いい親になりたかった母親の無理筋~尼崎・児童虐待死事件②~

「ママにしか頼まれへん!」


当時の報道によれば、知子夫婦らは自宅で次男の面倒をみてくれていた母親に対し、「恭一を病院に連れて行った」と話した、とされているが、実際はこうである。
知子の母親は二人を訝りながらも、気の強い知子が涙を流しているのを見てただならぬ気配を感じていた。

すると、普段は口もきこうともしない剛士が突然、
「相談がある」
と切り出してきた。金の無心に違いないと思った母親はそっけなく「銭ならないぞ!」と吐き捨てたが、剛士は食い下がった。
「カネの事と違う、おばはん、恭一を預かったことにしてくれ」
その時まで、母親は姿の見えない恭一君について、知子夫婦が病院へ連れて行ったものだとばかり思いこんでいたという。
それが、預かっていたことにしてくれとはどういうことか。問いただそうとするより先に、知子が土下座する勢いで頼み込んできた。
「ママにしか、無理を言えん。ママにしか頼まれへん。お願いや!」

二人に気おされた、というのが正しいのか、母親はその申し出を飲んだ。
その後、西成の自宅で母親が預かってはいたものの、目を離したすきに恭一君がいなくなったという嘘の捜索願を警察に提出した。

しかし、西成の自宅へ戻って、内縁の夫と長男にその話をしたところ、二人が激怒したことから母親は捜索願を取り下げ、事件は発覚した。

ニュースでは事件が報じられたが、知子と剛士は行方をくらましていた。隠ぺい工作をしたつもりだろうが、そんな稚拙な計画が警察に通用するはずなどハナからなかったし、たとえ警察が鵜呑みにしたとしても、西宮子どもセンターと尼崎学園は黙っていなかったろう。そうなれば、すぐに事件は露呈する。
おそらく知子夫婦は事件発覚をできるだけ遅らせたかった。わずかな所持金をもって、出来るだけ逃げるつもりだったのだろう。

事件から6日後、尼崎の北堀運河に手が突き出た黒いごみ袋が浮いた。実は3日ほど前に、すでに同じごみ袋が浮いているのを近所の住人が見ている。
捜索していた警察は、最悪の結果になったことを嘆いた。詳しく調べるまでもなく、行方不明の恭一君の可能性は高かった。
ゴミ袋の中にいたのは、全裸で痣だらけの恭一君の痛々しい、直視できない亡骸だった。大部分はふやけ、一部白骨化していた。

翌14日、知子夫婦はすでに書いたとおり、案外近くにいた。立花駅前の路上で、警察官らを相手に大立ち回りをみせた。
金切り声をあげ、根元が黒くなった汚い金髪を振り乱して剛士と引き離されることを拒む知子の姿は、実の子を殺した後でも男と離されるのが嫌なのかと取られ、世間から「鬼女」「鬼母」の称号をほしいままにした。

隠ぺい工作と「砂入りペットボトル」

逮捕後、家宅捜索や知子らの供述から、恭一君が死亡した後の行動が明らかになった。
当初、警察は恭一君の死亡については知子ら夫婦による暴行が要因としていたものの、知子宅のある立花町から遺棄された大浜町の運河までは4キロほど離れていることもあり、タクシーなどを使って移動したと思われていた。
しかし、知子らを乗せたというタクシーがいなかったことから、死体遺棄には「第三者が関与しているのでは」と目されていた。
さらに、自宅のテーブルの上で、第三者にあてたとみられるメモ書きなどがあったことからも、その疑いは強かった。
しかし、その後の捜査でも第三者の関与は知子の母親以外になく、ふたりは死亡した恭一君をボストンバッグに詰め、何らかの手段(知子の最初の供述によれば通りがかったタクシー)で運河に運んだとbにらんだ。
同時に、いくつもの知子夫婦らによる隠ぺい工作、虐待の様子も明らかになっていた。

恭一君が死亡した7日の夕方頃、それに気づいた二人はスーパーで粘着テープやごみ袋を購入。しばらく留守にしていたように装うためなのか、8月5日から留守にしているからといった旨の下記の内容の張り紙も用意していた。
”8月5日
10日間ほど
でかけるので
ゆうびん物など
しんぶん入れに
入×れて下さい”
        
スーパーでは、店員に対し、丈夫なテープはどれか、と尋ねていたことも判明。
自宅へ戻った二人は寝入っている母親のそばで恭一君の服を脱がし、ごみ袋に詰めこんで運河へ向かったとみられる。
そして深夜になって、母親へ口裏合わせを頼み込み、知子夫婦は近所の立花西交番へ、母親は自宅のある西成署へそれぞれ捜索願を出した。
恭一君が行方不明という一報をを受けた尼崎学園、西宮子どもセンターの職員が8日未明に知子夫婦の自宅を訪れた際、当初誰もいなかったという。
しかし、室内に電気はついていたため警察官らと待っていると、知子と剛士が徒歩で帰宅した。
事情をきかれている間中、知子の両指は細かく震えていたという。
翌朝、普段通りに次男を保育園へ連れて行った際、保育士らは次男の尋常でない様子を見ていた。
次男は泣き叫び、明らかに様子がおかしかった。幼い子どもほど、親の心理状態に反応することは多々あるため、次男はなにかしら母親の変化に気づいていたのかもしれない。

その後、取り調べでは起訴されるまで虐待について否認し通しだった二人だが、自宅からは砂が詰められたペットボトルが数点押収されているほか、事件後、自宅近くのごみ集積場に、知子夫婦らが出したとみられる大量のゴミがあったこともわかった。

知子夫婦は14日朝、JR立花駅の近くのコンビニの公衆電話から、頻繁にどこかへ電話をかけていた。午前10時ころ、店内に入ってきた知子は新聞を手に取ったがすぐに新聞を取り落とし、そのままうずくまって嗚咽していたという。
その後、剛士とコンビニ内で口論をし始め、手に負えないと判断したコンビニの店員が通報、そして逮捕となった。逃れたかったはずの現場から、ほとんど離れていない場所で。

尼崎学園の大失態

まず、断っておきたい。私自身、子を持つ母親であるし、身上監護士としてさまざまなケースも知っているし、地域の役員を通じて危うい家庭や子供の存在も知っている。父も民生委員であり、障害を抱える子供たちのデイサービス施設に勤務する友人もいる。だから、児童養護施設の職員が抱える葛藤や法律の縛り、理想、そういうものが分からないわけではない。

ただ、恭一君が殺害されてしまった要因の一つに、この尼崎学園の存在があることは間違いないであろうと思っている。
今から20年近く前の話で、虐待に関する世間の考えや法律、職員の意識も全然違うであろうから、今の常識をもって一概に断罪は出来ないと思う。
しかし、事件の詳細を知るにつれ、「なんでそうなった?!」と思うことがいくつも出てきた。
この事件については、知子夫婦の異様さ、のちに新潮45で掲載された中尾幸司氏によるルポで明かされた知子の生育環境と、パンチがききすぎた知子の母親にばかり関心が向けられてしまって、尼崎学園の行った失態についてはあまり言及されていない。
恭一君が2度目の一時帰宅をした8月1日から10日間の予定について、尼崎学園は法律で定められている県への報告を怠った。忘れていたのではなく、「しなくても大丈夫なケースがほとんどだから」ということでしていなかったのだ。10日を超える一時帰宅の場合は、県に報告し確認しあうことがルールであったが、一時帰宅が早まることも多かった(実際には5~7日になる)ため、届を出さずとも問題ないと判断していたのだ。
県は当然抗議した。8月3日には書面でその旨通達している。当時の責任者である芝明宏園長によれば、「4月の一時帰宅の後も、元気になって帰ってきていたから親子関係は良い方向へ行っていると思った」とのことだが、実はそんなことはなかった。
虐待された形跡などは見当たらなかったものの、「やっぱり学園がの方がえぇわ」と恭一君は芝園長に言っているのだ。
芝園長はじめ、尼崎学園は「知子容疑者は反省している」と認識した。しかし、野田正人・立命館大教授(元名古屋家裁調査官)は「虐待する母親ほど、子どもと引き離されると、過度の愛情を示す。仏と夜叉(やしゃ)という二面性を持つのは常識。『改善の兆候』ととらえたのは過ち」と嘆く。
何をもって反省していると判断したのか、全くわからない。
児童虐待防止法では、虐待する保護者は「児童福祉司などから指導を受けなければならない」と規定されているにもかかわらず、尼崎学園はそういった指導をしていなかったし、外部(西宮子どもセンター)にも委託していなかった。結局、知子と剛士に対して何もしていなかったのだ。親子愛という馬鹿げた理想だけを大義名分にして、恭一君に親元へ帰ることを「強いた」のだ。

そして、8月の一時帰宅を突然告げられた恭一君は狼狽し、涙を流して抵抗した。それを、尼崎学園は「家に帰るのが泣くほど嫌というのはどういうことか?」と思うことなく、知子の良い面を恭一君に伝えるなどしてその場を収め、むしろ積極的に、泣いて嫌がる恭一君を知子のもとへ帰したのだ。
駅で知子夫婦と対面した職員は、その時知子がひどくイラついた言動をしたのを見ていた。にもかかわらず、恭一君を引き渡している。
そもそも、生後1年で父方の祖母と伯母に育てられたため、恭一君は知子と生活をした記憶がないに等しいはずだ。知子を母親として慕う気持ちがいきなり出てくるとは限らない。

たしかに、離婚後も前夫の計らいで時々は恭一君とも会っていたという知子だが、一時的な対面であれば誰だって上手くいくわけで、日々の成長とともに培われる信頼関係や親子の愛情などはそうそう簡単に出来るものではない。
どうも、尼崎学園の方針というか、芝園長の話を総合してみると、「子供には親が一番」「親元で暮らすことが最善の幸せ」と思い込んでいるように感じるのだ。
そんなわけないじゃん。
結局、きれいごとを言いながら、先日起った千葉での小学生女児暴行死事件での教育委員会や児相の対応とさして変わらないのではないか。
あの栗原という父親の恫喝はすさまじかったという。それに怯えた職員らが、父親の言うがままに対応してしまったことが、心愛ちゃんの死につながったのは間違いない。
恭一君のケースも、親子関係がうまくいっているように見えたと言いながら、知子に対する別の感情があったのではないか。ていうか、家に帰さずとも親子の触れ合いを作ることは可能だったのでは、とも思う。

実際、知子は入学式に花を贈るなどの一面を持ちながらも、一方では女性職員に対し、電話口で声を荒げることもあった。
それが、恭一君が知子夫婦から「誰が好き?」と聞かれて口にした「園の姉ちゃん」だった。

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