母の涙が問うもの~宇和島・6歳双子金網監禁事件~

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法廷にて

「私、前に自分一人で解決しないといけないと思い込んでしまって、失敗したことがあるんです。だから今度は、ちゃんと相談しようと思っていました。」

松山地方裁判所宇和島支部第一号法廷。
証言台に座る女の無造作に束ねた髪には、その年齢にそぐわない白髪がのぞいていた。
被告人席には、夫の姿。両脇を屈強な刑務官が固める。その傍らに、女性職員の姿。
この事件の被告は、夫婦だった。

女は時折涙をぬぐい、自己の罪をかみしめるように、言葉を紡いだ。
「最後に何か言いたいことはありますか。」
促された夫は、
「そうですね、こんな事件起こしてしまって、Aくん、Bくんはじめ上の子3人、会社や周囲に大変な迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした。」
と少し早口に証言を終えた。
続いて、妻の番。しかし、妻は顔を上げ前を向いてこう言った。

「特に、ないです。」 続きを読む 母の涙が問うもの~宇和島・6歳双子金網監禁事件~

解体する人々~いくつかのバラバラ殺人~

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まえがき

人を殺すこと自体、すでに普通ではない。
しかしそこからさらに、その被害者を解体する人々がいる。
理由は様々だろう、単に遺棄するために運びやすくするため、発見を遅らせたいため、というより、事件の発覚を防ぐため。

ほかにもある、あまりにも憎しみが深くただ命を奪うだけでは腹の虫がおさまらない逆に愛するがゆえにその肉体の一部を所有したいそして、解体したい欲求に抗えない場合。

昭和の時代から平成にかけて起きた様々なバラバラ殺人事件の背景。

バラバラ殺人の分類

Wikipediaのバラバラ殺人のページをみると、そのパターンは大きく分けて「廃棄・隠蔽型」「公開・挑戦型」「制裁・見せしめ型」の3つに分けられるとされる。
そしてそれらはさらに細かく分類され、海外では快楽殺人とみなされることが多いというが、ここでは日本国内のバラバラ殺人について考えてみたい。

バラバラ殺人の多くを占めるのはやはり廃棄・隠蔽型だろう。
そのまま遺棄してしまうより、解体すればするほど本人特定は困難になろうし、それは犯罪の発覚も当然遅らせることになる。
多くはないが、わずかな骨片や歯から犯罪が立証されることもあるし、被害者が発見されていない状態でも状況証拠によって犯罪が立証され加害者が罰せられるケースもある。
このケースとしては、姫路2女性殺害事件八王子ホスト殺害熊谷愛犬家殺人事件などが該当し、いずれもその身勝手で凄惨かつ、人間を人間とも思わない所業が注目された。

公開・挑戦型で思い浮かぶのは宮崎勤の事件と、神戸の連続児童殺傷事件である。犯行声明や遺骨を遺族に送り付ける、体の一部を校門に晒す、こんな恐ろしいことをやってのける人間がいた。

一方、制裁・見せしめ型というのは日本ではさほど聞かれない。性質上、暴力団などの反社会勢力が行うことがほとんどと思われるが、それでもせいぜい遺体が海に浮かぶくらいのもので遺体を見せしめの目的で損壊したうえ晒すという行為はなかなか聞かれない。
近いものでいえば、横浜港バラバラ殺人(通称チェーンソーバラバラ※細かいようだが実際には電ノコ)が思い浮かぶが、朝日に照らされた住宅街に生首が整然と並べてあるのがもはや日常の光景といっても過言ではないメキシコマフィアのようなケースは日本においてはほとんどない。

バラバラ殺人は時に異常性の象徴のようにも扱われる。
井の頭公園のごみ箱から発見された遺体は、臓器や骨を無視してほぼ同じサイズに解体され、指紋などが削り取られていたことから組織的な犯罪や宗教がらみの犯罪ではないかとも推測されたが、結果として未解決になった(時効成立)。
藤沢の悪魔祓い事件江東区のマンション神隠し殺人佐世保女子高生殺害事件なども分析した有識者の間からは全員一致ではないものの加害者の異常性に言及するものもあった。
日本人男性によるパリの人肉事件も、目的はバラバラにすることよりも食すことにあったが一応、人格的な問題(精神異常ではない)が根底にあったと思われる。

愛情のもつれも人を解体へと導く。古くは昭和7年の首なし娘事件(陰獣事件)。バラバラとは違うが、愛する男の局部を切り取り懐に収めた阿部定。その情念は彼女の足元にも及ばないが、平成に入っても妻の不倫相手の局部を切り取りトイレに流した男もいた。
大宮の看護師バラバラ殺人も、疑惑はいろいろとあるものの逮捕された看護師は被害者との間で抜き差しならない三角関係にあったのは事実であり、被害者を解体したのは犯罪行為の発覚を免れたいという思いだけだったかどうかはわからない。
一方福岡の美容師バラバラ殺人については、被害女性と加害女性との間に一人の男性をめぐる恋愛の邪推があったことで、加害女性の憎悪の感情によるものとみられたが、結果として解体に及んだのは非力な加害女性が運搬を容易にするためだけに行ったこと、だった。

バラバラ事件の多くは猟奇的な印象をもって語られ、人々の記憶にも残る。
その中でも、北九州で起きた連続監禁殺人はその手口や、被害者と加害者に血縁があったこと、親子間での殺害、解体など想像を絶するような内情であり、今後も忘れられない凶悪事件として名を残すだろう。
ほかにも、練馬区の不動産売買トラブルによる一家5人殺害事件島根の女子学生バラバラ殺害、そして座間の9人殺害など、時代やその動機に関係なくバラバラ殺人は起きている。いずれも、人を人とも思わないその加害者らの人間性には言葉がない。

今回は、同じバラバラ殺人であるもののそこまで有名ではないいくつかの事件を取り上げたい。

遺体とともに

バラバラ殺人の動機としては真っ先に思いつくのが、遺棄するための運搬を容易にするため、であるが、中にはせっかく(?)解体した遺体の一部をなぜか手元に置いてそのまま生活してしまう人がいる。
遺体を捨てられずに自宅や敷地内に隠蔽してしまうケースは多いし、特に新生児など、遺体さえ見つからなければどこからも捜索願は出ないわけで、犯罪発覚を防ぐためにというケースは多い。もちろん、新生児の場合は母親の親心によるものもあるだろう。

しかしバラバラにしたからには隠蔽するにしてもどこかに運んで遺棄することが念頭にあってのことだろうし、普通の感覚でいえば一刻も早く手元から離したいと考えるのではないだろうか。なぜそのまま自分の手元に置いてしまうのか。

花繚れるプランターの秘密

平成元年8月15日。千葉県市川市の主婦が、葛南署に出頭してきた。
主婦の話では、「7年前に内縁の夫が人を殺した。私もそれを手伝った」というもので、供述に基づいて主婦の自宅を捜索したところ、裏庭のプランターから成人の遺体が出た。
遺体は5つに切断されており、それぞれビニール袋に入れられて埋められていた。
葛南署は、主婦の内縁の夫で無職の増岡諭(仮名/当時30歳)と出頭してきた内縁の妻で主婦・良枝(仮名/当時26歳)を殺人の容疑で逮捕した。

事件は7年前の昭和57年に遡る。
増岡は当時から交際していた良枝とともに、印旛郡富里町日吉台のアパートで生活していた。
そのころ、増岡は知人男性と共同でルーレットの遊技場を経営していたが、この知人男性に対して50万から100万円ほどの借金もあったという。
ある時、借金の返済を厳しく求められた増岡は、知人男性を自宅に呼び、借金についての話し合いをしていたところ口論となり、殴りかかってきた知人男性を組み伏せ、そのまま文化包丁でめった刺しにして殺害。その後、良枝と二人でノコギリを用いて遺体を5つに切断した。

それから増岡と良枝は婚姻届けを出し、正式な夫婦となった。実はそのころ、良枝のおなかには子供がいたのだ。増岡は逮捕後の取り調べで、「良枝のおなかの子のことを考えると、捕まるわけにはいかなかった」と供述しており、終始良枝をかばう様子だったという。
逮捕当時、その時のおなかの子は6歳になっていた。

当時未成年だった妻を巻き込んでおいてかばうも何もないわけだが、一蓮托生、ふたりはその解体した遺体を手元に置くことで事件発覚を防ごうとした。
大型のプランターを購入すると、遺体をその中に隠して土を入れ、そこに花を植えた。引っ越す時も、当然遺体の入った袋は引っ越しの荷物に忍ばせた。そして新居でまた、プランターに埋めて花を植えたのだ。
増岡家の庭には、いつも花々が咲いていた。

事件発覚のきっかけは、強い絆で結ばれたはずのふたりの仲が冷えたことだった。
昭和63年、ふたりは離婚していた。しかし、その後も同居は続けていたという。ただ増岡は良枝とよりを戻したかったとみえ、つい、こんな脅しをかけてしまった。

「復縁しなければ事件のことをばらす。」

このままでは逃げられないと悟った良枝は、すべてを告白する道を選んだ。

裁判では増岡の本性が晒された。
逮捕直後は良枝を庇っていた増岡だったが、公判では一転、刺したのは自分ではないと言い出した。
当初は合同で始まった裁判だったが、早い段階で増岡は刺したのは妻の良枝であると主張したため、分離公判となった。
良枝は殺害現場にいたことは認めていたが、被害男性を蹴ったりしただけで殺人ほう助の罪での起訴となっていた。
ところが良枝も「殺害するつもりだったとは知らなかった」として、殺人ほう助の事実を否認。

平成2年4月25日、千葉地裁は増岡に対して懲役10年の実刑判決を言い渡した。この一か月前には、妻の良枝に対して懲役2年6月の判決も言い渡されていた。

犯行の発覚を防ぐために隠し続けた5つのごみ袋。それを隠した場所には、花が咲き乱れていた。
死体損壊と遺棄の時効は6年で成立していたが、殺人の罪を免れるためには、ふたりの絆は弱すぎた。

21年後の伊勢湾事件

平成3年3月。名古屋市北区のマンションから「異臭のする衣装ケースがあり、中に死体のようなものが入っている」と通報があった。
愛知県警捜査一課と北署が捜査したところ、その衣装ケースからはたしかに、女性の上半身が見つかった。
遺体は下半身がなく、上半身は一部白骨化し、残りはミイラ化していたという。
県警捜査一課が通報者の夫であり、この部屋の借主である男性に話を聞いたところ、男性は衝撃の告白をする。

「20年前、交際していた女性を殺して両足を切断、下半身(足)は捨てた。」

同課が過去の事件を調べなおしたところ、昭和45年に伊勢湾内の二か所で女性の片足がそれぞれ発見された事件が未解決のままとなっていることに注目、鑑定の結果、発見された上半身と、伊勢湾事件で発見された足が同一人物のものと判明した。

住人の男性からも、遺体は三重県南牟婁郡出身の横倉カツ子さん(当時24歳)だという自供が取れていた。

しかし、この事件そのもの(殺人、死体損壊、死体遺棄)が、すでに昭和60年に時効成立となっていた。

男性は、昭和45年当時にはバーテンダーの仕事をしていたという。そして、当時交際中だったホステスのカツ子さんと、名古屋市千種区のマンションで同棲していた。
ある時、カツ子さんの帰宅が遅いことから口論となり、カッとなって両手で首を絞め殺害。その後ノコギリで両足を切断すると、布にくるんで木曽川の橋の上から捨てたのだという。
足はそれぞれ、左足が昭和45年4月23日に愛知県知多郡美浜町の若松海岸防潮堤上で、右足が同年5月4日に三重県桑名郡長島町松陰の揖斐川左岸波打ち際で発見されていた。

鑑定の結果、それぞれの断面が一致することや、45年当時に足の状態から20歳以降の女性で、パンプスを履いて立ち仕事に従事している可能性のある人、といったことが分かっていたことも、ホステスだったカツ子さんのものであることをうかがわせた。
その後、男性と同居していた女性が横倉カツ子さんであるという確証も取れたことなどから、男性が殺害して隠し持っていた上半身と、伊勢湾事件で発見された両足の主は、横倉カツ子さんであると断定された。

発覚の経緯は、男性の妻(当時25歳)の通報だった。
男性はブリキの衣装ケースにカツ子さんの上半身を隠していたが、妻には「この箱は刑務所にいる友人からの預かり物で大切なものだから、絶対に触ってはいけない」ときつく言い渡されていたという。
しかし、妻はその箱から何とも言えない異臭がすることが気になっていた。
そして、ある時その箱を開けてみたところ、遺体が入っていたというわけだ。

男性は遺体を捨てずに21年間も隠し持っていた理由を、「捨てる機会を逸していた」と話したというが、一方で、「土に還してやればよかった」などと、カツ子さんに対する情を見せる供述もしていた。
捨てるにしても、愛した女性をむやみに川や山へ、というのは忍びなかったのかもしれない。それが、機会を逸した、という言葉になったのかもしれない。

県警はすでに時効が成立していることから、男性から任意で話を聞き、一応、書類送検という形をとった。

男性と妻がその後どうなったのかはわからない。

家族とともに

子供に解体させた男

平成3年3月26日、熊本市。
坪井6丁目のアパートから、「部屋の中のごみ袋から異臭がする」という届が熊本北署にあった。
ごみ袋から異臭と言われても、そもそもごみ袋であり中に生ごみが入っていれば異臭もするだろうよと思いながらも、署員がごみ袋を確認したところ、中から出たのは男性のバラバラに切断された遺体だった。

届け出たのはこの部屋の住人である女性。女性は自身の子供4人と、離婚した元夫、そして元夫の知人男性とで生活していたという。
遺体が入っていたゴミ袋は2DKのアパートの四畳半の間に5つの黒いごみ袋に入れられていた。このごみ袋は、女性によれば1週間ほど前からあったという。
遺体の身元は、どうやら同居していた内縁の夫の知人男性、長谷川正己さん(当時62歳)であると思われた。内縁の夫は、女性が届を出した以降、行方が分からなくなっていた。

警察ではアパート内に血痕があったことから、何らかの事情で死亡した長谷川さんを、この部屋で解体、そのまま放置していたとみて行方の分からない内縁の夫を指名手配した。
指名手配されたのは、無職の川端義雄(仮名/当時47歳)。27日、熊本県警捜査一課と熊本北署は、死体損壊容疑で川端の内縁の妻で届け出た女も逮捕した。

女もその後警察の調べに対し、長谷川さんが死亡した経緯をぽつりぽつりと話し始めた。

長谷川さんは平成2年の暮れに、川端がアパートに連れてきて同居し始めたという。川端は元暴力団員で、長谷川さんのことは子分のような扱いをしていた。
同居を始めた直後から、長谷川さんは殴る蹴るの暴行を受けていたといい、川端は「親分、子分のつながりをわからせる」と言っていたという。
組長気取りの川端に対し、長谷川さんは反発することもあったという。言いなりにならないことで苛立った川端は、18日頃木刀を持ち出して長谷川さんに苛烈な暴行を働いた。この時の暴行が元で、長谷川さんは死亡した。

その後、長谷川さんを捨てる目的で解体したものの、おそらく疲れ果ててしまったのだろう、ゴミ袋に入れたはいいが、その先の行動に移せずにいた。川端自身、免許を持っていなかったことも関係しているだろう。
自宅の四畳半の間にとりあえずまとめてみたものの、いくら3月でまだ肌寒い日もあるとはいえ、そのゴミ袋から発せられる臭いは、日に日に耐え難いものへと変わっていく。
根をあげたのは妻だった。もう我慢できないと、警察への出頭を仄めかしたところ、川端は逃げた。

指名手配となった川端だが、実は警察は頭を抱えていた。
この川端、実は3年前にも熊本市内で傷害事件を起こした際、なんと5ヶ月に渡って逃亡した実績があったのだ。
熊本県警は長期戦も覚悟で、川端の行方を追った。

事態が動いたのは、4月13日の夕方だった。
熊本県玉名郡内の県道で、玉名市のタクシーが路上で不自然に停車していた。通行人が訝しんで確認すると、女性のタクシー運転手が血を流して倒れていた。
幸い、搬送されて命は取り留めたが、右胸や右手、脇腹など5箇所も刺されており、3ヶ月の重傷だった。
その後、被害者の証言から逃走中の川端の犯行と断定。
警察の調べによれば、このタクシー会社に前日の12日、男から電話予約があり、事件に遭ったタクシーが走行したのとほぼ同じコースを走っていたという。
その際、女性ドライバーで、という条件がつけられていた。
事件当日も、同じ男によって同じコース、同じく女性の運転手でという条件付きの予約が入れられていた。

タクシー会社は原則、そのような条件は受け付けない、としながらも、長距離になることから営業面でのメリットがあるため、社内の女性ドライバーに確認してみたところ、被害に遭った女性が承諾したためその予約を受けたのだという。
ただこの予約、女性ドライバーというだけでなく、「独身者」という条件まであった。この時点で絶対やばいわけだが、田舎ということもあったのか、危機感は薄かった。

女性ドライバーは指定の場所で男を見つけたが、挙動不審な男に危機感を覚え、当初乗車拒否をしたというが、男は強引に乗り込んできた。
男は、川端だった。

川端はしばらく国道208号線を走らせたあと、突如後部座席から女性ドライバーを羽交い締めにし、ナイフで滅多刺しにした。
その後、車内の釣り銭数千円を強取し、徒歩で逃走したという。
県警は逃走中に重大な犯罪をまたも犯した川端は危険な状態になっていると判断、一刻も早い逮捕が必要だった。

川端が逮捕されたのはその翌日だった。
午前11時前、山鹿市のJRバス山鹿営業所のタクシー乗り場に現れた川端は、久留米インターまで走るよう運転手に頼んできた。
が、その運転手が断ったため、川端は別のタクシーに乗車したという。
タクシーが川端を乗せて走り去ったあと、最初に乗車を断った運転手は胸騒ぎを覚えていた。あの男、手配書の男じゃないのか。
通報を受けた警察が追跡したところ、川端は九州自動車道菊水インターで下車していることが判明、その直後に同インターを通過した高速バスを捜査員が追跡したところ、久留米市のバス停で追いつき車内にいた川端を逮捕したのだった。

逮捕された川端は長谷川さん殺害と、タクシー強盗も認め、その後懲役15年の判決を言い渡された。

川端は長谷川さんを殺害したあと、その処理を妻と子供に命じていた。川端の実子なのか不明だが、当時川端の家には妻の、上は13歳から下は4歳の子供たち4人がいた。
殺害と解体はこの子供達も同居する狭いアパートの中で繰り広げられておりそれだけでもとんでもない話だが、長谷川さんの遺体を解体することを、なんと子供のうちの一人にも命じていたのだ。
妻とその子供は、風呂場で長谷川さんの遺体を5つに切断、ゴミ袋に詰めた。

妻は死体損壊容疑で逮捕となったが、子供は13歳以下だったことで罪には問われなかった。
しかしその心には大きな傷が残ったことは想像に難くない。

ビーフシチューと手引きのノコギリ

平成5年11月、大阪市此花区の舞洲北岸を散歩していた男性は、テトラポットの間に何かが漂っているのを見つけた。
近づいてみると、それは人間の頭部だったことで警察に通報。
損傷が激しかったこともあり身元の確認は難航、当初は女性だと思われたその頭部は、のちに男性のものということは判明した。

その頃、大阪市港区で一人の男性の行方が分からなくなっていた。男性は妻がいたが、妻によれば「勝手に家出した」と話していたが、なぜか捜索願を出していなかった。
さらに、男性と連絡が取れなくなったことを心配した友人に、「出張に出ている」と話したかと思えば、「離婚届を置いて出て行った」「仕事に行き詰っていた」などと、自殺を前提とした失踪をにおわせるようなことを言っていたという。

ただ、実際に男性の携帯電話が解約されており、解約を担当したショップのスタッフらも、男性本人と思われる人物が電話をしてきたと話していて、真相は杳としてつかめずにいた。

ところが、平成5年2月になって、男性の妻は港署に夫の捜索願を出す。理由は、夫の友人らが「行方不明になって相当経つのに捜索願を出さないのはおかしい」と訝しんだからだった。
妻は警察に対し、「昨年の11月中旬、仕事に出ると言ったきり行方が分からなくなった」と話していたが、実際に夫がいなくなったのは10月だった。

妻から捜索願が出たことで、当然舞洲で発見された頭部の鑑定が行われ、その頭部こそが行方不明の男性であると断定、頭部の身元は、港区市岡の冷暖房設備業、石谷松男さん(当時45歳)だった。

するとここでおかしな事実が浮かび上がった。
妻は石谷さんが行方不明になった時期を平成4年の11月と話していたが、頭部の鑑定の結果、死亡推定時期は平成4年の10月で、妻の話には明らかな矛盾が生じていたのだ。

2月20日未明、大阪府警捜査一課と此花署捜査本部は、石谷さんの遺体を切断して頭部を捨てたとして、妻の美佐子(仮名/当時44歳)と、美佐子の実弟であり、石谷さんの部下でもある松野泰弘(仮名/当時40歳)を逮捕した。
松野は姉の美佐子と共謀して石谷さんを殺害したことについても認めていたが、美佐子は否認していた。

松野の供述によると、姉の美佐子から夫婦仲が悪いことを聞かされ、その要因が義兄である石谷さんにあると知り、さらには美佐子から金銭をチラつかされたことから犯行に加担。
美佐子があらかじめ睡眠薬を混ぜたビーフシチューを食べさせると、意識が混濁した石谷さんを二人して絞殺。その後、解体したのちに会社の軽バンに遺体を積み込むと、阪神高速湾岸線上の神崎川橋から海に遺体を放り捨てた。
その後淡路島まで走らせ、複数の場所で遺体を捨てたと自供した。携帯電話の解約をしたのも、松野だった。

美佐子は石谷さんに虐げられていたという。
会社経営者であり、ある程度自由になる金があったようだが、それは次第に度を越していった。
遊び歩く石谷さんの会社の業績は悪化の一途をたどり、にもかかわらず、石谷さんは女遊びをやめられなかったという。
しまいには借金してまで、女に入れあげた。
美佐子の心には、憎悪とともに石谷さんにかけられていた1億円の生命保険の解約返戻金のことがあった。

実弟の松野に対し、ことあるごとに石谷さんの所業を話して聞かせるうち、松野も「義兄が働かず姉が苦しい思いをしていた。殺さなければならない」と思うようになり、加えて美佐子から生命保険金の解約返戻金から1千万円を渡すといわれ、松野の心は決まった。

解体には手引きのノコギリを使用したという。当初は効率化をはかって電動ノコギリで解体を試みたというが、思いのほか肉片が飛び散ったことに慄き、時間はかかるものの普通のノコギリで解体した、と松野は話した。

義理とはいえ兄であり、会社の社長だった人間をその手で解体するというのは、どういう気分なのだろうか。
裁判では石谷さんの落ち度も一定割合認定されたが、大阪地裁は二人に対し、
「冷酷、残忍な犯行。遺体をごみのように扱うなど著しく人間性を欠いている」
として美佐子に懲役15年、松野には懲役12年を言い渡した。

離婚でもなく別居でもなく、殺害を選んだ美佐子の心理は実に興味深い。離婚しなかったのは単に石谷さんが応じなかったのか、それとも、美佐子自身、離婚してしまうと石谷さんの思う壺だと思ったのか。
解体したのは、この事件より前に住之江で起きたバラバラ殺人からヒントを得たのだという。単に事件の発覚を遅らせ、捨てやすくする為だと思われるが、手引きのノコギリから直に伝わる石谷さんの肉を引き裂く感触は、忘れられるものとは思えない。

浄化槽に浮かんだ「鶏肉?」

昭和61年5月15日。新潟市内のラブホテルの浄化槽の定期点検に訪れた作業員は、浄化槽に浮かぶドロリとした固形物に目をとめた。
それらは10センチ四方の柔らかなもので、よく見ると毛穴のようなものが見えた。作業員は「鶏肉の皮?」と思った。
浄化槽はホテル内のトイレからの汚水が集められるため、なんで鶏肉なんかトイレから流したんだろうと思った作業員が浄化槽をかき混ぜてみると、少し大きな鶏肉が浮かんできた。
「まさか、そんなこと…」
作業員は青ざめた。その浮いた「鶏肉」には、人間の爪がついていたのだ。

通報を受けて浄化槽をさらった新潟東署によると、肉片は全部で60個ほど見つかった。総重量で約5キロ、その中に頭部、骨、内臓は含まれていなかったという。
作業員が見つけた爪がついた部分は足の指で、骨はなかった。

新潟県警は殺人と死体遺棄事件として捜査、まずは被害者の身元特定に全力を挙げた。
地元や周辺での行方不明者には該当者がおらず、ホテルという場所柄、他県からの利用者の可能性も視野に聞き込みを続けていると、先月の中旬に香川ナンバーの乗用車がこのホテルを利用していたことが判明。
新潟県警は浄化槽から見つかった指から辛うじて採取できた指紋を、香川県警に照会。すると、このホテルで香川ナンバーの車が目撃された時期に行方不明となっていた高松市内の女性と一致した。

乗用車もその女性のものと確認され、浄化槽に浮いた肉片は高松市在住の店員、青木ユミ子さん(仮名/当時49歳)と断定された。

ユミ子さんの自宅のふろ場からはルミノール反応が出たため、この風呂場で解体された後、新潟のホテルでその一部が捨てられたとみられた。

ユミ子さんは全夫との間に生まれた娘と、再婚した夫との3人暮らしだったというが、実はユミ子さん失踪直後、この夫の行方も分からなくなっていたのだ。
夫は自分名義の預金を200万、そして義理の娘の口座からも30万ほど引き出した後、行方が分からなくなった。
捜査本部はこの夫が事情を知っているとみたが、実はこの夫、すでに別の容疑で全国指名手配中だった。
それは、義理の娘に対する暴行容疑だった。

指名手配されたのはユミ子さんの夫で元クレーン運転手の青木邦男(仮名/当時37歳)。
邦男の足取りはつかめていなかったが、新潟のラブホテルで肉片が見つかった後、別のホテルの浄化槽からもユミ子さんのものと思われる肉片が発見され、そのホテルの防犯カメラにも香川ナンバーのユミ子さんの車が映っていた。
ホテルを利用したのも、証言から邦男で間違いなく、邦男はユミ子さんが何らかの事情で死亡した後、風呂場で解体して複数の場所に遺棄しているとみられ、遺体の回収などを考えても一刻も早く邦男を見つけ出さなければならなかった。

邦男の足取りがつかめたのは事件から2週間後の5月30日。しかも、邦男本人からの「電話」だった。
滋賀県野洲郡内の農家から、地元の読売新聞大津支局に電話があった。
電話の主は「猟奇殺人で指名手配されてるもんだが」と言っていて、駆け付けた新聞記者に自身の言い分を話して聞かせたという。
その中で、自分は殺してない、ということを話したようだが、通報を受けていた滋賀県警によって逮捕となった。

邦男とユミ子さんは昭和58年に知り合った。当時ユミ子さんは既婚者だったが、酒好きなこともあり高松市内で小料理屋を営んでいたというが、なかなか経営は厳しく1年で閉店、その時借金が300万円以上にもなっていたことで夫とは離婚した。
離婚後にユミ子さんが働いていた炉端焼き屋の常連客が、邦男だった。

邦男は高松市内で生まれ、中学を出た後は中国地方を転々としながら生きていた。
特にこれといった趣味や仕事もなく、その日その日に流されるように生きていた邦男は、年上のユミ子さんの包容力に惹かれたのか、交際を始める。
その後ふたりは同棲、ふらふらしていた邦男も正社員の職に就き、ユミ子さんも当時は鰻屋で働いていた。
周囲からも仲睦まじく見られていたというが、昭和61年、二人の関係は怪しくなる。

邦男の元来の怠け癖が出たのか、せっかく正社員で勤めていた会社を辞めたのだ。ユミ子さんはたしなめたというが、それでもユミ子さん自身仕事をしていたこともあり尻を叩いて次の仕事を探させるようなこともなかった。
が、いつまでたっても仕事をしようとしない邦男に、次第に愛想も尽きてくる。

ある時、邦男はユミ子の娘の貯金に手を付けようとした。当時、ユミ子さんは自分名義のマンションを借りてそこで邦男と暮らしていたが、そこに娘も呼び寄せていたのだ。
どうやら邦男は自分の店を持ちたいと思いついていたようで、その資金に、ユミ子さんとユミ子さんの娘の貯金を充てようとしていたようだった。

当然反対するユミ子さんとは、連日口論が絶えなくなった。
4月19日、ユミ子さんの長女が出勤した後、二人はまた口論となる。
そこで、ユミ子さんの口から「ぐうたら男!」という言葉が出た。邦男は激高し、ユミ子さんの首を絞めてしまう。そして、気が付くとユミ子さんは動かなくなっていた。

その後の邦男の行動は早かった。日々流されダラダラしていた男とは思えぬ行動力で、鰻屋へユミ子さんが休む旨の電話をし、娘の勤務先にも「お母さん(ユミ子さん)は大阪で葬式があるんやが、おまえはどうする?」と何食わぬ顔で電話した。
親戚でもない人の葬式に行くはずもない娘が今日は友達のところに泊まる、と言ったのを確認し、邦男はすぐさまユミ子さんの遺体を浴室に運び、バラバラに解体した。

その際、もっと細かくしないとすぐばれると思い、10センチ四方に切り刻んだというが、結局途中で「嫌になって」手足についてはそのままごみ袋に放り込んだ。
そして、広島、鳥取を経由し新潟市内へ入り、宿泊したラブホテルの浴室でやり残していた手足の肉をそぎ落とすと、骨以外をトイレに流したのだ。ちなみにほかの部位は通過した県の山や海に次々捨てていた。

邦男は包丁を手に、逃走前夜、ユミ子さんの娘の部屋へ向かった。
そしてそこで、義理の娘に暴行を加えてから逃走した。
娘が突き付けられた包丁は、母が切り刻まれた包丁だった。

邦男の裁判、判決については資料がなくわからなかった(わかれば追記)が、もしももっと細かくしてからトイレに流していたら、おそらく当時の科学捜査ではわかりようがなかったのではないか。
ここで興味深いのは、バラバラにし始めて途中で「嫌になる」犯人が一定数いるということだ。
当サイトで過去に書いた、交野市の夫バラバラ殺人でも、まるで途中で放り出したかのように解体途中の遺体はそのまま放置されていた。

邦男も、せっせと解体作業に取り掛かったのもつかの間、その後は逃走しながら大きな部分は海や山に捨て、指紋などがある部分は削ぎ落して細切れにしたものの、結果としてラブホテルの浄化槽に浮いた肉片の一部から指紋が割れた。

何事も長続きせず、日々思いつくままに流された男は、最後まで長続きしなかった。

解体する人々

私は飼っているアラスカンマラミュートのために肉屋でもらった牛骨(生)をノコギリでバラすことがあるが、あっという間に切れなくなる。脂がのこぎりの歯に詰まって切れなくなるのだ。そのたびに熱湯で脂を落としながらの作業はとんでもなく大変だ。
血抜きも十分でない場合は臭いも凄まじいと聞く。そのにおいをごまかすために、わざわざ煮たりカレーにしたりと工夫を凝らす人もいるという。

埼玉の愛犬家殺人や北九州監禁、暴力団がらみのように、殺人自体何かの解決の手段としか考えておらず、かつ、犯罪の発覚を防ぐ目的でハナから解体しようと決めているケースはさておき、多くの事件は殺してしまった後で処理に困って、というパターンが多い。

女性でもそれをやってのけていることを考えると、力はそんなにいらないのだろうと思うがそれにしても、風呂場で黙々とナタを、ノコギリを、包丁を使って行うそれはどんな犯罪よりも「不気味」である。
他人や、憎い相手ならばいざ知らず、肉親や配偶者に対してそれを行うその心はどうなっているのか。
何を考えながら、罪を重ねているのだろうか。

「やるしかない」なのか、それとも「こんなはずじゃなかった」なのか。

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参考文献

バラバラ殺人の系譜 龍田恵子 青弓社
無限回廊 戦後の主なバラバラ殺人事件
事件録 

朝日新聞社 昭和61年5月26日東京朝刊、平成元年9月6日、平成3年3月13日名古屋朝刊、平成15年2月19日大阪夕刊
読売新聞社 平成元年9月2日東京朝刊、平成3年3月27日西部夕刊、3月28日、4月1日、4月15日、4月19日西部朝刊、平成15年2月20日大阪夕刊、大阪朝刊、3月13日、6月16日、12月18日大阪夕刊、
産経新聞社 平成15年3月11日大阪朝刊、8月14日、9月25日大阪夕刊
NHKニュース 平成元年10月13日、平成2年3月14日、4月25日
毎日新聞社 平成2年4月25日東京朝刊、平成3年3月11日大阪朝刊、東京朝刊、平成3年2月20日大阪夕刊、2月21日、2月24日大阪朝刊、平成15年12月18日大阪夕刊
中日新聞社 平成3年3月10日朝刊
西日本新聞社 平成3年3月27日夕刊、4月3日、4月14日、4月16日朝刊
熊本日日新聞社 平成3年4月16日夕刊

🔓ママなんか怖くない~ひたちなか市・小1女児せっかん死事件~

この記事を転載あるいは参考にしたりリライトして利用された場合の利用料金は無料配信記事一律50,000円、有料配信記事は100,000円~です。あとから削除されても利用料金は発生いたします。
但し、条件によって無料でご利用いただけますのでこちらを参考になさるか、jikencase1112@gmail.comまで連絡ください
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台所にて

「これ、どうすんの?」
「立たせとけばいいんじゃない?」

女は目の前にいる女児をそういうと手近にあったモップの金属製の柄で力任せに殴りつけた。女児は悲鳴をあげるが、それでも殴打する手を止めない。
やがて女児の悲鳴は獣の咆哮のようなものへと変化。さらには脱糞するまでにいたった。

「汚い!あっちいって」

まるで汚物を押し付けあうかのように女児の体をどつき回す大人たち。

そしてその日の午後、女児はたった6年の生涯を一人ぼっちで閉じた。

平成12年3月23日、水戸地裁の松尾昭一裁判長は3人の男女にそれぞれ懲役4年から6年の実刑判決を言い渡した。
3人は、あの女児の実母と養父、そして、女児と同じ名前を持つ、実母の友人の女だった。

殺す親、殺される子供~3つの子殺し~

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まえがき

子供は、誰にどのように育てられたか、が非常に大切であると私は考えている。
危険から守り話を聞いてくれる大人がいて、教育と適切なしつけを受けられ、衣食住がそれなりに足りていること。
ここに出てくる「大人」は、血のつながりは関係ない。両親がいなくても、自分を守ってくれる存在があればよい。

たとえ衣食住が足りていてもその守ってくれる存在がない、それだけで子供の環境は劇的に悪化し、ましてや本来保護してくれるはずの両親、あるいは両親のどちらかが「危険」な存在であったとしたら。

親であるというだけで外部からそれは見えなくなり、ことは軽く考えられ、結果子供の命は脅かされる。

殺す親と、殺される子供の事件。

荒川区の母親と子供

平成26年12月29日、荒川区のマンションの13階から5歳の男の子が転落したと警察に通報があった。
外出先から帰宅した父親が、男児が家の中にいないことを知って外を確認したところ、マンション敷地内で男児が倒れていたのを発見したという。男児は間もなく死亡が確認された。

亡くなったのは、このマンションで両親と暮らす山岡光希ちゃん(苗字のみ仮名/当時5歳)。
光希ちゃんが転落した当時、自宅には母親がいて、光希ちゃんは就寝しているはずだった。
所用で直前に家を出た父親が10分後に帰宅すると、母親が狼狽えて光希ちゃんの姿が見えないと話したといい、周辺を捜索したところ倒れている光希ちゃんが発見された。

母親は自宅にいたがトイレに行くなどして気付いたら寝室の窓が開いていたという。
状況から、光希ちゃんが両親の姿が見えないことを不安に思い、窓から身を乗り出すなどして転落したとみていたが、不審な点があった。
転落したとみられる窓とその周辺に、光希ちゃんの指紋が一切ついていなかったのだ。

さらに、母親が一週間ほど前に光希ちゃんに対し、首を絞めるという行動に出ていた事実も発覚。
平成12年12月30日、警視庁尾久署はこの母親をまずその時の殺人未遂容疑で逮捕し、あわせて今回の光希ちゃんの転落についても関与しているとみて捜査を開始した。

ただ、この母親には精神科への通院歴があったため、逮捕後およそ3か月かけて精神鑑定が行われることになった。

クリスマスパーティーの夜

逮捕されたのは加藤愛(当時35歳)。調べによると、第一の事件として、平成15年12月23日、荒川区のホテルで行われた夫の会社のクリスマスパーティーにおいて、愛は光希ちゃんを女性トイレに連れ込むとその個室内で暴行を働いた。
捜しに来た夫や知人女性らがトイレに入ると、個室の中から「ママ、ごめんなさい」という光希くんの悲痛な声が聞こえたという。
夫らが必死でなだめ説得したところ、その時は光希くんを解放。しかし光希くんの首には、何かで絞められたような赤い痕が痛々しく残っていた。

愛はこの日の出来事を「何か飲み込んだようだったため、それを吐かせようとしていた」などと夫らに釈明し、首を絞めたことを頑として認めなかった。
夫はそれでも不信感がぬぐえず、また、光希ちゃん自身がトイレ内の電源コードを指さし、「あれでママに首痛くされた」と話したことから証拠として光希ちゃんの顔と首の状態を写真に残した。

この事件があって一週間もしないうちの悲劇だった。
しかも、夫はこの23日の出来事を警察に「妻の精神が不安定で子供に危害を加えた。精神科に入院させたい」と電話をかけていたが、相談にとどまったことと、その時住所も氏名も言わずに電話を切ったことから、警察ではそれ以上の対応が出来ていなかった。

その電話は、光希ちゃんが転落する9時間前のことだった。

愛はクリスマスパーティーの夜の事件で逮捕されたが、当然、光希ちゃんの転落死についても関与が疑われた。
精神鑑定が行われたのちの平成27年5月、警視庁捜査一課は愛に刑事責任能力があると判断、光希ちゃんを投げ落としたとして愛を殺人の容疑で再逮捕した。
取り調べにおいて、愛は光希ちゃんを自ら抱き上げ、13階の自宅マンションの窓から落としたことを認めていた。
しかし、平成28年3月から始まった裁判員裁判において、愛は光希ちゃん殺害を否認した。

手に負えない女

裁判の過程で、愛のそれまでと、結婚生活が明らかとなった。
幼い頃家庭に恵まれなかったことや、義理の父親から首を絞められるという虐待経験があったことも分かった。さらに、軽度ではあるが、愛には知的障害もあった。

これらの事実を踏まえ、弁護側は12月23日のトイレでの事件は、過去の虐待体験がフラッシュバックして発作的にしてしまった行動であり、そこに殺意はないとし、殺人未遂ではなく傷害罪に留まると主張、さらに、転落死については完全な事故死であるとして無罪を主張した。

一方で検察側は、年の離れた夫の愛情を独り占めしたいという愛の独りよがりな願望が根底にあり、光希ちゃんが生まれたことでその夫の愛情が光希ちゃんへ向けられることへの苛立ち、さらには育児へのストレスがあいまって、光希ちゃんがいなくなればまた夫と二人の生活が送れると考えるに至り、短時間に躊躇なく殺害しており悪質として、懲役15年を求刑していた。

証人尋問では、クリスマスパーティーの夜の事件を間近で見て、愛に対し説得を試みた知人女性が出廷。
普段から愛は子育てや光希ちゃん自身に興味がない様子だったと証言、一方で、光希ちゃんは常々不安定な母親を気遣い、幼いながらに「ママ、大丈夫?」と心配していたといい、とにかくかわいくて良い子だったと涙ながらに話した。

光希ちゃんの父親である愛の元夫(裁判当時は離婚済み)も証言台に立った。
元夫によれば、精神的に不安定になった愛を入院させるか迷っていた時、光希ちゃんに「ママいなくなっても(入院しても)大丈夫か?」と聞いたという。
光希ちゃんは、「大丈夫、でもママは好きだから僕が守る」と答えたのだという。
元夫から見ても、愛は育児に割く時間を極力減らそうとしており、光希ちゃんに対しても一緒にいたくないような、そんな風に思えていた。
それでも、光希ちゃんはそんなママが大好きだったのだと、苦しい胸の内を証言した。

しかしそんな関係者らの証言をよそに、愛は一貫して「転落は事故。私は関係ない」という主張を変えなかった。ホテルでの首絞めに関しては認めはしたものの、発作的な行動であり、殺意などなかったと話した。

転落した夜については、
「おならをしたため換気する目的で寝室の窓を開けた。その後、トイレに入っていた時に光希が起きだしてパパを呼ぶ声がしていたから、窓から身を乗り出して落ちたと思う。」
という主張を繰り広げ、窓枠に光希ちゃんの指紋がなかったことについては、自分が窓枠を拭いたからだと話した。
息子が転落した状況であるにもかかわらず真っ先に窓枠を拭くという不可解な行動をしたことについては、
「自分が落としたと疑われると思ったから、自分の指紋を拭くためにしたこと」
とこれまた理解に苦しむ供述をした。

ただ、取り調べの段階では愛は光希ちゃんを窓から落としたことを完全に認めていた。しかもその様子は録画されており、裁判で公開された。
もちろんそれは当初の予定通りのことであり、この裁判の争点は
「愛の取り調べ段階での供述の信用性」
だった。

懲役11年

裁判員裁判として行われた公判では、証拠としてその取り調べの様子を録画したビデオが提出された。
それによれば、愛は当初より録画されていることを認識したうえで、「子どもなんかいないほうがいいと思い、窓から突き落とした」「(成長して)体重が重くなると抱えられない。今だったら自分一人の力でできると思った」などと、光希ちゃんに対する明らかな殺意を認め、その方法についても自発的に証言していた。
あまりにしゃべるため、警察官の側が「あなたは今、自発的に話していますか?」と確認する場面もあった。

それを受けて、公判で無罪主張に転じた愛は、
「自責の念から自分が殺したようなものだ、と考えた」という主張を展開したが、裁判員らの目には何が真実かは明らかだった。

平成28年3月23日、東京地裁の斎藤啓昭裁判長は、
「自白は体験しなければ語ることができない臨場感があり、供述の信用性に疑問はない。」とし、愛の無罪主張を退けた。
一方で、クリスマスパーティーの夜の首絞めについては、発作的な側面が否めず、殺意の認定までは出来ないとして傷害罪にとどまるとした。

そのうえで、
「長男を殺害すれば夫と二人だけの生活に戻って愛情を独占でき、育児のストレスから逃れられると考えた。5歳の長男が母親によって人生を奪われた結果はあまりにも無残で、取り返しがつかない」
として、愛に懲役11年の判決を言い渡した。

盗癖

事件後、詳細が明らかになり、23日の首絞め事件が報道されると一部では元夫の行動に疑問が集まった。
光希ちゃんが死亡した夜、元夫は所用で短時間ではあったが一人外出していた。つい先日、我が子の首を絞めしかもそれを反省もせずに認めようともしない妻と、その被害に遭った当事者である我が子を二人きりにさせたことが理解に苦しむ、というのが理由だった。

実はこの外出には、重大な理由があった。

愛は「盗癖」があったのだ。
始まりは平成21年、ちょうど光希ちゃんが生まれた頃からだという。
愛は万引きを繰り返し、何度も検挙されていた。その盗癖は酷く、回数は数えきれず身元引受で呼び出された元夫が謝罪している最中にも盗みを働くという有様だった。

事態を重く考えた元夫は、四六時中愛を監視するようになる。監視と言っても、会社経営者だった元夫が自身の会社に愛を同行させ、常に人の目がある場所に愛を置いておく、そういう状態だった。
これは致し方ないと思うが、当の愛にとっては相当なストレスだったらしい。
そこに子育てが加わり、本来一身に浴びるはずの夫からの愛情が光希ちゃんにも注がれることが、愛には我慢ならなかった。
盗癖は治まらず、平成26年12月、とうとう元夫は離婚届を突き付けた。

「今度やったら、離婚する。息子は自分が引き取る」

そう愛に告げたというが、実質これが愛の心の闇を増幅させてしまった。

光希ちゃんが転落したあの夜、元夫が外出したのは理由があった。
携帯電話を会社に忘れたと、夜になって突然愛が言い出した。そして、それを取りに行くと言った。
当然、一人になど出来るわけもなく、携帯電話は元夫が会社へ取りに戻ることにしたのだ。
会社と自宅マンションは往復10分ほどの距離だったことで、夫は急いで会社へと戻った。
その、10分の間に、愛は光希ちゃんを投げ落としたのだ。

これについては、計画性は否定されたが実際に携帯電話は「わざと」置き忘れていた。
愛はこの日、外出先から会社の駐車場へと家族で戻った時、「忘れ物をした」といっていったん会社の中へ戻っていた。そしてその時に、「わざと」携帯電話を置いてきていたのだ。

そして元夫が携帯電話を取りに戻るため目を離したたった10分の間に、光希ちゃんを窓から落とし、窓枠を拭いてコロコロを落とすなどの偽装をした後、マンションから出て光希ちゃんを探すふりをしながら夫と合流したのだ。

これを、計画的と言わずしてなんというのだろうか。
もちろん、携帯電話を忘れたから取りに戻る、というのを口実にまたどこかで盗みを働くつもりだった可能性もある。だからこそ、元夫は家にいろと命じ、自分が代わりに取りに行ったのだ。
しかし、本当にそうなのだろうか。いつ何時も「家の外で」一人にはさせてもらえなかったほどなのに、忘れ物を取りに行かせてもらえるなどと思うだろうか。

もし、元夫が取りに行くことになるのを想定していたとしたら。というか、最初から目的が光希ちゃんを殺害することだったなら。

裁判ではその計画性までは認定されなかったが、少なくとも懲役15年が11年に減った要因でもあるだろう。

光希ちゃんは母親によって突き落とされ、血まみれで倒れていた。父親が駆け付け抱き寄せると、父親の指をぎゅっと握ったという。
人工呼吸を施した際には、父親の舌を嚙んだという。
母は最後まで反省の色も、涙も、見せることはなかった。

福岡の子沢山家族

平成10年1月7日、福岡県東区。
福岡市内の病院に幼い男の子が運び込まれた。
付き添っていたのは母親とみられ、遅れて男児の父親も駆けつけた。
しかしすでに男児は死亡しており、両親らに事情を聞くと、
「前日の夜、言うことを聞かないために躾のつもりで屋外に出していた。暗くなればそのうち家の中に入ってくるだろうと思い、確認せずに寝てしまっていた。昼ごろ、外に倒れているのを発見した。」
ということをしどろもどろになりながら答えた。

男児の死因は凍死。運ばれた際も、男児が着ていたのはTシャツにトレーナー、そして下半身はなぜか裸で、足首には何かのコードのようなものが巻き付いていた。
しかも、男児の体には複数の火傷と見られる化膿した傷痕、顔面には殴られたような内出血の痕が認められた。

病院から連絡を受けた警察は両親から事情を聞き、ひどく憔悴していたことや、母親が「玄関には鍵はかかっておらず、まさか一晩中外にいるとは思わなかった」と述べ落ち込んでいたことなどから、不幸な事故であると判断。母親の過失は問わない方針を示した。

しかし2ヶ月後の3月3日、福岡県警捜査一課と東署は、男児を殴り2週間の怪我を負わせたとして父親を傷害と保護責任者遺棄致死の容疑で、そして母親を保護責任者遺棄致死の容疑で書類送検した。

大家族

書類送検されたのは福岡県東区在住の内装業、河野圭一(仮名/当時30歳)と、妻で無職の恵理子(仮名/当時34歳)。
死亡したのは、圭一の息子の大輔くん(仮名/当時6歳)だった。

実はこの夫婦には、大輔くんの他に上は15歳、下は0歳までの7人の子供がいた。
圭一と恵理子は再婚同士で、大輔くんが圭一と前妻との間の子、上の5人が恵理子の連れ子、そして二人の間の子供が2人という構成だった(事件当時)。

大輔くんは平成3年10月16日に圭一と前妻との間に生まれ、当初は圭一の実家で祖父母らと同居する生活を送っていた。
しかし大輔くんが1歳の頃、母親が別居。その1ヶ月後には、父親の圭一も実家を出てしまい、大輔くんは以降圭一の両親(大輔くんの祖父母)に養育された。
両親はその3年後に離婚した。

一方の恵理子もまた、パンチの効いた人生を歩んでいた。
恵まれない幼少期を経て、18歳頃に結婚、すぐに子供を産んだ。そして平成5年までの間にほぼ1年から2年の間隔で5人の子供を産んでいる。
しかし平成7年6月には離婚、育ち盛りの子供5人の親権者となった。

二人の出会いは恵理子が離婚する1年前、テレクラである。
この時点で恵理子はまだ既婚者であるが、それが原因だったかどうかは別にして、恵理子の離婚が成立した直後から二人の交際はより親密になったという。
平成8年2月には事件当時の住居で同棲を始め、翌月には婚姻届をおそらく妊娠を機に提出。圭一は恵理子の5人の子供と養子縁組をした。
大輔くんを実家から引き取ったのもこの頃である。同じように、恵理子も大輔くんと養子縁組をした。

その後7月には二人の間の第一子が、さらにその1年後の平成9年7月に第二子が、そして事件後の平成11年5月にも子供が産まれている……

圭一と大輔くん、恵理子とその連れ子たちでの生活が始まってすぐの4月、大輔くんは幼稚園に入園する。しかしほとんど通わず5月に退園、その後平成9年の3月までの1年間で保育園を二つ変えた。
事件当時に通っていたA保育園には、5歳児クラスと4歳児クラスに大輔くんと恵理子の連れ子二人が、その他0歳児クラスには圭一と恵理子の生まれたばかりの子供が在籍していた。

ここでの大輔くんの一家は、強烈な印象を残している。

要注意の親子

入園当初から、大輔くんは「異様」だった。
表現が正しくないことは百も承知だが、「飢えている(かつえている)」と言うほど、大輔くんの園での食欲は異常だった。しかも給食だけでは飽き足らず、盗み食いすることもあったという。
他にも、毎日汚れた同じ服を着せられていたり、体のあちこちに生傷が絶えなかった。時には目の周りにどす黒いアザをこしらえてくることもあった。

入園から1ヶ月後の5月、大輔くんは頭から血を流して登園してきた。仰天した保育士らが頭を見ると、そこには申し訳程度の絆創膏が貼られただけで、大輔くんの頭部はぱっくり割れていたという。
病院では2針縫う処置がとられた。

明らかにおかしい。同じ園に通う他の恵理子の子供らには、異常は見られなかったことも、保育士らに不安を抱かせた。
「おうちで何かされたと?」
保育士らが大輔くんに聞いても、大輔くんは何も答えない。大輔くんはこの頃からすでに生気の失せたような状態になっていた。

園では母親の恵理子についても対応に苦慮していた。
あまりに汚れた服を着せられているので、他の園児への衛生面の配慮もあったのだろう、園の着替えを着せたことがあったという。
すると恵理子は、感謝するどころか「大輔を特別扱いした!」と言って食ってかかった。
ある時は空の弁当箱を持たせていたため事情を聞くと、「大輔が登園前に弁当を食べたから(そのまま持たせた)」と言う返答。
さらに、家での食事の注意をすれば過度に食事させて大輔くんをあからさまに太らせる、頭にシラミが湧いていることを伝えると、大輔くんを丸刈りにするなど、極端な対応をわざとしている節があった。

他人に指摘されると被害者意識が芽生え、対抗するために感情的かつ、やりすぎと思えるほどの対応をする恵理子に対し、大輔くんも態度が頑なになっているようだった。

事件の日

正月、圭一と家族は全員で圭一の実家へと新年の挨拶に出かけた。そこで、祖父母らから子供たちはお年玉をもらったという。
5日になって、子供達のお年玉からお金が抜かれていることが発覚。圭一と恵理子はもともと「盗み癖」があったという大輔くんの仕業と決めつけ、大輔くんを厳しく問い詰めた。
しかし反抗的な態度を示した大輔くんに対し、恵理子は外で立っているように言いつける。そして、他の子供たちを連れて外出し、夕方弁当を買って帰宅すると、大輔くんはまだ外にいた。

「弁当を見せて、本当のことを言えば食べさせてやると言え」

圭一にそう言われた恵理子は、腹をすかせているであろう大輔くんに、弁当をちらつかせて再び問いただしたが、そこでも大輔くんは曖昧な返事しかしなかったという。

「ほっとけ。(金のありかを)言えば済む話だ。言うまで俺は知らん」

大輔くん以外の子供らに食事をさせたあと、圭一と恵理子は大輔くんがもう手に負えない、という話をし、そしてそのままこたつで眠り込んでしまった。
恵理子が気づいたのは、翌日の昼だった。外のベランダの室外機のところに倒れている大輔くんを抱き起こしたが、大輔くんはもう冷たくなっていた。

当初警察は、事情聴取での憔悴しきった恵理子の様子や、お仕置きで外に立たせた「だけ」のつもりが結果として死亡に至ってしまったと判断し、事故として処理すると発表。
しかし、大輔くんの体に残された数々の傷跡や、保育園での聞き取り、そして当初は昼に発見するまで気が付かなかったと話していた恵理子が、実は早朝の3時頃に外にいる大輔くんを確認していたこと、にもかかわらず家に入れるなどせず、さらには朝他の子供らを登校させる際にすでに室外機のあたりで大輔くんが倒れていたことにも気づいていたことから、保護責任者遺棄致死に問えると判断。
圭一については日頃の暴力行為と、あの夜家にいれるなと恵理子に指示していたことなどで傷害と保護責任者遺棄致死での書類送検となった。

恵理子は大輔くんが倒れていることを知りながら、他の子供らの世話を優先させていた。

育て難い子

書類送検とはいえ二人は起訴された。
平成13年から始まった裁判では、圭一による大輔くんへの暴行と、恵理子の日頃の大輔くんとの関わり方などが詳らかになったが、その中で大輔くんの「育て難さ」も明かされた。
大輔くんは知的な問題はさほど深刻ではないとされたが、生前大輔くんを診察した小児精神科の医師によれば、名前を呼んでもすぐに反応しない、箱庭療法において、動物の模型に過度な攻撃を加えるなどの様子が見られたという。
また、大輔くんの特徴として恵理子は、「2歳の頃から毎日の盗癖。夜中に起きてまで(盗みを)する。自分の持っていないもの、他人のものをわざと壊す、集団生活ができない、目立つためにわざと困らせるようなことをする、排泄物の汚さがわからず、大小便で遊んだりする」と言う悩みを小児科医に相談していた。

ただ、これらのことは恵理子の主観であり、どこまでが本当かは怪しいと言わざるをえないが、一方で第三者の診断もあった。
平成9年の7月頃、恵理子が出産のため、大輔くんを一時的に児童養護施設に預かってもらっていたことがあった。
その際、大輔くんの心理判定を行なった判定員によれば、大輔くんは情緒的な面で攻撃性が高く、心配な面があったという。落ち着きもなく、感情が昂った際、それを制御できないという面もあった。

恵理子はその結果を聞かされ、圭一との間で大輔くんを児童養護施設に入所させることも検討し、保育園では園長が関係機関に連絡をして大輔くんを保護する必要があるという判断で圭一らにも伝え、一時は圭一も恵理子もそれを了承もしていた。
しかし突然、「みんなが自分たちを悪者扱いしている!」などと恵理子が言い出し、施設入所は白紙になってしまった。

大輔くんが育て難い面があったのは事実で、関係機関も含め、大輔くんを施設に入所させる方向で話がまとまっていたのはむしろ、恵理子と圭一にとってもいいことだったはずだ。
ただ、大輔くんを診察した小児科医によれば、恵理子は医師に対し、
「周りの反対を押し切ってまで大輔くんを引き取り、自分のこの世話を差し置いてでもこの子の世話をしているという、健気な母親であるかのような話をされる。多弁で、この子のために苦労していることをむしろ自慢しているかのような印象を受ける。世話に疲れた印象は感じられない。話が全て本当かどうかは怪しい。施設入所予定であるのに当科(小児精神科)を受診し、評価を求められる真意が不明」
と話していたことをカルテに記していた。

恵理子は保育園への送り迎えも一手に引き受けており、圭一よりも遥かに大輔くんに接してはいた。
しかし、医師が言うように、こんなに育てにくい子をしかも自分の子でもないのに一生懸命育てている私、に酔っていたような印象がある。
言い方を選ばずにいえば、恵理子は子供を産むことしか取り柄のない女だったように思う。無計画にも程がある出産歴に、私は正直嫌悪感を抱いた。

大輔くんに手を焼きながらも、唯一の自分の存在価値を見出せるのが、育て難い大輔くんの存在だったように思うのだ。
だからこそ、児童相談所から救いの手が差し伸べられても、拒絶した。取り上げられては困ったのだ。苦労している自分を演じられなくなってしまうからだ。

裁判中も、恵理子は検事から親としての自覚のなさを問われると、
「何が言いたいんですか?!」「あなたが言うようなことはありません!」と、ムキになって言い返す場面もあった。

直接的な虐待死ではないものの、司法解剖された大輔くんはあの朝5時までは生きていた可能性が高かった。3時の時点で家に入れていれば、死なずに済んだ。
小さな遺体には、頭部、顔面に皮下出血、背部、腰部、臀部に円形の瘢痕、左右前腕、左手背に円形、楕円形の瘢痕、左右上肢、下肢に表皮剥脱が見られた。
また、胃のなかに固形物はなく、胸腺は高度に萎縮して実質が確認できず、左右の上肢は下腿から足にかけて浮腫状となっていた。
円形の瘢痕はいずれも火傷によるもので、お灸をすえられたか、もしくはタバコの火を押し付けたようなものだった。
胸腺の状態から見ても、大輔くんが長期間強度のストレス下にあったことは明白だった。

恵理子と圭一は、何かにつけて大輔くんに食事を与えなかったり、外に放置する、あるいは動く回れないよう足首を家具に縛り付けるといった虐待を行なっていたが、圭一と恵理子にしてみればそれらは全て正当な理由のもとに行われてきたものだと信じて疑わなかった。

福岡地裁の谷敏行裁判長は、
「衰弱した末、齢6歳にして自宅の庭で凍死したもので、その間、被害者が長期間にわたり強度のストレスにさらされていたことは、その遺体に残る多くの傷跡や、胸腺がほとんど消失していたことからも明らかであって、誠に悲惨としか言いようがない」
とし、裁判でも終始自己弁護を繰り返していたこの二人を厳しく批難した。

しかし、判決は懲役3年、執行猶予5年という激甘だった。

理由は、家に残った8人の子供の存在だった。

投書

時代的なこともあるだろうが、やはり子殺しは軽い。
結局、裁判長をして「悲惨」と言わしめた大輔くんの死に対する圭一と恵理子が受けた罰は、「真面目に反省してください」と言うお言葉だけだったに等しかった。

確かに汲むべき事情というか、大輔くんの問題行動や子供の多さなどいろいろあったろうが、いやいやそれら全て、この二人が選択して作り上げてきたものではないのか。
無計画に子供を作りまくったのも、自分たちが好きで作ったんじゃないのか。

そしてその無計画に生みまくった子供たちの存在が、この親を懲役から救ったわけだ。うーん。

当初警察が事故として扱うと発表したあと、高知新聞に投書が掲載された。
30代の保育士と名乗る女性は、真っ向この警察の判断に抗議した。
女性は、
「事故死だなんて到底思えない。冬の夜に、一晩外にいれば死んでしまうかもしれないということもわからないほどの子どもに、家の外にいるように言ったまま様子を見に行くこともしないなんて殺人行為ではないでしょうか?
(中略)
最近、幼児虐待についての問題が表面化していますが、この事件を事故死で片付けてしまう警察や日本の法律には、虐待されている子どもたちを救おうとする気持ちすら感じられない
(中略)
でも傷つけたのが自分の子どもなら、親はどんな言い訳も可能です。自分の親に傷つけられた子どもの気持ちは、誰が代弁してやるのでしょうか。
子どもの心を思えば、他人から受ける暴力よりも、自分の頼るべき人から受ける暴力の方がより深く傷つくのではないでしょうか。(後略)」

首がもげるほど同意とはこのことだと思うほど、この女性が抱く危機感は重要なことである。
なんとか警察も事件化したとはいえ、結果として法は大輔くんの無念に寄り添いながらも、殺した親を優先させた。
というか、こんな親に8人も子育てさせるのかよ・・・

大変だったから、育て難い子だったから、一人くらい死んでも仕方ないとでもいうのだろうか。

盗み癖があったという大輔くんは、正月に祖父母にもらったお年玉を、封も開けずにそのまま恵理子に手渡していた。断言してもいいが、この親は子供のお年玉を巻き上げていた。
小さな体に、しつけという名の暴力を一身に受け続けてきた大輔くんのことを、兄弟姉妹たちは覚えているんだろうか。

松本の若い夫婦

平成13年5月24日。新緑眩しい長野県塩尻市のみどり湖に、スポーツバッグが浮いた。
釣りのできる湖としても知られるみどり湖には管理人がおり、この日も釣り客から料金を徴収するために釣り桟橋を渡っていた時、そのバッグを見つけたという。
単なる不法投棄かと、そのバッグを引き揚げてみると、とてつもない異臭がしたため、通報。アシックス製のビニールのスポーツバッグのファスナーは閉じられたままだった。

駆けつけた警察官によってスポーツバッグが開けられると、中から小さな遺体が見つかった。
身長約80センチ、前屈みに膝を抱えるような状態で押し込まれたその遺体は、すでに腐敗が始まっていた。

そして、遺体と一緒に、ソフトボールくらいの大きさの石が数個、入れられていた。

判明しない身元

警察では、死体遺棄事件として捜査を開始したが、そもそもこの遺体がどこの誰なのか、全く分からなかった。
遺体の身長などから、間違いなく2歳前後の幼児であることはわかっていたが、塩尻市内に行方のわからない幼児はいなかった。
入れられていたスポーツバッグも大量に流通しているもので、遺体と一緒に入れられていたタオルと、なぜか女性用のレース製のショーツも、特に身元につながるようなものではなかった。

遺体発見から1週間、死因すら特定できず、捜査は難航。
ただ、幼児の血液型はAB型、上下に8本ずつ歯が生え出していたこと、そして、腕にはBCGの注射痕があることが判明した。
そこで、塩尻署と県警捜査一課は、塩尻市だけでなく松本、諏訪、岡谷、茅野などの中南信地方の自治体に、BCGを受けた1〜3歳の幼児について行方がわからなくなっている子供がいないかを中心に探った。

遺体発見から1ヶ月が経過した6月27日。
松本市内の託児所から、4月以降姿を見ていない当時1歳9ヶ月の子供がいると連絡が入り、捜査員らが両親から事情を聞いたところ、両親が子供をみどり湖に棄てたことを認めた。
死体遺棄容疑で逮捕されたのは、松本市在住の飲食店店員、林善彦(当時22歳)と、妻の絵美(当時21歳)という、若い夫婦だった。

二人のそれまで

湖に棄てられていたのは、長男の克樹ちゃん(当時1歳9ヶ月)で、二人は「克樹が死んだので湖に棄てた」と供述していたが、その死因については曖昧な供述しかしていなかった。

死亡の経緯は別として、二人は5月中旬、自宅で死亡した克樹ちゃんの遺体をタオルで包み、スポーツバッグに入れておもしのために石を入れた上で遺棄したと話していた。

二人は松本城に近い住宅街の中のアパートで暮らしていたといい、克樹ちゃんを遺棄した後、近隣の人らには「子供は実家に預けている」と話していたという。
善彦は当時、JR松本駅に近い場所のスナックでウェイターとして勤務。自宅はそのスナックの従業員寮だったといい、その年の2月頃からこのアパートで暮らしていた。

絵美も、同じように夜の店でホステスとして働いていて、その年の3月頃から克樹ちゃんを夜間の託児所に預けるようになっていた。

若い二人の出会いは平成10年の熊本だった。
ゲームセンターで知り合った二人はすぐに交際を始めた。出会って4ヶ月目には絵美の妊娠がわかったことで翌年の2月に婚姻届を提出した。
しかし若い二人のこの妊娠と結婚は大きな問題を孕んでいた。
絵美は当時、善彦以外にも交際相手が複数おり、加えて援助交際も行なっていたことで、妊娠が判明した時正直誰の子なのかわからなかった。
ところが善彦もそれを把握しており、その上で、
「多分俺の子だよ、産んでほしい、すぐ結婚しよう」
という斜め上の漢気を見せたことで、絵美も産んで結婚しようと決断した。

案の定、生まれた克樹ちゃんの血液型は、0型の善彦とB型の絵美からは生まれ得ないAB型だった。
が、若い二人は「血液型より直感が大事」だったため、以降も克樹ちゃんは善彦の子どもだと信じて育てることにした。

ここまでは、ツッコミどころはあるとしても協力して子供を育てようとしているともいえ、むしろ細けえことはいいんだよ的な懐の大きさも感じられ、温かく見守ろうとすら思えるわけだが、直後から二人の子育て生活はガラガラと音を立てて崩壊し始める。
崩壊のきっかけは、善彦の勤務シフトだった。

熊本県内の工場に勤務してまじめに働いていた善彦だったが、夜勤のある職場だった。
ある時、絵美から一晩中一人で子育てをするのはきついので夜勤をやめてほしいと頼まれる。
今ならば、それを受け入れない会社が怒られてしまうし、そもそも若いふたりにはサポートはあったほうが良かった。この点での絵美の訴えはよく理解できる。
善彦もそんな絵美の申し出を受け、会社の上司にかけあうなどしてみたが、認めてもらえなかった。

結果、善彦は会社を退職、その後も転職を試みるも長続きしなかった。

生活費は消費者金融、実家からの持ち出しに加え、絵美の援助交際でまかなった。が、常にぎりぎりの生活だった。

援交する妻と黙認の夫

平成12年に入ると、絵美が実家の金を持ち出すことが増えてくる。おそらくだが、実家もそんな絵美に愛想をつかせていたのか、その年の5月、絵美は実家である騒動を起こす。

実家から金を持ち出そうと、金庫ごと盗んだのだ。

当初は第三者の犯行を装っていたようだが、家族が警察に被害届を出そうとしていると知ると、自身の犯行がバレることを恐れてなんと善彦と克樹ちゃんと逃亡。宮城県を経由して宇都宮市へ逃れた。
一旦は宇都宮市内で生活をし始めたが、絵美が交通違反で切符を切られたことから実家に居場所がばれるのでは、と不安になり、またもや逃げるように宇都宮を離れた。

そして12月から、松本市内の事件当時暮らしていたアパートへ越してきていたのだ。念のため、表札は「平林」に変えていた。

善彦も絵美も仕事を見つけ、克樹ちゃんの預け先も確保できた。実家には申し訳ないが、所詮家族間のことでもあるわけで、今後まじめに働いていつか熊本に変えることが出来れば、時が許してくれることもあると思わなくもないが、そもそも絵美はこの生活に嫌気がさしていた。

平成13年2月、絵美が勤務する店の客である男性と、絵美は肉体関係を持つ。善彦に隠れ、ほぼ毎日のように逢瀬を重ねたというが、その男性と会うための資金作りとして、またもや援助交際も始めていた。
内緒とはいえ、善彦も絵美の挙動不審には気付いていたという。しかし、「友達と会う」と言われるとそれ以上追及もできず、また援助交際については「生活費のため」という大義名分のもと、黙認していた。

絵美は男性にのめりこんでいったが、どうやら夫と子供がいることはこの男性に隠していたと思われる。
なぜなら、この男性がせめて子供の存在を知っていたとしたら、この後の犯行は起こらなかった可能性があるからだ。

善彦と別れ、男性と結婚したいと思うようになった絵美に、男性は、(絵美に)夫や子供がいたとしたら別れる、付き合ってない、と話していた。
現時点で善彦は絵美の不倫をうすうす気づいていながら何も言ってこないのだから、正直善彦の存在は絵美にとってネックではなかったろう。
が、克樹ちゃんの存在は、どうしようもない。隠し通せなくなるのも時間の問題だった。

絵美の頭の中は男性のことでいっぱいで、どうすれば夫と子供の存在を男性に知られることなくきれいさっぱり縁が切れるか、そればかりを考えるようになっていった。
そして、善彦と離婚して克樹ちゃんを善彦に育ててもらうか、もしくは克樹ちゃんに死んでもらうか、このどちらかしかないと思うようになってしまった。アホである。

言いなり

4月16日、絵美は善彦に対し、男性の存在を暴露した。
そのうえで、
「(相手の男性に)結婚してることや克樹のことは話してないから克樹を連れてはいけない。邪魔だし、面倒見る気もないから置いていく。克樹を置いてでもAちゃん(不倫相手)のところへ行く。だからあんたが克樹の面倒みて。あんたが面倒みれないんなら殺すしかないと思ってる。」
と手紙に書いて善彦に渡した。まともに受ける方がどうかしているというような内容だが、これを渡された善彦も当然、殺す云々のくだりはいわゆる絵美の脅し文句だと受け止めていた。

しかしその後も、克樹ちゃんを殺すしかないといった主旨のメールが絵美から届くことで、絵美は本気でこう言っている、と思うようになったという。

善彦としては殺すなんて、という思いは当然あったとみえるが、だからといって克樹ちゃんを一人で育てていくことには抵抗があった。そこで、絵美に対し、殺す云々についての明言は避けたものの、
「俺も面倒はみられない」
という返答をした。

そしてふたりは何度かの意思確認を経て、4月20日午前8時ころ、アパートの風呂に水を張り、克樹ちゃんを抱き上げそのまま沈めた。
克樹ちゃんは激しく抵抗し、かぶせた風呂の蓋を渾身の力で蹴りあげたという。それを、善彦と絵美は協力して抑えつけ、やがて克樹ちゃんは溺死した。

克樹ちゃんの遺体をバスタオルにくるむと、絵美の私物であるスポーツバッグに入れ、重石用の石を3つ入れて車に乗り込んだ。ちなみに遺体発見時に一緒に見つかったレースの女性用下着は、おそらく絵美のもので、適当にひっつかんだバスタオルに紛れていたか、元からスポーツバッグに入っていたと思われ特に意味はないようだった。
そして人の目がなくなる深夜、善彦がスポーツバッグを持って車でみどり湖まで行くと、そのバッグを抱えて湖に入り、数十メートル泳いでスポーツバッグを沈めた。

ふたりはその後も何食わぬ顔で普通に生活していたという。善彦は逮捕される日までスナックに勤めていたし、絵美は晴れ晴れとした気持ちで男性の元へ足しげく通う日々だった。

しかしそんな日々は、一か月で終わりを迎えた。

情状酌量の余地なし

裁判では犯行当日の様子もつまびらかにされた。
その中で、一旦風呂に沈めた克樹ちゃんが予想以上に暴れたことで怯んだ善彦が、「今なら(助ければ)間に合う!!」と言ったのを、「ここで止めたら二度とできなくなる」と絵美が聞き入れなかったことも明かされた。

検察は絵美に懲役13年、善彦に懲役10年を求刑。弁護側も「今は反省している。弁解の余地もない」と繰り返すにとどまるほど、このふたりの犯行動機、その様態について、庇えるところがほとんどなかった。

長野地裁松本支部の千徳輝夫裁判長は、普通このような親が子供を殺す事件ではそこまで追い詰められたことが理解できる事情が少なからずあるものだが、本件ではそのような事情はうかがえないとして厳しく二人を断じた。
克樹ちゃんは直前まで、善彦や絵美と無邪気に遊んでいた。まさか、今目の前で自分を殺す段取りをされているなど思いもしなかった。
一切の抵抗もなく抱き上げられ、母の胸で安心しきっている克樹ちゃんを、絵美は躊躇なく風呂に沈めたのだ。
どれほど苦しかったろうか。何が起きたのかわけもわからず、母の手によって沈められたこともわからず、克樹ちゃんはおそらく母に、そして父だと思っていた善彦に助けを求めたはずだ。

平成13年12月18日、長野地裁松本支部は絵美に懲役12年、善彦に懲役10年の判決を言い渡した。
さすがに二人は控訴しなかった。

絵美の極悪非道ぶりはもうどうしようもないとして、この善彦のある種の人の好さというか、なんにでも迎合するというか、これは性格なのだろうか。
そもそも克樹ちゃんは自分の子ではないことは、本当はわかっていたはずだ。それでも、むしろそれごと受け入れることで絵美の歓心を買おうとしたのだろうか。
絵美が離婚を申し出、克樹ちゃんのこともいらないと言ったとして、たしかに善彦がすべてを引き受ける必要もない。
しかしそれなら熊本の実家に連絡するとか、いくらでもやりようがあったと思えるのに、結局絵美の「殺すしかない」に同調してしまっている。

結局、熊本に連絡すれば絵美が困る、離婚を受け入れなけらば絵美が困る、子どもの存在があれば結局いつか絵美が困る、全部絵美のため。
ようは、善彦はその経緯がどうあれ、絵美のために生きているようなものだったのかもしれない。

それにしても、計画的な殺人と死体遺棄で情状酌量の余地なしにもかかわらず、検察側の求刑が15年にも満たないのは令和の時代では有り得ないような気もする。
事件から20年以上経過し、ふたりは今どこで何をしているのか。家庭を持ち、子どもを持っているのだろうか。

人は変われる。しかし、子どもを殺した過去は消せないし、どんな言い訳もできない。罪を償っても、世間の記憶からなくなっても、当人たちだけは忘れてはいけない。

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参考文献
NHKニュース 平成13年6月27日、平成26年12月30日
沖縄タイムス社 平成26年12月31日朝刊
共同通信社 平成26年12月31日朝刊
産経新聞社 平成27年5月8日東京朝刊、平成28年3月14日(小野田雄一)
中日新聞社 平成10年1月8日朝刊、平成13年6月28日、10月17日朝刊、平成27年5月12日夕刊
朝日新聞社 平成10年1月8日西部朝刊、平成11年12月7日西部朝刊、平成13年5月25日、27日、6月7日、28日、11月7日東京地方版/長野、平成26年12月31日東京朝刊
毎日新聞社 平成10年3月4日西部朝刊、平成13年9月12日東京朝刊
高知新聞社 平成10年2月21日朝刊(投書)
読売新聞社 平成11年12月7日、12月21日西部朝刊、平成13年5月25日、26日、31日、6月28日、29日、7月1日、7日、17日、8月4日、12月19日東京朝刊、6月27日東京夕刊、

平成28年3月23日東京地方裁判所第3刑事部/判決
平成27年(合わ)第90号/平成27年(合わ)第125号

平成13年12月6日福岡地方裁判所第1刑事部/判決
平成12年(わ)第194号

平成13年12月18日長野地方裁判所松本支部/判決
平成13年(わ)102号/平成13年(わ)117号

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🔓Motherly Love~今市市・主婦協力殺人事件~

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平成9年夏

栃木県今市市(現・日光市)。
雨が降りしきるその夜、家のガレージ前で佇む女がいた。
通りがかった近所の人が不審に思い、声をかける。
「どうしたの?こんな雨の夜に…」
「夫がまた暴れてるの。落ち着くまでここにいようと思って」
ああ、またか。この家の夫は家族、特に妻に対して暴力を振るうと聞く。かわいそうに。
お大事にね、そう言うしかない近所の人に女も力なく笑った。