分の態度は棚に上げ、チヨコさんが弟には普通に接するのを見て「自分は嫌われている」と疎外感を募らせた。

中学へ上がると、部活動で活躍する一方で、自身の身体的なコンプレックスを抱くようになる。身長が160センチ以下ということが、男としてのプライドを傷つけていたようだが、それも背の低いチヨコさんの遺伝だとしていっそうチヨコさんへの反感を強めていく。
思春期ということもあり、チヨコさんだけでなく家族とも口をきかないことが多くなった。
学校では他校の生徒とケンカをしたり、タバコを吸うなどし、どちらかというと不良グループの一員という位置づけであった。
しかし、真面目な父親への思いは消えておらず、高校には進学した。

高校卒業後の昭和41年、東京にある大学付属のエックス線技師を養成する専門学校へ進み、卒業後は松本市の病院でエックス線技師として働いた。
その病院で、後に妻となる女性に出会う。
原の背の低さを全く気にしないその女性は背が高く、美人で明るく、その女性といると自分まで明るくなるように思えた。
女性に頼りがいのあるところを見せたくて、責任ある仕事をこなすようになる。
出会って1年ほど後、原はその女性を両親に結婚したい相手として紹介する。父親はそれを喜んだが、チヨコさんはその女性の出身地を聞くや否や、家柄に対して思い込みを抱き、女性を毛嫌いした。
原はその思い込みを正すために何度も説明しようとしたが、昔から変わらずチヨコさんは耳を貸すことはなかった。

昭和45年、坂下病院に町の職員という身分で事務長として来てくれないか、と要請を受ける。
地元外からの要請は稀だったが、原がエックス線技師の資格を持っていることなどから待遇もよく、是非にと請われてのことであった。
原は、実家を離れるチャンスだと思い、その要請を受け、その上でその女性と結婚した。
坂下町へ移るまでの一ヶ月弱の間、原と妻は実家で両親らと同居した。
案の定、チヨコさんは同居してすぐに妻を泥棒扱いし始め、短期間の同居であるにもかかわらず妻は疲弊していた。

坂下町へ引っ越して後、長男・正さん、長女こずえさんを授かり、妻は看護師の仕事を辞めて家庭に入り、その後子どもたちに手がかからなくなった5~6年働いた以外は専業主婦として家庭を守った。

原にとって、この坂下町で暮らした期間は幸せであったといえる。
チヨコさんの暴言やいびりを目の当たりにすることもなく、父親として男として、病院でも責任ある仕事を次々に任されるなど、ようやくつかんだ「理想の自分」がそこにあった。

しかし、昭和53年、別居してせいせいしていたはずなのに、父親と金を出し合って坂下町の新興住宅地に二世帯住宅を建設した。
いずれは一緒に暮らしたいという父親の願いに沿ったものだということだが、そこにはもれなくチヨコさんがついてくるのではないのか。
昭和55年、両親は松本市の自宅を売却し、坂下町の原一家が暮らすその家へとやってきた。
しかも、同居して2年後、父親が病気で他界した。

逃げたはずのチヨコさんとの暮らしが、今度は逃げ場がない状態で再び始まってしまった。

 

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