悪いのは、全部あなた~宇都宮・主婦散弾銃殺害事件~

平成14年7月4日。

その日は梅雨空で、正午過ぎの郊外の新興住宅地は人通りもまばらであった。
栃木県宇都宮市さつき3丁目。
大手自動車メーカーや、宇都宮駐屯地に勤務する自衛隊員らの家族の家が多いその一角で、事件は起こった。

その新興団地に住む初老の男は、その手に散弾銃を持ち、隣家のベランダへその銃口を向けた。ベランダには隣家の主婦、田中公子(当時60歳)が日課の布団干しを行っている最中で、パンパンパンパンとリズミカルに布団を叩く音が周辺に響いていた。

男は公子さんに狙いを定めると、無言のまま、驚いた表情の公子さん目掛け発砲。
銃弾は公子さんの左半身と左顔面に命中、そのまま公子さんはベランダに倒れ込んだ。
男は鍵を壊し家の中へ入り、公子さんが倒れているベランダへと階段を駆け上がった。そして、瀕死の状態であえぐ公子さんに、迷いなく至近距離から5発撃ちこんだ。男はその後、不意に外に目をやり、近くの家から走り出てきた主婦・海老沼志都子さんにも計5発発砲、海老沼さんは左頭部から肩にかけて被弾する。

男は名を高橋卓爾(当時62歳)という。すでに駆けつけていた警察官に臆することもなく、2階和室に座り込んだ。目の前には公子さんが虫の息で横たわっている。それを確認すると、男は猟銃を口に咥え、迷うことなく足の指で引き金をひいて自らの頭を吹き飛ばして果てた。


田中家と高橋家

二つの家族が暮らしていたのは、栃木県宇都宮市のさつき3丁目。ここは、すぐ近くに自衛隊の駐屯地があり、日光街道の西に位置する場所だ。
繁華街からは程よく離れており、ひと区画に20戸ほどの住宅が立ち並ぶ。どの家も似たような大きさの似たような外観であり、駐車スペースもとれる一般的な宅地だ。
高橋家と田中家は、昭和53年にこの場所のほとんど隣にそれぞれ家を購入している。年齢的には高橋の方が公子さんの夫よりも10歳ほど上にあたるが、同じ富士重工業宇都宮製作所に勤務していたが、直接的な仕事上の絡みはなかったとされる。

当初は、双方にトラブルなどなく、ごく普通のご近所としての関係性だったようだが、そのうち公子さんと高橋の妻が仲良くなった。
毎朝、両家の夫が仕事に出ると、専業主婦であった公子さんと高橋の妻は、庭先でおしゃべりをするような間柄になったという。双方と付き合いのあった近隣住民によれば、高橋の妻のほうが、公子さんに対して距離を縮めているというか、仲良くしたがっていたのは高橋の妻であったようだ。

しかし、どこにでもある話だが、距離感が違うと途端に関係はこじれてしまう。

どちらかというと距離感がなかった高橋の妻は、そのうち公子さん宅に上がり込むようになり、長い時間公子さんをおしゃべりに付き合わせるようになっていった。
専業主婦と言えども、几帳面な性格であった公子さんは、家事の手を止めざるを得ない状況に少しずつ不満が溜まっていたのかもしれない。
そうこうするうちに、高橋の妻が勝手に台所を覗いたり、冷蔵庫を開けるなどといった「一線を超える」行動をしたことで、ふたりはぎくしゃくし始める。
そして、近隣の住民が言うには、田中家に届いたハガキを高橋の妻がわざとか、偶然かはわからないが「覗き見た」ことで、両家の溝は決定的となったのだ。

それは、事件が起こる20年前のことだという。

両家のマウンティング合戦

その頃から、両家はことあるごとに張り合うようになったという。もともと、夫の勤務先も、おおよその年収も、妻が専業主婦であることも、男の子が一人いて同じ進学校に通っていることも、とにかく偶然であるにしろ「似通っていた」両家。
仲違いしてからというもの、それはあからさまな「マウンティング合戦」になった。
車を買い替えれば隣も、屋根をふき替えれば同じく隣も。際限がなかった。
しかし、ここまでは両家というより「妻同士」の張り合いであったように感じる。それが、平成4~5年頃に高橋の妻が病に倒れて後、その妻に変わって今度は高橋自身が公子さんと対峙することになる。
普通、女同士の張り合いを男が代わって引き継ぐなど考えにくい。しかも、公子さんの夫はさほど表に出ていないのだ。
この頃はまだ高橋本人も仕事をしていたはずで、しかも妻の介護もあれば隣の主婦に付き合う暇など本来はないと考えた方が自然だ。
しかし、高橋はまるで妻の代理戦争、仇討でも行っているがごとく、公子さんに立ち向かった。
それは、一つの出来事が関わっているとみる話がある。
高橋の妻が一時退院した際、近隣では退院のお祝いを届けようという話があった。当然、各戸からいくらかの金銭を集めることになったのだろうが、どうやらそこで公子さんと高橋が口論をしたようだ。それは内容はともかく、近所の人が何事かと覗きに出るほどの大声であったという。

そして、高橋が定年を迎えるとその諍いは激化の一途をたどった。

布団叩き

公子さんは外出先から戻ると、玄関先で衣類をはたく、または来客があるとその後使用した座布団を玄関先でパンパンはたくという「癖」があった。
そしてそれは、日々使用する布団に対しても同じであった。今でこそ、布団を日光に当てて干した際にパンパン布団叩きで叩く行為は、布団を痛める以外になく、推奨されることはない。そもそも、花粉等を遠ざけるために布団を外に干すということも最近では少なくなっている。

しかし、今から20年以上前ともなれば、布団を叩く光景は珍しくなかったし、叩けば叩くほどスッキリしたものだ。
公子さんも、しっかりと布団を表裏隅々まで叩くタイプの人だったようだが、なんとそれはほぼ毎日、昼の1~2時ころ20分にもわたって繰り広げられたという。
当時でも、あまりの几帳面な叩き方に感心して見入ってしまったという近隣住民の話もあるほどだ。

ちょうどそのころ、妻の介護が本格的に始まった高橋は、仕事と介護の両立に悩んでいたと思われる。
夜中に何度も排尿の世話をし、ゆっくりと眠ることはほとんどなかったと高橋の親類が言う。昼食が終わり、午後の微睡の中でようやくうとうととしかけた時に、隣家からパンパンパンパンという布団を叩く音が聞こえてくることに、高橋でなくとも苛立ちを覚えるのは想像に難くない。
すでに険悪な仲に陥っていた高橋が、公子さんに対し、
「お前は毎日家にいるからわからないだろうが、世の中には昼休みというものがあるんだ」
と怒鳴ることもあったが、公子さんは、
「自分の家の家事のペースを他人に乱される筋合いはない」
と意に介さなかった、というより、聞き入れるつもりは毛頭なかったようだ。

しかし、これは高橋に言われたから、ではなかった。
近所の別の主婦は、自身も公子さんの布団を叩く行為をいかがなものかと感じており、また、それが高橋との仲を悪化させていると懸念もしていたため、ある時公子さんに「もう少し遅い時間にしてはどうか」と助言している。
公子さんは、その主婦に対しても同じように「変える気はない」と言った。
さらに、「裏の家が比較的早い時間に夕食の支度を始めるから、それまでに終わらせたいの」と、自分も他人の家のペースに合わせているのだと言って見せた。

公子さんからすれば、布団叩きは家事の一環であり、他人にとやかく言われる類のものではなかったのだろう。私は家事をしているだけ、そう思っていたのだろう。
しかし、近隣の住民にとって公子さんの布団叩きは、高橋にある程度の同情を集めるに十分な行為であったと見えた。

公子さんの家計簿

公子さんは元来、几帳面で神経質であった。それは、人によれば「気が強く、モノを上からずけずけと言う」という風にも映り、また、「本人がどう思っていたかは別にしても、他人を悪しざまに言うところがあった」という風にも見られていた。
公子さんはその几帳面な性格ゆえ、家計簿の備考欄に短い日記もつけていた。その日記欄は、高橋家と諍いが起こるようになってからは、その日々のトラブルの内容や、高橋の言動の覚書と化していた。

高橋は、ことあるごとに公子さん宅を監視し、庭に小石を投げ入れるなどの嫌がらせを行っていたと公子さんは認識している。
盗聴器や監視カメラなどを用いているともその家計簿に記されていた。
事件後、裁判の過程でもその家計簿の束は公子さん遺族にとっては重要な証拠として用いられたが、事件を取り扱った警察や記者には、いささか頼りない、もっといえば独りよがりな物証にもみえた。
走り書きの域を出ないその記録は、日時などはっきりと記されてはいるものの、あくまで公子さんの主観であり、全ての出来事が高橋に結び付けられているともとれるからだ。
そこに高橋の気持ちや反論は一切ない。遺族も弁護士も、これぞ確たる証拠であると息巻いたが、はたしてその走り書きのすべてが「客観的に見て真実」であったかどうかは、判断できないと言える。

そして、その矛先は高橋のみならず、たびたび出動した警察にも向けられることとなった。

警察の言い分、田中家の言い分

田中家は、幾度となく警察も呼んでいる。そのたび、近隣の交番、時には宇都宮南署の署員が駆けつけている。

しかし事件後、遺族は警察と公安に過失があったとして訴えを起こす。
公安に対しては、高橋が他人とトラブルを抱えていることを知りながら銃の所有許可を与えたのは間違いであるということ、警察に対しては署員の応対などの内部調査を求めているものだ。
この、警察署員との対応をめぐるやりとりは、こうも違うか、というほど両者の言い分が食い違う。勘違いとか、受け止め方の違い、ではなく、誰がこう言った、誰がどう対応したかということまで正反対レベルで食い違っているのだ。
たとえば、被害届を出すか出さないか、といったくだりで、警察署員は、被害届の提出意思の確認及び、出さない場合は捜査できない旨を警察署で公子さんが録音している状態で行っている。
その時、田中夫妻は「(該当の事件から)2か月近くたっており、今更相手の怒りに火をつけるようなことをしたくない」ということで届を出していない。
その際、警察署員も納得の上で「今から捜査しても遅いと思うから」という文言もつけた調書が作成されている。その後、特にしこりもなく、和やかな雰囲気で夫妻は退署したという。
しかし、事件後弁護士と遺族が出した調査要請の内容には、
「警察の方から夫妻を呼びつけ、一歩的に捜査をしないことを告げ、夫妻に警察への期待を抹殺させた」
「捜査自体の要請を放棄する旨の書類に、強引に押印署名させた」
となっている。
どちらが本当かはわからないが、この時点ではたかだか近所迷惑なトラブルの域を出ておらず、そんなに警察がその被害届を出させないようにする理由もわからない。警察は両家のトラブルを把握しており、公子さんの頑なな性格も知っていたはずだ。
もしもこんな警察の応対であったら、公子さんがこんなにすごすごと引き下がるだろうか。そんな気の弱い女性が、長年男性相手に大声でやりあったりするのだろうか。
要請書の中や、事件後弁護士が語る公子さん像は、気の弱いおとなしい病弱な女性である。しかし、そうならば近隣の人がそのような評価をしていないのはどうしてなのだろう。そして、トラブルの発端や要因は全て他人にあり、自分の言動には全く落ち度がないと言わんばかりの生き方ができるのだろうか?

公安に対する国家賠償請求訴訟は、2008年に高裁が和解を勧告し、県が遺族に4700万円を支払うことで和解成立となった。

海老沼志都子さん


公子さんには、弟がいた。その弟も結婚し、すぐ裏手に居を構えていた。

その妻であり、義理の妹にあたる海老沼志都子さんは、義理の姉と高橋の諍いにひとり心痛めており、大声が聞こえたりするたび、そっと勝手口から義姉の家の様子をうかがう様子が目撃されている。
志都子さんはおとなしく、人と争うような性格ではなかったようで、義姉・公子さんと高橋が怒鳴りあっていてもそれに割って入って仲裁するといったことまでは出来なかったようだ。それは、夫に関わるなと言われていたからかもしれないし、お互いの言い分が理解できるからであったからかもしれない。
決して高橋にたてついたり、義姉と一緒になって高橋を責めることもなかった志都子さんだが、高橋が公子さんを襲ったその時、銃声に驚いて飛び出した際に巻き込まれた。
巻き込まれた、とはいうが、流れ弾に当たったのではなく、高橋はあきらかに志都子さんを狙い、彼女も殺害する意思があったと言える。
高橋はなぜ、志都子さんまで狙ったのだろうか。直接的な諍いはなかったはずだ。
これは一方的な推測だが、もしかしたら高橋にしてみれば、いつも不安そうに諍いを遠巻きに見るだけの海老沼さんにも、怒りを抱いていたのではないだろうか。
私も経験があるが、言いたいことをズケズケいう人間も気に入らないが、それ以上に直接は何も言わない、してこない関係者というのも、非常に気に障るものではある。
「なにもしなかった」ことが、怒りを買うことはあるのだ。
ましてや海老沼さんは単なるご近所ではなく、憎き公子さんの義理の妹である。常日頃から、公子さんから自分の悪口を聞かされているはずなのに、どうして義姉の暴走をたしなめてくれないのか、改めるよう助言をしないのか。
高橋のイライラのなかで、もしかしたら海老沼さんの控えめな性格がかえって怒りを増幅させてしまったのかもしれないが、高橋は死亡しているため、それを知る術はもうない。

巻き添えになった海老沼志都子さんは、現在も体に散弾が残り、非常に辛い生活を強いられている。彼女には落ち度はなかった。完全に高橋の逆恨み、暴挙であり、気の毒だという言葉では片づけられない。
その不自由な状態で裁判を闘い、銃規制のあり方を論じてきた姿勢には頭が下がる思いだ。

殺されたら、終わり

 

この事件では、加害者は高橋であり、公子さんは被害者である。しかし、事件の中身を知った時、高橋が銃を向けるまでは、はたしてどちらが加害者で被害者なのか、正直わからない。
事実としては、高橋の妻が距離感のつかめない性格だった、公子さんは神経質で外罰志向が強い傾向があった、ということだ。
高橋をかばうわけではないが、介護に疲れ、ひと時の安らぎも布団叩きによって邪魔される日々は、尋常ではないストレスであったと思う。公子さんにもし、自分を省みる気持ちがあったら、高橋にもし、相手に歩み寄る気持ちがあったら、そもそもご近所トラブルなどそういうことの欠如で起きるものだが、殺されることはなかったろうに、と思う。
どんなに自分を正当化しても、実際正しかったとしても、殺されてしまったらそこで終わりである。良い悪いではなく、「負け」だ。
公子さんは負けたくなかったのではなかったのか。だからこそ、近所の人の助言も無視し、高橋が困っている、嫌がっていると知りながら布団を叩き続けたのではないのか。

しかし、結果として、公子さんも高橋も、全てを失うことになってしまった。積年の恨みを晴らせただけ、高橋の方がマシだったかもしれない。

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