いい親になりたかった母親の無理筋~尼崎・児童虐待死事件~

平成13年8月14日


「剛士ぃっ!!!!」
人通りの多いJR神戸線立花駅前のコンビニエンスストア前の路上では、多数の捜査員と揉みあう若い男女の姿があった。
暴れまわる金髪の女に対し、向き合う形で捜査員に引き離された痩せこけた男は、錯乱状態で泣き叫ぶその女を茫然としたまなざしで見つめていた。
この様子はその日の夕方のニュースで全国に放送され、見たものは二人の異常な様子に唖然とした。

この日から1週間前、男と女は小学1年生の女の実子を凄惨な暴力の挙句に殺害し、こともあろうか事件の発覚を恐れて近くを流れる運河に遺棄したのだ。
その遺体は、黒いごみ袋に詰められていた。
男児は勢田恭一くん(当時6歳)。度重なる虐待から児童養護施設で生活していたが、事件の直前、8月1日から10日間の予定で一時帰宅となっていた。
恭一君は、「嫌やなぁ、(家に)帰りたくない」と泣いていた。そして、その7日後に、殺害されてしまった。

事件まで

母親はその名を知子という。当時24歳で、殺害された恭一君の下にも次男がいる。2度の結婚歴があり、恭一君は最初の夫との間の子供だった。
恭一君は当初、知子と夫が離婚したのち、西宮市内の夫の実家に預けられていた。
恭一君はその祖母宅で愛されて育ち、何の心配もなく健康に成長していたが、小学校入学を来春に控えた平成13年になって突然、知子が恭一君を引き取りに現れたという。
知子は恭一君の親権は持っており、それまでも何度か会いに行ったりはしていた。
知子はすでに再婚しており、夫である剛士(当時24歳)とともに西宮を訪れ、このときは半ば強引に恭一君を連れ帰った。
しかし、2月に入ってすぐ、つまり恭一君を連れ帰って一か月もしないうちに、恭一君は西宮子どもセンターに保護されてしまう。
ことの経緯としては、恭一君をこのセンターに連れてきたのは知子と剛士だった。理由としては、恭一君が下の弟をいじめて困る、という相談だった。
しかし、ただならぬ様子の恭一君を診察した医師によれば、全身に及ぶ虐待の痕が見てとれたという。
全身に外傷からくる紫斑、皮下出血、そして鎖骨骨折の跡、血液検査からは筋肉組織の挫滅まで判明した。
このことがきっかけで、神戸市内の児童養護施設「尼崎学園」に入ることになった。

「なつかないので叩いた」
尼崎学園の芝明宏園長に、知子はそうつぶやいたという。
芝園長は、「あせらないで。5年も離れていたのだから、すぐにいい親子になれるとは限らない」と諭した。
この時点では、知子も自分の至らなさを悔い、自分に悪いところがあると反省もしていたようだ。
恭一君を尼崎学園に預けてすぐ、知子は小学生になる恭一君のために、文房具やお祝いのカードなどを送り、同じ園で暮らす子供たちのためにハローキティ電報を15通も送ってきたこともあった。
4月に一時帰宅した後、最期の一時帰宅となった8月のあの日まで、尼崎学園は恭一君を知子夫婦のもとへは帰していない。
夏休みということもあり、8月1日から10日間の予定で恭一君は自宅へ帰る予定になった。しかし、園の方針だったのか、その日になって突然恭一君にその旨を告げたという。驚いて動揺する恭一君は、帰りたくないと言って泣いた。それでも、指導員らがなだめるうちに、自分でビーチサンダルを用意するなどし始め、かえることに納得していたように見えた。
JR福知山線道場駅で知子夫婦が待っているというので、園の指導員が車で駅まで送ったが、その道中も「嫌やなぁ」と言って恭一君は涙をこぼしていた。
園が一時帰宅の際に持たせる食料品とともに恭一君を知子夫婦に引き渡したが、指導員は知子の言動が気になっていた。
そのまま旅行に連れて行く予定だったのか、知子が恭一君の荷物を確認し始めたという。すると、「服が足りない!」と言って憤慨したというのだ。
久しぶりの息子との対面で、本来ならばうれしくて些細なことなどどうでもいいはずなのに、服が足りないと言って憤慨する知子は異様だった。

8月4日、立花町の文化住宅に住んでいた知子夫婦は、近くの公園での盆踊りに家族で出かけた。しかし、知子の体調が悪くなり、早めに帰宅したという。遊び足りなかった恭一君は不満そうだった。そして、それを感じた知子もイラ立っていた。
翌5日。恭一君の服にカレーが飛び散っていることに気づいた知子が、そのことを恭一君に訊ねると、恭一君は「気づかへんかった」と答えた。至極当たり前の返答である。
しかしこれに知子は激高する。いきなり平手で恭一君の頬を張ると、そこに剛士も加わった。不貞腐れたように見えたのか、剛士も怒鳴り、恭一君に迫った。
ただ、彼らの真意はカレーが云々ではなく、自宅に戻ったというのに楽しそうではない恭一君の本心を知ることだった。
「園と家と、どっちがいいのか、誰が一番好きなのか」
恭一君はそう聞かれ、「ごはんやジュースをくれるし、おもちゃも買ってくれるし、剛ジィがえぇ」と答えた。しかし、二人は全く納得しない。
どう答えれば納得したのかはなはだ疑問だが、知子はしつこく恭一君に訊ねた、誰が好きなんや、と。
知子や剛士を好きだと言っても納得しないことから、恭一君はつい、「園のねえちゃん(指導員の事)が一番好き」と言ってしまう。
知子は畳みかけるように訊ねた、「ママは怒るから嫌いなんやろ」と。
おそらくハッとしたであろう恭一君は、「ママが好き」と言い直した。隣の部屋で聞いていた剛士が割って入り、「俺にも本当のことを言え、さっきは園の姉ちゃんが好きや言うたやないか!」とかわるがわる詰問した。
何を答えれば正解なのか、恭一君が分かるはずもない。知子夫婦はすでになぜ恭一君に詰問しているのか、その理由すらわからなくなっていた。

黙りこくってしまった恭一君に対し、剛士は知子に聞いた。
「もうこいつ、しばくぞ」
それに対する知子の返事は、
「うん、ええよ、かまへんよ。怒るときは怒ってや」
恭一君が「剛ジィが好き」「家が好き」と必死で答えても、剛士はそのたびに顔面を殴った。園が良いと言えば殴られ、ママが好きと言えば嘘をつくなと殴られ、恭一君の逃げ場はなかった。

空腹だった恭一君は、園から持ってきたそうめんが食べたいといった。この発言も、知子夫婦を激怒させた。
知子はそのそうめんを茹でずに、固いままの束を恭一君の口に押し込んだ。むせる恭一君に、さらに麺つゆをビニール袋にいれ、残りのそうめんを放り込んで全て無理やり食べさせた。
知子は布団たたきで恭一君の背中をたたき続けた。

恭一君の死

6日の午前中、滞納していた電気料金を支払うため、知子と剛士は外出する。その際、恭一君を縛り上げ、口にはガムテープを張って出て行った。帰宅すると、恭一君は自分で縄を解き、おとなしく遊んでいたという。
その日行われた西宮子どもセンターのケースワーカーとの面談では、「恭一を引き取りたい」と申し出るも拒否され、それならばせめて延長をと食い下がって尼崎学園へ戻すのを1週間延ばさせた。そうしなければならない理由があったからだ。

翌日7日の昼前、知子の母親がやってきた。
もともと仲が良い母娘ではなかったが、西成で日雇い労働者の人夫貸のような仕事をしていたその母親は、思いついたようにこうして立花町の娘の家を訪れていた。
しかしその日娘の家を訪れたのは、前日にただならぬ様子で知子から電話がかかってきたからだった。「ママ、相談したいことがあるから来てほしい」

娘の夫である剛士とは、正直お互いが嫌い合っていた。
母親がドアを開けると、そこには疲弊した様子の娘夫婦と、その背後の部屋でぐったりとした孫の恭一君が目に入った。
ひと目で知子らが恭一君に暴力を振るったことは分かったが、この母親自身、知子やその兄らを殴って育てて来ていたためか、「こいつら顔殴りやがって(虐待がばれるやないか!)」としか思わなかった。
知子夫婦はその日午前7時ころまで寝ていなかった。というのも、独り言を口にする恭一君にいら立った知子夫婦は、午前4時ころまで暴行を加え続けていたのだ。
しかも、午前7時ころに便を漏らした恭一君が知子らの寝室へ来た際には、剛士が激高して恭一君に回し蹴りした。倒れこんだ恭一君は、そのまま動かなくなったが、二人はさして気にも留めずそのまま寝た。
「ビーチボールがないから、洗われへん、どうしよう」
これが、恭一君の最期の言葉だった。

恭一君の様子が尋常ではないことに気づいた知子の母親は、病院へ連れて行けと二人に言うが、「あかん。虐待がばれる」そういって知子はそれを拒否した。
「そんなもん、病院の入り口に置いてきたらえぇんじゃ!」
ひっくり返りそうな発言だが、この母親はさも名案だと言わんばかりに言った後、話は済んだと寝入ってしまった。
知子の母親が目を覚ましたのは、保育園に行っていた次男が知子に連れられ帰宅した夕方近くだった。
次男と遊んだりしながら、気が付くと知子と剛士の姿はなく、恭一君の姿もなかった。
母親は、恭一君をようやく病院へ連れて行く気になったかと思い、そのまま知子夫婦が帰宅するまで次男の面倒を見ていたという。
午後10時過ぎ、ふと玄関に知子と剛士の姿があることに気づく。ふたりはなぜかボストンバッグを持っていた。

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