無念~不起訴になった通り魔殺人~

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人を傷つけたり、ましてや殺してしまったら、裁きを受けその罪に見合った刑に服さなければならない。
しかし、そのためには罪を犯した人間が「罪を犯した」という自覚がなければならない。そもそも善悪の判断がつかない人間は、罪を犯したという認識もないわけで、その状態で刑罰を科すことに意味がないからである。

刑法39条第1項。
ここには、心神喪失者の不処罰ということが定められている。心神喪失とは、「精神の障害等の事由により事の是非善悪を弁識する能力(事理弁識能力)又はそれに従って行動する能力(行動制御能力)が失われた状態(Wikipediaより)」のことをいい、認定された人はその罪を問われることはない。責任能力がないからである。
犯人であれば一旦逮捕はされても、起訴されずに裁判も開かれないケース(不起訴)もあれば、起訴されても裁判において心神喪失と判断され、無罪が言い渡されるケースもある。それ以外にも裁判が始まった時点では公判が維持できるとされていても、途中で心神喪失となりそれの回復が見込めないと判断されると、公判停止、打ち切りというケースもある。
もちろんこれらは複数の専門家(医師など)の慎重な鑑定などをもとに裁判所が判断することであり、たとえ心神喪失だと断言する専門家の判断があっても、最終的には裁判所の判断となる。

現状としては、近年の特に殺人などの重大犯罪においては心神耗弱で減刑になるケースはあっても、心神喪失無罪となるケースは非常に少なくなっているという。
近いものだと、平成30年に神奈川県大和市で幼い我が子を殺害した母親に対し、心神喪失として無罪が言い渡されたケースや、平成29年に祖父母ら5人を殺傷した30歳の男に対し、神戸地裁が心神喪失だったとして無罪(求刑無期懲役)を言い渡したケースがある(現在検察が大阪高裁に控訴中)。

しかしいったん起訴された後に無罪となるのは非常に少なく年に数人ほど、というが、一方で不起訴となる人の数は令和2年版犯罪白書によれば、傷害、強盗、殺人、強制性交等、放火といった重罪を犯した人のうち、251人が不起訴となっている。しかもその内殺人事件において不起訴が82件というのは、82人以上の人の無念がそこにあるということであり、何とも言えない気持ちにさせられる。

その実際の事件のいくつかを紹介する。

八丁堀のメッタ刺し

「ちょっと出かけてくる」
昭和63年4月3日、江東区在住のホステス根本昭子さん(当時44歳)は、勤務先のクラブが休みだったこともあり、昼前に家族にそう告げて外出した。
穏やかな春の日曜日。昭子さんは買い物のために、中央区まで出てきていた。信号待ちをしていた八丁堀一丁目の交差点付近はオフィス街。日曜ということもあって人通りはまばらだったという。

同じ頃、その八丁堀交差点付近を進学塾へと急いでいた14歳の少年がいた。
突然、少年の耳に女性の悲鳴が飛び込んできた。驚いて振り向くと、数メートル後ろで坊主頭の男が女性を追いかけまわしている。
女性は赤いブラウスを着ていて、信号待ちの車の方へよたよたと歩み寄ったかと思うと、坊主頭の男が追いかけて来て女性を叩くような仕草をした。
その手には、包丁が握られていた。
そして、赤いブラウスだと思ったそれは、女性が着ていた白のブラウスが鮮血に染まってそう見えていたことに気づいた少年は、恐怖のあまりその場を動くことができなかったという。

異変に気付いた信号待ちの車から、男性らが数名降りてきたが、女性はすでにその場に倒れ動かなかった。
坊主頭の男は、血まみれの包丁を手にしたままゆらゆらとその場を離れ、どこかへと去っていった。

女性は、根本昭子さんだった。

通院歴20年の男

昭子さんが刺されてからおよそ7分後、通報で駆け付けた中央署宝橋通り派出所の警察官が現場から数百m離れた路地で包丁を持ったままぼうっと立っている男を発見。
返り血を浴びていたこと、そして男が犯行をあっさり認めたことで、殺人と銃刀法違反の現行犯で逮捕した。

一方の昭子さんは、救急搬送されたものの左胸4か所、腹1ヶ所、左腕に8ヶ所もの刺し傷を負っており、約30分後に出血多量で死亡した。
昭子さんは交差点で信号待ちしていた時に不意に襲われ、抵抗しつつ助けを求めて車道に出、停車中の車の助手席に乗り込もうとしたが車がロックされていたことで開けることができなかった。また、中にいた運転手の女性もシートベルトをしていたことでとっさに動くこともできず昭子さんを助けられなかったという。

近くにいたものの難を逃れた人らによれば、男は「人間はみんな死ななきゃならないんだ」などとわめきながら、昭子さんをいきなり刺したという。
男は悲鳴を上げて逃げようとする昭子さんを執拗に追いかけまわし、何度も何度も昭子さんを刺した。
逮捕された後も、男は「人を殺さないといけない、人間はいつか死ななければならない」と意味不明の言葉を口にしていたという。

逮捕された男は、中央区内に住む43歳の無職の男。母親、姉、弟との4人暮らしだったというが、実はこの男、昭和42年以降都内の精神病院に入退院を繰り返しており、昭和62年6月に退院した後も、江戸川区内の精神病院に通院中だった。
普段は弟が経営する雀荘の清掃などをしていたというが、昭子さんとは全くの初対面で、二人の間には何のトラブルも、関係すら存在しなかった。

幸せになるために

男は逮捕後の調べで、「ずっと不幸続きだった。人を殺せば、幸せになれると思った」と話していた。
つけていたという日記には、2月頃、「日本人を生かしておく必要はない」と書いていて、その後「テレビのコマーシャルで見たアメリカ人の男性俳優から殺せと言われた」とも話していた。ヤバい。

男は4月1日、金物店で包丁を購入。いつかそれを使うつもりで自宅に保管していた。
3日はいつものように弟の雀荘で床拭きなどをした後、昼過ぎになって「誰かを殺そう」と思い立ったという。
ふらふらと八丁堀の交差点まで来た時、6~7人が信号待ちをしているのを見た。そしてその中で一番殺しやすそうだと思ったのが、女性の根本昭子さんだった。

なんの落ち度もない、ただ日曜の休日の昼間に都心の人目のある場所で、買い物を楽しもうとしていた女性を「女なら殺せる」という理由で男は犯行に及んだ。

函館出身、離婚を経験したのち一人で息子を育ててきた昭子さん。その息子は、定時制高校に通いながら母と二人、ささやかに平凡に暮らしていた。
その日も、なんてことのない普通の春の一日だった。しかし、「ちょっと出てくるね」と言った母は、そんな理不尽なことで、たまたまそこを通っていただけで、命を奪われた。

そして男は、2か月後はやばやと不起訴となった。

男はそもそも、精神の状態が安定したから退院していたのではなかった。治ったと言い張り、勝手に退院していたのだ。
通院は続けていたとはいえ、その症状は改善されるどころか悪化していた。家族は男の異変には気づけなかったのか、という思いもあるが、なんせ20年入退院を繰り返しているわけで、家族にしてみればその変化というものを実感しにくかったのかもしれない。

不起訴処分を受けた男は、そのまま都内の病院に措置入院となった。

ゲートボール場の惨劇

平成2年2月17日、冬の晴れ間の長野県松本市郊外の河川敷では、近くの高齢女性ら3人がゲートボールを楽しんでいた。例年より7度も気温が高く、河川敷の西には北アルプスの峰々が美しい。

それは突然の出来事だった。

ふらりと現れたその男は、二十歳そこそこ、水色のジャンパーにカーキ色のパンツ、白いスニーカーというどこにでもいる若者に見えた。手には金属バットが握られてはいたが、河川敷という場所に似つかわしくない格好でもなく、どちらかと言えば小柄なその若者に、目を留めるものなどいなかった。

男は道路を渡り河川敷へと降りていく。そしてゲートボールを楽しむ女性の近くへ行くと、無言で金属バットを頭めがけて振り下ろした。
悲鳴とも、絶叫ともつかぬ恐ろしい声があたりに響き渡った。河川敷近くで暮らしていた鳥羽貞子さん(当時60歳)は、そのただならぬ声を聞いてとっさに自宅前に飛び出した。そこで見たのは、頭部から激しく出血して倒れている女性の姿と、返り血に染まった男の姿だった。
若い男の手には、血の付いた金属バット。しかしそれだけではなかった。男は両腕の内側にカッターナイフ、外側にはステンレス製の包丁をガムテープのようなもので巻き付けていた。

男は鳥羽さんに近寄ると、無言でそのバットを振り下ろす。必死で逃げた鳥羽さんは、近くの「きくすい旅館(当時)」に逃げ込むと、救急車を呼んでほしいと言ってばったりと倒れた。

男は通行人や騒ぎを聞いて飛び出した近所の住人らを威嚇するかのように金属バットを振り回していたという。
その後、近所の男性が草刈り用の農機具を盾に男に詰め寄り、たまたま通りがかった男子高校生が背後から男を羽交い絞めにして取り押さえた。

終始無言で女性らを殴りつけていた男は、後ろから抑え込んだ高校生に対してだけ、
「邪魔するな」
と怒鳴った。

ゲートボール場で襲われた3人の女性のうち、二人は即死。残る一人も搬送先の病院で死亡が確認された。最後に襲われた鳥羽さんも、頭部に全治二週間のケガを負ったが、一命はとりとめた。

死亡したのは、松本市の平野春子さん(当時77歳)、市川しげ子さん(当時73歳)、そして、柳沢花子さん(当時71歳)。
平野さんと市川さんはゲートボール場で即死状態、柳沢さんは土手を上がって道路を渡り逃げようとしたものの、男に追いつかれて殴られ、約1時間後に死亡した。

イラ立つ大学生

逮捕された男は、香川県出身の信州大学生だった。
自宅は現場となったゲートボール場の目と鼻の先のワンルームマンション。直線距離で20mしか離れていなかった。

男は3年前に高校を卒業すると、一浪して信州大学へと入学した。浪人中は京都の予備校に通っていたといい、信州大学以外にもいくつかの大学に合格していて、大学へ行く意欲も感じられた。
ところが、大学生活はうまくいっていなかった。男はすでに一度留年しており、その際もあとちょっと足りなかった、ではなく、進級に必要な単位の半分を落とすというもので、今年に入っても学年末の試験を男は一切受けておらず、今年も留年は確実だった。

サークルには所属していたというが、友達という存在はいなかった。
自宅のワンルームマンションにはクラシックのCDがあるだけで、電話やテレビといったごく普通の生活家電がなかった。それ以外にも、漫画や雑誌などもなく、推理小説が20冊程度あるだけで、趣味などもなかったようだと捜査関係者は話している。
さらに、男はマンションの玄関ドアに二重のカギをとりつけ、そのうえ隙間を目張りするなど、神経質な一面もあった。

男は何に突き動かされたのか。
逮捕後の取り調べでも、男は自分の名前さえ話さないまま。動機もなにも分からない中、男への精神鑑定が行われることとなった。

「目的がある」

男にはそれまで特に精神的な問題などは見当たらなかったという。ただ、高校3年の時に自分の部屋を歩き回ったりすることがあり、心配した両親が病院に連れて行ったことがあった。
が、そこでは投薬や通院の必要性まではないと診断され、一過性のストレスによるもの、といった判断がなされていた。その後、症状も落ち着いていたことから、両親は京都の予備校に通わせ、一人暮らしもさせていたし、そこでも特に問題は起きず、男は複数の大学合格も掴み取っていた。

ところが信州大学に入り、このマンションに越してきて以降、なにかが狂っていったことは間違いない。
事件を受けて、報道ではゲートボールに興じる人々の「声」が原因だったのでは、とするものもあった。男が音の出る家電をCDラジカセ以外持っていなかったことや、玄関の目張りなどから推測されたのだろう。たしかに、お年寄りの朝は早いし、ゲートボールとなれば声や音も響いた可能性はある。近隣の住民の中にも、多少それが気になるといった話は実際にあった。

しかし静かな住宅街、というわけでもない場所で、道路を挟んで車の往来もある場所。しかもこの事件があった時刻は午後であり、誰もが利用できる河川敷で静かにしろというのもおかしい。
ただ、明らかにゲートボールをしていた女性を狙っているわけで、無差別だったという感じはしない。

実は事件が起きる少し前、男はある行動に出ていた。
夕方になると、男はゲートボール場付近をうろつき、ゲートボールを終えて帰宅する女性のあとをつけたりしていたのだ。
12日の午後には、それを警戒していた男性が男に直接詰め寄っている。
その際、なぜあとをつけたりするのかと聞かれた男は、「居所が知りたい。目的があるんだ。」と話していた。
その目的は何か、と聞かれるも、それには答えなかったという。そのうえで、「(あとをつけることを)やめることはない」と言っていた。

この言動にゲートボール仲間らは恐怖を感じ、松本署に通報した。署でも何度か巡回を行ったというが、肝心の男の住まいも名前も分からなかったことから、それ以上のことは出来なかったという。

男は、ゲートボール場を見下ろすマンションに暮らしていたわけだが、それが分かったのは事件後のことだった。

遠くに連れ去って

事件から2か月後の4月26日、長野地検松本支部は男が心神喪失であるとして不起訴処分を決めた。
男は拘置期限が切れたため、いったん釈放となったあとで精神保健法に基づき長野県知事の命令により松本市内の病院に措置入院となった。

事件は終わった。

殺害された女性らは、みな、ただ楽しくゲートボールをしていただけだった。市が管理する正規のゲートボール場で、である。
高齢に差し掛かり、健康を気にしながら、また、仲間らとのコミュニケーションも豊かな老後には不可欠であり、ささやかな日常の楽しみのひとつとして楽しんでいただけである。
市川さんは自宅を大学生の下宿としており、犯人の男と同じ信州大学に通う学生を受け入れていた。事件を聞き、下宿生らはショックを隠せなかった。
市川さんは母親代わりのように学生らに接し、実家へ帰る学生らには特産の野沢菜漬けを持たせてくれたという。

柳沢さんは中国からの引揚者だった。
戦後の中国では苦しい生活の中で中国人の養女を迎え、立派に育て上げた。
昭和50年に中国からたった一人で日本に帰国。おい夫婦と同居して、地域での暮らしを築いていた。
1年前から家にこもっているのも良くないと、地域のゲートボールクラブに所属。道具を揃え、週に4日の練習を楽しみにしていたという。

平野さんはこの中では最年長だったが、皆に慕われる存在だった。
風が強かったこの日、男性メンバーらが来ない中でも平野さんは元気にゲートボールを楽しんでいた。

そんな人たちの日常を、男は無言で、突然に奪い去ったのだ。撲殺という、残虐極まりない手段で。

被害者は4人、その内3人が死亡するという死刑待ったなしのケースであるにもかかわらず、男は罪に問われることすらなかった。

残されたのは、3人の死と遺族らの無念だけ。
柳沢さんのおい、丸山明夫さん(当時41歳)は、「事件が二度と起こらないように、犯人を遠くへ連れ去ってほしいと願うだけ」と言うしかなかった。

地下鉄の通り魔

平成元年7月25日。北海道札幌市西区の市営地下鉄東西線・琴似(ことに)駅構内の女子トイレで、市立札幌山の手高校に通う16歳の女子高生が刺された。
刺されたのは西区在住の菅原瑤子さん(当時16歳)。瑤子さんは腹部と右胸の二か所をナイフのようなもので刺されており、その腹部の傷は静脈をまるで抉るように差し込まれていたといい、そのために大量出血していた。

瑤子さんが刺された場所が女子トイレだったことで、目撃者が少ない中犯人はさっさと逃げていた。
事件後、現場の状況やその時間帯に地下鉄周辺にいた人らの話から、どうやら瑤子さんを刺したのは中年の男、と見られた。駅周辺では、6〜7人が犯人らしき男を見てはいたが、どこの誰かはわからないままだった。
しかし警察がなんとか作成した似顔絵を見た駅近くの住民らが、気になる話を持ち込んできた。

「琴似駅のバスターミナル付近に、女性に近づいたり舐め回すように凝視する男がいるが、その男に似ている」

似たような情報は複数あったといい、警察は慎重に捜査を続けた。加えて、事件直後、駅前からタクシーに乗って中央区へと移動した男が、その怪しい人物と同一であることも確認。
男に任意同行を求め、警察署において目撃者らを面通しさせたところ、全員があの日男が駅にいたことを証言した。
7月31日、札幌西署と道警捜査一課は男が瑤子さんを刺したことを認める供述をしたことから、裏付けのため家宅捜索を実施。男の自宅からは、凶器と思われる果物ナイフ、そして血がついた衣類が出てきた。

男は、「刑務所に入りたかった。刺すのは誰でもよかった。」と話していたが、この男、昭和47年以降ずっと精神病院への入退院を繰り返していたのだ。

父の慟哭

男が逮捕された時点では、瑤子さんは重体ながらもなんとか生きようと頑張っていた。
出血量は相当多く、瑤子さんのために級友や教師らが献血を行い、45,000ccもの輸血が行われた。手術も3回に及んだという。
皆の祈りと献血、そして何より瑤子さんの生きる力が強かったことから、次第に容態は安定し始め、意識もしっかりするようになっていたが、8月12日、再び傷から出血が始まり、そのまま14日の午前10時15分、瑤子さんは16歳という若さで命を奪われてしまった。

警察から、男に通院歴があることを両親はすでに聞かされており、正直そんな男の行く末よりも、今目の前で懸命に生きようとしている娘のことしか頭になかったろう。
一旦は希望が見えた両親は、深い奈落へと叩き落とされてしまった。

男は事件当時41歳。両親と中央区で暮らしていたが、昭和47年から入退院を繰り返す人生だった。
ただ、入退院といっても1年のうちの半年から9ヶ月も入院状態だったといい、「精神分裂病(当時の呼び名)」と診断されていた。

警察は瑤子さんの父親に対し、瑤子さんの司法解剖を申し入れたが、これを両親は拒否した。
父親は、犯人の男が精神分裂病で入退院を繰り返していたことを知っており、そういった人間が罪を犯したとしてどうなるかを知っていたのだ。
そして、警察に対し、
「犯人を刑事罰に処するための解剖ならわかるが、精神異常者の犯人の処分の先は見えているじゃないか。瑤子の人権はどうなるんだ。死に損じゃないか……」
そう訴えた。
母親も同じ思いだった。すでに三度の手術をした瑤子さん。犯人に負わされた刃物の傷も痛々しいのに、その上また体を切り刻むなど、到底受け入れられる話ではなかった。

父親の言った通り、男は心神喪失で不起訴となり、措置入院となった。

その後、両親らは男が通院していた病院に対し、男への適切な診察をしていなかったとして損害賠償請求を起こした。
病院は、男が診察を受けていた約半年間のうち、医師による問診がたったの一度だったことを認めつつも、看護師らが顔を合わせ、その都度男の状態を見ていたと反論。事件直前に行われた病院主催の海水浴でも男に変わったところはなかったとして、争う姿勢を見せた。
提訴から3年後、病院側が精神医療の充実を約束することで両親と和解が成立。両親は病院側が提示した金銭賠償については、放棄した。

答えが出なくとも

刑法39条に異論はない。悪いことを悪いことだとわからない、善悪の判断がつかない人間は、裁けない。そして罰を与えることも、無意味であるから与えられない。

しかし問題は、では殺害された人はなんなのか、なんだったのかということ。彼、彼女らの無念はどうすればいいのかということ。

不起訴になった人たちがすぐ釈放されて一般社会に出るかというとそんなことはなくて、そのほぼ全員が措置入院、あるいは監督下に置かれることになる訳だが、それでも一生そのままかというとそういうことでもない。
もちろん、大変な罪を犯してしまったけれども治療に励み、周囲の助けもあって人としてやり直せた人もいるはずだ。一人でもそういう人がいるならば、やはり人間というものを信じたい気持ちもある。

しかし一方で、人としての善悪の判断もできないのであるならば、それはそもそも人なのか、という植松的思考に取り憑かれそうになることもある。危険極まりない。その度に私はこのように驕り高ぶる私こそが、人ではないのではないかと考える。

一生外に出さないで。犯罪者にも人権はあるのでは?病院でずっと隔離すれば無期懲役と同じで結果的に罰を与えているようにもなるし問題ないのでは?でも治ったら?でもまた病気になったら?そしてまた事件を起こしたら?閉じ込めておけばその事件は、その人が死ぬことはなかったのでは?でもその人だって好きでそうなった訳じゃない。本人も苦しんでいるのでは?でもそれで被害に遭った人に、家族に「運が悪かったんだよ」「忘れるしかない」「加害者にも人権が」なんて言える?でも死んだ人は戻ってこないよ?

どの考えも一理あって、でも不完全で、だからいつまで経っても答えなんか出るわけがない。
いや、答えを出してはいけないのか。

大切なのは、答えが出ないとわかっていても、議論し、考え続けていくことなのだろうか。
けれど何度も言うけれど、被害者を置き去りにした上での差別のない社会、成熟した社会、そんなものはいらない。

それでも生きてゆく

ところで最後に紹介した札幌の事件には別の話がある。

昭和56年、この瑤子さんの事件が起きた地下鉄の駅にほど近い国鉄(当時)の琴似駅前のイトーヨーカドー裏の駐車場付近で、幼い息子を連れた買い物帰りの当時36歳の男性が、何者かに胸を刺されて死亡した事件が起きていた。
瑤子さんの事件が起きた際、未解決だったこの事件についても関連性が囁かれていたのだ。

ただ、目撃者が当時8つと4つの幼い兄弟だったこと、兄弟のうち犯人の顔を見たのがお兄ちゃんだけだったことで犯人についての情報は非常に少なかった。
そして、そのお兄ちゃんの証言を元に犯人の似顔絵を作成しようにも、何度描いてもその顔が「大好きなお父さん」の顔になってしまうのだった。
捜査員らは皆、そのお兄ちゃんの心の傷を思い、涙したという。

その事件から8年後、瑤子さんの事件が起きた。

ただ、瑤子さんを刺した男が不起訴となったこともあるのか、それとも全く無関係だったのかはわからないが、この昭和56年の事件はその後平成8年に時効が成立した。
殺害された男性の家族は、みんなで道東の親族方へ身を寄せたという。時効成立の折、取材に訪れた北海道新聞社に対して、親族が代わりに応対した。

「何も話すことはありません。そっとしておいてやってください。」

当然の対応であろう。しかし、最後にこう付け加えた。

「ただ、みんな元気です。」

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参考文献

毎日新聞社 昭和63年4月4日東京朝刊、平成2年4月27日東京朝刊
読売新聞社 昭和63年4月4日東京朝刊、平成2年2月18日東京朝刊
朝日新聞社 昭和63年4月4日、6月8日東京朝刊
北海道新聞社 平成元年8月1日、平成2年2月18日、平成8年5月30日朝刊全道、平成元年8月14日、平成5年3月18日夕刊全道
中日新聞社 平成2年2月18日朝刊、2月26日夕刊

 

つむじ風にさせられた殺人~京都・17歳ピストル魔3人殺傷事件~

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平成8年11月28日、京都地方裁判所。

「主文、被告人は無罪」

この日、京都地裁は48歳の無職の男性に無罪判決を言い渡した。
男性は殺人などの罪で起訴されていたが、冤罪ではなかった。確実に、一人を殺害、二人に重傷を負わせる大事件を起こしていたのだ。
にもかかわらず、男性は無罪となった。
しかも事件が起き、逮捕されたのは昭和41年、起訴され裁判もすでに4回行われていた。
昭和45年以降、男性の裁判は公判停止となっていたのだ。 続きを読む つむじ風にさせられた殺人~京都・17歳ピストル魔3人殺傷事件~

🔓吐き気がする~宮崎・男性殺害死体遺棄事件と場外乱闘~

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タレコミ

「どうやら殺されて埋められているらしい」

平成15年9月に宮崎県警にもたらされたタレコミは、無視できないものだった。
殺されているとされたのは、県内でも大手の建設会社を営む一族の血縁男性で、事実、5年ほど前からその姿を見た人がいなかった。
いや、正しくは「家族以外」その男性の行方を知っている人がいなかったのだ。

家族によれば、すでに離婚した妻は子を連れて宮崎を出ており、それを追って男性もまた宮崎を出た、という話だった。
しかし男性が貸金を行っていたことや、暴力団との付き合いが取りざたされていたことなどから、県警では事件に巻き込まれた可能性を視野に捜査を開始、家族からも事情を聴いていた。

警察は男性が妻との離婚届を提出した日付が、すでに行方が分からなくなっていた時期であることに注目、筆跡鑑定の結果男性の署名が男性のものではないと判明。
平成17年2月、男性との離婚届を偽造した有印私文書偽造、同行使の容疑で男性の妻、男性の実母、そして知人の暴力団関係の男を逮捕、その後、宮崎市細江の山中の養鶏場跡地に男性を埋めたとする供述をもとに捜索したところ、ビニールシートにくるまれた遺体が出た。
DNA鑑定の結果、遺体は行方不明の当該男性であると確認された。

崩壊家族

殺害されていたのは宮崎市の境大介さん(当時31歳)。逮捕されたのはその妻の池本友里(仮名/当時35歳)、暴力団関係者の鳥井信之(仮名/当時39歳)、そして大介さんの母親・境喜枝(仮名/当時58歳)の3人。このほかに男一人の逮捕状も出ていた。
友里と鳥井は殺害も含めて全面的に認めていたというが、喜枝は離婚届偽装については認めたものの、それ以外は否定していた。

しかし大介さんが殺害された後に境家名義の口座から数千万円、大介さん名義の口座から数百万円を引き出していたこと、大介さん名義だった5階建て自宅マンションを喜枝名義に変えていたことなどから追及、その後息子殺害を認めた。

宮崎市内では知らない人がいないというほどの、家だった。過去には宮崎県知事が3000万円の賄賂を受け取ったと告発(のちに無罪確定)した人物の存在があり、先にも述べたように経営する建設会社は相当力のある会社だった。
その直系に当たる大介さんだったが、180センチ120キロの体格で、若いころから暴力がつきまとっていた。
同級生らに話によれば、確かに素行が悪かった部分もあったが、身近な人には優しい人だったという話もある。群れなければ何もできないというタイプではなく、また面倒見も良かったという。

友里とは平成7年に結婚、その年には父親が日向市内で交通事故で亡くなっている。
ただこの時点で母親の喜枝は離婚していて境家と無関係になっていたといい、当然ながら元夫の遺産は受け取れなかった。
その翌年、絶大な権力を持っていた祖父も死去。孫である大介さんには多額の財産が遺されたが、喜枝は無関係だった。
そういった関係があるからなのか、離婚しても喜枝は大介さんと同居し、境姓を名乗っていた。自身でも会社を経営していたようだが、ペットフードや輸入雑貨の販売を掲げたその会社に、その経営実態は全くなかったという。

身近な人に暴力は振るわない、と同級生らの印象としてはあったようだが、実際は大きく違っていた。
大介さんが10代のころから、喜枝はすさまじい暴力にさらされていたのだ。何度も自宅には救急車が来ていたし、そうでなくても喜枝は年中顔を腫らしていたという。
妻である友里にも暴力は及んだ。
「一日のうち、自由にできるのは30分くらい」
後の公判で友里はこう供述。さらには殴られて気を失うこともあり、両目が網膜剥離になっていたことも明かされた。

そんな大介さんは、祖父、父親が遺した財産も完全に独り占め状態だったという。そしてその金を元手に、鳥井ら暴力団関係者に金を貸していた。最後に逮捕された男も、債務者の一人だった。

巨額の財産を持つ息子と一円も自由にできない母親と妻。大介さんには覚せい剤の使用もあったといい、特に妻の友里が受けた暴力は「異常とも言える激しい暴力」と裁判所も認定した。
そんな二人と、鳥井ともう一人の男は次第に親密になっていった。
それぞれがそれぞれに大介さんに対して不満という言葉では到底表しきれないほどの感情を抱き、いつしかそれは大介さんさえいなくなれば、という考えに変わっていく。

もう、死んでもらうしかなかった。

【有料部分 目次】
被害者の落ち度
マスコミの大失態
あぶない刑事
キモいメール
恥知らず

みじめな夫がやり過ぎた妻につけたおとしまえ・昭和版~日光市・不倫妻殺害事件~

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東京高裁にて

この日、ある殺人事件の控訴審判決が言い渡された。
控訴したのは検察側で、量刑不当が主訴だった。原審での判決は、殺人事件であるにもかかわらず、懲役3年しかも執行猶予がついたのだ。
検察は、こんなことでは世間一般の道義的観念を満足させられない、どれほど被告人の主観的心情に同情したとしても殺人という重罪を犯した者に対する刑罰が軽すぎるのでは治安を維持できないと主張。激おこだった。

しかもこの事件は、子供の面前で父親が無抵抗の母親を斧で頭部を滅多打ちにするという残虐非道なものだった。

それを踏まえての東京高裁の判断は、「控訴棄却」。
原審を支持する、というものだった。

裁判でも「みじめ」といわれた夫がつけた、やり過ぎた妻へのおとしまえ。

昭和39年、夏

男は子供たちを家の中に追いやると、玄関先で妻の帰りを待った。
家の中に入ってしまったら、子供たちにケンカしているところを見せてしまう。
一体、妻は何を考えているんだろう。何度言っても分かってくれない。
そんなことを考えていると、その妻が何食わぬ顔で帰宅した。男は妻を捕まえると、「どこへ行ってきたんだ」と聞いた。いたって、冷静に聞いたつもりだった。
「どこ行ったっていいじゃないか!」
対する妻の返答は、自分の立場や状況を分かっての態度とは思えぬほど、辛辣で捨て鉢な、開き直った態度だった。

そのまま男を無視して、子供たちのそばに座り込んだ妻との間で、口げんかが始まった。子供たちは不安そうな顔で押し黙っている。
「どこへ行ってたって、いいじゃないか。」
再び、妻は男に対して言い捨てた。

男の堪忍袋の緒が切れる音がした。

男は咄嗟に手近にあったものを掴むと、妻の頭部めがけて振り下ろした。意図してそれを選んだわけではなかった。しかし、振り下ろしたそれは、手斧だった。
1度殴ってしまった男は、もうどうにもそれを止められず、なんども妻の頭めがけて振り下ろす。
妻の顔はみるみる血に染まり、そして絶命した。

夫婦のそれまで

この事件で逮捕起訴されたのは、日光市在住の武田彰伸(仮名/年齢不詳、おそらく40歳前後)。殺害されたのは妻のキミイさん(当時36歳)。
彰伸は小学校卒業後、農家の子守や徴用工を経て招集され、現役の兵隊として軍隊に所属していたところ、終戦となって帰郷した。
農業を営んでいた昭和22年、キミイさんと見合いで結婚、二男一女にも恵まれた。
元々、言語障害があった彰伸だったが、温厚でまじめな性格、酒もたばこもやらないという実直な男だった。
昭和36年、日光市内の建設会社で働き始めた彰伸は、その真面目な人柄が評価され、同建設会社会長からも非常に信頼されていたという。
妻のキミイさんも、末っ子が5歳になったころから同じく日光市内のコンクリート会社で働くようになった。
口数の少ないおとなしい夫に対し、キミイさんは明るく勝気な性格だった。それが、バランスの取れた良い夫婦に見えていたし、実際年の離れた子供が出来たことからも、夫婦仲もよかった。
戦後の、決して裕福とは言えない生活だったが、夫婦で力を合わせて家庭を築き、周囲からも何の問題もないと思われていた。

が、昭和394月。突如家庭に暗雲が立ち込める。
キミイさんが働いていたのはコンクリート会社で、圧倒的に男性が多い職場だった。そこでキミイさんは、14歳年下の原田という男と不倫関係になってしまったのだ。
キミイさんの不倫はすぐに彰伸の知るところとなり、驚いた彰伸がキミイさんにそんなことはすぐにやめるよう言ったところ、キミイさんも謝罪し、もう原田とはそんな関係にはならないと約束した。

安堵した彰伸だったが、お察しの通りキミイさんと原田の関係はすぐに再燃した。

開き直る妻

一度バレたことでなのかなんなのか、キミイさんは次第に大胆になっていった。
彰伸に対しては、残業になったとか、休日出勤になったとか、様々な理由をつけて騙していたようだが、会社内での不倫はすでに周囲の噂になっていた。
それでもおかまいなしに、キミイさんは原田との逢瀬を楽しんでいたという。
そして彰伸も、キミイさんがいまだに不倫をしているという事実を知り、愕然とするとともに、14歳も年下の男にうつつを抜かしているということはことのほか世間体も悪く、なんとかキミイさんの不倫をやめさせなければと気をもんでいた。

叱ってもだめなら、諭すように話してみたこともあったが、元来口下手な男である。勝ち気で口達者なキミイさんに太刀打ちできるはずがなかった。
キミイさんは彰伸がその話を持ち出すたびに、「ならば離婚したっていいんだ!」と強気な態度に出る始末で、途方に暮れる彰伸の面前で原田から預かった汚れ物を甲斐甲斐しく洗濯してみせるなど、完全に彰伸を馬鹿にした態度に出ていた。

この頃彰伸は、そんなキミイさんに対して注意する回数を3回に1回くらいにしていたという。口うるさく言っても逆効果と思っていたのだろうか、しかしそれでもキミイさんの態度が改まることはなかった。

それどころか、14歳になっていた長女に対し、「今日は彼氏とデートだよ」などと臆面もなく話すなど、子供たちに対してもあからさまな態度を見せていた。

6月、あまりになめた態度に業を煮やした彰伸は、薪でキミイさんの頭を叩いたことがあったが、結局彰伸が謝罪するという羽目になってしまい、まったく意味をなさなかった。

そんなキミイさんの態度を知ってか、相手方の原田も相当な開き直りようだった。
会社で噂となり、同僚らから窘められても意に介さず、むしろ彰伸にバレているとわかってからはかえって積極的にキミイさんとの不倫を楽しんでいた。
それに呼応するように、キミイさんもまた、原田との不倫にのめり込んでいった。

彰伸はなんとか物理的にキミイさんと原田を遠ざけようと、キミイさんに対しコンクリート工場をやめ、自分と同じ建設会社で働かないかと持ち掛けた。
しかしキミイさんは頑として聞き入れないばかりか、「あそこで働くんならこんなところにいない」と口答えし、とりつくしまは全くなかった。
幼い子供らの世話もそっちのけで原田との情事に溺れるキミイさんに代わり、日々仕事と子供らの世話をしながら彰伸は、ある時会社の創業者でもある会長夫妻、専務に相談した。加えて、キミイさんの同僚女性らにも恥を忍んで夫婦の内情やキミイさんと原田のことを打ち明けた。
そこで、原田が実は過去に交際していた女性もキミイさん同様年上の女性で、しかもその女性を二度にわたって妊娠させていたことなどが判明。上司や同僚の女性らが原田に対して不倫をやめるよう注意されても原田は意に介さず、キミイさんもそれを知ってか、会長夫妻から直々に注意されてもそれを聞き入れることはなかった。

すでにキミイさんと原田の関係は、たとえそれがどんな立場の人であっても他人が注意してどうにかなるようなものではなくなっていた。

その日、キミイさんは日光市宝殿町の旅館で原田と会い、飲酒して帰宅していた。
そして先述の通り、彰伸との押し問答の末、子供らの面前で惨殺されてしまった。

納得しうる裁判

犯行の結果の重大性を考えれば、地裁の判決は意外といっていいものだった。
懲役3年、執行猶予5年というのはたしかにどれほど被害者に非があったとしても殺人であり、また過剰防衛や嘱託殺人、無理心中の類でもないわけでなんでこうなった、と検察がいうのもわかる。

控訴審判決では地裁の判断を支持した理由以外に、裁判とは、道義的観念を満足させるとはどういうことかをその判決文の中で示した。

たしかに、殺人という行為自体重大な犯罪であり、それに対して執行猶予を付けるなど世間一般の道義的観念を満足させられないという検察の主張はもっともだった。
ただ、一概に殺人と言っても諸外国のように謀殺と故殺、その殺人に等級をつけるなどしているものもあるが、日本の場合は殺人自体に重いも軽いもない。
が、そうである以上、その殺人を構成する動機や様態が千差万別であるのは当然であるため、裁判ではそれらをつぶさに吟味し、適正な、妥当な量刑を決めるのが望ましいとされている。

この事件では、彰伸の人柄や性格、それまでの社会生活、そして関係者(要因となったキミイさんと原田の不倫を知る人々)の証言が重視された。
関係者らは、当事者である原田を除く全員が異口同音にキミイさんを非難し、彰伸に対しては同情を隠さなかったという。
その中には、彰伸とキミイさんの実子(長女)のみならず、殺害されたキミイさんの両親まで含まれていた。
長女は調べに対し、
「わたくしは、お父さんとお母さんでどちらが悪いかわかりません。お母さんは死んでしまい、お父さんが警察に行っているのでわたくしたち子どもだけですから、早くお父さんを家に帰してください。お願いします。」
と話し、キミイさんの両親に至っては、
「娘の行状が悪かったことでもあり、今更死んだ娘が返ってくるわけのものでもないから、将来彰伸の家族が一緒に暮らしていけるよう切望する」
という供述を検察官に対して行っている。

これがいいとか悪いとかの話ではないのだが、裁判所は続けてこうも述べている。

本件自判の内情を知っている世間の人たち、幸いにも法網に触れずして済んだ当の相手方たる原田を含めて、被告人に今一度人の子の親としての更生と贖罪の機会を与えた原判決を聴いて、おそらくは、いずれも皆ほっと安堵の吐息を漏らしたことであろう。
事情を知る人々が真に納得しうる裁判にこそはじめてよく一般の道義的観念を満足させるものと言えるものであり、そしてまた、それは、一般予防と特別予防の調和を意図する刑政の目的にも合致するものと言わなければならない。

私も含め、判決によっては「こんなことでは抑止力にならない、被害者が浮かばれない、どんな理由があっても人を殺しておいて同情されるなんてありえない」と思うこともあるだろう。
たしかに、歴代の重大事件をみても、被害者に相当な落ち度があると思われるものはある。しかしだからと言って殊更に加害者に同情を寄せるべきではないのは、ひとえに亡くなった人はもうなにも言うことができないからに他ならない。殺されていい人などいるはずがないのは、その「殺されても仕方ない」という判断基準が人によって違うからである。そんなあてにならないもので判断されたらたまったものではない。

しかし一方で、この裁判が示したように、再犯の可能性がほぼないような状況や、関係者らが納得できるか否かは、一つの重要な判断基準でもあるのだろう。

ただやはり時代も大きく関係しているであろう印象は否めない。
今の時代だったら執行猶予などつくはずもないだろうし、弁護士に相談して離婚を考えるべきだったとかいろいろ言われてこんな判決は出せないだろうと思われる。
この時代は不倫、特に母親が家庭を顧みず情事に耽るなど……という時代だったろうし、そんな奔放な妻のあとを追うしかできないみじめな夫にはさぞかし同情が集まったのだろう。

このサイトでも取り上げた日立の妻子6人殺しの小松博文は死刑判決となった。人数からしても連れ子を含む子供5人を殺害した点でも再考の余地はなさそうだが、その動機としてはやりすぎた妻がいた。
もし、小松が妻だけを殺していれば、同情されたろうか。
大洗で娘二人を殺した父親も、開き直る妻の存在があった。この事件同様、年下の男にうつつをぬかす妻は、幼い娘に彼氏の存在を隠そうともしなかった。そして、妻の父親も孫を殺した夫に対して憎む気持ちはないと証言した。
この夫も、娘ではなく妻を、あきれ果てるほどフリーダムな妻を殺していれば、同情されたのだろうか。

そして、この事件の被害者、キミイさんは、言いたいことはなかったのだろうか。
自業自得と言われて、関係者は納得し安堵していると言われ、どう思ったろうか。

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参考文献
昭和40年6月30日/東京高等裁判所/第一刑事部/判決/昭和40年(う)304号

 

仁義なき戦い~嫁姑事件簿~

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嫁姑。
嫁は「嫁ぐ」というもう一つの読み方からも分かる通り、結婚し夫の家に入ること、姑は古くなった女と書く(本来の意味は年長者という意味らしい)。

この字面がすべてを物語っているように思えるが、完全同居が当たり前、嫁は一切姑に口答えならぬというのが当たり前だった時代は過ぎ、今では同居していても息子の家に姑舅が呼ばれるという形も多く、姑のほうが小さくなっている、そんな家庭も少なくない。
もちろん、時代関係なく理解のある姑舅に恵まれ、また、若夫婦も老親をいたわりうまくいっている家庭もたくさんあるし、増えているだろう。
ただそこには、親世帯の経済的余裕、子供世帯の夫婦仲の良さなど、うまくいく条件みたいなものもあるように思う。

永遠のテーマと言われる、嫁姑問題。
実の親でも大変なのに、赤の他人の女が二人、一つ屋根の下でいれば表面上うまくいっていても、胸にためるものの一つや二つはどちらにもある。
それに折り合いをつけ、時に夫や舅の仲介があり、友人や近所の人々にアドバイスをもらいながら多くの人は日々やり過ごしている。
それが出来なければ、離婚である。そして、折り合いもつけられず、我慢もできず、離婚もできなかったらどうなるか。

相手を抹殺することで解決しようとした人々の物語。 続きを読む 仁義なき戦い~嫁姑事件簿~