親でもなければ子でもない~杉並・一家4人殺害放火事件~

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昭和62年11月5日

「あれ、奥さんたちどうしたの?」
杉並区下井草の住宅街で、住民が顔見知りの男に声をかけた。
その男はこの辺りでも名の知れた会社の次男坊で、父親である社長と育ての親である内妻、若く美しい妻にかわいらしい娘とともに5人で暮らしていた。この日、いつも姿の見える妻や娘がいなかったことから、住民は軽い気持ちで声をかけた。

「親父らと一緒に秋田の実家へ行ったんですよ。」

男はそう答えると、自宅のほうへ戻っていった。

しかし数日後、この男の家が全焼し、家の中からは家族4人の遺体が発見される。
その遺体の中に、この男は含まれていなかった。さらに、4人にはそれぞれ他殺をうかがわせる証拠が残っていた。

事件

昭和62年11月8日午前4時すぎ、東京都杉並区下井草の三階建てビルから出火、同ビルの一部と敷地内にある無人の木造住宅の一階部分が焼けた。
二時間後に消し止められたが、焼け跡からは大人3人、幼児一人の遺体が見つかった。

荻窪署の調べによると、亡くなっていたのはこのビルと住宅の所有者で会社社長の伊藤正之助さん(当時69歳)、内妻の笠井節さん(当時65歳)、正之助さんの次男の妻・香芳さん(当時27歳)、そして次男夫婦の娘・玲ちゃん(当時2歳)と判明。
さらにその後の調べで、玲ちゃんを除く大人三人には首をひものようなもので絞めた形跡があること、現場に灯油が撒かれていたことなどから殺人、放火事件と断定、警視庁捜査一課が特捜本部を設置した。

正之助さん方は三階建てのビルで、1階で正之助さんと節さんが暮らし、2階の一部と3階をマンションにしており、次男夫婦は2階のマンションの一室で暮らしていたという。

捜査本部では自宅にいない次男の行方を探したものの、車もなく、その行方が分からないままだったが、冒頭の通り、5日には家族で秋田に行っている、と近隣住民に話していたことがわかった。しかし、その事実はなかったこと、次男が7日の夕方近所のガソリンスタンドで灯油18リットルを購入していたこと、出火はしなかったが次男の部屋にも灯油が撒かれていたことなどを併せて、この次男が何らかの関与をしているとみて次男の行方を追った。

さらに、正之助さんの銀行口座から現金1300万円が引き出されていたことも判明。部外者が押し入った形跡もなく、そもそも正之助さんの印鑑や預金通帳を持ち出すことは他人にはできない事から、やはりこの次男の関与が濃厚となった。

捜査本部は次男が多額の現金をもとに長期逃亡を視野に入れている可能性を考え、車のナンバー、人相、着衣などを全国に指名手配し、殺人容疑で逮捕状を取った。

その後の展開は早かった。
事件発覚の翌日、次男は宮城県仙台市内の東北自動車道・仙台南インターに進入しようとしたところで、たまたま行われていた宮城県警の一斉検問に引っ掛かり、免許証不携帯だったために身分照会をされた。
この時点では宮城県警は事件との関連に気付いていなかったが、車のナンバープレートが折り曲げられていたり、そもそもたかが免許証不携帯のわりに顔面蒼白で狼狽える男の様子が気にかかり、何か隠しているのではと追及。当初、本名だけを名乗っていたという次男は、その後「東京で家族4人を殺した」と自供したため、駆け付けた警視庁の捜査員によって逮捕された。

逮捕されたのは正之助さんの次男で、殺害された香芳さんの夫である伊藤竜(当時29歳)。
調べに対し、香芳さんとの間で娘の教育方針をめぐりたびたび衝突しており、激高して妻の首を絞め殺害してしまったと話した。玲ちゃんについては、母親を亡くして父親が殺人犯となればあまりに不憫だと思って殺害、正之助さんについては、事件を起こしたことを相談したものの、冷たくあしらわれたことで逆上し殺害し、節さんについては「ヤケになって殺した」と話した。

検察は11月29日、殺人、非現住建造物放火、死体損壊の罪で竜を起訴した。
当初は上記のように夫婦喧嘩、親子喧嘩の挙句の殺人と見られていたが、実際には、生々しい夫婦、親子間の情の縺れがあったことがわかっていた。

それまで

殺害された正之助さんは、秋田県の出身。高等小学校を卒業後、終戦までは旧満州で憲兵隊として任務に就き、昭和22年ころに日本に引き揚げた。
その後は埼玉県内で不動産関係の仕事をし、昭和33年に「矢留建築」を設立した。昭和45年には株式会社へと組織変更し、5階建ての自社ビルを建設した。
現場となった自宅マンションビルのほか、下井草駅近くにも4階建てマンションを所有し、仕事では農地売買なども手掛け、順調な経営状態だったという。

借金はなく、下請け業者らへの金払いも良く、その仕事ぶりは非常に手堅いと評判だった。

一方で、その家庭はというと、少々問題があったようだ。

正之助さんには、竜のほかに長男もおり、当然その子らの母親である妻もいた。
しかしこの妻は、子供たちに手を上げたり、家事を疎かにすることが度々あったことで、次第に夫婦仲は冷え込んでいった。
昭和41年ころまでには、正之助さんもよそに愛人(殺害された節さん)を作り、それらが原因となって正之助さん夫婦は別居することとなった。長男は母親とともにそれまでの住居で暮らし、竜と正之助さん、そして愛人だった節さんと3人で昭和45年5月、事件現場となった階建てビルに転居し、新しい暮らしを始めたのだ。

当時竜は中学生で、都内の大学付属の中学校で学んでいた。竜にしてみれば、父親とその愛人との生活は辛かったのではないかと思うのだが、竜にしてみれば実母から愛情をかけられた経験が少なく、竜自身も実母への執着がなかったことに加え、我が子のように親身に接してくれる節さんのことをむしろ「母親」と思うようになり、「おふくろ」と呼んで慕っていた。

父、正之助さんとの関係はどうだったか。

父親として、正之助さんは常々、
「友人は会社に役立つ人間を選べ」
と口にしていた。しかし竜はまだ中学生であり、損得勘定で人間関係を構築するようなことは難しかった。
それでも父の教えを実践するうち、友人は減り、その生活は空虚なものとなっていた。
さらに不幸な出来事がそれに追い打ちをかける。
昭和46年、実兄が交通事故でこの世を去ってしまったのだ。
長男を後継者にと考えていた父は落胆したが、すぐに竜を後継者に育てるべく動き始め、高校卒業後は建設を学べる大学へと進学した。
しかし正之助さんは実務も行うよう強い、大学在学中でありながら半ば強制的に矢留建築に入社させた。
結果、学業についていけなくなった竜は、退学せざるを得なくなってしまった。

正之助さんのもとで修業を始めた竜だったが、その働きぶりは頼りなかったという。
仕事ができる人間を重宝する主義だった正之助さんは、実子であっても竜に容赦はなかった。大正生まれ、職人気質の正之助さんからは時に理不尽な𠮟責も飛んだ。
それでも竜は、正之助さんの性格や生き方を理解している自負もあり、従順な態度で日々仕事をこなしていたという。

昭和58年、節さんがとある見合いの話を竜に持ち掛けてきた。節さんの知人の紹介だったという見合いで、竜はその女性に一目ぼれした。それが、香芳さんだった。
香芳さんは化粧品販売会社の店員だったというが、実は当時、交際している男性がいた。
しかし年齢的なことも考え、昭和59年に竜との結婚を決意、2月27日には挙式した。
新婚旅行から戻った若い夫婦は、自宅マンションをあてがわれてそこで新婚生活を始める。
すぐに香芳さんの妊娠が判明し、幸せが怒涛のように押し寄せていた……と思っていなかったのが、竜だった。

不可解な「受胎」

昭和59年3月28日、香芳さんから妊娠の事実を告げられた竜は困惑する。
出産予定日は11月中旬といって喜ぶ香芳さんを横目に、竜は疑問を抱いていた。

竜と香芳さんは2月27日に挙式後、数日かけて九州地方をめぐる新婚旅行に行っていた。
その時の、と思えば計算上おかしくはない気もするが、実はその時期、性的関係を持っていなかったのだ。
新婚旅行中はもちろん、東京に戻って以降も疲労やお祝いなどで飲酒が続き、実際に香芳さんと初めて性的な関係を持ったのは3月も終わりの20日頃だったと竜は記憶していた。

それが、なぜ一週間後に妊娠判明なのか。

ただ香芳さんが積極的にその週数の数え方などを竜にレクチャーし、竜もなんとなく矛盾を感じなかったため、その話はうやむやになったものの、竜の心にはしこりとして残っていた。

6月、産婦人科へ通うために中野区の実家へ戻っていた時、不審な電話を竜は自宅で受けた。
それは若い男の声で、ただ香芳さんの在宅の有無を確認するだけのものだったという。
中野の実家を訪ねた際、何気なくその話をしたところ、香芳さんの実母が
「あら、それはAくんじゃないの?」
と言った。Aくん?誰だそれ、と竜が訝しんでいると、それを聞いた香芳さんが慌てて実母を制止した。
その行動に引っ掛かるものを感じた竜は、自宅へ戻って香芳さんの私物を探ってみた。すると、まさにAと同姓同名の差出人からの「手紙」を発見したのだ。
しかもその内容は、ラブホテルへの誘いだった。

仰天した竜だったが、その手紙が出された時期がわからず、もしかしたら自分と結婚する前の話かもしれないと思い直し、それを見つけたことなどを含め、香芳さんには黙っていた。

竜の心の燻りは消えることはなかったものの、同年11月、予定通りに香芳さんは女児を出産、玲ちゃんと名付けられた。

玲ちゃん出産後は、周囲の皆が大喜びし、さらには玲ちゃんが竜とよく似ているなどといわれたことから、竜の中での不信感はなりを潜めていた。
竜も、あまりにも我が子が愛おしく、このような幸せを運んでくれた香芳さんに対してもいっそうその情愛を深め、一家はどんどん幸せになっていく、そう誰もが思っていた。

強烈な捨て台詞

玲ちゃんが一歳になったころ、竜は香芳さんのある変化に気付いた。
香芳さんが外出する際の服装や化粧の仕方がなんとなく派手になったように思えたのだ。

しかし香芳さんを愛していた竜は、直接問いただすことなど出来ず、香芳さんの外出先を探って男と密会しているのではないかなどと思い悩むようになった。
ただ、実際に香芳さんの外出先や行動、帰宅時間などを考えた時、男と浮気を楽しむような時間的余裕が見当たらないことから、思い過ごしだと自分を納得させつつ、それでも心にはずっとAのことがわだかまりとして残ったままだった。

昭和61年に入り、竜は任された仕事が思うように運ばず、苛立ちを募らせていた。
しかも、今回の施主は香芳さんの叔父であり、その叔父から工事内容にクレームをつけられるという事態が起きていて、日ごろから香芳さんの実家や親族らに対し思うところがあった竜は、自宅で香芳さんと口論になってしまう。

きっかけは、玲ちゃんに対する教育方針の違いだった。

竜は子供らしくのびのび育てたいと思っていたが、香芳さんは早期教育をすることを望んでいた。
意見はかみ合わず、次第にヒートアップしていく中で、話は玲ちゃんを中野の実家が独占している、というものへ発展した。
どうやら香芳さんは、実家にばかり玲ちゃんを連れて行き、同じビルで暮らしている正之助さんや節さんにあまり玲ちゃんを遊ばせようとしていなかったように思われた。竜はそれを香芳さんに問いただすと、香芳さんは途端にむくれ、口を利かなくなってしまった。

しばらくして、冷静さを取り戻した竜が、仲直りをしようと香芳さんのいる寝室へと向かうと、突然、
「竜ちゃんは、いつもお父さんやお母さんのことばかりで私のことなんか何にも考えてない」
と責められた。驚いた竜が売り言葉に買い言葉で、
「それなら子供を置いてお前だけ実家に帰れ!」
というと、香芳さんの口から驚愕の捨て台詞が飛び出した。

「この子はあんたの血なんか入ってない。私の子供なんだから、私が連れて帰る。わかってるでしょう、Aくんの子よ。」

香芳さんの性格はわからないが、これは絶対に口にしてはいけない言葉だった。いや、そうでもしなければ玲ちゃんを取られてしまうと恐れてのことだろうとは思うが、それでもこれは、相手を完膚なきまでに叩きのめす言葉である一方で、相手を見境を無くすほどに激昂させるには十分すぎる言葉でもあるのだ。

竜は、後者だった。

追い討ち

香芳さんの首を絞めて殺害した後、竜はその傍らで眠る愛娘の顔を見た。
自分の娘と信じて愛しんできた。今日この日までは。
何も知らずに安心しきった表情ですやすやと眠る玲ちゃんを見ても、もはや竜の心は憎しみしか浮かばなかった。

玲ちゃんを殺害後、竜は途方に暮れていた。しかしもう時を戻すことなど、出来ない。
心が決まらぬまま一日を終え、竜は自首する気持ちを固めていた。ただ、これまで自分を見守ってくれた父と節さんだけには、きちんと報告したうえで送り出してもらおう、そう考えて、4日夜7時半ころ、1階の正之助さん宅を訪れ、事の次第を説明した。

「香芳と玲を殺してしまった。何の親孝行もできずすみません。二人の遺体の供養をお願いします。これから自首します。」

そこで正之助さんから出た言葉は、打ちひしがれる竜をさらに奈落の底へ突き落すに等しいものだった。

「お前はやっぱりあの女の子なんだなぁ。お前など、俺の子でもなんでもないから、孝行されんとも何とも思わん。」

竜は意味が分からなかった。俺の子でもなんでもない?とは?パニックに陥る竜を、正之助さんは別の部屋へ連れて行き、そこにあった古いスナップ写真を見せられた。そこには、懐かしい実母の若かりし頃の姿があり、傍らには正之助さんではない男性の姿があった。

続けて、メモを書きつけたものも見せられ、実母が浮気をしていたことや、竜を妊娠したとされる頃は実母と関係を持っていなかったことなどを告げられた。
正之助さんは、竜が自分の子でないことを知りつつも、実の子である長男が動揺するのを恐れて知らん顔をしてきたのだと話したのだ。

自分は騙されていたのか?実の父だと思っていたからこそ、理不尽な思いにも耐え、会社を継ぐために努力してきたのはいったい何だったんだ。竜の心の中にはそれまでの不満や我慢が一斉に吹き出していた。

次の瞬間、竜は室内にあった果物ナイフを手に取ると、正之助さんの左胸を一突きし、正之助さんが倒れこんだところを浴衣の紐で首を絞めて殺害した。
正之助さんが絶命したことを確認すると、節さんのことを思い出した。
愛人とはいえ、長年母のように接してくれた節さん。しかし今の竜には、節さんへの感謝も愛情も消え失せ、正之助さんと一緒になって自分を騙してきた難い相手でしかなかった。

2階にいた節さんを見つけると、背後から先ほどの浴衣のひもを首にまわし、そのまま絞めて節さんも殺害。
4人の遺体を正之助さんの寝室へ集めるた。

その後、7日までの間、正之助さんらの姿が見えないことを不審がる従業員らに取り繕っているうち、家を燃やしてしまえば証拠もなくなると考え、敷地内で誰も使用していなかった木造住宅に灯油をまき、さらには正之助さんらの遺体のある寝室にも灯油をまいたうえ、火をつけたのだった。

そして、正之助さんの預金を引き出し、逃走した。

この事件では、当初から竜について以下のような話が報道されていた。

竜はその年の4月に、交通事故を起こしていた。
乗用車で工事現場へ向かう途中、飛び出してきた子供を避けるために急ハンドルを切り、土手下に車ごと転落するという大事故だった。
命に別状はなかったものの、その事故で竜は一時的な記憶を失ってしまったという。
事故後、竜を診断した東京女子医大病院によれば、逆行性健忘症とのことだった。

その後も、記憶がおかしくなったり自分の名前を言えなくなるなど、症状は時折出ていたといい、事件直前の1日も、杉並区内を一人でふらついているのを警察官に保護されるということもあった。

正之助さんも、周囲の人らに「竜はもう元に戻らないかもしれない」と涙ながらに話すことがあったという。仕事にもかなり支障をきたしていた。

東京大学病院精神神経科の平井富雄医長(当時)によれば、逆行性健忘症の場合、数日で記憶が戻ることが普通だが、再発を繰り返していることを考えれば心因性のストレスが事故を契機に記憶喪失という形で表れたと解釈できる、と読売新聞の取材に答えている。
また、心因性の記憶喪失の場合、感情的な爆発が起こり、突如暴れだすということもあるが、当の本人はその行動を覚えていないケースも多いという。

警察ではそれらの事情を踏まえ、当初は竜に対して精神鑑定も考えていたが、逮捕後の供述ははっきりしていたことや、他の証拠類との相違もなかったことから、検察も起訴に際し責任能力に問題はないと考えていた。

一方弁護側は、「通常人の理解を越えた事件で、当時、被告は心神喪失か心神耗弱状態にあった」と主張した。

検察は死刑を求刑、弁護側は上記を理由に無罪もしくは減刑を求めた。
裁判の中で、ひとつの事実が明らかとなる。
竜の逆行性健忘症は、詐病だったのだ。

竜は事故を起こしたころ、仕事に行き詰っていた。先にも述べたが、当時担当していた現場は妻の香芳さんの叔父が施主で、たびたび工事内容にクレームが来ていたという。
昭和61年3月、やけになった竜は、その自分が担当している工事現場に放火。一度では飽き足らず二度も放火し、ボヤ騒ぎを起こした。
当然、警察の捜査が行われるわけだが、その直後、先述の自動車事故を起こす。竜はそれを理由に、記憶喪失を装っていたのだ。

さらに、東京都から受けるはずの融資がうまくいかないことを正之助さんに叱責された際は、たまたま公衆トイレで転倒したことを理由に、またもや記憶喪失を装って仕事がうまくいかないことを取り繕うなどしていた。

こうなると、そもそもその自動車事故も何だったのか疑わしいではないか。
もっというと、やけになって後先考えず行動し、その方法が「放火」というのは、竜にとって家族殺害の時が初めてではなかったというわけだ。
そして、自己保身のために壮大な嘘をつくことを厭わなかった。

となると、はたして事件当夜、夫婦間で交わされた言葉、親子間で交わされたあの非情なやりとりは、本当のことなのだろうか?

真実の行方

裁判所は、竜が面倒なことにぶち当たると逃避行動をとること、その逃避行動の内容が理解可能なものであることなどから精神障害については退けた。
一方で、被害者らのあまりに無慈悲な言葉が事件を引き起こした要因の一つであることは認め、竜に対する酌量に値するとした。

さらに、正之助さんの遺産から数千万円を香芳さんと節さんの遺族にそれぞれ支払っている(竜本人ではなく、おそらく正之助さんの親族が支払ったと思われる)ことで示談が成立していること、それぞれの遺族が極刑を望んでいないこと、とりわけ、香芳さんの両親からは、
「被告人の家庭環境や生育歴を考えると、被告人も被害者であり、現在では被告人を宥恕(ゆうじょ=許す)しているので、寛大な判決を求める」
との申し出もあった。

竜の実母、正之助さんの兄をはじめ、親類、従業員、下請け業者らも多数が竜の更生に尽力することを約束していた。

ここまで言われてしまうと、もはや結果は見えている。

昭和63年3月18日、東京地方裁判所の島田仁郎裁判長は、竜に無期懲役の判決を言い渡した。
遺族のほとんどが竜を許し、同情まで寄せたことが死刑回避の大きな理由になったのは間違いないだろう。精神状態に問題がない以上、これ以上の減刑は求められないであろうし、被害者のうち節さんと玲ちゃんには一片の落ち度もないわけで、その二人を殺しただけでも死刑であってもおかしくないのだから、竜にとってはありがたい判決だった。

検察は量刑不当で控訴したが、その後確定した。

玲ちゃん、正之助さんとの竜の関係については、超有名サイト「無限回廊」によると、

事件後、血液型を調べた結果、R(竜)が正之助の実の子であることが法医学的に確認されている  ※()内は事件備忘録の補足

となっている、が、判決文の時点では言及はない。当時の新聞報道でもそこまで踏み込んだものは見当たらなかった。血液型だけではなかなか鑑定できない気もするのと、当時の親子鑑定のレベルで、焼損した遺体の血液でどこまでできるのかちょっと不明なため、この事件備忘録では断定は避けたい。
玲ちゃんについては、判決文の中で「被告人の子ではないとまでは認められない」としている。

ただ、いつもこういう事件で思うのだが、客観的な証拠が乏しい中での被告人と被害者しか知らない会話が、どこまで真実なのか、と思う。
もちろん、香芳さんについては他の男性の存在があったのは間違いなく、また実母についてもそうだろう。
しかし、本当にそんな言葉を発したのか?
正之助さんは、竜のことを叱りはしていたものの、それでも後継者にすべく教育してきた。それだけではなく、竜が事故に遭った後は何かと気にかけ、心配し、時には周囲に竜が不憫だと涙ぐむこともあった。

節さんにいたっては、まったく血縁のない他人の竜を、我が子同然に育ててきた。母の愛を知らなかった竜には、節さんこそが母親だった。

香芳さんがしたとされるその発言も、どこか竜の疑念に沿い過ぎているような気もする。確かに、香芳さんの実母も知るその別の男性の存在はあったし、事件の一週間前に香芳さん自らその男性に連絡して会っていたという事実もある。
しかしだからといって、玲ちゃんが実の子ではないというのは、竜が証言したこと「だけ」で成り立っている話だ。もう香芳さんの言い分は聞けない状況で、である。

しかも、その直後に正之助さんからも同様のことを言われるというのも、どこか出来過ぎているような気もする。

ともあれ、裁判ではこれらのことが認定され、それらはすくなからず竜にとって有利に働いた。
本当のことは、もはや竜しか知り得ない。

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参考サイト
無限回廊「杉並一家皆殺し放火事件」

参考文献
朝日新聞社 昭和61年11月8日 東京夕刊、11月9日東京朝刊、11月30日東京朝刊、昭和63年2月8日東京夕刊
読売新聞社 昭和61年11月8日 東京夕刊、11月9日東京朝刊、11月10日東京夕刊、昭和62年2月6日 東京朝刊、昭和63年3月18日東京夕刊

昭和63年3月18日/東京地方裁判所/刑事第1部/判決
昭和61年(合わ)258号
判例時報1288号148頁

D1-Law 第一法規法情報総合データベース

🔓愛を乞う人~北海道八雲町・酪農家女性殺害事件~

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平成18年3月23日

北海道函館地方裁判所。
「主文。被告人を懲役5年以上10年以下に処する。」
園原敏彦裁判長は、被告人席にたたずむ少女に判決を言い渡した。
少女は17歳、東京八王子の家庭裁判所において検察官送致の決定を受け、事件を起こした北海道の地で刑事裁判を受けた。

「言いたくない。自分でもわからない。」

少女は公判の間もずっと、心を閉ざし続けていた。

少女が犯した罪は殺人。それも、親身に世話を焼いてくれた母のような存在の人を殺した。

17歳のそれまでとこれから。

事件

平成17年4月27日、北海道二海郡八雲町の病院で一人の女性が死亡した。
女性は5日前に、腹部を刺されるという事件に巻き込まれて搬送され入院していたのだが、治療もむなしくこの日亡くなってしまった。
死亡したのは、酪農業を営んでいた河原千鶴子さん(当時50歳)。

事件は4月22日の早朝に起きた。
いつものように5時過ぎに牧場の仕事のため牛舎へ向かおうとしていた千鶴子さんは、突然刃物で腹部を刺された。
犯人は階段下の物陰に身を潜めていたとみられ、千鶴子さんは身を庇う隙もなかった。
思わず階段に座り込んだ千鶴子さんに対して、犯人は前方に回り込むと、持っていた刃物を逆手に持ち替えて千鶴子さんの太ももを刺した。
さらに、這いつくばって逃げようとする千鶴子さんの右肩を掴んで頭も切り付け、立ち上がろうとした千鶴子さんの左腹部も刺した。

傷はいずれも深く、一撃目の傷は深さ11センチ、腹腔内から肝臓に達しており、太ももは深さ7.5センチと4センチの創傷、頭部は5か所の弁状切創、左腹部の傷も腹壁を貫通して腸間膜まで貫通していた。

千鶴子さんはその場で倒れたが、その後様子を見に来た長男(当時23歳)によって発見され、119番通報。
直ちに病院へ運ばれたが、この時点では命に別状はないという報道だった。

しかしその後容体が悪化、千鶴子さんは5日後に腹部刺創に起因する腹膜炎で死亡した。

千鶴子さんを襲ったのは誰か。

千鶴子さん夫婦が経営する牧場には、「事情のある少年少女」らが住み込みで働いていた。
千鶴子さんを刺したのは、その中の少女で、当時17歳だった。

現行犯逮捕されたのは、山科有希子(仮名/当時17歳)で、調べに対し「なんで殺そうとしたのかわからない」と、あいまいな話に終始していた。
そして、そのあいまいな態度は、その後の裁判の間も一貫して変わらなかった。

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【有料部分目次】
ある事情
渇望する愛
義母との「三角関係」
制御不能の攻撃衝動

熟年ラプソディ~江東区・不倫男性殺害事件~

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江東区大島

「もういい加減にしてよ!」

真夜中のビルの駐車場に、女の声が響いた。その女を追うように、もう一つの人影がふらふらと近寄っていく。
酒臭い息が迫る。あぁもう嫌だ、なんでこんな目に遭わなければならないの。

女は身に着けていたスカーフを手に取ると、そのまま男の首に巻き付け、そのまま力いっぱい締め上げた。

もう、終わりでいい。

事件概要

平成849日午前6時ごろ、江東区大島のマンション駐車場で、初老の男性が倒れているのを通行人が発見、119番通報した。
男性はすでに死亡しており、警察では事故、病死、そして殺人も視野に入れて捜査を始めた。

死亡していたのは、近くの米穀店経営・宇喜田泰利さん(仮名/当時66歳)。その日は知人女性と馴染みの居酒屋へ出かけており、その後帰宅していなかった。

警察ではその知人女性が何か事情を知っているとみて捜査をしていたところ、同日午後6時ころ、その女性が夫に連れられて城東署に出頭してきた。
そこで、宇喜田さん殺害を自供したため、殺人容疑で逮捕となった。

逮捕されたのは千葉県浦安市在住の主婦・稲川花代(仮名/当時59歳)。花代は夫のいる身でありながら、宇喜田さんとは10年以上の不倫関係にあったという。
この夜、花代は宇喜田さんに別れ話を持ち掛けたところ、宇喜田さんがそれに応じないばかりか、すべてを夫にばらしてやるなどと脅したうえで、肉体関係を強要してきたことから激高、咄嗟に手に持っていたスカーフで宇喜田さんの首を絞めた、とのことだった。

しかしその後の裁判では一転、宇喜田さんは突然死したのであり、花代は殺人を犯していないと主張し始めた。

熟年不倫の結末とは。

関係

宇喜田さんは昭和4年生まれで、江東区で米穀店を営んでいた。仕事柄、町内会の役員なども引き受け、地域の顔役のような立場で長年生活してきた。

昭和52年、その町内会の事務員として採用になったのが花代だった。花代は当時40歳くらいで、夫も子供もいる身であったが、昭和54年か55年ころ、宇喜田さんに誘われ仕事終わりに飲みに行くなどし始め、それ以降宇喜田さんと親密な関係へと発展する。

宇喜田さんにも当然妻がいたが、どうやら宇喜田さんはいろいろと女性と関係を持っていたようで、花代以外にも親しい女性がいる気配があったという。
昭和62年に宇喜田さんが町内会の会長になって以降も花代との不倫関係は続いていたが、平成3年ころ、宇喜田さんがどうやらほかに特定の不倫相手がいる、と花代は勘づいた。
宇喜田さんはそれを否定はしたものの、きっぱりとした態度ではなかったことから、花代の嫉妬心はその後もずっとくすぶり続けていたようだ。

ところで花代は、自身にも家庭があるにもかかわらず、宇喜田さんに対して相当な入れ込みようだった。
宇喜田さんから少しでも冷たくされると、酔った勢いで自宅に電話をかけ、妻に対して暴言を吐くにとどまらず、自宅へ押しかけて暴れるといったこともあった。
ある時は、玄関先にあった米袋(!)を担ぎ上げ、それを妻に投げつけるという暴挙にも出た。

当然、自分以外の不倫相手の女性に対しても、嫌がらせの電話をかけたりして自分の存在を誇示し続けていたという。

あまりにも身の程をわきまえないふるまいに、宇喜田さんの妻やもう一人の不倫相手の女性は花代の自宅に電話をし、花代の夫に苦情を申し入れる事態となった。
この時点で夫は花代の不倫を知らなかったようで、苦情の電話から花代の浮気を疑うようになる。

夫に問い詰められた花代は、「宇喜田さんに無理やり関係を迫られ、一度だけ応じた」というような話をしたという。もちろんこれは嘘である。

その事実を知った夫を交え、平成7年の春、花代夫婦と宇喜田さんで話し合いがもたれた。
ただこの時、話し合いは有耶無耶な状態で終わってしまったという。

夫の知るところとなった花代と宇喜田さんの不倫だったが、関係は終わらなかった。

そして、さらに町内会を巻き込むある事件を起こしてしまう。

ライトに照らされた下半身

夫を交えた話し合いからわずか一か月後の4月のある早朝、町内会にある公民館に警察が駆け付けた。
不審者が公民館に入り込んでいる、そういった通報が近隣住民から寄せられたためだったが、そこで警察官らが見たのはとんでもない「モノ」だった。

公民館の中には、男女の姿があった。それは、宇喜田さんと花代だった。
さらに警察官が踏み込んだ時、宇喜田さんは下半身を露出していたのだ。

公民館にはパトカーが来ており、なにごとかと出てきた近隣住民らの姿もあり、その中で宇喜田さんと花代は警察官に連れられ公民館から出てきたわけだ。
すでに町内会では二人の関係は噂になっていた。その噂は、この事件を機に噂ではなくなったどころか、多くの町内会の人がその事実を知るところとなってしまった。

町内会は頭を抱えたというが、とりあえず宇喜田さんと花代を町内会の職から外す、ということで決着をつけたようだった。

浦安で暮らしていた花代は、この事件以降東京へ行く口実がなくなってしまったこともあり、実質宇喜田さんとの交際は途絶えていた。
しかし、平成7年の年末、偶然宇喜田さんと再会したことから、ふたりの運命は最終段階へと突き進んでいく。

諦めきれない女

偶然再会した際、宇喜田さんは花代を飲みに誘っていた。
年が明けた平成815日、約束通り花代は宇喜田さんと会う。夫には、浅草に用事があると言って出掛けていた。

ただこの日、宇喜田さんからSEXの誘いがあったものの、花代はそれを断ったという。

花代には、よりを戻す前にどうしても宇喜田さんに確認しておきたいことがあったのだ。
それは、あの不倫相手の女性のことだった。

ここでは女性をAさん、とする。

花代は浅草で宇喜田さんと会って以降、何度かあった誘いを断り続けた。しかし、どうしても宇喜田さんを忘れることもできなかった。
3月、とうとう宇喜田さんの誘いに応じ、会うこととなった花代だったが、この時もSEXは拒否した。
理由は、飲んでいる最中に宇喜田さんが言ったこんな話が気にかかったからだ。

宇喜田さんは体調を悪くしており、入院していた期間があったというが、その時、Aさんが見舞いにも来なかった、そう宇喜田さんは花代にこぼしたというのだ。

これを聞いた花代は、宇喜田さんが自分を誘ったのは、Aさんとうまくいかなくなったからではないのか、と思ってしまう。実際そうだったのかもしれないが、花代の心には屈辱感と嫉妬心が綯交ぜになった複雑な感情があふれていた。

それなら金輪際会わなければいい、はずだったが、そうなるとA子さんと宇喜田さんがもっと親密になってしまうのではないか、それも花代にとっては耐え難いことだった。

その夜

結局、宇喜田さんを諦めきれなかった花代は、48日に宇喜田さんと会うことになる。夫には、友人と花見に行くと告げ家を出た。
夕方から居酒屋をはしごして飲み歩いた二人は、途中でとある馴染みの居酒屋の話になる。宇喜田さんはその居酒屋主催で毎年行われていた花見の話ををしたという。
その年、その居酒屋主催の花見は雨で中止になっていた。それを宇喜田さんがことのほか残念がっていたのを、花代は不愉快な思いで聞いていた。
というのも、その居酒屋は件のAさんも行きつけとしていて、さらには何年か前のその居酒屋主催の花見に、宇喜田さんがAさんを伴って参加していたことを思い出したのだ。

宇喜田さんが残念がっているのは、花見ができなかったというよりむしろ、Aさんと会う口実がなくなったからであり、ひいては今日こうして花代と会っているのも、Aさんの代わりなのではないか、そんな風に思えてならなかった。

花代は卑屈になり、酒の酔いも手伝ってAさんを持ち出しては宇喜田さんに絡み始める。
一方で、宇喜田さんはこの日も花代に肉体関係を迫った。ふたりは話が噛み合わないまま、それでも店を変えながら深夜まで飲み歩いた。まるで、先に帰ると言ったほうが「負け」であるかのように。

最後の店を後にしたのは、深夜2時を回ったころだった。
泥酔に近い状態の宇喜田さんは、いつになくしつこかった。ホテルへ行こうとの誘いに花代が乗らないと、
「お前の体のどこにほくろがあるのか、全部旦那にばらしてやろか」
などと、脅すようなことを言い始めた。
うんざりした花代が帰ろうとしたところ、立ちはだかった宇喜田さんがこう言い放った。

「おっぱいだけでも触らせろ!」

花代はぶちキレた。

裁判

裁判で花代と弁護人は、先に述べた通り「宇喜田さんは突然死である」と主張。
司法解剖によれば、宇喜田さんには目立った外傷がなかったものの、頚部に表皮剥奪、眼瞼結膜、表皮下に多数の溢血点、頚部リンパ節のうっ血が高度であるなど、頚部圧迫による窒息を示唆する所見は認められた。
一方で、解剖を担当した医師によると、確かに宇喜田さんには中程度から高度の動脈硬化、心筋梗塞巣が認められていた。そのため、検察が主張する頚部圧迫による窒息死とは断定できないと弁護側は主張したのだ。

解剖した医師は、鑑定書において
「死因は、頚部圧迫による窒息死が一番考えられるが、頚部圧迫により心臓に負担が生じ、窒息と心筋梗塞による症状が同時に起こって死ぬ可能性もかなり低いが考えられる」
としていた。

花代も、取り調べで刑事に誘導されたため、スカーフで首を絞めたと虚偽の供述をせざるを得なかった、といった主張をしていたが、裁判所はそのいずれも退けた。

花代が首を絞めていない、とした主張も、そもそも花代は家族に伴われ自首しており、自首以前に花代から話を聞いていた夫と娘婿も、花代自身から宇喜田さんをスカーフで首を絞めたと聞かされていたのであって、十分信用できるとした。

その上で、供述調書には花代の記憶違いについてもきちんと記載されており、花代の当初の供述が警察官の誘導や押し付けによるものではない、とした。

また、宇喜田さんが死亡したことと花代の行為との因果関係についても、たとえ窒息ではなく心筋梗塞が死因だったとしても、その心筋梗塞が起こった要因に花代が首を絞めたという行為があることに疑いはないと認定。
殺人罪の成立を認めた。

花代は懲役7年の判決を受け、おそらく確定したと思われる。

滑稽な人々

殺人事件である以上、あまりこういうことは言いたくないが、この事件を知った時私は込み上げる笑いを抑えきれなかった。
町内会という非常に狭い世界の中で繰り広げられた熟年カップルの不倫、というだけでもまぁまぁアレだが、それに加えてこのふたりの、立場を全くわきまえない言動はもはや喜劇である。

自分も家庭を持つ身でありながら、不倫相手の妻に米袋を投げつけるとか想像しただけで笑える。
公民館でパトカーの赤色灯に照らされ、踏み込んだ警察官と対峙したふたりの胸中はどんなものだったのだろうか。

さらに、70歳に近い男性がいくら酔っていたとはいえ、
「おっぱいだけでも触らせろ!」
と叫ぶ、あぁもう我慢できない。

しかし現実の結末は、一人が死亡し、もう一人は懲役7年という、笑えないものだった。
花代は、宇喜田さんの失礼な態度や煮え切らない態度にほとほと嫌気がさしていたのは事実だろうが、それ以上に、宇喜田さんをとられたくない、という思いも強かった。
Aさんの年齢などはわからないが、おそらく花代とそうたいして変わらない年齢だったのではないか。
面白いもので、こういう時相手の女性が若ければ若いほど、そんなに気にならないものでもある。
しかし自分と同年代、となると心中穏やかになれないというのは、私には非常に理解できる心理なのだが女性特有の心理なのだろうか。

確かに宇喜田さんは女性を甘く見、自己の欲求のおもむくままに無礼な態度をとっていた。
しかし、そもそも花代とて宇喜田さんに妻がいることは百も承知で始めた不倫である。さらに、日陰の身に甘んじることができず、自分の存在を誇示し続け、それがもとで何も知らなかった夫や家族をも傷つけた。
裁判所も、そんな花代のそれまでの言動には苦言を呈し、あの夜の執拗で無礼な宇喜田さんの態度も酌量には値しないと突き放している。

長年にわたってコケにされ続けた花代の夫は、それでも妻の出頭に付き添い、そして妻の帰りを待つと話した。

花代のあの晩の殺意は、宇喜田さんへの怒りからだったのだろうか。
それならさっさと帰ればよかったのに、帰らなかった花代。SEXを求められても拒否し、それでも何軒も店をはしごし、宇喜田さんに付き合い帰ろうとしなった。そこに、彼女が求めていたもの、本心が見えるような気がする。

So,I sing this rapsody for you.

**********************
参考文献
読売新聞社 平成849日 東京夕刊
産経新聞社 平成8410日 東京朝刊
竹内まりや「純愛ラプソディ」より

平成9年(合わ)138号 東京地方裁判所/刑事第16

D1-Law.com 判例体系

 

🔓愛について~茨城主婦殺害事件・吉祥寺男性刺殺事件~

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まえがき

人を愛する、とはどういうことだろうか。
ただひたすらに相手を求める愛、与える愛もあれば、同じように相手を信じぬくことこそが愛である、という人もいるだろう。

恋人同士のみならず、家族愛、隣人愛、友人間の愛情などなど、愛のカタチはさまざまである。

ここで二つの事件を紹介しよう。
いずれも、ひたすらに愛された女性の話であり、ひたすら愛した男性の話でもある。
同じように愛されたこの女性が辿った末路は、極端なものになった。
そして彼女らをひたすら愛した男性の末路もまた、極端なものとなった。

被害者は本当に被害者か。また、加害者は本当に加害者か。

愛について。

【有料部分 目次】
牛久の事件
 ふたりのそれまで
 将来への期待
 母の勘
 崩壊
 玲菜さん
吉祥寺の事件
 ふたり
 入れ墨
 殺意
 信じ切れなかった女
  駿のその後

虚無と熱情~虎ノ門・ホテルオークラ不倫殺人事件~

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法廷にて

秋風が爽やかな10月、東京地裁ではとある殺人事件の裁判が開かれていた。
被告の男は、第二回公判の被告人質問において、事件に至るまでの「思い出」をかみしめるように話していた。

「自分の存在は、相手の家族にとって迷惑だと思っていた。」

男はこの年の6月、13年にも及ぶ不倫の答えを出した。

「進むも地獄、引くも地獄だった」

平成11年12月20日。東京地裁の永井敏雄裁判長は、被告の男に対し懲役10年の実刑判決を言い渡した。

事件概要

平成10年6月1日。東京都港区虎ノ門にあるホテルオークラでは従業員らが騒然としていた。
ある客室で、人が死んでいると外部から通報があったのだ。従業員らがその部屋へ駆けつけると、その部屋のベッドの上で女性が全裸で死んでいるのを発見した。
この部屋は、この女性とその連れの男性二名で前日の夕方にチェックインがされていたはず。男性の姿はない。
ふと、6階フロアで右往左往している男性客を発見、確認すると、その部屋に女性とともにチェックインしたあの男性客だった。
従業員らはその客を密かに別の客室へ通し、赤坂署へ通報した。

駆け付けた赤坂署員が男から事情を聞き、男が殺害を認めたことで逮捕となった。
逮捕されたのは中野区で歯科医院を開業している鳥谷雅人(仮名/当時47歳)。しかしこの時点ではまだ被害女性の身元は分かっていなかった。

調べに対し、鳥谷はその女性とは長年交際していたと話し、その女性には家庭があったことから不倫をめぐる別れ話のトラブルが原因とみられた。

その後の調べで、被害者は東原純子さん(仮名/当時51歳)と判明。
純子さんには夫と娘がいたが、鳥谷との交際は、なんと13年に及ぶ長いものだった。

長い長い不倫のはてに、ふたりが見たものとは。

ふたり

鳥谷は昭和26年、東京は新宿に生まれた。その後、昭和53年に城西歯科大学(現・明海大学)を卒業して歯科医となった。
その年、中野区で歯科医院を開いていた父親が死亡し、鳥谷はそのまま父の歯科医院の跡を継いだ。
昭和54年、歯科医院の斜め前にとある一家が越してきた。これが、純子さん一家だった。

最初に好意を抱いたのはどちらだったか。
少なくとも鳥谷は、純子さんに女性として好意を抱いていた。
鳥谷は純子さんに自分の歯科医院でパートをしないかともちかけ、純子さんもそれに応じ、一時期ではあるが純子さんは鳥谷の歯科医院で勤務していたこともあった。

鳥谷には離婚歴があった。女性関係がその原因だというが、その後昭和63年にはその前妻とよりを戻し、再婚している。
しかし同時進行として、純子さんとも不倫関係に発展していたようだった。

妻とは次第にまたぎくしゃくするようになり、平成2年ころには妻子と別居し、自身は歯科医院が併設されたこの中野の実家で寝泊りするようになっていく。

時を同じくして、純子さんの家庭にも変化があった。夫・幸夫さんが静岡へ単身赴任することになったのだ。
それ以降、ふたりの逢瀬は頻繁になっていく。お互いの家が目の前にあるのだからそれも無理はなかろう。

純子さんの娘たちが寝静まると、二人の愛の時間の始まりである。
それぞれの夫、妻の目が届かないことで、ふたりはどんどんエスカレートしていってしまう。
そして、ふたりの関係は双方の配偶者のみならず、近隣、患者の間にも知れ渡るほどになってしまった。

翳り

歯科医院があった場所は、西武新宿線新井薬師駅と、現在の都営大江戸線新江古田のほぼ中間に位置しており、住宅街の中の歯科医院であった。
駅前や大通りに面して入れば患者も入れ替わり立ち替わりになるだろうが、このような場所で、しかも父親の代からの歯科医院ともなれば、患者の多くもまた、昔からこの地域に暮らす人々であったろう。
そんな中で、院長と近所の主婦との不倫が噂になれば、あっという間に広まるのは当然だった。

鳥谷の歯科医院は少しずつ患者が減っていった。
平成9年には歯科医院の経営はかなり悪化しており、閉院も視野に入れなければならないほどになっていた。
別居していた妻とも、1月に正式に離婚が成立していた。

一方、純子さんは一家の主婦として、母親として日々忙しく生活をしていた。
鳥谷との関係は終わっていなかったものの、この頃にはすでに夫の幸夫さんも勤務先が変わって帰宅時間も読めなくなったことから、以前のように頻繁に鳥谷と会うことは出来なくなっていた。

目と鼻の先でお互いの存在を感じながら、思うように会えない日々が続いていく。

しかしその気持ちには「温度差」があったようだ。

鳥谷は自身の歯科医院の経営難でにっちもさっちも行かなくなっており、昼間から飲酒するようになっていた。そのことで、診療に支障をきたすこともあり、余計に患者は離れていったのだ。
経営的に厳しいこともあったが、その頃にはコピー機のリース代や歯科医師会の会費なども滞納するなど、自暴自棄な面がみえるようになっていた。
すぐそこには純子さんがいる。しかし、東原家には幸せな日常があった。長女は結婚を控え、純子さんも親としてその準備に忙しく、家族での外出も増えていた。

5月。鳥谷が窓から見たのは、長女の結婚式へと向かう華やかな姿の純子さんだった。傍らには、当然夫の幸夫さんがいた。
にこやかに、幸せいっぱいの表情で出かけていく純子さんとその家族。

孤独と焦りの中、酒におぼれながら鳥谷は何を思っていたのか。

そして事件当日を迎えた。

その日

かねてより約束していたこの日、鳥谷と純子さんはホテルオークラ本館の6階に宿泊し、その夜を過ごした。
純子さんは、浴衣の帯を手に取り、鳥谷を促す。いつものように、それで純子さんの手首を後ろで縛り、ふたりはそのまま快楽に身を委ねた。
高まりとともに、純子さんは「絞めて」と呻く。
それはいつもの、ふたりの間では当たり前の行為のはずだった。鳥谷はバスローブのベルトを手に取り、純子さんの首にまわし、少しずつ引き絞る。

しかしこの時、鳥谷のそのバスローブを持つ手の力を緩めなかった。

気が付いた時、純子さんはすでに死亡していた。
鳥谷はその後、友人に電話をして純子さん殺害を告白した。
「夢であってくれたらいいのにな。」
友人の言葉に、鳥谷も「そうであってほしい」そう答えるのが精いっぱいだった。
そして、母親にも電話でその旨を伝え、その母親がホテルオークラに電話を入れたのだった。

「今日ならあなたに抱かれて死ねる」

裁判で弁護側は、鳥谷の行為は純子さんに請われたうえで行った嘱託殺人であると主張した。
検察は、捜査段階でそのような話はしていないと反論、むしろ、「純子はあの時僕に殺されるとは全く思っていなかったと思います」などと述べていたとして、嘱託殺人は成立しないとした。

10月5日に開かれた第二回公判の弁護側被告人質問において、鳥谷はその日何がふたりの間であったのかを語り始めた。

純子さんからは、実は4年前にも一緒に死んでほしいと言われたことがあったという。そして、いつ死ぬかは私が決める、だからそのつもりでと言われていた。
平成10年2月以降は、純子さんの言葉に死を望むかのようなものが増えていく。
さらに、事件直前の5月5日、ホテルオークラの一室において、ナイフを持ち出した純子さんから、「私たち、一緒に逝くなら、刺し違えるしかないのよ」と言われたため、直後に控えた長女の結婚式が終わるまではと、鳥谷が宥めるということがあったという。

事件当日、次いつ会うかという約束を取り付ける段階になって、すでに純子さんとの関係をこのまま続けていいのかどうか悩んでいた鳥谷は、少し先にしないか、と提案する。
すると、純子さんは突然鳥谷の左小指を噛み、さらにはわき腹などにも噛みついて泣き始めたという。

私はいつも、あなたに抱かれることだけを考えていると吐き出した純子さんは、何かをバッグから取り出した。

それは、真新しいお守りだった。

そして、鳥谷に抱きついて、

「今日ならあなたに抱かれて死ねる」

と言い、そのお守りを鳥谷のバスローブのポケットに忍ばせた。純子さんは続けて、「これを持って、わたしを追いかけて」と言い、そのまま二人はSEXした。
終わった後、純子さんは鳥谷にこう言った。

「私を最初に見つけて、私を抱くのよ」

そういうと純子さんは後ろ手に縛られた状態のまま、ベッドにあおむけに倒れこんだ。

鳥谷には、もはや純子さんが今生に別れを告げているのだと、その決心がついたのだと思えたのだという。
バスローブの紐を手に取ると、純子さんは満足そうに首を少し浮かした。鳥谷が純子さんの首にそれを回した時、されるがままの純子さんは

「約束よ」

と呟いたという。

全否定

当然ながら、検察はもちろんのこと、遺族もこの鳥谷の主張には真っ向反論した。
純子さんの日常において、死を望むような言動はなかったと家族のだれもが証言した。そもそも、事件当日も純子さんは、鳥谷と会う口実として家族に
「職場の人が倒れて病院に付き添っている、福島から家族が来るまで帰れない」
と、詳細な嘘をついていた。また、鳥谷と会う直前、総菜のコロッケを購入していた。これはおそらく、帰宅した後の食事のおかずにする予定だったもので、その数も東原家の人数と同じ4つだった。

そんな純子さんが、もう何年も前から死を望んでいたなど、どうして信じることが出来ようか。

また、純子さんの希死念慮が加速した要因として、平成10年のある出来事が関係していると鳥谷は述べていた。
それは、妊娠と流産だった。
鳥谷は純子さんから妊娠したという話を聞き、それがあったために別居状態だった妻と離婚している。
しかし、当時純子さんの年齢は50歳手前である。普通に考えて、妊娠するというのは考え難く、結局、それは純子さんの勘違いだった。
ただこれ以降、死にまつわる話題が純子さんの口から語られるようになったのだという。

裁判では鳥谷の主張はことごとく否定され、「被告人が作り上げた虚構」とまで言われてしまった。

お守りの話も、ずっと後になって突然思い出したと話し、鳥谷が話す全てが客観的証拠が全くない、すべて鳥谷と純子さんとの間で交わされたとされる会話のみだった。

裁判所は、純子さんとの不倫関係は事実であったとしても、歯科医院の経営難は鳥谷自身の問題であること、社会的地位を省みずに不倫と飲酒におぼれ、そのために生じた軋轢から逃避するために、さらには自己の苦しみの原因が純子さんにあると考えたうえでの犯行と断罪、本件動機に酌むべき事情はないとした。

愛の流刑地

この事件から数年後、日本経済新聞において渡辺淳一の「愛の流刑地」の連載が開始された。
日本経済新聞という媒体の購読者層にはドッカンドッカンウケたこの作品は、後に寺島しのぶ、豊川悦司主演で映画化された。私も本は持ってるし映画も10回は見た。そしてこの記事を書きながらも見ている。

渡部先生はこの鳥谷と純子さんの事件を知っていたのかと思うほど、「愛の流刑地」はこの事件を彷彿とさせる。

「愛の流刑地」では、主人公の小説家は、「あなたは死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか!」と叫び、己を「選ばれた殺人者」であると納得させたが、鳥谷はどうだったのだろうか。
そして、引くに引けなくなった主婦がそれならばいっそ殺してくれと、愛する男にその役目を担わせたわけだが、純子さんはどうだったのか。

出会った当初、東原家で密会を重ねた二人の合図は、
「子どもが寝ると一度電気が消え、しばらくすると電気がついて電話が来る」
というものだったという。鳥谷は一人、暗闇の診療室でその合図を待っていた。

夫がいない間に、純子さんは鳥谷の元へ食事を運び、下着は手洗いしてくれたのだという。

そんな純子さんは、「相手から望まれ、愛される」のが良いという価値観から、「自分から愛したい」という価値観へと変わっていった。
しかしその「愛」は、誰がどう見ても不倫でしかなかった。
これは不倫ではない、常々純子さんは自分に言い聞かせるように、鳥谷にもそれを話したという。それを鳥谷自身が受け入れてしまったことが、結果として純子さんを「引くに引けない」状態に追いやってしまったと、鳥谷は法廷で述べた。

「彼女は不倫で我慢したくなかった。至上の愛にしたかった。」

本当のところはどうだったのか。
「愛の流刑地」よりも前に起きたこの事件。鳥谷と純子さんは、菊治と冬香だったのだろうか。

*****************
参考文献
日刊スポーツ新聞社 平成10年6月2日、平成10年8月8日
産経新聞社 平成10年10月19日「法廷から」
中日新聞社 平成11年12月20日夕刊

平成10年(わ)第219号 東京地方裁判所/刑事第10部
平成11年12月20日
D1-Law 第一法規法データベース