子分を従え少女を撲殺した男の「イキり方」~千葉・少女撲殺事件~

平成15年10月1日


「ひろ、助けて…ひろ…」

午前3時過ぎ。
暗闇の墓地に、か細い声だけが聞こえていた。
最後の力を振り絞って命乞いをする少女の傍らで、5人の男が地面に横たわるその少女を見下ろしていた。
「しぶといな。」
誰かがそうつぶやいた。
男たちは、その場にあった墓石用の石材をつかむと、少女の頭部にめがけて投げ始めた。
ひとつ、ふたつ・・・
そして、重さ60キロにもなる大きな石材を二人がかりで持ち上げると、そのまま少女の頭部に落とした。

静かになった少女に、わざわざ万引きしに行ったライター用のオイルを大量にふりかけ、そのまま火をつけた。燃え上がる火の中に、返り血を浴びた服や、少女の持ち物も次々に投げ入れた。
火の勢いは衰えず、少女の躰を焼き続けた。

翌朝7時ころ、ジョギング中の市民が燃え上がる遺体のようなものに気づいて通報、事件は発覚した。

よくしゃべる夫

遺体は激しく損傷していたものの、わずかに残った右手の指紋と、身に着けていたアクセサリーから、遺体は千葉市若葉区千城台在住の16歳、石橋裕子さんと判明。
司法解剖の結果、現場の状況から裕子さんは複数回にわたって頭部に損傷を加えられ、呼吸停止後に火を放たれたことが分かった。
報道に見る被害者・裕子さんは、制服姿であることを差っ引いても、明るい笑顔のどこにでもいる「ごく普通」の少女に見えた。
そのため、性犯罪に巻き込まれたのではという見方も当初はあった。
しかし、すでに高校を退学し、地元の飲食店で深夜まで働いていたこと、そしてどうやらその店が結構いかがわしい店であったこと、さらには結婚していたようだということがわかって、事件は少しずつ風向きを変え始める。
遺体が発見されたその夜には、裕子さんの「夫」を名乗る人物が、
「報道されている遺体は妻ではないか」
などと言って千葉東警察署に通報してきていたこともわかった。

夫の話によれば、事件の夜裕子さんから切羽詰まった感じで迎えに来てほしいという電話を受けたという。
勤務先の店に午前2時半ごろに到着し、同僚女性とともに車で自宅付近のモノレール千城台駅前でおろした後、再び不安げな裕子さんの電話を受けたが、「知り合いが来た」という言葉を最後に連絡がつかなくなった、というのが夫の話であった。
それにしてもこの夫はよくしゃべった。事件発覚から間もない時点で、報道各社はこの夫への接触を試みていた。通常、友達や職場の同僚などの話は聞けても、家族ましてや夫の話などはなかなか取れないケースも多いと想像するが、この夫はむしろ自らカメラの前に顔をさらした。
短い髪は赤茶けた短髪、一方で色白な肌にごつく太い黒眉、その時代に「一定数」存在した類のありがちな見た目のその夫は、派手な柄の入ったガルフィーのジャージをだらしなく着て、殺害されて亡くなった妻のことを、名前を呼ぶでも妻というでもなく、なぜか「被害者」と表現した。そして、「男女関係や金銭のトラブルを抱えていた」とも付け加えた。
時には立ち話、時には愛車の改造したマークⅡの運転席でタバコをくゆらせながら淡々と話をするその夫に、おそらく日本中のだれもが「あのー、犯人わかっちゃったんですけど」と思っていた。

案の定、事件発覚から5日、家で寝ていたと話した夫の姿がドン・キホーテの防犯カメラに捉えられていたことから矛盾が噴出し、防犯カメラに写っていた16歳から18歳までの高校生をひとり含む4人の少年たちとともにこの夫は死体損壊容疑で逮捕された。
夫の名は石橋広宣(当時22歳)。石橋、というのは裕子さんの姓であることもわかった。そして、裕子さんの家族らは、裕子さんと広宣の婚姻の事実を知らなかった。
広宣は裕子さんと婚姻するまでにも数回の結婚の事実があった。これが意味するのは、「戸籍ロンダリング」であった。

裕子さんのそれまで



”裕子は「良い子」ではありませんでした。事件の加害者側になるかもしれない、そんな不安が絶えずありました。”

そう語るのは、被害者・裕子さんの実母である。事件後、毎日新聞に対して辛く苦しい胸の内を明かしている。
裕子さんの家族は、事件後自分たち家族の裕子さんへの接し方などを悔い、加害者となった少年たちを他人事に思えず裁判をすべて傍聴していた。
そこには親としての意地もあったと話す。
そこから見える裕子さんの16年間、そして、なぜ裕子さんが親から「加害者側になるかもしれない」とまで思われるようになってしまったのかを見ていきたい。
なお、毎日新聞ならびに新潮45・2003年12月号に掲載された佐久野慎氏によるルポも参考にしている。

裕子さんは昭和61年生まれ。幼いころは両親と妹と弟と千城台西の市営住宅に暮らしていたが、中学生に上がる頃には若葉区の民間のマンションへ転居した。
幼いころから運動神経が良かった裕子さんは、中学に入るとハンドボール部に所属し、日々練習に打ち込んでいたという。
その当時の裕子さんの写真を見ると、健康的に日焼けした典型的なスポーツ少女であり、素行の悪さなどはみじんも感じ取れない。
しかし、裕子さんは部活を引退した直後から、転がるように非行の道を突き進んだという。
部活に明け暮れる日々が終わって、いわば燃え尽きてしまって一時的に羽目を外す、そんな程度ならどこにでもあるような話だが、裕子さんの場合は違った。
部活を引退した3週間後にはなんと地元のキャバクラでバイトを始めるのである。

その時はすぐに裕子さんの親の知るところとなり、辞めさせられている。

しかし裕子さんは家にいつかなくなり、夏休みが終わって10月になる頃まで家出をしながらスナックやキャバクラで働いていた。
その後、一向に非行がおさまらなかったからか、周りが受験へとシフトする中学3年のその時期に両親は裕子さんを児童養護施設へ入所させる。これは、家にいたのでは遊んでしまうから、しっかりと管理された場所で自分を見つめなおしてほしいという親心からであった。

そこでの生活は、ある程度裕子さんの心境によい変化ももたらしていたようだ。
幼い子どもたちとも一緒に生活する中で、親に虐待された子供とのかかわりもあり、将来「保母さんになりたい」と母親に話したこともあったという。

だがそんな気持ちも、高校へ入学すると長続きしなかった。
私立金剛学園(現・桜林高等学校)へ入学するも、登校してもちょっと教室に顔を出すだけで、結局10月には退学となった。
この頃には家にいたりいなかったりの繰り返しだったというが、平成15年の2月ころからは連絡すらつかなくなった。
当然、両親らは連絡を試み、見かけたという人がいれば捜しにも出かけたが、裕子さんが逃げていった。

裕子さんは、高校を辞めた後、以前からの知り合いだったA子さんと偶然再会していた。共通の友達を介して知り合ったふたりは意気投合し、無職だったこともあって一緒に行動することが増えていった。
この、A子さんとの再会こそが、裕子さんを破滅へのレール変更であった。

千城台



この事件は、千葉市若葉区という限定された地域の中で起きた。登場人物全員この地域で暮らし、そこで裕子さんは殺害された。

この千葉市若葉区、その中でも千城台というのはどういった場所なのか。
ざっと地図や航空写真を見てみると、いくつか気になる点があった。
まず、やたらと市営・県営住宅が多いこと。東西南北に大規模な団地がいくつもみられる。千葉都市モノレール2号線の終着駅である千城台駅の周辺は、学校もあり特に何の変哲もない地方のはずれのさびれた駅前そのものだ。
裕子さんらはこの駅に隣接するラパーク(元・長崎屋)と呼ばれる複合型ショッピングセンター(というか、ただの駅ビルに西松屋とかヤマダ電機とかのテナントが入ってるようなアレ)の前にたむろしているのをよく見かけられていた。
朝方まで地べたに座って男女入り乱れて大騒ぎしていたと記憶している人も少なくない。
少年たちも広宣も、学年は違えど市内の同じ中学の卒業生であるという話もあるが、このあたりの正確さは保証できない。
広宣は千城台東にある市営団地に当時の妻・B子さん(裕子さんと婚姻する前の妻)と暮らし、そこでは一女ももうけたという。
若葉区には14の市営住宅が存在しているが、その中でも千城台には半分の7棟がある。県営住宅も隣接するところが多く、そのいずれもが昭和40年代から50年代に建てられたものだ。
近年建て替えが進んでいるようだが、それでもとんでもない数の市営住宅がたちならび、それ自体が一つの街を形成しているほどだ。
事実、市営団地、市営住宅が立ち並ぶ一角には保育所や幼稚園もある。
そのかわり、というか、大型の分譲マンションや賃貸マンションというのが少ない。裕子さんの実家も市営住宅を出たのちはマンションだったが、それを含めても市営、県営以外の家族向け大型マンションというのがほとんどないのだ。そのため、裕子さんの実家マンションはすぐに特定されていたほどだ。
市営、県営の住宅が群れを成すその隣には、一戸建ても多く新築されているが、その団地と戸建ての間にはなにか見えない壁みたいなものを感じてしまう。


家賃はおそらく1万円台からであろう市営の古びた住宅は私が住む町にもある。しかし、そこに暮らすのは行くあてなどない老人がほとんどで、若い世代は住んだとしても一時的なことが多い。現に、人が住んでいない廃墟寸前の住宅が多いのだが、この千城台の市営住宅にはそれでもまだかなりの人が住んでいる。
家の前の三輪車や窓から垂れ下がるキャラクター毛布などからも、比較的若い世代も普通に暮らしていることもうかがわれた。

この地を取材した西本頑司氏によれば、犬猫を飼うためにここを離れられない人、生活保護受給者や母子家庭などには需要があるのだという。(参照→【“貧困”無間地獄の現場】(05) 2003年『千葉少女墓石撲殺事件』の舞台――不良だらけの荒れた街が老人だけの枯れた街に

裕子さんも、家出を繰り返していた時期、この中の千城台東の市営団地の一室で、広宣らと過ごしていた。
学校へ行かなくても、遊び歩いても、誰も何も言わないなんて気楽な場所。裕子さんの性格とかを抜きにしても、確かにその団地はある意味楽園に違いなかった。
貧困に慣れ切って、もはや抜け出すことが困難な人々の暮らしは、平成から令和に変わる今の時代もそこにある。

 

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