京都伏見認知症母親心中未遂事件・その顛末②

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行政、福祉とのすれ違い

康晴は、仕事を完全にやめてしまう9月までの間、何度か生活保護の申請のため福祉の窓口を訪れていた。
現状では近い将来、間違いなく収入が途絶えてしまう。働く意思は十分にあるが、何よりその仕事がない。自分の食べることより、とにかく母親の生活を維持しなければならないという思いがことのほか強かった康晴は、「良かれと思い」先に福祉窓口へ相談に行ったのだろう。

しかし、後から考えると、この相談に行ったタイミングが悪かった。そして、そのタイミングの悪さゆえにマニュアル通りの対応に終始してしまった福祉の窓口は、後に総バッシングされる羽目になる。

康晴が最初に窓口を訪れたのは、工場をいったん休職したあとの7月中旬。それまでもハローワークなどにも通い、介護認定の申請を出した際にその窓口で「生活保護の申請もやっておくと良い」と助言され、出来ることは何でもやろうという思いから、生活保護の担当窓口に赴いた。
しかし、そこで康晴が受けた対応は、予想に反するものだった。
康晴がまだ働ける年齢、体力があることで、窓口は簡単に申請を受け付けてくれなかった。ただ、その時に「母親といったん世帯を分ければ、独居老人という形で母親の世帯に対して保護申請できる」という案も提示されている。
ここで、私のように他人になりふり構ってられないと思える人間なら、「形だけの世帯分離」を行うだろう。住所のみの転居手続きならば正直どうにでもできる。世の中そうやって偽装離婚し、生活保護や母子手当を受け取っている家庭は少なくない(ダメですよ)。
しかし、人様に迷惑をかけたり、ましてや税金を嘘をついて自分のために使ってもらうことなど、真面目で実直な康晴が思いつくはずもなく、「母親を一人に出来るわけがない」ということで康晴はその案を断念することになる。考える余地すらなかっただろう。

この行政、福祉窓口の対応はのちに裁判官からも苦言を呈されるほどに叩かれまくったわけだが、よくよく見てみると理由もなく「門前払い」したわけではない。
先ほども触れたが、最初に生活保護申請に難色を示したには実は理由があった。
当時康晴は無職ではなかった。休職中ではあったものの、派遣会社に在籍しており、その時点では仕事がいつでも再開できる状態にあり、役所としてもそうである以上は簡単に生活保護を受けさせることは難しかったであろうと推察される。
康晴はその後も、8月に1度、そして退職したのちにも再度窓口を訪れた。しかし、ちょうどその時期は「失業手当」が受け取れる時期と重なっていた。これは、本来自己都合の退職であるためもうちょっと先の受給開始のはずが、登録していた派遣会社の配慮で「会社都合による解雇」扱いとなっていたため、失業手当の受給が早かったのだ。
そのため、現時点では必要なしと判断されたとしても、わからなくはない。
また、康晴母子が住んでいた伏見区は、生活保護の受給率が高いこともあり、市の財政を圧迫していたという事情もあった。巷では不正受給の問題も取り沙汰されており、そのため新規の生活保護申請に対しては、厳しい態度で臨めという空気があったのかもしれない。
康晴母子は、真っ先に受給すべき対象であった。しかし、ひとりひとりに深く時間を割くことのできない現状もあってか、康晴の窮状は担当者に伝わらなかったと見える。

事情を聴いた介護の担当ケースワーカーが生活保護担当窓口に「なぜダメなのか」と問い合わせてもいるが、そこでも深く話が掘り下げられることはなかった。
介護担当のケースワーカーが、「介護資金という形でなら、社会福祉協議会が無利子で貸してくれる」と教えたが、康晴は結局申請をしなかった。
当たり前の話であるが、それには連帯保証人が必要だったからだ。借金の連帯保証など、迷惑の極みであると考えたのだろう、自身の窮状よりも、他人に迷惑をかけることを恐れた康晴は、わずかな貯蓄を頼りに、綱渡りの生活をせざるを得なかった。

受け取っていた失業手当も、12月で支給はストップとなっていた。

母親の回復と自分の死

貯蓄を切り崩す一方で、母親のデイサービスにかかる実費などで出費は減らせず、カードローンも限度額いっぱいまで借りていた。
これだけでも、亡き父に「借金するくらいなら自分が切り詰めればよい」と教えられ育った康晴にすれば、屈辱的な恥であったろう。
そうして、次第に自分の不甲斐なさを責めるようになった。
12月に入って失業手当が支給されなくなると、一気に経済状態は悪化していく。
しかし、母の病状に回復の兆しが見えるようになった。
というのも、母はアルツハイマー型の認知症と診断され、それに合った治療投薬を受けてきたのだが、母の様子を見ていたケアマネが、その診断に疑問を抱いたのだ。
康晴は、別の専門医に診せるよう助言され、あらためて診断を仰ぐと、母は「脳血管型」の認知症であったことが判明した。
全く意味のない治療をしていたことに康晴は呆然とするが、それまでの薬をやめると母の意識は以前よりもはっきりするようになったという。
しかし、康晴の職探しは困難を極め、デイサービスは12月に中止した。
年が明けるとさらに困窮し、康晴は食事の回数を減らしている。母には1日に2度、食事をさせたが、自分はなんと2日に1度という食生活にしていたという。
もはや康晴には相談できる相手は誰一人いなくなっていた。
「残された時間を母と共に楽しく生きる」
そんなメモを書き残すようになったころ、康晴は自分が死ねば母親は行政が保護してくれるのでは、という思いを抱くようになり、ある時母に何気なく話をした。
以前よりも意識がはっきりしてきていた母は、息子の不審な言動に不安を覚えたようで、それ以来時折、「康晴」と息子の名を呼び、頭をなでるようなしぐさを見せたという。
さらに、夜中トイレに立った際に、康晴の布団にもぐりこんで、「ここがええ」といって息子を抱いて寝た夜もあった。
まるで、遺された時間を悟ったかのように、遠い昔に戻ったように、母と息子はある意味「幸せな時間」を過ごしていた。

そして、最期の夜へ

どの時点で康晴が心中を決意したのかはわからない。少なくとも、2006年1月30日の夜中頃には、必要な道具を思いつくままに用意しているので、その頃には決意が固まっていたと思われる。
数日前から、康晴は子供のように泣いてばかりいた。母に、「もう泣かんでえぇ」と言われていた。
それでも、その夜康晴は涙を止めることは出来なかった。

1月31日の朝、前夜に用意したリュックを持ち、康晴は母に「どこに行きたい?」と尋ねると、「賑やかなところ」と母が言うので、京都の中心部へと向かうことにした。
その時までに、アパートをきれいに片付け、ディサービスの費用も支払いを済ませた。
康晴と母は、もうその部屋に二度と戻るまいと決めていた。

母子は思い出をたどるように、在りし日の父と3人で出掛けた場所を思いつくままに散策した。
西陣織の仕事は夏場はどうしても捗らないため、父は時間の余裕ができた。家族3人、映画館に行き、その帰りにはお気に入りの店で食事もした。
その店は、まだ同じ場所にあった。康晴も、母も、その店を覚えていた。
いつも忙しかった父が家にいるから、夏休みは楽しみだった。そんな父も、叱るときは厳しく、時には手が出ることもあったという。そんな時、決まって母が、「なにしはりますの!」と康晴をかばってくれた。
厳しくも人の道に外れぬよう教えてくれた父。その厳しさの反対側にいた、やさしい母。康晴は、父の教えも母の優しさも、両方しっかり受け継いで今日まで生きてきた。
それが、今日終わろうとしていた。

③へつづく

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