私のことを、恨みますか〜米子・税理士ら2人殺害事件〜

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平成22年2月26日。鳥取地方裁判所米子支部では、ある男への論告求刑が行われていた。
男の罪状は、強盗殺人。それ以外に死体遺棄など6つの罪状が男にはあった。被害者は高齢の男女二人、ともに殺害されていた。

殺害された女性の遺族は極刑を求めており、裁判員裁判で初の死刑求刑になる可能性も高かった。
被害者参加制度を利用して、公判には被害女性の息子が検察官の隣に座った。その遺族男性の隣で、北佳子次席検事は男に対し、求刑した。

「被告に無期懲役を求刑する」

隣の遺族男性が、目頭を押さえて俯いた。
論告求刑の前、この遺族男性はある証人に対し、静かに語りかけていた。

「私は死刑を望んでいる。死刑になったら、私を恨みますか。」

証人は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、「(極刑を望むのは)当然だと思います」と絞り出した。
その様子を見ていた裁判員の多くが、泣いていた。

次席検事の論告求刑の後、遺族の男性が意見陳述を行った。
「極刑以外の判決ならば、恐ろしい判例を作り出すことになる。道場の余地があれば、死刑にならない。そんなことでは犯罪の抑止力が低下する。」
検察の無期求刑に対する心の叫びに思えた。

被告の男は、午前中の情状証人への質問の時は感情の昂りを抑えられない場面もあったが、その後は落ち着きを取り戻し、
「被害者の無念さや思いをしっかり受け止め、生涯ずっと背負っていきたい」
と頭を下げた。 続きを読む 私のことを、恨みますか〜米子・税理士ら2人殺害事件〜

🔓わがままシンデレラ~大垂水峠・美人ピアノ教師殺害死体遺棄事件~

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「あの先生、確かにものすごい美人でした。けど、子供たちにも優しいしとにかく熱心でしたから……。32歳?いやいや、24,5歳にしか見えませんでしたけどねぇ」

事件後、被害者を知る人々から語られたのは、とにかく美しい人だったということだった。それだけではなく、甘く、舌ったらずな話し方は独特で、その声に魅力を感じる人々もいた。

当時(昭和62年)、愛好家が多く存在したアマチュア無線。
資格を持った人々が、無線を通じで見ず知らずの人とつながることができる、そういう楽しみ方をする人々がいた。
この事件の被害者も、アマチュア無線の愛好家だった。
深夜、電波に乗って聞こえてくる甘い彼女の声に、何人もの男たちが虜になったという。

そしていつしか彼女を頂点とする構図がその愛好家の中に出来上がっていく。
それはまるで、女王と家来、そんな風に見えた。

大垂水峠の遺体

昭和62年12月28日午前7時40分、八王子の甲州街道沿いの大垂水峠の沢で、毛布にくるまれた遺体が発見された。
ピンク色の毛布にくるまれた遺体は、白いパジャマ姿。セミロングの髪に、ゴールドで統一されたアクセサリーを身に着けていた。そのアクセサリーが輝く両腕は、細いビニールひもで縛られていたという。
季節柄、さほど腐敗は進んでいなかったが、死後3~4日とみられた。

被害者は女性、その左足には大きな特徴があった。つま先の部分がなかったのだ。
といってもかなり昔に手術によって切断されたような状態だったため、幼いころに事故か病気でつま先部分を失ったとみられた。

警察は大きな特徴であるとして身元を調べるためにその特徴を公開。すると、28日になって「大垂水峠の遺体は姉ではないか」という連絡が入った。
12月23日から行方が分からなくなっていたのは、遺体遺棄現場からは遠く離れた名古屋市在住のピアノ教師の女性だった。
通報者は実弟で、23日の夕方に姉が弟宅で近所の子供らにピアノを教えた後、行方が分からなくなっているというのだ。愛車のフェアレディZも、なくなっていた。

その後、弟によって遺体は姉であると確認された。

【有料部分目次】

ファンクラブ
12歳年下の「ツバメ」
純金のお嬢様
取り戻したかった青春
公衆電話にかじりつく男
女王様の誤算
20年後の暴露話

闇の中~中国人少女殺害死体遺棄事件と、父親の事件~

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凶行

平成5年11月21日午前、新潟県のホテルから119番通報が入った。
通報があったのは六日町にあるホテル「ウェルネスVILLA越後六日町(当時)」で、内容は「男性が包丁で刺されてけがをした」というものだった。
南魚沼消防署と、消防から連絡を受けた県警六日町署員がホテルに急行したところ、3階の客室に続く階段付近で男性が血まみれの状態で倒れていた。
さらに、客室内の畳の上でも、男性が腹などに傷を受けた状態で倒れていた。
現場には、血に染まった包丁2本を手にもって立ち尽くしていた男がいた。警察は状況からこの男が二人を刺したと断定、その場で殺人未遂の現行犯で男を逮捕した。

刺されていたのは、東京の鍼灸師・佐々木学さん(当時46歳)と、息子の新さん(当時19歳)で、病院で治療を受けたものの学さんは出血多量で死亡した。

逮捕されたのは、中国籍の袁銘(えん・めい)(当時49歳)。
袁は太極拳の講師で、佐々木さんらに招かれこの新潟の佐々木さんが経営する施術院で宿泊客らに太極拳を教える予定だったという。
室内には別の女性スタッフもおり、その女性スタッフによると、袁と学さんが口論となり、突然袁が隠し持っていた包丁で斬りかかったという。
止めに入った息子の新さんにも斬りかかり、学さんは胸や腹を7か所、新さんは12か所を刺されていた。
傷は学さんの方が少なかったが、学さんは足の動脈や肺に傷を受けていたことで出血が多く、救命できなかった。

「口論になって刺した」「殺すつもりだった」

袁は取り調べに対しそう話していたが、逮捕された時には中国語でなにかをわめいていたという。

それは、「私は埼玉で白骨遺体で見つかった慧娜の父親だ!」という叫びだった。

いなくなった少女

それはこの殺傷事件のおよそ4か月にさかのぼる。平成5年7月30日。
少女はひとりで自宅マンションにいた。父と二人暮らしの少女は10歳。
この日、父は仕事で新潟へ行っており、少女は一人で留守番をしていた。父がいない間、少女は父の職場の同僚宅に毎日電話すること、父にも電話をすること、そしてその職場の同僚が様子を見に行くという、いくつかの約束事があり、その日も午後7時過ぎに父親に電話をしていた。
特に、変わった様子もなかった。
しかし2時間後の午後9時、同僚の女性が自宅を訪れた際、部屋から応答がなかった。
電気は消され、ドアにも鍵がかかっていた。

知らせを受けた父親が帰宅し、部屋の中を確認したがもともと台所に四畳半間があるだけの狭い部屋の中で、なくなっていたものはなかった。
また、父親が少女の生活費として渡していた4万円のうち、3万円がそのまま室内から見つかっていた。
夜に10歳の子が勝手に出歩くと目立つ可能性があったが、近所の人らによればその少女は大人びて見え、高校生くらいに見えたという人もいたことで人目につかなかったのかもしれなかった。

当時少女は、家の中からなくなっていた洋服から推測して、白のTシャツ、白地に赤の水玉模様のスカート、エナメルの黒いバッグという装いだったといい、父親曰く「よそ行きの恰好」だったという。
そこで、上池袋に住んでいる別れて暮らす母親のもと、もしくは豊島区内の親戚の家にでも行ったかとも思われたが、いずれもその日は訪れていなかった。

実母によれば少女はしっかりしていて、一人で出かける可能性はあるということだった。また、たとえば誘拐された可能性については、少女が太極拳のチャンピオンになったこともあって考えにくい、と父親も話していた。

当初は自力で娘を捜していた父親だったが、周囲の人らの勧めもあって8月12日、警察に捜索願を提出した。

越辺川の白骨遺体

平成5年11月7日午前。
埼玉県坂戸市赤尾の越辺川(おっぺがわ)の河川敷で、白骨化した遺体が発見された。
県警捜査一課と西入間署は、その遺体のサイズから小学生、しかも低学年の女児の可能性が高いとしており、当時行方が分からなくなっているその年頃の子供について捜索していた。

遺体は身長が約130センチ、足の大きさが18センチ、さらには乳歯が残っていたことから子供であること、そして骨盤の形などで女児だと判断されていた。

発見当時、遺体は両足がミイラ化。死後およそ2~6か月経過しているとみられた。
衣服はすべてはぎとられており、さらには数枚重ねのビニール袋に入れられて放置されていたことから、死体遺棄事件であることも間違いなかった。

そして翌8日になって、板橋区で7月末から行方が分からなくなっている女児の存在が判明、すでに捜索願も出ていたことから管轄の板橋署も捜査に乗り出すこととなった。そう、あの少女である。
行方不明になっていたのは、中国籍の袁慧娜(えん・えな)さん(当時10歳)。
慧娜さんはその年の6月に中国から来日したばかりで、板橋区内で先に来日していた父親と二人で生活していた。
当時は夏休みなどの関係もあってかまだ小学校には通っていなかったが、二学期からは通学する予定だったという。

警察の調べで、身長、頭髪の長さ、そして歯の治療痕が一致していることから遺体は慧娜さんにほぼ間違いないとみていたが、それでも実母らは慧娜ちゃんでないことをひたすら祈っていた。
しかし、遺体の下から発見されたハートのヒスイのペンダントが決め手となった。
それは、慧娜さんの実母がお守りにと、慧娜さんに渡したものだったのだ。

最悪の結果となってしまったが、その後の捜査も全く手掛かりがつかめていなかった。
父親との関係は良好、来日して間もないとはいえ、都内には親戚も実母いた。
実母には長く会っていなかったようだが、親戚の家には失踪前日にも訪れていたという。
父娘をよくみかけたという商店主は、「いつも仲良く二人で買い物に来ていた。日本語が話せないようだったが、父親もちゃんと仕事をしていた」と話し、二人が暮らした部屋の大家も、「慧娜さんはかわいい子で、お父さんから慧娜さんが掲載された中国の新聞を見せてもらった。慧娜さんはお父さんが出張で家を空けたときは外出はほとんどしていなかった」と証言していた。

が、一方でその部屋に男女が出入りしていたと話す住民もいた。そして、慧娜さんが行方不明になって以降、その男女を見かけなくなったというのだ。
その男女が父親の知り合いなのか、中国人なのか日本人なのかもわからなかったが、慧娜さんがなぜいなくなったのか、そしてなぜビニール袋に入れられて捨てられたのかも、全く分からなかった。

遺体が慧娜さんと判明して二週間後、新潟で男性二人を殺傷したとして逮捕されたのは、慧娜さんの父親だった。

トラブル

捜査本部は袁がこの鍼灸師の親子と仕事をしながら、何らかのトラブルを抱えていたとみていた。
父親の学さんは、上池袋で鍼灸の診療事業を行う株式会社東日本東洋医学療法事業団(当時)を経営、その事業の一環として、新潟のホテルの一室にて太極拳を取り入れた治療を行っていた。その講師として招かれたのが、袁である。
ただ袁は人文医療ビザで上海から来日していたが、実際には太極拳のショーや整体をしていたという。

来日は3度目、それまでも興行としての太極拳ショーを熱海などの観光地のホテルなどで行っていたが、その興行団体が解散したため、今回は佐々木さんらの新潟の治療院で活動していた。
袁は山東省の出身。武術では相当な実力者だったといい、上海にいたころは弟子も多くいたという。昭和61年、慧娜さんが三歳の時に妻とは離婚。その後は経済的に困窮することもあったといい、来日した際、佐々木さんの会社の関係者から金を借りることもあった。

捜査関係者らによれば、袁は性格的にも難しい面があり、慧娜さんの遺体発見時のインタビューなどには一方的にしゃべったのに対し、気に入らない質問があると黙り込んだり、カッとしやすい性格でもあったという。

一方で、被害者の佐々木さんにもトラブルの影が見え隠れしていた。
町田市に自宅があった佐々木さんだったが、マッサージ師、鍼灸師という職業であるにもかかわらず近隣との付き合いはあまりなかったようだ。
実は佐々木さんは、昭和63年に経営していた会社(マッサージ、整体関連)が倒産、その際に給料未払いなどで裁判沙汰になっていて、その頃から近所づきあいをしなくなったのだという。
しかし一部の近所の人には、「新しい治療院を出すための内装費が必要」などといって出資を募っていた。
何人かが出資したというが、平成3年に池袋に開院したという鍼灸院も、事件が起きた平成5年の5月には閉院となり、結局出資者に金は戻らなかった。そのこともあってか、佐々木さん親子の事件があった直後も、佐々木さん方を見舞う近所の人々の姿はなかった。

警察ではそういった佐々木さん親子と袁の関係性において、仕事上のトラブルという線と、一方で慧娜さんの事件とのかかわりについても慎重に捜査をしていた。

慧娜さんは日本語がほとんど話せなかったことから見ず知らずの人について行ったり、行動を共にすることは考えにくいこと、部屋が荒らされていないこと、遺体は河川敷に流れ着いたのではなく、そこに置かれていたこと、その発見現場は非常に足場が悪く、単独で行うことは難しい、そういったことから、顔見知りで、かつ、複数犯との見方を強めていた。

そして12月13日ころになって、当初は「言葉が通じないことで佐々木さんに不信感があった」などと話していた袁が、「慧娜は佐々木さんが殺したと思った」と話したのだった。

思い込み

顔見知りの複数犯の犯行、という見方が捜査本部にもあったこと、そしてすでにそれらも報道されていたことから、娘を殺害された父親の復讐劇、という風にも思われたが、結果から言うと佐々木さん親子は全くの無関係だった。
そもそもそんなことはアリバイを調べればすぐわかることで、警察も佐々木さん親子が慧娜さん殺害とは無関係と早々と公表している。

しかも、日本語がわからない袁を思い、慧娜さんの捜索願を出すよう勧めたのも佐々木さんだった。袁は、慧娜さんの行方が分からなくなった翌日の8月1日、佐々木さんにこのことを相談した。
そこで、佐々木さんから捜索願を出すよう言われたが、おそらく日本語がわからないことなどから思うようにいかなかったとみえ、佐々木さんが警察に電話して捜索願について尋ねていたのだ。
そして警察から両親の話を聞きたいと言われ、8月12日にようやく袁と妻が警察で捜索願を出した、という流れだった。

それをどうしてなのか、袁は佐々木さんが慧娜さんを殺害して遺棄したと思い込んでしまった。

警察でも、なぜ佐々木さんが慧娜さんを殺したと思ったのか、を、袁から聞き出そうと慎重に取り調べを行ったものの、袁は慧娜さんの話になると意味不明の話をし始めたり、かと思えば黙り込む、さらには「みんなが俺を殺そうとしていた」とまで言い出した。
ただ、泊まっていた部屋からは「慧娜、どこに行った」「慧娜がかわいそう」というメモなども見つかっていて、袁が相当精神的に追い込まれて不安定になっていたことも間違いなかった。
愛する娘が無残な形で発見されたわけで、その点は父親である袁に同情しかないわけだが、それがなぜ佐々木さんへの被害妄想、思い込みに発展したのか。

平成6年1月から開かれた公判においても、袁は入廷直後から通訳に文句を言い、人定質問にも「みんな知ってるだろう。何のための確認か!」と声を荒らげて拒否、さらには「娘の事件が関係していないという訴状を認めろと言われても納得できない」として、なんと初公判で起訴状の朗読、罪状認否、冒頭陳述も行えない事態となり審理に入らないまま、その日は閉廷となった。

その後9月18日、袁に対し、新潟地裁長岡支部の三浦力裁判長は、求刑懲役17年に対して懲役12年の判決を言い渡した。

判決では、佐々木さん殺害の動機としては佐々木さんが慧娜さん殺害に関わっていると思い込んだこと、それに加えて意思疎通がうまくできなかったことから自分も殺されるのではないかと思い込んだことによる犯行と認定。
求刑から結構割り引かれた判決を見ても、袁に対して一定の酌量が認められたと思われる。

袁はその後控訴すると話したが、その後確定している。

しかし慧娜さん殺害については、現在までその解決には至っていない。

誰が少女を殺したか

子供の事件であり、本来ならば大騒ぎになっているわけだが、その後に父親が引き起こした事件に全てを持っていかれてしまった感じもする。

加えて、慧娜さん父娘が日本人でなかったこと、来日まもなく、二人とも日本の社会に接点がなかったことなども関係したのだろう。
もしも慧娜さんが小学校に通っていたり、どこかしらに繋がりがあればもっと世間も注目したのではないかと思う。
慧娜さんは日本の社会からするといわば「誰も知らない少女」であり、日本で起きた事件であるにもかかわらず、どこか知らない国で起きた事件のような感覚があったのかもしれない。

失踪して2週間も警察に通報しなかったのも悔やまれる。中国からやってきたこの父には、日本の警察に頼むよりも自分で捜す方が確かだったのか、それとも、違う事情があったのか。
袁は、自宅にある指紋を除外するための指紋採取の意味がわからず、警察から自分が疑われていると誤解していたという。
当初から警察に対する漠然とした不信感があったのだろうか。

他に、実際にはどんなことが考えられるか。
個人的に推理とか考察とか嫌いなのでしたくないのだが、事実を見て考えた場合、少なくともゆきずりの強盗、空き巣ではないと思われる。
二人が暮らしていたのは小さなアパートであり、もしも強盗や性的な犯罪目的で誰かが押し入ったとすれば、時間的にも午後7時から9時までの間ということもあり、何かしらの物音や騒ぎ声などが聞かれているはずだ。それもない。

ならば慧娜さんはやはり自発的に家を出たのだろうか。その理由は別として。
よそ行きの格好だった、というのが気にかかるが、そもそも日本語が話せない10歳の少女である。よほど知った人に会う予定でもなければ出かけることは考えにくいのだが、それは大人の考えであって、子供なりの好奇心などがあったのかもしれない。母親も、慧娜さんは一人で出かける可能性はある、と話していた。

ちなみに、警察が当初発表していた犯人像の中で、殺害遺棄現場の足場が悪いことから複数犯、とされていたが、その後、発見前に雨の影響で水傘が増え、上流から流されてその場所に流れ着いたものと考えられる、と訂正されていて、その時点で複数犯でない可能性も出ていた。

なんらかの事情で慧娜さんの意思で家を出たとして、なぜ慧娜さんは殺害されなければならなかったのか。
手口を見ても大人の犯行に思えるが、慧娜さん宅を訪ねていたという男女二人組の存在はその後全く報道されないことから、不審人物からは外されたのだろう。
小さな古いアパートで経済的にも余裕がなかった袁に、身代金目的の誘拐などあり得ないだろうし、そうなるとやはり慧娜さん個人のトラブルなのだろうか。10歳の女の子が死ぬトラブル……

本当は、真実はとても身近に、まさかと思って誰も気にしなかったようなことや、早々に打ち消されたことだったりするのかもしれず。灯台下暗し的な。

娘の遺体が確認されたわずか数週間後にその父親が起こした事件。なぜ父は自分の雇い主である佐々木さんが事件に関与していると思ったのか。
どこか、もうこの時点でこの父の精神は危うい状態だったような気もするが…
慧娜さんはあの夜、誰とどこにいたのか。

彼女を殺したのは。

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参考文献後ほど追記します

 

今まで大丈夫だったから~我が子を放置して平気な親たち~

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令和4年7月29日、神奈川県厚木市の公園駐車場で、「車内にいた子供の様子がおかしい」と母親から110番通報があった。
救急隊らが車内から子供たちを救出したが、1歳と2歳の姉弟はすでに意識がない状態、「これまで経験がないほど体が熱くなっていた」と救急隊員が言うほど子供たちの状態は悪かったという。

調べに対し母親は、公園で遊ばせた後、車内で子供たちといたと説明。ただ、7月末のクソ暑いさなかなぜかエンジンを切り、30分も自分はスマホをいじっていたのだという。
そして気が付いた時には、子供たちは後部座席で重篤な状態に陥っていた、という説明をどこの誰が信用すると思ったのか。
案の定、その後の調べで母親は知人男性宅の前の路上に子供たちを乗せたままの車を放置、男性宅で過ごした後に車に戻ったところで様子がおかしいことに気づきわざわざ公園まで車を移動させてから、110番通報していたことが判明。
子供の命よりも自己保身、しかもこの母親はこの事件の数週間前にもスーパーの駐車場に1歳の息子を残したままにしているのを通報されていた。

児童相談所が把握していながら防げなかった事件。もうあまりのことに頭がどうにかなってしまいそうだが、保護責任者による積極的な虐待とはまた違うこういった事件は後を絶たない。
毎年のように車内放置で死亡に至らなくとも危険にさらされる子供が報道されているのに、同じことをする人がいなくならないのはなぜなのか。

振り込め詐欺がいっこうになくならないのも、こう思っているからだ。

「まさか、わたしが。」「自分は大丈夫」「ちょっとだけなら大丈夫」

この事件に限らず、過去に起きたいくつかのケースを掘り起こしてみたい。
そしてそのケースごとの背景や結末、世間の当時の反応なども比較してみる。 続きを読む 今まで大丈夫だったから~我が子を放置して平気な親たち~

🔓惨劇の朝、消えた日本刀~下関・日本刀11人殺傷事件~

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惨劇の朝

昭和60年9月19日、午前5時45分。
下関市員光町のはずれのその家では、老母(当時72歳)がすでに起きて朝の家事に取り掛かろうとしていた。
老母は昭和50年に夫と死別したのちは、37歳になる息子との二人暮らしだった。
一週間ほど前から始まった屋根の葺き替え工事のため、職人たちがやってくる。9月とはいえまだまだ暑い。農作業もいろいろとしなければならないことがあった。
同居の息子も起きだしていた。畑の肥料の話をした後、老母は便所へと向かい、用を足して出てきたその時だった。

崩れ落ちる瞬間、老母はそれを見ただろうか。

血を噴きあげて絶命した老母を、男は無言で見下ろしていた。その手には、日本刀が握られていた。

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