「八月の母」と伊予市団地内少女監禁暴行死事件

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先日Twitterで「八月の母」を読んで感想を書いてほしい、という話があった。
この、「八月の母」を書いたのは悲しきデブ猫ちゃんで愛媛新聞購読者にはお馴染みの、早見和真氏である。
早見氏のことは皆さん検索していただくとして、この「八月の母」という本は実に事件備忘録的な本であり、完全なフィクションではあるけれど、実際に起きた事件がベースとなっている。

平成26年八月のあの日、私は夫の実家のある久万高原町にいた。夕食の準備をしながら見ていたニュースに、全員が「これ、ちょっと……」と言ったきり言葉をなくした。
伊予市の市営団地の一室で、若い女性の遺体が発見されたというニュースだったが、その時点でそれが集団によるリンチの末の死であること、女性が監禁状態にあったことなども併せて報じられていたからだ。

年代的に私は綾瀬のコンクリ事件を思い出した。
被害者は松山市内の10代の女性で、逮捕されていたのが現場となった団地の一室の主である女と、その子供たちが含まれていたことも衝撃だった。
団地、家出少女、未成年者のたまり場、シングルマザー、もうこれだけでお腹いっぱい的な話ではあるが、私はこれが「伊予市」で起きたことにも実は重きを置いていた。
事件の全容は、未成年者がかかわることもあってかなり抑えめだったように思う。途中からは主犯とされた母親の名前さえ伏せられることもあった。
報道をつなぎ合わせれば、たまり場と化していたその団地の一室に、いつからか入り浸るようになった被害者が、家族の感情のはけ口にされ日常的に暴行されるようになり、歯止めが利かなくなった末に命を落とした、というもの。
殺人ではなく、傷害致死である。集団心理という言葉も取り上げられた。

その事件をもとに書かれたのが、「八月の母」である。

この本は、フィクションではあるものの作中には実在する町の名前がでてくる。地元の人間ならばどこなのか、どの店なのかまでわかるほど、場所を意識して書かれている。それが、事件備忘録でよく話題になる「場所と事件の関係性」を意識させ非常に興味深く読んだ。
内容的に結構なネタバレになることはあらかじめお断りするとして、実際の事件と私が生まれ育った愛媛を取り混ぜながら本の紹介と読書感想文を書いてみる。

以下、ネタバレOKな方のみお進みください。嫌な人はまず本を読もう。
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あの頃、三丁目の事件~昭和30年代のいくつかの事件~

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事件備忘録の読者はどの世代が多いだろうか。
私は昭和49年の生まれ。バブルへ向けて日本中が、そこそこの暮らしを出来ていた時代だった。
もちろん、ドラマ北の国からの黒板家のような生活レベルの人々もいた。けれど、そのドラマでも描かれたように、多くの人々は新しく生み出される文化を謳歌していた時代だった。

しかし昭和30年代はどうだったか。あの、「ALWAYS 三丁目の夕日」に描かれたのはまさしく昭和30年代、金の卵と呼ばれた少年少女が集団就職で上京する場面も描かれ、就職という名の「奉公」先の社長は軍隊上がりの暴君、みたいな人々もいた。
次々と誕生する新しい生活用品、電化製品、娯楽。戦後の焼け野原が嘘のように、たった10年やそこらで日本は成長した。
一方で人々は。新しいものが次々生まれる中でも、戦前からの家庭の形は守られた。家庭を守り、夫を支えて子を育てる母親たち、逞しく生きる子どもたち。ただその陰で思うように生きられず犯罪に走ってしまう若者も相当数いた。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」には、あの時代のどこにでもいた人々の日常が良い意味で描かれている。大好きな映画だ。

しかし、実際の昭和30年代は子供たちの誰もが学校に通えていたわけでもなかったし、親や家族を戦争で亡くして生きる意味を見失ったままの人、環境も場所によっては不衛生極まりなかった。
「あの家は寿司桶も、おしめを洗う桶も一緒」
そんな風に言われる人々も少なくなかった。

あの映画に出てくるような人々と同じ時代を生き、鈴木オートの社長やその妻、六子や一平と同じ風景の線路を歩きながら、東京タワーの完成に胸躍らせながら、結末は全く違ってしまった人々もまた、山のようにいた。

昭和30年代、ごくありふれたあのころに起きた事件をみっつ。

田園調布の嬰児殺人

昭和31年8月20日午前9時ころ、大田区田園調布の邸宅。
この家の女主人・津田靖子さん(仮名)は所用で実家のある広島県へ出かけていた。
しばらく留守にするため、数日前から実の娘である広本洋子さん(仮名/当時26歳)が夫と娘と共に留守番をしに来ていた。
その日の朝、娘の恵ちゃん(仮名/当時1歳)を子守に預け、用事を済ませて恵ちゃんの様子を見に戻った洋子さんは、布団の上でぐったりとした恵ちゃんを発見。
すぐに近所の医院へ担ぎ込んだものの、すでに恵ちゃんは死亡していた。

発見時、恵ちゃんは布団の上にうつ伏せになっており、やわらかい布団に鼻腔をふさがれたことで窒息したと思われ、目を離したすきの不幸な事故、と思われた。

ところが、恵ちゃんには子守がついていたはずだった。その年の初めから雇った、当時17歳の少女が子守だった。

その後、その子守が恵ちゃんを殺害したことを認めたことから、警察は子守を殺人の容疑で逮捕した。
少年事件でもあり、子守の氏名は明かされていないが、ここでは和江、と呼ぶ。
和江は殺害の動機について、「生きていくのが嫌になって死のうと思ったが、これまでさんざん奥さんに叱られてきたので腹いせで恵ちゃんを殺害した」と話した。

和江

和江は昭和14年に朝鮮の羅津(現・羅先特別市)にて3人姉妹の真ん中として生まれた。父親は満州鉄道株式会社に勤務していたが、和江が2歳のころ離婚、和江ら三姉妹は父親に引き取られた。しかしその父も病死、その後は大連市で暮らす伯父に引き取られた。
伯父は父親同様、満州鉄道に勤務し、社会部地方事務所長、病院事務局長といった社会的地位のある人物だったが、非常に頑固者で妻や引き取った和江らには大変厳しい人だったという。
通い始めた学校も終戦前後には機能しなくなり、和江は適切な教育や家庭でのしつけ、親からの愛情を受けられずに成長していく。

終戦に伴い失職した伯父夫婦とともに、和江らも日本へ引き揚げることになった。伯父夫妻の本籍地である広島県で暮らし始めた和江は小学校3年生に編入となったが、そもそもそれまできちんと学校に通えていなかったこともあって3年生の学力は身についていなかった。

広島での生活も楽ではなかった。大連ではそれなりに社会的地位のあった伯父だったが、父親の兄ということですでに高齢の域に入っており、もとより体も丈夫ではなかった。
病の床に臥せる伯母は昭和24年に死去、姉妹らは生活扶助を受け畑仕事をしながら昭和29年、和江は中学校を卒業した。
この時すでに姉は女中奉公へ出ていて、昭和30年の暮れに伯父が死去したのち、残された和江と妹は親戚の家に引き取られたが、姉の奉公先の口利きで年明けから件の広本家に奉公に出ることが決まった。

広本家は、奥方である洋子さんの母方(津田靖子さん)の実家が広島にあったことで縁が出来たとみえた。

広本家は川崎市下平間にあり、裕福な家庭だった。
昭和31年当時、高卒の初任給がだいたい5000円くらいだったというが、中卒の和江の奉公の代金は月額1500円。
牛乳や銭湯が15円、雑誌が30円、ラーメンが40円ほどの時代、家賃や食費がかからないことを考えれば、まだ16〜7歳の和江には不自由はなかったのかもしれない。
和江の仕事は洗濯、掃除、食事の支度などの家事全般に加え、広本家の娘である恵ちゃんの子守りも含まれていた。
この時代、奉公に出ずとも子供たちは何かしらの「仕事に近いお手伝い」をしていた。その中でも「子守り」は和江と同じように中学を出たくらいの少女たちにはよく任される仕事だった。

ただ和江の場合、近所の子供や親戚の子供の子守をすると言うのとは違い、雇用主である広本家の主人、そしてその妻である洋子さんのチェック付きと言うものだった。

叱責

洋子さんは和江に厳しかったという。
まだ26歳と、和江とは10歳ほどしか歳が違わなかったことも関係するかもしれないが、一生懸命家事をこなす和江に毎日のようにダメ出しを行った。
そもそも、広島の田舎で農作業こそしてきたものの、女中として何か訓練などを受けたわけでもない。もちろん、集団就職などで奉公に出る少女らもそんな訓練は受けていない、しかし、多くは家族のもとで幼い頃から家事や弟妹の世話などを仕込まれているのだ。
両親の離婚、その後の引き揚げに伴う転居や養親の死など、和江にはその日その日を生きるに精一杯であり、そもそも女中仕事などは向いていなかったと思われた。

洋子さんにしてみれば、給料を払っている以上はしっかりしてほしい、そういう思いもあったろう。あえて厳しく接することで、和江を一人前にしたいと思ったのかもしれない。

しかし、どうもそれだけとは思えない、和江への「いろいろ」があった。

和江は上京したらいつか東京見物や野球観戦に行きたいと思っていた。それを、広本夫妻にも話しており、「いつか休みを取らせて行かせてやる」と言われていた。
ところがその約束は、半年経っても果たされることはなかった。
また、この時代にはよくあった「頭シラミ」が和江の髪からも見つかったことがあった。洋子さんからすれば幼い恵ちゃんにうつりでもしたら大変だと、和江を広島へ帰らせようとした。
それだけは、と、泣いて懇願しなんとか解雇だけは避けられたが、1500円の給金は1000円に下げられてしまっただけでなく、洋子さんの叱責はそれまでにも増してキツくなっていった。

あまりに繰り返し繰り返し叱責されるうちに、和江は「自分はダメな人間である」と思うようになっていく。そして夜も寝られず、減額された給金から睡眠薬を購入するまでになっていた。
一方で、あまりに冷たい洋子の「仕打ち」に、それまでは平身低頭だった和江も、何もここまで言われることはないのではないか、奥さんだって約束を守ってなどくれないと思うようにもなっていた。

そんな和江にとって、恵ちゃんの存在は唯一の心のやすらぎだった。

三枚の座布団

夏、洋子さんの母親が盆まいりで広島へ帰ることになったと聞いた和江は、不安な気持ちを抑えきれていなかった。
自分の失態や不甲斐なさを、きっとあのおばさんは私の親戚たちに話してしまうだろう、それを聞いた故郷の家族や親戚はどう思うか。さぞや落胆するだろうと想像しているといてもたっても居られなくなった。
そして、いっそこのまま死んでしまえば、親戚や家族らの落胆した様子を洋子さんの母親から聞かされることもない、そう考えるようになる。
もう、いてもたってもいられなかった。

和江の心の中は、これまでの洋子さんからの仕打ちが昨日のことのように思い出されていたが、そんな時でも傍で微笑んでくれる恵ちゃんのあどけない笑顔に幾度となく癒されてきたことも同時に思い出されていた。

この子をずっとお守りしていたい。でも、もう生きていくのも嫌になってしまった。恵ちゃんも連れて行けば、ずっと私がお世話をしてあげられる…

和江は、津田家の留守番が終わる前日の8月19日、自己のために購入していた睡眠薬を恵ちゃんのミルクに混入させた。
しかし、恵ちゃんがなぜか嫌がって飲まなかったため失敗。翌、20日の午前9時頃、母親を出迎えるために恵ちゃんを和江に預けて広本夫妻が東京駅に出かけた隙に、恵ちゃんをうつ伏せに寝かせるとその上に3枚の座布団を重ねた。

不遇な娘

裁判では、女中奉公に来た少女による幼児殺害ということで、たとえ未成年者であってもその責任は重大であるとされた。
娘を殺害された両親にとってみれば、到底許せるものではなかった。

和江は洋子さんの叱責がことさら堪えたと話していたが、実際には洋子さんの叱責は特段ひどいものでも理不尽なものでもなかったという。
しかし、和江はいわゆる境界知能と判定されており、加えて定型の単純作業はこなせても、自分であれこれと考えながらその時々で臨機応変に業務を行うということが和江にとっては大変難しいことだった。
そもそも、女中という仕事自体が和江には向いておらず、そんな中での洋子さんの叱責は、和江にとって「理不尽」なことでしかなかったのだという。

裁判所は、戦後の混乱期に教育をきちんと受けられず、かつ、和江自身の知能の問題や事件までの環境などを考慮せずに判断することは不適切とし、刑事罰でもって罪を償わせるよりも、家庭裁判所の判断に委ね、和江の今後を指導監督していくことが真の意味での贖罪につながるとした。

和江は警察に逮捕されて初めて、自身の罪深さに愕然としたという。
自分のことにとどまらず、自分を応援してくれた姉や親戚のことにも触れ、深く反省していたことも裁判所は見ていた。

もちろんこの時代、和江に限らず親が早逝してしまった子供は山ほどいた。和江だけが特別不遇だったわけではない。
同じ環境で育った姉や妹の存在を見れば、これは環境というよりも和江自身の問題が大きいというのはそうだと言える。

が、その本人の資質と環境が最悪の組み合わせとなってしまった時、おそらく自分でも訳のわからないままに行ってはいけない方向へレールのポイントを切り替えてしまうのかもしれない。

和江は深い後悔を胸に、家庭裁判所での処分を受けた。

瓜連の少女殺害事件

茨城県那珂郡瓜連町静(現・那珂市瓜連)。夏休みが始まった昭和31年7月23日、少女は明々後日から日立市河原子海岸で始まる臨海学校に行くための準備をしていた。
中学に入り、初めての臨海学校。少女は胸躍らせ、早くからそのための着替えなどをバッグに詰めて、両親が新調してくれた浴衣を着ることを楽しみにしていた。

午後4時、少女は遊びに来ていた友人が帰宅したので、庭先に面した四畳半の部屋で読書をしていた。この時間、夏はまだ日が高く、自宅前に広がる田畑では少女の母親が農作業をしていた。
ふと、庭先に人の気配がした。そこには、若い男の姿。少女はこの男を知っていた。二日前だったか、同じような時間に訪ねてきていた。
その時は母がいて男を帰らせたが、この日は少女しか家にいない状態だった。

「大子まで帰るから100円貸してくれ」

若い男はそう少女に言ったが、そんな金を持っていない少女は断った。
すると男は、
「じゃ、母ちゃん帰ってくるまで待っていべー」
といい、少女が座っていた板の間に腰かけた。

突然の出来事と、男に居座られたことで少女は途端に恐怖を感じ、すっと立ち上がると外の畑にいる母親に向かって呼びかけた。
「母ちゃん!」
しかし母親は150m離れた畑にいたため、少女の叫びが届かない。
「黙れ。」
振り向くと、先ほどまでにこにこしていた男が恐ろしい顔で少女をにらみつけている。ただごとではないと察した少女はさらに大きな声で
「母ちゃんよぉ!!!」
と叫んだ。

次の瞬間、少女は喉元を一突きにされ、即死した。

町長が名を連ねた「上申書」

殺害されたのはこの町で両親、姉妹と暮らしていた柏木京子ちゃん(仮名/当時12歳)。
遺体は、喉元を前方から一突きにされ、かつ、後頭部や頸部を複数回刺されており、第四頸椎創傷、左頸頭部および後頭部から左肩の後ろ側にかけて6か所の創傷が認められた。
死因は、延髄の創傷に基づく呼吸麻痺。即死だった。

のどかな田畑の広がる町で起きたこの残虐な事件は、京子ちゃんの両親、姉妹のみならず町全体を怒りと悲しみで包んだ。

母親の証言などから、容疑者はすぐに浮かんだ。数日前に突然家に来たあの怪しい若い男。
そして逮捕されたのは21歳の若者だった。

男は名を矢部吉蔵(仮名)といい、事件当時は無職だった。
裁判で矢部は「命を持って償う気はない」などと言い、真摯な反省が見られないとして死刑が求刑された。
12歳のいたいけな少女が理不尽にも殺害されたことだけでも死刑相当であるが、加えて犯行現場が少女の自宅だったことや、当時の農村の生活スタイルなども影響していた。

私も農家で育ったのでよくわかるが、昭和の終わりころまでは老人や病人、子供など農作業が出来ない人が留守を守り、働ける家族は皆、夜遅くまで農作業をするというのは当たり前だった。
ほかに仕事を持ちながらも、出勤前の早朝や帰宅後の夕方から日が沈むまで、兼業農家の大人たちは時間を作って畑仕事をするのだ。
その間、子供たちは家で兄弟姉妹の面倒を見、働く家族の支えになっていた。

事件が起きた瓜連町静のあたりも、多くはそのようなスタイルで家族の暮らしは成り立っており、今回の事件はまさにそういった生活スタイルを脅かしたともいえ、町全体の怒りとなったのだ。

通常、裁判所に提出されるのは犯人の情状面を考慮してほしいという嘆願書の類がほとんどだったこのころ、矢部に対してはそういったものは一切なかったという。
かわりに提出されたのは、瓜連町長以下、町民の大多数が連署した「死刑を望む上申書」だった。

しかし一審の判決は「無期懲役」。

審理の場は東京高裁へと移された。

東京高裁の判断は、控訴棄却。
死刑を科するか否かは、犯罪行為への応報の見地のみで決めてはいけないとするものだった。

事件は12歳の何の落ち度もない少女が自宅で殺害されるという残忍かつ極悪非道なものであり、両親の憎みても余りある報復の感情は被告人矢部に対する刑を決めるうえで軽視してはならない、としながらも、やはりその「応報」の感情のみで刑の軽重を決めるということはよろしくない、被告人の性格や年齢、生活環境、そして犯行の動機などを総合的に判断し、そのうえで死刑を選択しない余地がないと言える場合のみ死刑を科せられる、というのが高裁の判断である。

矢部のそれまではどのようなものだったのか。

生い立ちと事件まで

矢部は昭和10年生まれ。精米業を営んでいた両親の長男として生まれ、戦時中に日立市へと移り住んだ。しかし、昭和20年の日立空襲で一家の大黒柱である父を失った。
終戦後は母親に育てられたが、貧困のために中学にはろくに通えなかったという。
中学卒業後に東京の蕎麦屋で2年半ほど働いたというが、人間関係がうまくいかずに辞めてしまう。
以降、東京、茨城、埼玉の関東圏の飯場を渡り歩き、何とか自分一人で生活していたという。
ちなみにこの間、矢部は警察沙汰を起こすなどの粗暴な行動は一切なく、無口で人間関係を築くことが苦手なこと以外に問題行動はなかった。

実家はというと、姉妹らはすでに家を出、母親が残ってはいたがその母親は内縁関係の男性がおり、人間関係の構築が苦手な矢部が実家に戻ることは難しかった。
ただ、この内縁の男性は矢部のことを気にしており、失職した矢部を知人に紹介して仕事を斡旋してもらうなどの協力をしてくれていた。

昭和30年、土木の仕事を失って仕方なく実家へ戻っていた矢部は、とりあえずは農作業などをしながら土木の働き口を探していた。
そんな時、その母の内縁男性の知人から、静岡の土木工事に矢部をぜひ、という話があると聞かされる。
喜んだ矢部だったが、静岡へ行く日程がいつまでたっても決まらず、結果、取り消しになってしまった。
ひどく落ち込んだという矢部は、なぜか旅費を自分で工面して、単身静岡の現場に行けば職に就けると思い込んだ。

そして、そのためには農家の手伝いをして旅費を稼ぐしかないと考え、実家周辺よりも農家の多かった瓜連にやってきたのだ。

国鉄水郡線静駅に降り立った矢部は、そのまま常北町石塚方面に向かう県道を歩きながら、一刻も早く旅費を工面したいとそればかりを考えていた。
そして、金を得るには盗みに入ったほうが効率的、と思い立ち、付近の農家を探って歩いた。
そしてその日の夕方、京子ちゃんの家に来たものの、その時は京子ちゃんの母親がちょうど畑から返ってきたところで、追い返されてしまった。
その際、母親が
「うちのひとは警察官だから。早くいきなさい」
と言ったという。警察官の家はさすがにマズいと思った矢部はそのまま駅まで引き返したのだが、その駅でたまたま立ち話をした人から、京子ちゃんの父親が警察官ではないことを聞かされた。

ここで、矢部の心には邪悪なものが首をもたげる。

バカにしやがって。

矢部は柏木家に盗みに入ることを決意し、うなぎ包丁を胴巻きに忍ばせた。

死刑の判断基準

裁判所は地裁、高裁ともに矢部には死刑ではなくその生涯をもって贖罪の人生を歩ませることが妥当であるとした。
京子ちゃんの同級生らは陳情書を提出、町長の名もある死刑を求める上申書をもってしても、その判断は変わらなかった。

犯行自体は重大な結果となったが、その計画性においても、ハナから強盗に入るつもりというよりは窃盗の決意が強盗になり、京子ちゃんを殺して金を奪う、というよりは京子ちゃんの思わぬ行動が引き金となって犯行発覚を防ぐには殺すしかない、となり、殺せば逮捕されないのだからついでに現金を奪っておこう、という考えだったと認定。
「命で償う気はない」という発言も、罪の重さを実感していないのではなく、死刑を身近に感じているからこそ、自身の罪の重さをわかっているからこそ、死刑になりたくないという気持ちから出た言葉であるとした。
これらは裁判所が勝手に判断したのではなく、やはりそれまでの矢部の性格や人間関係、もともと一旦思い立ったことは前後の見境なく邁進する性格などを総合的に判断していた。

両親をはじめとする多くの人々の峻烈な処罰感情は当然のこととし、そのうえで、被告人を死刑に処して終わりにするよりも、被告人が生涯を通じて贖罪の人生を送ることこそが長い目で見れば本当の意味での慰謝となる、とも判決理由で述べられた。

死刑は今でも同じだと思うが、被告人の性格、その生活経歴、前科の有無、家庭環境、犯行の動機、原因、犯後の情況など諸般の情状を勘案して、犯人に対しては死刑以外の刑に処すべきではないと結論される場合においてのみ、この究極の刑を選択できるというべきである、とされている。

たしかに矢部はそれまで前科もなく、粗暴な面もなかった。犯行も綿密な計画というより、行き当たりばったり感はある。
しかしそれによって人が殺害されるという「結果」は、被告人のそれまでがどうであろうが関係のないことである。もし矢部が、前科前歴がある粗暴な人間だったら死刑だったのか。殺されたのは同じなのに、実質それ以外の面で犯人の刑が決まるのだ。

上告したかどうかが不明であるが、矢部のその後の人生が真の贖罪の人生だったと信じたい。

品川の毒入りサイダー誤飲事件

昭和32年5月6日。東京地方裁判所は異様な熱気に包まれていた。法廷内には女性らの姿も目立つ。みな、固唾をのんでこの裁判を見守ってきた人々だった。

被告人席には中年の女の姿。女は、少年と共謀して夫の殺害を図り、さらにはその過程で重大な過失を犯してこともあろうか幼い娘を死なせてしまったのだ。
法廷に集まっていたのは彼女に同情した近所の主婦たちだった。皆、この女の長年の苦悩を目の当たりにしており、裁判所に対しては「大岡裁き」を期待していた。

「主分。被告人を懲役3年に処する。ただし、本裁判確定の日から4年間右刑の執行を猶予する。」

法廷は沸いた。検察が求刑していたのは殺人未遂と重過失致死での懲役7年だったが、裁判所の判断は殺人未遂と過失致死だった。そして、裁判長は判決文の中で事件に至るまでの夫による女への傍若無人なふるまいや、女がどれほど夫に尽くし我慢に我慢を重ねてきたかに触れ、本件犯行が起こるに至った理由には夫の責任が重い、と述べた。

釈放となった女は支援者の主婦らと抱き合って号泣、件の夫も頭を丸めて法廷に姿を見せており、終始、「今回の事件はすべて俺が悪かった」と反省の弁を述べていたこともあり、悲しい事件ではあったけれども女の人権が守られた、そのような雰囲気に皆が酔っていた。

女が受けた酷い仕打ちとはどのようなものだったのか。

夫婦

この物語の主人公、大野ミサヱ(仮名/事件当時37歳)は大正10年に新潟で生まれた。父親はミサヱが生まれる前に出奔、ミサヱは母方の祖父母に育てられた。
中学を卒業したのちは、東京の伯母が経営する食堂で働いていたが、そこに曳き八百屋(荷車などに野菜を積んで売り歩く)として出入りしていた大野繁蔵(仮名/事件当時42歳)と恋仲となり、その後昭和15年に結婚。
太平洋戦争で中国に出征した期間はあったが、二人の間には事件当時17歳の長女を筆頭に四男四女が生まれたことからも、非常に仲の良い八百屋の夫婦、という風に思われた、が、実際は全くそんな状況ではなかった。

新婚当初は仲が良かった二人だったが、長女を妊娠した頃から繁蔵の態度は変わっていく。些細なことで叱りつけ、気に入らないと妊娠中のミサヱを殴る蹴るなどしたため、ミサヱはたまりかねて実家の母に相談することもあった。
もともと繁蔵との結婚に反対だった実母らは、暴力まで受けている娘を心配して離縁して帰って来いとまで言っていたが、そのたびに繁蔵が謝罪し、心を入れ替える旨の誓約を交わすため、ミサヱも子供のことを思って離縁を思いとどまった。

しかしミサヱが戻ればまた同じことの繰り返し。それは事件が起こる17年の間治まることはなかった。

繁蔵の悪行は身体的暴力にとどまらなかった。女癖も非常に悪かったのだ。
繁蔵は曳き八百屋から店舗を構える青果店へと商売を成功させており、南品川のその店は奉公人も抱える繁盛店だった。
が、隣近所の評判はあまりよくなかったという。店に対してというより、繁蔵のその人となりに対して評判がよくなかった。

暴君

終戦直後の昭和22年、都心は食糧難であり、食料を扱う店は軒並み成長していく。その八百屋が軌道に乗り始めたころから、繁蔵は家に戻らなくなった。

昭和24年ころから女遊びに精を出し始めた繁蔵は、築地の青果問屋の娘と深い仲となりいわゆる妾としてアパートに囲うようになった。
しかもその2年後には家族も出入りする南品川の青果店を二分し、なんとそこで妾にパチンコ店を経営させたのだ。
近隣の人々は眉をひそめ、軽蔑の意を込めて「犬パチンコ店」「動物パチンコ店」などと揶揄したというが、昭和27年にその関係は終わった。
が、妾は置き土産を残していった。それは繁蔵との間にできた幼い子供二人だった。

ミサヱの心中は穏やかであろうはずはなかったが、夫のためにすすんでその二人の子供にかかわり、ふたりに着物と金銭をつけた上で養子に出してやったという。
これで繁蔵の女遊びもなりを顰めるかに思われたが、3、4か月もすると繁蔵はまた女遊びを始める。
今度は伊東温泉の娼婦奉公をしている女だった。

繁蔵は以前にもまして傍若無人となり、店のことも奉公人らに任せきりでミサヱや子供らのこともまったく気にしなくなった。
産後間もないミサヱにも容赦なく仕事を言いつけ、歯が痛んでも病院に行くことを許さず仕事をさせ、奉公人らには売れ残りを出してはならぬと、夜遅くまで曳き売りをさせた。近所では「あの店で三日と続く小僧なし」と言われるほど、繁蔵の暴君ぶりは有名だったという。

ミサヱに対する仕打ちは周辺の人らの耳にも届いており、実際にミサヱが暴行を受けたり夫婦げんかに発見しているのを見た人も多かった。
しかしそんな夫婦仲でありながら、ミサヱは妊娠出産を繰り返していた。

ミサヱは子供たちのためだけに繁蔵の仕打ちに耐え忍んでいた。繁蔵は妾やその子供らには金を惜しみなく使うのに、ミサヱとその子供らには出し惜しみしたという。
ある時、長男が高校進学の希望を持っていることを知りながら繁蔵がそれを峻拒していたことを知りミサヱの怒りは頂点に達する。

そしてミサヱはこの頃から、あることを実行しようと画策し始めたのだ。

殺害計画

ミサヱらの自宅近くに暮らしていた宇野淑子(仮名)は、かねてよりミサヱの境遇にいたく同情していた人物の一人だったが、ある時ミサヱから思わぬ依頼を受けた。
「淑子さん、私決めたの。あの人をもう殺すしかないと思うのよ。」
そう切り出したミサヱは、淑子に対し、青酸カリを手に入れる方法を教えてほしいと言い出した。
おそらく淑子は仕事上、青酸カリを使用できる立場にあったと思われるが、当然ながらはいどうぞ、というわけにはいかなかった。しかも、ミサヱはその青酸カリで夫を殺害するのだと明確に打ち明けていた。

淑子は考えあぐねたが、淑子自身繁蔵をなんて男だと思っていたこともあってか、昭和34年1月ころに青酸カリをミサヱに渡した。

ミサヱは、繁蔵が好きなサイダーに混ぜ込んで飲ませ殺害しようと企んだ。

2月6日、夜遅くに帰宅した繁蔵の目につきやすい、店舗内の洗濯機の上にグラスをかぶせた状態で青酸カリ入りのサイダー一瓶を置いたが、その日は繁蔵の目に留まらなかったのか、それを飲むことはなかった。
翌7日、念を入れて青酸カリ入りサイダーと共に、好物の桜餅も添えて店舗内の野菜台に置いた。この日、明け方に帰宅した繁蔵はそれに気づいて手に取ったものの、なんとなくサイダーの色がおかしいと感じたようで飲むことはなかった。
2度失敗したミサヱは、焦りがあったのかサイダーをすぐまた出せるように店舗内に置きっぱなしにしてしまった。

9日午後八時ころ、店の中でそのサイダーを見つけたのは、四女の登美子ちゃん(当時7歳)だった…

最悪の結果と世間

すぐさま病院に運び込まれた登美子ちゃんだったが、小さな体はすでに致死的な状態にあった。

登美子ちゃんを治療中、医師に対して八百屋の奉公人の一人が
「裏口に落ちていた」
といって、件のサイダー瓶を提出していた。医師はすぐさま警察に提出、その3日後、品川署は任意で事情を聞いていた母親のミサヱを、登美子ちゃんに対する殺人と、繁蔵に対する殺人未遂で逮捕した。

「少女怪死」
という見出しをうった週刊サンケイをはじめ、多くの新聞週刊誌は悪い夫を見限った妻の罠にまさかの娘が引っかかってしまったという論調で書き立てた。
さらに警察は別の人間も逮捕していた。あの、サイダーの瓶を見つけたといった奉公人である。
彼は当時17歳の少年だった。茨城の農村出身の少年は、繁蔵の八百屋に2年前から丁稚奉公に入っていたが、繁蔵はご存知の通りの暴君として君臨しており、少年は何度も夜逃げをしていた。
先にも述べた通り、繁蔵は自分は女遊びにかまけて店のことなど全てミサヱに任せきりのくせに、少年ら奉公人には暴力を含めて厳しく接していた。朝早くから夜遅くまでこき使われ、粗末な食事しか与えられない生活に嫌気が指すにとどまらず、少年はいつしか繁蔵に対して憎しみを抱くようになっていた。

ミサヱから思わぬ話を持ちかけらたのは、昭和34年の正月明けの頃だった。
「もしも私に協力してくれたら、50万円の報酬と家をあげる」
少年はいつの頃からか近所の人や同じ奉公仲間に対し、繁蔵を殺してやりたいと言う話をしていたといい、それをミサヱが聞きつけたのだ。
少年に話を持ちかけた時点では、まだ青酸カリを手に入れられてなかったことでミサヱとしてはプランBだったのだと思われる。
少年が計画に応じたことで、頭を殴りつけてから荒縄で締め殺す、あるいは包丁で刺し殺すなどを考えては見たものの、実行できにいたところへ青酸カリがもたらされた。

ミサヱはプランAを実行に移したのだった。

しかしその結末は予想もしない、最悪中の最悪のものになってしまった。少年がサイダーの瓶を提出したのは、あまりの出来事に自身の責任を感じてしまったからかどうかは不明だが、そのことでミサヱの犯行はすぐに発覚してしまった。
夫婦の問題が、なんの落ち度もない幼気な娘に向いてしまった結末だったが、世間はミサヱの味方だった。

報道された直後から、八百屋がある品川南の商店街の奥方連中を主体として、減刑嘆願運動が始まった。皆繁蔵がミサヱとその子供に何をしてきたか、奉公人らにどんな仕打ちをしてきたかをよく知っていた。
ミサヱが8人の子を成しただけでなく、何度も妊娠中絶がその間に行われていたことも週刊誌は暴き立てた。

当の繁蔵もあまりの結末に、流石に世間に顔向けができなかったのか、平身低頭、あの暴君ぶりが嘘のようにしょげかえっていた。
世間はミサヱがここまで追い詰められたのは繁蔵の傍若無人が過ぎたからであるとしてミサヱに寛大な処分を願っていた。そして、殺人ではなく登美子ちゃんへの過失致死と繁蔵への殺人未遂ということで執行猶予を勝ち取った。
世間は「これでよし」と言わんばかりで、裁判所の心ある判決を大いに評価していた。

ところが検察が控訴したと知って、事態は変わり始める。

検察が控訴したのは、ミサヱが少年にだけ夫殺害を打ち明けていたわけではなく、他にも数人の男らに金銭をチラつかせて夫殺害を交渉していたことを重視していた。
そもそも青酸カリを入手できたのはミサヱから打ち明けられた淑子の存在があった。また、少年に対しても破格の金額と家一軒という報酬を用意していた。
これ以外にも、少なくとも二人の男に夫殺害を持ちかけていたことが判明していたのだ。

繁蔵のクソっぷりを一旦外して考えてみれば、ミサヱは計画的に夫殺害を企て、自分が疑われないように他人を使い、しかも少年に対しては「一切の罪を少年が被る」という約束までさせていた。報酬も、それが守られた後に支払われる約束になっていたというから抜かりがない。

しかし青酸カリ入りのサイダーをしまい忘れるとは抜けているにも程があるわけだが、週刊誌などの報道ではしまい忘れたのではなくて一応しまったのだが、登美子ちゃんが偶然見つけてしまったという話もあった。
子供の視線は大人とは違う。大人からは見えにくい場所でも、子供の目線にはむしろ目についてしまったのかもしれない。

5ヶ月後に行われた控訴審では、あれほどまでに熱心に通い詰めていた商店街の主婦らの姿はなかった。皆、もうすでに祭りのあとだった。

世間というのは面白いもので、一旦お祭り騒ぎが終われば、それまで神輿の上にいた人物を今度は引き摺り下ろそうとするものが現れる。
悲劇に見舞われた不幸な人は、不幸なままでいるから叩かれないのだ。もしも少しでも不幸の色が薄れたらその時は、世間からの仕打ちが待っている。
あの隣人訴訟で有名な三重の預けた子供が水死した事件でも、裁判の前と後で世間の同情は極端に変わった。

それは、令和の世も終戦直後の昭和の時代も、変わらない。

ミサヱはなんと繁蔵と離婚しなかった。形だけの別居を経て、控訴審が開かれる頃には再び、繁蔵の店を開けたのだ。
ミサヱに同情的だった街の人々も、一人また一人と、距離を取る者が出始めた。

控訴審判決は逆転判決となった。
数ヶ月に及ぶ計画の末の犯行であるにもかかわらず、地裁では夫婦の問題ばかりが注目され、他人を唆して協力させるという利己的なミサヱの犯行様態は悪質として、懲役3年の実刑が言い渡された。

三丁目の夕日に憧れて

この事件はいずれも、昭和30年代の「どこにでもいる人々」が起こした、あるいは被害者となった事件である。
和江は六子となんら変わらないし、少女を殺害した男の道を、武雄も歩んでいたかもしれない。皆、貧しく必死に生きていた。
繁蔵は酷い人間だったが、奉公人への厳しさはこの時代当たり前であり、鈴木オートも六子に容赦なかったし、軍隊上がりの店主だった。
ミサヱだって、鈴木オートの奥方のような人生を送れていたはずだったのだ。
今の世ならば、貧困や親との別離、上司のパワハラや先輩社員のいじめなどは相当に酌量もされるだろう。しかしあの頃は、そんな人は腐るほどいた。六子は長いこと、母親に言われた「口減らし」という言葉に傷ついていた。子供を育てられないほどの貧困があったし、それでも子供は親にとって稼ぐための「道具」でもあったあの頃。
武雄はお金のために身近な大切な人を傷つけた。それが、あの茨城の若者とどれほどの差があったのだろうか。ほんの少しのレールのずれが、簡単にそして大きく結末を変え得る時代だったのだろうな、と思う。

子供たちは元気に駆け回り、はすっぱなお姉さんをかっこよく思ったり、たばこ屋のおばちゃんにどやされたり、そんな日常のすぐそばに、それでも悪意はいつもあった。

東京に暮らす人々は、形作られていく東京タワーに夢を託し、夕日は明日への希望だった。
地方で暮らす人々も、東京タワーの噂を聞きながらいつか見に行きたいと胸膨らませ、上京していった人々の土産話を楽しみにしていた。

彼らが見た夕日は、今も街を照らしている。

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参考文献
昭和34年5月6日/東京地方裁判所/刑事第13部/判決

浮気夫の身代わりで「毒入りサイダー」を飲んだ愛娘
駒村吉重 著/新潮45 2008年3月号

🔓あなたが、お前が、望むこと~大阪・長女三女殺害事件~

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「ありさ、泣いてるで」

また始まった。いつもこうだ。この子はあんたの子でもあるんや、なんで自分で抱いてやろうとかせぇへんのやろ。
「あんたが起きたらええやんか」
7月の蒸し暑さがまるで澱のように部屋に垂れ込める。
しばしの口論の後、夫はそれでも背中を向けたまま動こうとしない。

もう限界だった。全然かわいくない。
低い声で泣く娘の傍らに座りなおすと、女はおもむろに娘の顔面を拳で殴りつけた。それでも気がおさまらず、柔らかなその腹部にも拳を叩きつけた。泣き声ともうめき声ともつかない、その声は耳をふさぎたくなるほどだった。
女はそのまま娘の胸ぐらをつかみあげると、自分の肩の辺りまで娘を持ち上げ、そのまま布団の上に2~3回叩きつけた。
もう、娘は声をあげなくなっていた。

女は娘を抱き上げ、炬燵が置かれた部屋に移動、上半身をねじると背後で背を向けて寝たふりを決め込んだ夫にこう告げた。

「止めへんかったらどうなっても知らんから。」

夫は女を見た。しかし、一度目を合わせただけで、黙ったまま再び背を向けた。

女はそのまま、娘を炬燵の天板に叩きつけた。

【有料部分 目次】
平成9年7月21日
長女の不審な死
連続殺人
ふたりのそれまで
小さい娘
望まない子
保険金
地裁の判断
共同正犯
鬼となった女

もうひとつの「虐待の家」~住吉区・小5男児衰弱死事件~

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平成161月、大阪府岸和田で当時中学3年生の少年が、実父と継母に餓死寸前ににいたる虐待を受けていたことが発覚。
少年の体重は24キロまで減っており、この父と継母は殺人未遂に問われた。
幸いにも一命をとりとめた少年だったが、その後遺症は重く完全な回復は見込めない状態となった。

殴る蹴るの感情的な虐待に加え、監禁した上に食事を与えないという人を人とも思わないこの事件に社会は言葉を失った。

しかしその事件が発覚したのと同じ頃、同じ大阪の、ある少年の死が、実は事件であったことが判明していた。
12歳だったその少年も岸和田の少年と同じように、監禁されて自由を奪われ、満足に食事も与えられず、死亡当時の体重はたったの19キロしかなかった。

我孫子の少年

その死は、当初事件として扱われていなかった。
平成14813日未明、大阪市住吉区のマンションに暮らす女性から、「子供が死んでいる」と警察に届け出があった。
自宅マンションに駆け付けた住吉署の署員は、その子供の姿を見て絶句した。
その子供はまさに骨と皮だけの状態で、子供だということは分かるもののいったい何歳なのかすらわからない、そんな状態だった。

「前日までは普通に立って歩いてたんです、仕事から帰ったら死んでいて

母親らしき女性が困惑した様子で署員に事情を説明したが、子供は確かに既に死亡していた。
遺体の状態から、あきらかに普通ではないと思われたが、母親は食事を与えても本人が食べなかったといい、学校や専門のカウンセラーらに相談しながら面倒を見ていた、などと話したことから、警察では学校や周辺の人々に話を聞くなど慎重に捜査を進めていた。

話を聞く中で、どうやらこの子供は精神的な病気があったことが判明、それに対して学校にも説明があったことや、担任らが様子を確認した事実があったこと、いわゆる肉体的な虐待とみられるものがなかったことなどから、いったんは事件性は薄いと判断されていた。

ところが平成163月、新聞各社は大阪地検がこの母親を起訴していた事実を報道。
逮捕は同年115日。あの少年が死亡してから実に1年半が経過していたことについて、警察は「殺意の有無などを含め慎重に捜査した結果。そのうえで、逮捕したほうが良いと判断した」と話した。
実はこの住吉の事件が発覚したころ、同じ大阪府の岸和田市で信じられない虐待事件が発覚し、報道されていた。警察はそれにも言及し、「住吉の事件のほうは岸和田の事件のような暴力がなかった」とも説明していた。

そしてもうひとつ、重要な事情として、
「(亡くなった少年の)母親の友人の長男に配慮した」
とも説明があった。

監禁に至る事情

平成14年に死亡したのは、住吉区我孫子西の小学5年生、大迫雄起くん(当時12歳)。死因は栄養失調からの衰弱と、急性肺水腫によるものだった。
雄起くんはなぜ、骨と皮だけになるほど痩せ衰えていたのか。
雄起くんは我孫子のマンションで介護ヘルパーの母親と生活していたという。近くには祖父母の家もあった。

警察は、雄起くんの母親の大迫朋美(仮名/当時36歳)を保護責任者遺棄致死と監禁致死容疑で逮捕した。
調べでは、平成131月ころから当時10歳だった雄起くんをマンションの四畳半の部屋に外から南京錠をかけ監禁、平成144月からは1日一食しか食事を与えないなどし、その年の812日夕方に死亡させたとした。

監禁は17か月に及んでいたという。

監禁されて以降、当然学校に行くこともできなくなった雄起くんは次第に衰弱し、明らかに医師の治療が必要だったにもかかわらず、母親の朋美はそれら必要な措置を何ら講じていなかった。

朋美はなぜこのような常軌を逸した行動に出たのか。

警察に対して、「息子には精神的な障害があった。食事を与えても吐き出してタンスに隠すようになり、食事を減らした。すべては息子のために治療の一環として行っていたことで虐待ではない」と主張。
朋美の言い分によれば、雄起くんは小学4年生の2学期頃から不登校になったという。その後、勝手に家を飛び出したり自傷行為などが出始めたことで、やむなく仕事に出る間は鍵を付けた部屋に閉じ込めるようになったという。
朋美には、あくまで息子のためを思ってやったことであり、虐待などとは全く思っていないようだった。

ところで警察は朋美の逮捕と同時に、別の人物も同容疑で逮捕していた。
それは、朋美のママ友だった。

その母子と、ママ友

朋美と共に逮捕されたのは、朋美の自宅の近所に住んでいた主婦・川口美代里(仮名/当時38歳)。
警察は美代里と朋美が共謀して監禁や食事を与えないといった虐待を加え、結果雄起くんを死に至らしめたとした。

朋美と美代里の出会いは平成5年。当時子供服販売の仕事をしていた朋美の職場に客として現れたのが美代里だった。
体格がよく、見るからに頼りがいのありそうな美代里に、朋美はなにかと相談していたという。
美代里には雄起くんと同い年の男児がおり、その男児が通う学校の保護者らの間でも美代里は名の知れた存在だった。
育児や夫婦の、この世代の母親ならだれもが抱く悩みや不安を聞いては、親身にアドバイスしていたといい、小学校の先生らも美代里を頼りにするような状態だった。

平成7年に離婚した朋美は、美代里との距離を縮めていく。シングルマザーとして働かなければならない朋美は、平成9年ころから留守の間の雄起くんの世話を美代里に頼むようになった。
そのうち、夜も働くようになった朋美は、美代里の自宅近くへ越して雄起くんの世話をお願いしていたという。
すでに2度の離婚歴があった美代里は、朋美にとってシングルマザーとしても先輩だった。

美代里には、雄起くんと同い年で同じ学校に通っていた長男がいたことから、当初は雄起くん、長男、共通の友達らと遊ぶことも多かった。
「気弱なところはあったけど、仲良くなると心を許してくれる」
その共通の友人は後に雄起くんについてこう話している。
小学校3年生までは、それぞれがそれぞれの家を行き来するなど非常に健全な関係だったという。時には朋美が子供たちを夕食に招くこともあった。

それが、突然終わりを告げた。

友達と疎遠になったのが小学4年生のころ。その後一度だけ、美代里の長男と遊ぶ約束をしていた同級生が、長男が雄起くんの自宅にいると聞いて訪れたところ、雄起くんが姿を見せたという。
声をかけたが、雄起くんは何も言わず、黙ったまま。見違えるほど痩せていた。表情のないその顔は、仲良く遊んだ頃の雄起くんの面影すらなく、同級生はそれ以上声をかけることができなかった。

そして、それが雄起くんを見た最後だった。

ママ友のアドバイス

ある時、朋美は美代里から雄起くんについて驚くべきことを聞かされる。
「この子は精神的な病気があるのではないか」
唐突に思えた言葉であるが、実は以前、美代里の長男を突き飛ばしたことがあった。幸い、けがなどはなかったが、朋美もその時のことを気にしていた。
そういえば、以前知人から雄起くんの言葉が遅い、と指摘されたこともあったし、勝手に家を飛び出すなどの問題行動があった。
忙しい朋美に代わって雄起くんの世話をしてくれている美代里に言われたことで、朋美はさらに不安になっていく。

ほかにも美代里は気になる話をしていた。
「石鹸を食べとったで」「なんや、急に意味不明の話し始めて……
朋美は愕然とした。これでは完全に異常ではないか。しかも美代里の子供を突き飛ばすなんて。

そんな朋美の不安を見透かしたように、美代里はこう告げる。
「このまま学校に行かせたら、多分ほかの子にも同じことするやろな」
そんなことになったら大変、どうすれば!?動転する朋美に対し、美代里はある提案をした。

「私が面倒見てあげるから、家にずっとおらしといたらええ」

朋美に自分の頭で考える余裕はなかった。縋るような思いで、朋美は以降、学校には休ませると連絡をする。
理由を聞いてくる学校に対しては、「精神的に不安定で人に会うと悪化する恐れがある」と説明したが、納得しない学校は何度も朋美に連絡を取ろうとしたという。
「雄起は自宅療養が必要なんです。病気の専門のカウンセラーにもかかってるので、担任の先生であっても顔を合わせるのはお断りします。」
朋美に代わって学校に対応したのは、「代理人」と名乗る美代里だった。

学校

事件発覚後、雄起くんが在籍していた長居小学校では驚きと共に、「あのお母さんなら……」という雰囲気もあった。
あのお母さん、というのは、朋美のことではなく、美代里のほうである。
美代里はそれまでにも、障害のある子どもの世話を甲斐甲斐しく行ったり、普段から学校によく出向いては教師らとも交流を持っていた。
当時の校長も、「非常に面倒見のいいお母さんで、教師や保護者らからの信頼も厚かった」と話す。
そのため、長居小に出入りしていた児童相談所の職員にも、雄起くんの状態をあえて相談することはなかったという。

雄起くんが学校に来なくなって以降、朋美が学校へ出向く際には必ず美代里の姿があった。そして、代理人と称して雄起くんの状態を説明、それを学校は鵜呑みにしていたというのだ。

雄起くんが死亡した後、警察が学校の関係者らに事情聴取をした際も、学校としては美代里に全幅の信頼をよせていたことから、まさか犯罪行為が行われていたなどとは夢にも思わなかったらしい。

一度、担任が自宅を訪問した際、雄起くんと話す機会は得られなかったものの、ベランダ越しに雄起くんの姿を確認できたという。
学校はその事実だけで、雄起くんの健康状態に問題はないと判断してしまった。以降、学校側は美代里のいうことを完全に信用してしまう。

美代里は、少なくはなかった母子家庭仲間のリーダー的存在でもあった。100キロほどはあろうかという巨体は、時に「安心感」となった。実際に非常に面倒見がよく、学校と保護者の調整役のような役割も担っていたのも事実だった。

校長ら管理職が美代里に対して信頼できるという評価をする一方で、現場の教員からは違う声も聞こえていた。

次は誰を飛ばしてやろうか

美代里について、あるエピソードがある。
自身の長男が5年生の時、「教師から体罰を受けた」と美代里が学校に抗議してきたという。それまでも、「子供がいじめられた」と訴える母親に付き添って学校に抗議したこともあった。
当の教師は否定し、校長らも事実関係を確認したうえで誤解の可能性が高かったために取りなそうとしたが、その後教師自ら希望を出して移動となった。

その際、美代里がボスとして君臨していたママ友仲間らに、
「次はどの先生を転任させてやろうか」
と話していた。

校長らが教師を守っても、その教師自ら移動を願い出ざるを得ない状況を、美代里は作り出していた。
おそらく、自分の取り巻きたちも総動員したのだろう。美代里のいうことはいつしか絶大な力を持ち、美代里を疑うこと自体が許されないような環境が出来上がっていた。

現場の教師らは表面上は美代里に対して一目置いているように装いながらも、本心ではそれが「恐怖心」であることに気づいていた。

美代里のことを、実は誰もが恐れていたのだ。

悪化

美代里はその後も学校からの問い合わせに対し、
「見知らぬ人と会うと悪化する」「今診てもらっているカウンセラーでうまくいっている。近いうちに会える」
などと話し、来年からはまた学校にも通えそうだなどと話していたが、実際に医療機関やカウンセラーが雄起くんを診たという事実はなかった。

そして、学校側が不信感を持ちそうになると、「もうすぐ学校に行かせられる」などと言ってははぐらかした。

朋美はどう思っていたのか。
雄起くんの状態は良くならず、家出を繰り返すようになったという。それだけではなく、はさみを持ち出して自傷行為にまで及ぶようになった。
そこで、美代里に相談すると「鍵をかけておくといい」と言われたことから、南京錠を購入、内鍵をつけるようになった。
家に閉じ込めるようになって以降、雄起くんは次第に食欲を失い、朋美が留守の間に美代里がカロリーなどを計算して作った食事も、食べなくなった。
そこで、無理やりでも食べさせなければならないとして、食事を食べやすいおかゆにし、それでも食べないときは流動食を準備したという。

平成14年の4月ころからはその食事を11回にした。量は少ないと感じたが、美代里が栄養やカロリーを考えて用意してくれているので大丈夫だと思っていた。というか、もはや美代里のいうことを信じることしか、朋美にはできなくなっていた。

そして8月、雄起くんは栄養失調の末、死亡した。

暴走するボスママ

そもそも雄起くんは精神的に異常があったのだろうか。
朋美が主張した雄起くんの様子は、①複数の家出 ②自傷行為 異食 ④他害行為 ⑤食事拒否 というものだったが、裁判ではこれらのことについて学校の教師と雄起くんの祖母が証言台に立った。

事実として、美代里の長男に対する暴力行為というものはあった。複数の家出も、不登校も、食事拒否も事実だった。
しかし、それらは細かく見ていくと話しの後先がおかしいことに気づく。
雄起くんは平成12年ころ、複数回の家出をしている。しかしこの家出の行先は、自宅から1キロほどの祖父母宅だった。
当時すでに不登校となっていて、生活全般を美代里が面倒をみていたわけだが、祖父母宅で雄起くんはSOSを発していたのだ。

一緒にふろに入った祖父は、雄起くんの体の痣を確認、本人にどうしたのかと聞くと美代里にやられたと話したという。
加えて、食事を満足にさせてもらえないという訴えもしていた。ある時ははっきりと「家に帰りたくない」と懇願していたという。
心配した祖父母は、美代里に面会し、事の次第を確認したようだったが、その際、美代里に「絶対に私が責任をもって治す」と、泣きながら訴えられたことで雄起くんを家に戻してしまった。

雄起くんが監禁状態にさせられたのは、この直後のことだった。
そしてそれを、「不登校」と呼んでいた。実際には、雄起くんは学校に行きたくても行けない状態になっていたのだ。

祖父母は何度も自宅を訪問したり電話を掛けたというが、そこから2年間、雄起くんに会うことも声を聴くことすら、できなかった。
朋美は雄起くんのためにならないと美代里に言われ、祖父母に預けていた合い鍵を奪い返し、自宅の固定電話も取り外していた。この時点で、外部から雄起くんに接触することが事実上不可能になっていたのだ。

ただその祖父母の疑念をはぐらかすために、朋美はことあるごとに安心させるようなことを伝えていたのではないかと思われる。そうでないならなぜ2年間も様子のおかしい孫を放っておけるものか。

食事拒否については、これは私の推測でしかないのだが、事実として与えられていたのがおかゆに刻んだ野菜を混ぜたものだったことから、単に「とても食べられたものではなかった」のではないか。
美代里は世話を任されていたとどの報道でも書かれてはいるが、実際に裁判を傍聴した人によればそもそも家事と言われるようなものをしていなかったようなのだ。
弁当が必要なのに作らなかったり、食事もおそらくその程度は元から知れていたように思える。雄起くんが祖父母に訴えたことからも、もともと満足に食事をさせてもらえていなかったのだ。

学校に行けていた時は給食で何とかなっていたものが、監禁状態になって以降は雄起くんのすべてが美代里の手の中にあったと言って良い。
考えてみてほしい、味もそっけもない物を出されて、喉を通るだろうか。
加えて、雄起くんの美代里への反発のようなものがそこにあったとも考えられる。おなかが減れば食べるだろう、そうかもしれないが、そもそもの量が少なく、食べたいという気持ちよりも食べる気力が失われるほうが早かったのかもしれない。

自傷行為については、それが起きた時期に注目したい。雄起くんははさみを自分に向け、「僕はもう死ぬんだ」と口走ったという。
しかしそれは、家から自分の意思で出られなくなってからの話だ。「そういうことがあったから」家に閉じ込めたのではない。
警察でも、この行為は精神的に追い詰められてのこととみていた。

たった10歳程度の子供が、このままでは自分は死ぬ、そう思わざるを得ない状況を、朋美と美代里は「作り上げていた」。

石鹸を食べる、意味不明のことを言う、これらについては、もう美代里のでっちあげとしか思えない。ある出来事が起こるまで、教師も友達らも皆、雄起くんにおかしなところなど全く見出していなかったのだ。

その出来事は、美代里の長男を突き飛ばしたあの一件である。

はずれた目論見

しかしなぜ朋美は、この美代里のいうことを鵜呑みにしたのか。

裁判では朋美の依存体質も指摘された。加えて、朋美自身が非常に真面目だった点も、この事件が最悪のものとなった一因に思える。

元々、朋美はバブル時に財をなした夫と高級マンションで生活していたのだという。それが、バブル崩壊とともに立ち行かなくなった。
それまでとは全く違う生活になっても、朋美は腐ることなく働いていた。借金もかなりあったといい、昼夜を問わず働いていた様子を考えると、朋美は責任感もあるし非常に正しい人、という印象がある。

それがなぜ、自分で考えることを放棄してしまったのか。

こういった事件ではよく言われることだが、真面目ゆえに思い込んでしまう性格の人間は、ターゲット、獲物としての素質も備えている。
人には言えない苦しい思いを朋美はしてきたのだろう、日々がむしゃらに働いていた時、ふと、手を差し伸べてくれる人がいた。
美代里である。
同じ年頃の男の子のいる母親、豪快に笑い、会話のテンポもいい。悩みを相談しても、ぽんぽん答えが返ってくる。

やがて朋美もシングルマザーとなった。わからないことだらけの中で、2度の離婚歴のある美代里は頼もしかった。
夜の仕事をしなければならなくなった時、その美代里が息子の面倒をみてくれると言ってくれて、朋美はどれほど心強く、そして感謝しただろうか。

それが、いつの頃からか朋美にとって、「自分で考えるよりも楽」になった。

美代里にしても、以前から自分の子供よりも周りで困っている母子の面倒を見ていたという話がある。
やりすぎな感は確かにあったが、頼りになる一面があったのもまた事実だ。
しかし、雄起くんについてはそれまでの純粋な人助けとは違っていた。

美代里は、雄起くんと朋美が「困っている弱い母子」ではないことに焦ったのではないか。

朋美は借金を抱えて昼も夜も働いた。母一人、子一人、一見、弱者である。
しかし、先にも述べたように、時には子供らを招いて夕食を共にしたり、雄起くんにしても友達もいて近所には祖父母もいて、実際のところこの母子は特別困窮していたわけではなかったのではないか。

むしろ、本当の弱者は美代里のほうで、それがいつからか人を助けることで頼りにされ、そこに美代里は自分の存在意義を見出した。
以降、美代里は困っている親子を見つけ出しては助っ人を買って出た。あまりに他人の親子にばかり構うものだから、美代里の息子は拗ねてしまうほどだったという。
そこまでしても、いや、そこまでしなければ、他人に自分の存在を認識してもらえない。美代里はそういう女だったように思える。

朋美親子と出会ったとき、獲物だと思ったはずが蓋を開ければ、雄起くんは想像していた弱い子供とは違っていた。
息子に対する突き飛ばし事件があった時、美代里のなかで雄起くんに対する怒り、思い通りにならない焦りが沸いたのではないのか。

将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。
朋美を丸め込むのは容易いことだった。これでもかと不安をあおり、ありとあらゆることをこじつけて朋美から雄起くんを遠ざけた。邪魔な祖父母も迫真の演技で遠ざけた。責任を取りたくない学校は元から障害物ではなかった。

裁判では朋美に対しても、「美代里に丸投げしておくほうが楽だと気付いた」のではないかと言及しており、どこか家庭や子供のことはすべて母親に任せて知らん顔を決め込む父親のような存在に朋美はなっていた。

わけもわからず様々な制限を課され、自分のSOSも届かない。母は、もう母親ではなくなっていた。

洗脳と、される側のずるさ

令和3年春、福岡で5歳の男の子が衰弱死させられた事件を記憶している人は多いだろう。
また、このサイトでも取り上げた愛知県のママ友事件、ひたちなか市のママ友事件など、あることないことを吹き込まれ信じ込んでしまった母親が、ママ友に操られて我が子を死なせるという事件はいくつかある。

この、洗脳状態というのは夫婦間、恋人間ではよく聞くが、実は母親同士の関係でも少なくない。
そこには、母親のネットワークから外されたくないという独特の思いや、孤独や貧困などで誰かに依存したいという性質につけこまれることもある。
そしてなぜか、人を操って欲望を満たす人間は、そのような依存体質の人間を嗅ぎ分ける能力に長けているのだ。

福岡の事件もそうだが、たいていこのようなママ友事件の場合、金を奪うというのが根底にあることが多い。
ただ、この美代里と朋美の関係の場合、たしかにある時期から朋美が美代里に月に2万円を支払うようになってはいたが、それ以外に金をだまし取ったという話は出ていない。そもそも、朋美にそんな金はなかった。

美代里にとっては、金よりも自分自身の居場所、自分を周囲の人間が一目置いて頼りになると称賛してくれることが何にも代えがたいものだったのではないか。困ったことがあれば、美代里に頼ればなんでもうまくいく……とすれば、ただの一度の失敗も許されない。あの先生にしたように、どんな手を使ってでも美代里が正しいという結末を迎えなければならない。
それを邪魔する雄起くんを、美代里は多分許せなかった。

大阪地方裁判所は平成171026日、犯行は美代里主導だったと認定、懲役10年を求刑されていた美代里と朋美は、美代里に懲役9年、朋美には懲役8年を言い渡した。
その後控訴したという情報はあるが、おそらく控訴棄却だったと思われる。

美代里の悪意があったとはいえ、息子のSOSから目を背けひたすら「美代里が言っているから」ですべてに耳をふさぎ、目を閉じた朋美のそのずるさが、美代里を暴走させたとも言えるだろう。

*************

参考文献
読売新聞社 平成1635日東京夕刊、36日大阪夕刊、38日配信
四国新聞社 平成1636日朝刊
沖縄タイムス社 平成1636日朝刊
佐賀新聞 平成1636
産経新聞社 平成1636日東京朝刊、大阪朝刊、38日大阪夕刊、平成171027日大阪朝刊
朝日新聞社 平成1636日朝刊、大阪夕刊、37日東京朝刊
毎日新聞社 平成17910日、1027日大阪朝刊
NHKニュース 平成16416

本日の気ままな事件日記

2005年度家族法ゼミ

🔓フェミサイド〜藤沢市・女性タクシー運転手強盗殺人事件〜

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拘置所にて

「鑑定を受けようと思ったのはなぜ?」

目の前の男は、自ら精神鑑定を申し出ており、医師は数ヶ月に及ぶ鑑定を担当していた。

「……人を殺めちゃうことを繰り返し思い浮かべるんです。」

男はそう言うと、縋るような、こちらの反応を窺うような顔をする。

「治したいの?」

医師の問いに、男はこう答えた。

「治していただくか、殺してもらうしかない」

男は殺人願望があることをしきりに訴えたが、同時に自分自身がそれに怯えているようにも思えた。

男はその言葉通り、この会話から数年後、見ず知らずの人を殺害した。

事件

平成14年8月31日。神奈川県藤沢市獺郷(おそごう)の路地に、女性の悲鳴が響き渡った。
時間は午前1時50分、その声に気づいたのは近くで養豚場を経営する家族だった。

「早くきて、タクシーの運転手さんが助けを求めている」

通報者の女性によれば、女性の悲鳴で外を見ると、路上にタクシーが止まっており、その後そのタクシーは走り去ったという。
通報者らが懐中電灯を持って外に出た時、路上をふらつきながらこちらに歩いてくる人影が見えた。そして、そのままベシャッという音を立てて崩れ落ちた。

救急車が10分後に到着したが、被害者はその場で死亡が確認された。

死亡したのは、横浜市保土ヶ谷区のタクシー運転手、川島りつ子さん(当時50歳)。
タクシー会社によれば、その時タクシーに搭載されている緊急ボタンが押されていたという。

この頃、各地でタクシー強盗が頻発しており、この事件も当初はその類だと思われた。運転手が女性だったのも、女性であれば奪いやすいと思ってのこと、という見方があり、各新聞社等の報道も、女性タクシー運転手の危険性や各タクシー会社の防犯対策などを掲載するにとどまり、実際にこの事件の報道もわずか数日で終わった。

というのも、事件発生から30分後、犯人を名乗る男が「俺がやった」と110番通報してきていたのだ。
奪ったタクシーで茅ヶ崎市内のコンビニまで来ていると告げた男の言葉通り、警察官らが急行するとそのコンビニは川島さんが乗っていたタクシーと、男の姿があった。
助手席には川島さんを殺害した凶器と思われる刃渡り7、5センチの切り出しナイフ。川島さんは頸部や背中など26箇所もの刺し傷、切り傷を負っていた。

警察の声掛けに男は応じ、抵抗することもなくその場で逮捕された。

男は石田勇一(当時45歳)。
8月21日に、横浜刑務所を満期出所したばかりだった。

石田は取調べに対し、「女性を殺したいという願望があった。あの後別の女性運転手のタクシーも襲うつもりだった」と話していた。

女性を殺したい、石田ははっきりとそう言ったが、実は石田が女性に殺意を抱いていたのはこの事件を起こすずっと以前からだったのだ。

【有料部分 目次】
出所直前
殺したい殺したい殺したい
予感
殺したいのは女
暴力と共に生きて
憎しみの象徴
間欠性爆発性障害
この世の女なんて、すべて死んでしまえばいい
冷めやらぬ殺人の衝動