🔓絶叫~福岡・小1長男殺害事件~

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その日の目覚めはいつになく爽快だった。
これまでの二日間、ほぼ寝たきりだったのが嘘のようで、久しぶりに一人で外出してみる気になった。

財布を覗くと、2000円程度しかなかった。郵便局と銀行でお金を下ろし、いつもならバスに乗るところを歩いてみようと思った。
姪浜駅北口を出て400m、国道に出たところを左折。自宅までは約1,5キロ。交通事故でひざを痛めて以降、歩く速度は遅いものの、この日はいつもよりも力が漲っていた。

途中、ふとファミレスに寄ってみようと思った。ちょうど昼時、いくつかのメニューを頼み、ビールも注文した。合計は1296円。

いつもならこんなことはしないが、とにかく、いつもよりも動けることが嬉しかった。

午後3時、小学校から息子が帰宅。ドーナツが食べたいとぐずったが、作ってやろうにも卵を切らしていた。
「じゃあ卵を買いに行こうか。」
母と息子は手をつないでスーパーへと向かった。
途中、大きな公園があった。息子はどうやら、小学校の遠足で来たことがある公園らしい。そういえば夏休みの間、あまり遊んでやれなかった。スーパーは後回しにして、遊んでいこう。

「トイレに行くけん、ここでおってね」

息子に声をかけ、トイレに向かう。
しかし出てきた時、息子の姿は見えなくなっていた。

事件

「男の子を見ませんでしたか!?」

平成20年9月18日午後4時ころ、福岡市西区の小戸公園にて、母親と遊びに来ていた同市立内浜小一年の富石弘輝くん(当時6歳)の姿が見えなくなったと母親から通報があった。
警察と共に、公園内にいた一般の人々も加わって弘輝くんを捜索していたところ、同公園内にあるトイレと外壁の隙間に膝を折り曲げた状態でもたれかかるようにしてぐったりしている弘輝くんを発見。
意識がなかったため救急搬送されたが、病院で死亡が確認された。
弘輝くんの首にはひものようなもので絞められた痕が残されており、福岡県警では殺人事件として捜査本部を設置して捜査にあたった。

弘輝くんの衣類に乱れはなく、首のあと以外に目立つ外傷もなかった。

通報した母親によると、弘輝くんにはGPS機能付きの携帯電話を持たせており、いなくなった直後から母親がそのGPS反応を捜していたという。
捜索している中、一般の男性が弘輝くんを発見し警察に知らせたところ母親も近づこうとしたが、最悪の事態を想定して男性が母親を押しとどめた。母親は不安そうに、しかしそれ以上は近寄らなかった。

男性はなんとなく、違和感を覚えたという。母親はトイレに行くと告げて子供から目を離したと話しているのに、なぜか、最初からそのトイレ付近は捜索しようとしていなかったし、みんなが捜しているのに、ベンチに座ったままだったという。発見した際、弘輝くんの足元は裸足で、その靴が足元にきちんとそろえられて置かれていたのも気になった。

搬送される弘輝くんに、母親は寄り添いずっと声をかけ続けていた。

事件翌日、福岡市内で弘輝くんの通夜が営まれた。車いすの母親は参列者に対し、「子どもから目を離さないでね、こんな悲しいことはわたしだけでいいけん」と気丈にふるまっていたというが、柩の周りで親族が「犯人を殺してやりたい」というのを聞くと、ひざに顔をうずめるようにして号泣していた。
翌日の葬儀では、笑顔の弘輝くんの遺影を胸に霊柩車に乗り込み、参列した人々はその悲しみの中で残された家族の心中を思い、いまだ逮捕されていない犯人に対しての怒りを新たにした。

9月22日。警察は事情を聴いていた母親を、弘輝くん殺害の容疑で逮捕した。

【有料部分 目次】
発達障害
難病

序列
苦しいほどの生真面目
ママなんか死ねばいい
不可解
絶叫

放蕩と暴力そして、狂気の沙汰~喜多方・男性殺害死体遺棄事件~

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平成14719日、福島地方裁判所。

殺人の罪に問われた被告人は、最後までその罪を悔いることはなかった。
そればかりか、被告人の口から出たのは「騙された。遺体は見つからないはずだったのに。」という理解しがたい言葉。

判決は求刑懲役12年に対し、懲役9年。
殺人の罪としては比較的軽い刑ではあったが、被告人は「9年は重すぎる」として控訴。
反省のかけらもないこの被告人に対し、平成15325日、仙台高等裁判所はさらに減刑の懲役6年を言い渡した。

報道はここで終わるためにおそらくこの判決が確定したと思われるが、無反省でかつ殺人という罪を犯した被告人にいかほどの事情があったのか。

喜多方の遺体

事件発覚の発端はとある廃村で見つかった遺体だった。
喜多方市内の男性がかつて暮らした住居跡地の農機具などを片付けに来たところ、近くの林になにかがあるのを発見。
近づいてみたところ、地中から人間の足が突き出ていた。
驚いた男性はすぐに110番通報。警察官によって掘り起こされたそれは、男性の腐乱死体だった。
遺体は損傷が激しく、一部白骨化していたことから死後数カ月が経過しているとみられたが、その年齢などは分からなかった。

現場は喜多方の市街地から北東に10キロほど入った山の中で、昭和の終わりに廃村となった村の山林だった。北塩原村との境に位置し、近くには関柴ダムがあり、遺体は林道の行き止まり付近に埋められていた。

状況から男性は何者かに埋められたとみられ、警察では殺人事件も視野に入れて捜査を始めた。
遺体は衣服を身に着けており、靴まで履いていた。紺色と白のチェック柄の上着にズボン姿、黒い革靴で、その上着には「矢内」というネームが刺繍されていたという。

その後の司法解剖から、遺体は1025日から行方が分からなくなっている埼玉県行田市の無職・継田(ままだ)恒雄さん(当時54歳)と判明。当初数カ月経過しているとみられた遺体も死後2週間ほどだったとわかっており、警察では継田さんが行方不明となった直後に殺害されて埋められたとした。
継田さんは後頭部を棒状の鈍器で殴打されており、現場での捜索でそのような凶器が発見されていないことや、血痕、争った痕跡もなかったことから、継田さんは別の場所で殺害されてここまで運ばれてきたとみられた。

上着にあった「矢内」という名前は、その後の調べで継田さんが親しくしていた男性の娘夫婦が引っ越す際に、その娘婿が継田さんに不要になった衣類を数着譲渡しており、その中の一つだったことも判明した。

継田さんは83歳の母親と49歳の弟との3人暮らし。
息子の遺体発見の知らせを受けた母親は、「もともと月に1~2回ふらりと戻ってくるような生活だったが、まさか事件に巻き込まれていたなんて」と驚きと悲しみを隠せない様子だった。

継田さんは当時無職だったが、十数年前には大宮市でラーメン屋を開いたことがあったという。が、商売はうまくいかず半年ほどで閉店。その後は定職に就いていなかった。

そのせいか、継田さんを知る人からは、継田さんが金銭トラブルを抱えていた、という話も聞かれていた。また、継田さんは地元の中学を卒業して以降、刑務所に出たり入ったりの生活を送っていたといい、警察では交友関係を中心に行方不明直前の継田さんの足取りなどを捜査していた。

遺体を埋めた場所が埼玉から遠く離れた福島県だったことなどから、喜多方に土地勘のある人間の可能性を考え捜査していたところ、継田さんの遊び仲間で埼玉県熊谷市に住んでいた男が喜多方市出身であることを突き止める。
そしてその男の行動を調べていたところ、1024日に遺体発見現場近くでこの男の車が目撃されていたこと、さらには男が車のトランクを洗っていたこと、その車の処分を依頼して、レンタカーで逃走していることもわかった。
埼玉県内のスクラップ工場にあった車のトランクからは大量の血痕が発見され、後にそれが継田さんのものと一致したことから、警察は男を全国に指名手配した。
男は1113日に、群馬県高崎市の健康センターにいるところを発見され、事情を聞かれた後に継田さんの遺体を埋めたことを認めたために死体遺棄容疑で逮捕となった。

まさかの展開

逮捕されたのは喜多方市出身で住所不定の元トラック運転手・山岡善廣(仮名/当時36歳)。
山岡は継田さんの弟と知り合った関係で継田家に出入りするようになったといい、その後、服役を終えて出所してきた継田さんとも知り合った。
山岡は調べに対し、継田さんの遺体を運んで埋めたことは認めていて、「全部自分一人でやった」と話していたが、警察は共犯者の存在を疑っていた。

山岡はトラック運転手として働いていたが、平成13年からは定職に就いていない状態だった。継田さんとの付き合いは、先にも述べた通り継田さんの弟と知り合ったのがきっかけであるが、警察は山岡が消費者金融に280万円の借金があるにもかかわらず定職にも就かず、なぜか国産スポーツカーなどを購入し、海外旅行へ出かけていたことなどを疑問視。
金銭トラブルを抱えていたという継田さんのトラブルの相手が実行犯役として山岡に金銭で依頼した可能性もあると見ていた。

そしてそれはズバリ的中していた。
12月に入って、山岡は継田さんの遺体を遺棄する相談を別の人間としていたことを自供。

が、その依頼者を知った捜査関係者らは驚きを隠せなかった。

継田さんの遺体を山林に捨てることを相談した相手は、継田さんの実母だったのだ。

母の苦悩

福島県警喜多方署の捜査本部は、死体遺棄容疑で継田さんの実母・継田ちとせ(仮名/当時83歳)を逮捕した。
ちとせは死体遺棄を認めてはいたが、捜査本部では二人が殺害にも関与しているとみて厳しく追及していた。

わかっていることとしては、殺害された継田さんを山岡が一人で1024日頃にあの喜多方の山林に埋めたこと、遺体を遺棄することはちとせから提案されたということだった。
しかしその後の調べで、ちとせには想像を超える苦悩の人生が続いており、その原因が息子の継田さんにあったこと、そして苦悩の果てに息子の殺害を山岡に1000万円で依頼していたことが分かったのだ。

ちとせは大正8年の生まれ、尋常小学校を卒業したのちは実家の農業を手伝いながら、昭和19年に結婚。夫とともに婚家である継田家を守ってきた。
夫は前妻と死別しており、前妻の子供もいたというが、ちとせはその前妻の子を含む五人の子供を育てていた。
昭和34年、夫が突然の交通事故で死亡した後も、たった一人で農業をしながら子供達を育て上げたという。

継田さんは昭和22年に生まれたが、中学を卒業して以降その素行は悪かったという。母親が一人地に這いつくばって仕事をしていてもそれを助けることもないばかりか、金の無心を繰り返し、成人してからも母親であるちとせを助けようともせず放蕩三昧の日々だった。
継田家は土地を多く所有するもともとの資産家だったが、昭和49年、土地の一部が上越新幹線建設用地として買収される。
その際、土地の名義が亡き夫のままになっていたことから、買収にあたって名義変更する必要に迫られたという。通常ならば、長男である継田さんに名義をかえるところ、素行が悪すぎる継田さんを跡取りとすることはできないと考えたちとせは、継田さんに内緒で次男に名義変更させた。ちなみにこの時、継田さんは服役中だった。

ところが出所した継田さんがその事実を知ってしまう。ちとせは財産を横取りされたと怒り狂う息子を宥めるために、継田さんに言われるがまま、以降金銭を渡すようになる。
それに味をしめた継田さんは、毎日のように飲み歩き、金がなくなれば母親であるちとせに無心を続けた。その額は案の定、次第に大きくなっていき、ちとせはこのままでは継田家の財産が失われると不安になり、無心されても応じないようにした。

すると、継田さんは家の窓ガラスを割ったり、高齢の母親に対して殴る蹴るの暴行を働いたという。一度は農機具の鍬でちとせは頭を殴られた。
家には次男もいたが、荒れ狂う刑務所帰りの酒乱の兄貴に太刀打ちできるような次男ではなかった。ちとせは嫁に行った娘に助けを求めるなどしたが、かといって甘え続けるわけにもいかず、継田さんに怯えながら暮らす日々が何年にもわたって続いたという。

平成12年、継田さんはちとせに対して家を出て行く代わりに3000万円寄越せ、と要求する。ちとせは3000万を手切金と考え、それを受け取ったら継田さんが他所へ行ってくれると約束したため、近隣の土地を売却して3000万円を用意した。
ちとせは平成12年の暮れから正月にかけてその金を継田さんに渡すと、継田さんは約束通り実家を出て行ったという。

ところが、正月気分も抜け切らない、まだ松の内だというのに、なんと継田さんが実家へ舞い戻ってきたのだ。
唖然とするちとせに対し、またこの家で暮らすと言い放った。あの3000万円は、数日で全て使い果たした、とも。

ちとせはもう金は渡せない、しっかり働くようにと言いはしたものの、暴力で向かってこられてはひとたまりもなく、自分を守るために都度金を渡さざるを得なくなってしまった。

他の子供たちも当てにはならなかった。ちとせは、このままでは長男に全てを食い潰されてしまうと危惧するあまり、いっそ長男がいなくなれば、死んでくれれば、と思うようになっていった。

救世主

一方、この継田家の実情を知る人物がいた。それが山岡だった。
山岡は継田さんの弟の遊び仲間だったが、継田家に出入りするようになってから、継田家が市内有数の土地持ちの資産家であることと、どうしようもない放蕩息子がいて母親に暴力を振るって金をせびっているということを知った。

ひどい話だ、と思う反面、息子に言われたからといって3000万円の大金を手切金として用立てられる継田家ならば、上手いこと言えば自分の借金である280万円くらい引っ張れるのではないか、とも思っていた。

そして平成131月のあるとき、ちとせと世間話をする中で、ちとせの口から「あんな倅は自分の倅ではない。どこかへ行って、戻ってこなければいいのに。いっそ死んでくれたって構わない」という言葉が出たのをきっかけに、報酬と引き換えにならば自分が継田さんを殺してやってもいい、と持ちかけた。

ちとせは当然、そんなことをすればまず自分が疑われてしまうからと本気にはしなかったが、山岡から「殺した後は薬品をかけて溶かしてしまえば誰にもわからない」と言われたことで、ちとせの心はざわつき始めた。

このままでは継田の財産どころか、住む家さえ失いかねない。必死で守り続けてきたものが、何もかも奪われてしまう。
あの子さえ死んでくれれば、その心配も無くなるしもう暴力に怯えて暮らさなくてもよくなる……

ちとせの心は決まった。

決行の夜

ちとせは山岡に対し、着手金として報酬のうちの300万円を平成133月頃に手渡した。山岡も、4月に入って継田さんを殺害すべく飲みに誘い出し、泥酔させたのちに場所を変えようと言って継田さんを人気のない場所へ連れて行って絞殺しようと計画していた。

ところが実際に殺害を実行するために飲みに出かけた夜、継田さんは泥酔状態になったはいいがなんと店の客と喧嘩をし始めてしまう。
これではあまりに周囲に印象付けてしまうと考えた山岡はその日の殺害は見送った。

継田さんが生きている以上、残りの700万円をもらうことはできない。サラ金の借金はまだ返せていなかった。着手金としてもらった300万円は、すでに消費して残っていなかった。

一方で山岡は、自分しかちとせには頼る相手がいないのだから、たとえ殺害に及んでいなくてもそれらしい理由をつければ報酬を前払いさせられると考え、ちとせに対して殺害実行を仄めかしては7月までに950万円を受け取っていた。
しかしその金は借金返済や旅行の費用などであっという間になくなってしまった。

ちとせも黙って金を渡し続けるには限界だった。いつまで経っても、あの放蕩息子はやりたい放題ではないか。
もうこれ以上は前払いなどできない。山岡に、息子を殺して持ってこいと迫った。

山岡も、すでに払い受けた950万円は手元になく、残りの金をもらうためには(と言っても、残金は50万円である)継田さんを殺害しなければならないと腹を決め、1022日、23日の両日継田さんと飲みに行く約束をした。
そして、23日の昼頃ちとせを訪ね、「今晩やるよ」と告げた。
ちとせもそれを聞いた上で了承。ここに、継田さん殺害の共謀が成立した。

同日夜7時半頃、継田さんを迎えにやってきた山岡は、その自動車の中に金属バットを乗せていた。ちとせはこれで最期になるかもしれない生きている息子の姿を見送った。

山岡は継田さんを酔わせ、何軒かの店を回った後、「俺の女の家で飲み直そう」と誘い、埼玉県児玉郡上里町内の路上で歩いていた継田さんの背後からその後頭部を思い切り金属バットで殴りつけた。
何度殴ったろうか、動かなくなった継田さんを車のトランクに入れると、車を走らせた。車が向かったのはあの喜多方の山林、ではなかった。

山岡は、継田さんをちとせのもとへと連れていった。そして、母に息子の無惨な遺体を見せ、確実に死んだことを確認させた。

「あとは俺が絶対に見つからないようにやるから」

そう言って、山岡は喜多方の遺棄現場へと向かった。

ちとせは、血まみれの息子の顔をどんな思いで確認したのだろうか。
その後、疑われないように捜索願を出し、ちとせは何食わぬ顔で被害者の母を演じ続けていた。

命乞いした息子と、無情の母

ちとせと山岡はその後殺人の罪でも再逮捕となり、取り調べの中でちとせは息子に対する憎悪を明かしている。

裁判ではちとせが味わった息子である継田さんからの暴力や裏切り行為など同情できる部分はあるとしながらも、かといって命を奪われるほどのいわれはないと非難。
山岡は高齢のちとせにつけ込み、同情を装ってちとせから金をせびり、元勤務先の社長が再雇用してくれるといった際にも、「もっと楽に稼げる方法がある」などと言って真面目に働こうともせずに金のために人を殺害するという利欲的動機に酌むべきものはないとした。

また、実行犯は山岡だとしてもその山岡を1000万円という高額な報酬で雇い、自らの手を汚さずして目的を遂げようとしたちとせの行状についても酌むべきものはないとした。
実は、ちとせが継田さんをどうにかするのではないかと、次男や姪は気づいていた。そのうえで、バカな考えは止めろとちとせを諌めていたという。家族に諌められても、ちとせの考えは変わらないほどに強固な殺意に凝り固まっていたのだ。

継田さんはたしかに傍若無人、放蕩の限りを尽くし、女手一つで育ててくれた母ちとせに恩を感じるどころか金づる程度にしか思っていなかったことは明白で、しかも数日で3000万円を使い切るなど、常軌を逸していた。
そんな継田さんだったが、夜道で突然山岡に殴られた際には、必死で命乞いをしたという。しかし山岡は、個人的な恨みがあるわけでもなかった継田さんのその命乞いを無視し、バットを振り下ろし続けた。
福島地方裁判所は、依頼者はちとせであるものの、当初はそれを渋っており、そのちとせを説得し、実行した点で山岡が主導権を握ったと判断。
山岡に対し懲役12年(求刑懲役15年)を言い渡した。ちとせに対しては、83歳という高齢にも配慮してか、懲役9年(求刑懲役12年)の判決を言い渡した。

83歳のちとせは量刑不当を理由に控訴。仙台高等裁判所は、たしかにちとせの行いは狂気の沙汰であり、その犯行については斟酌すべき点はないとしてものの、その背景には大いに同情する余地があるとした。
金を出さぬなら殺しちまうぞ、そう日ごろから継田さんに脅され、実際に頭を鍬で殴られるという命の危険さえあるケガを負わされ、救急搬送されたこともあった。
頼みの綱の次男は「母親を兄から守る」という大義名分を掲げて仕事を辞め、ちとせから小遣いをもらっては麻雀に明け暮れる毎日。
継田さんが精神的な病気ではないかと保健所に相談したこともあったが、誰もちとせを救い出してはくれなかった。
精神的に限界に達していたちとせの前に表れたのが、山岡だったのだ。

福島地裁が一定の同情の余地があるとしながらも、その背景や山岡に殺害依頼するに至った経緯を含めて酌むべきものがない、としたのは文脈としても齟齬があり、酌むべき事情があったとするべきであって、高齢であることも踏まえ懲役9年の判決は重すぎるとする弁護人の論旨には理由がある、とした。
その上で、ちとせに対し懲役6年の判決を言い渡した。

ちとせはこれを受け入れたとみられる。

高齢の母親が息子を他人に報酬を出して殺害させたという事件は社会にも衝撃を与えた。
ただちとせにしてみれば、自分が逮捕されたこと自体に納得が出来ていなかったようだった。これは老人特有の頑固さというか、致し方ない部分かもしれないが、地裁でのちとせの様子は冒頭の通り、すべて山岡が悪い、自分は騙された、遺体を見つからないように処理すると言ったのにそれをしていなかった、だから自分は逮捕されたと、ちがうちがうそうじゃないでは追い付かないレベルで理解できていなかった。

息子である継田さんへの母親としての憐憫の情は最後まで見られなかったという。

地裁での判決言い渡しの際も、意味が理解できずに騒ぎ、裁判長から諌められる一幕もあった。
事件からすでに20年近く経過し、ちとせは息子の住む世界へ旅立っている可能性が強い。
息子を殺してまで守りたかった継田の家は、今真新しい家々が立ち並ぶ一角となっている。

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参考文献

毎日新聞社 平成13117日、1218日、平成14720日地方版/福島
読売新聞社 平成13117日、9日、1214日、16日、平成14720日、平成1535日、26日東京朝刊
朝日新聞社 平成131216日、26日東京朝刊

平成14719/福島地方裁判所/刑事部/判決/平成14年(わ)3
平成15325/仙台高等裁判所/第一刑事部/判決/平成14年(う)142

愛を乞う人Part2~練馬・長男殺害事件~

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平成11年3月28日、三鷹市の杏林大学医学部付属病院で、2歳2カ月の小さないのちが消えた。
井戸雄斗ちゃん。雄斗ちゃんは11カ月前の平成10年4月15日から、この病院に入院していたが、実はすでに脳死状態が続いていた。

脳死状態になった原因は、低酸素脳症による呼吸不全。
そしてそれは、実の母親の、思いもよらない理由から行われた虐待によるもだった。 続きを読む 愛を乞う人Part2~練馬・長男殺害事件~

女たちのそれぞれの事情~3つの女の事件~

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夫を殺す妻、子を殺す母。
その多くは精神鑑定が求められ、採用される。一部の専門家によれば、同じケースでも男性の場合は却下されるケースが目立つという。

個人の人格、知能の問題、そして精神の状態。

それぞれがそれぞれの事情で行った殺人と、その量刑。 続きを読む 女たちのそれぞれの事情~3つの女の事件~

思い込みPart2~千葉市・6歳男児殺害事件~

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昭和62年、東京で母親が当時13歳と9歳の我が子を刺し殺すという悲惨な事件が起きた。
母親は当時とある病気にかかっていると思い込み、それが家族に感染したと考えていた。それは完全な妄想だったのだが、支配された母親は一家心中へと突き進んだ。
裁判で母親には心神耗弱が認められたが、それでも懲役5年の実刑が下った。

2年後、千葉市で小学校に入学したばかりの6歳の男の子が、母親に殺害されるという事件が起こる。
この母親もまた、ある妄想に取り憑かれていた。

平成元年4月14日

母親はふと、息子が失禁していることに気づいた。息子の衣服を着替えさせ、汚れをふき取ると布団に寝かせた。
夫に書置きを残し、必要なものが入ったバッグを机に置くと、夫に頼まれていた3000円の振り込みをするために家を出た。
午後7時15分、マンションの階段をのぼり、母親は10階までやってくるとそのまま廊下の手すりを乗り越えた。下を見れば、通行人らが見える。

あとは、一歩踏み出すだけだ。

しかし通行人らが通報したのか、すぐに消防署のレスキューがやってきた。あぁ、どうしよう。このままじゃ、お父さんに怒られる。捕まっちゃう。

結局、母親は駆け付けた消防隊員らに保護された。

同じ頃、千葉市真砂4丁目のマンションから110番通報が入った。帰宅した男性が、6歳になる息子の意識がない状態で寝かされているのを発見、通報したものだった。
男児は救急搬送されたが、病院で死亡が確認された。

死亡が確認されたのは、そのマンションで両親と暮らしていた瀬野真吾くん(仮名/当時6歳)。真吾くんは首を絞められた痕跡があったことから、警察では行方が分からない母親を捜した。
そして、自宅近くの別のマンションの10階から飛び降りようとして保護された女性が、真吾君の母親と判明。事情を聞いたところ、母親が真吾君を絞殺したことを認めたため、殺人容疑で逮捕した。

逮捕されたのは瀬野玲子(仮名/当時42歳)。玲子は保護された際、泣きじゃくっており、息子を殺害して自分も死のうとしていたと推測された。
真吾君はこの4月から市立真砂第三小学校(現在は休校または廃校)に入学したばかり。マンションの住民らも、仲が良い親子だったと話しており、玲子や夫の評判も温和な印象しかなかった、としていた。
ただ、真吾君については、活発でときどき一人でどこかへ行ってしまい、そのたびに玲子が探し回っていたという話があった。

新聞各社報道は、親が虐待などではなく子供を殺したケースではその精神状態などに配慮が必要なことがあるため、いずれも被害者加害者の実名は避けた。

そして、事件から1か月後には、一切の報道はされなくなった。

家族

玲子は昭和21年生まれ、特に大きな病気もせずに成長し、短大の国文科を出た後は国会図書館の非常勤職員や団体職員などを経て、昭和56年に結婚、翌年3月には専業主婦となり、7月に真吾君が誕生した。
時代的に少し遅めの結婚、出産ではあったが、経済的な基盤もできた上での家族の暮らしは安定し、親子3人、平凡に幸せな日々がこの先も続くと玲子のみならず誰もがそう信じていた。

真吾君が1歳6か月の時、千葉市の保健師が指導する「親子で遊ぶ会」に玲子は参加した。そこで、真吾君の様子を見ていた保健師から真吾君の発育に気になる点がある、と指摘された。
真吾君は見た目には特に問題はなかったが、発語が遅れていた。また、他人と視線を合わそうとしない、呼びかけにも応えないという特徴があったという。
玲子は保健師の指摘を受け、自宅近くの小児科でそのことを相談した。小児科医師の紹介で今度は千葉市療育センターへ1年ほど通ったものの、真吾君の発育は変化がなく、玲子は自分でも情報収集を始めた。
そして、聖マリアンナ医科大学の「ことばの治療室」の存在を本で知り、月一の割合でカウンセリングを受けるようになった。

玲子はこの時点で、真吾君の特徴が「自閉症」に似ていると感じており、小児科医にもその旨相談するなどしていたという。

昭和63年、4歳になった真吾君を保育園に入所させたが、この頃真吾君には「多動」が現れていた。
今でも多動傾向の強い子供はどこの保育所でも、ということは難しいという話も聞くが、今から30年以上前であればただの「しつけができていない子」「変わった子」という認識が強かった可能性が高い。
保育所からは保育士が真吾君にかかりきりにならざるを得ず、また危険な行動もとることがあると言われてしまった。
しかも家での真吾くんは睡眠障害や偏食、奇声をあげるなどの行動が顕著になっており、玲子は保育園へ通わせることを半月で断念せざるを得なかった。

ノーベル賞学者との出会い

玲子のみならず、この時代の一般人で自閉症について正しい知識を持っている人は多くはなかったと思われる。今でこそ自閉症児の親がSNSなどを通じて情報発信しており、またYouTubeなどでもリアルな生活や行動などを発信しているため、昔ほど間違った知識を持つ人は減ってはいると思うが、それでも理解を得られなかったり、時には差別的な待遇に悩まされる当事者や家族もいる。

玲子は自分でも本を中心に知識を得、少しでも親として理解を深めようと努力していた。
そんな時、一冊の本に巡り合う。オランダの有名な動物行動学者でノーベル医学生理学賞を受賞したニコ・ティンハーゲン氏の著書「自閉症児・治癒への道」である。
ティンハーゲン氏は1970年代以降、自閉症に関心を寄せており、1987年に出版されたのがこの本だった。
当時、自閉症児らには教育が不要(やっても意味がない)であるという放置するしかないといった風潮があり、ティンハーゲン氏はそれを否定し、早期の療育教育によってその可能性は広がるといった主張をしている(多分)のだが、その中に「自閉症は親の行動に起因する」というものがあったため、現在でも間違った受け止め方をしている人々もいるという。

玲子もその、間違って受け止めた一人だった。

おそらくだが、ティンハーゲン氏の著書の中で「自閉症児は精神薄弱児施設でゆっくり過ごすのが良い」「自閉症児には税金をかけて教育しても無駄」という当時の常識というか、そういった現実に触れる個所があったのだろう。
ただそれはあくまで現状を述べたにすぎず、ティンハーゲン氏はそれが正しくないことであるとしていたにもかかわらず、玲子にはその部分だけが印象に残ってしまったようだった。
そして、自閉症児は閉ざされた施設で一生を過ごすのが良いとするのがティンハーゲン氏の主張であると思い込んでしまった。

玲子はこれまで必死で病院を渡り歩き、ありとあらゆる努力を重ねてきたことがすべて無意味になってしまったと感じた。
親として取り返しのつかないことをしたと思い込んだ玲子は、この頃から自殺したいという思いを抱き始めたという。
昭和63年暮れ、翌年に小学校入学を控え、玲子はますます思いつめるようになっていた。

「おもちゃの会社のぶんちょう。」

真吾君の行動はますます理解不能になっていた。
家にいても突然思い出したように泣きだす、大声で何ごとかを叫びながら部屋中を走り回る、夜突然起きて寝なくなる、食事を拒否する、ある時、アイスクリームを買いに行くと出かけて行ったきり、帰って来ないことがあった。
捜索願を出したところ、なんと保護されたのは東京都内ということもあった。体の発育は順調だったこともあり、もはや真吾君をひとりで行動させることは無理だった。

小学校への入学のための健康診断があった日は、帰宅するなり泣き喚き、家の中のクローゼットにこもり、「おもちゃの会社のぶんちょう」と繰り返し大声で叫んでいたという。それが3日続いた。

玲子は以前読んだ本の中で、自閉症の中にはいわゆる精神分裂病(当時の表現)があると記載されていたことを思い出した。
これをきっかけに、それまでに相談してきた人々の言葉の中にも、精神分裂病という言葉があったことを思い出していた。
小児科医からは、自閉症の酷いのは分裂病と言われたこと、捜索願を出した際、警察官に息子は自閉症と伝えたのに、書類には「精神不安定」と書かれたこと、その他、精神分裂病という言葉が繰り返し思い出されるようになった。
が、これは玲子の記憶違いや受け止め方の違いが多かったようで、この辺から玲子が思い込むそれらはどうも事実と違うこと、何でそうなったといいたくなるような極端な解釈が目立ち始める。

ある時、玲子は百科事典の精神分裂病の項目を熱心に読んだ上で、これを間違って解釈した。
そして別の本から仕入れた知識として、ある病気の症例と真吾君の特徴が似ていることから真吾君がその病気に侵されていると思い込んだ。
その症状とは、目がとろんとしていて鼻水が多く出、よく鼻血が出るといったもの。幼い子供の多くが当てはまるようなものとしか思えないこれらから玲子が導き出した病気は、梅毒。
真吾君は先天性梅毒による進行性マヒに違いないという結論だった。なんで。

暴走する妄想

玲子はとにかく、なぜか悪い情報のみを拾い集めているかのように物事を曲解しまくっていた。
過去に聖マリアンナ医科大学のカウンセラーから「真吾君はしつけや教育が要らない子」「なんでもしてあげなさい」と言われたことを、真吾君の余命がないことを知っていたからこその発言だと決めつけた。
おそらくカウンセラーは、自閉症は治す、問題行動を矯正するといった意味でのしつけや教育はいらない、だけど親として真吾君のためになると思うことがあればなんでもしてあげて、という程度の言葉だったと思われるし、普通は意味がよくわからなければその場で「どういう意味でしょうか?」と確認するだろう。
玲子も、その場では意味が解らないのではなく、まともな意味に受け止めていたと思われる。それが、ふとしたきっかけで「実はそういうことだったのでは?」というある種の気づきを得ては、それに沿った答えをこじつけてでも導き出していた。

玲子の暴走は止まらなかった。

小児科医院で看護師が複数真吾君の診察を見ていたことを、実際に意味などなかったにもかかわらず、
「母子感染による梅毒の症例を看護師らに見学させていた」
と決めつけ、その小児科医の自宅に診察のお礼に行った際、普段は繋がれている犬が放されていたのは、梅毒患者である自分と真吾君を医師の家族に近寄らせないようにするためのものだと決めつけた。
玲子は関係者の言動を過去にまでさかのぼって、自分の妄想に沿う形で無理矢理こじつけた。しかもそのほとんどが、玲子の間違った認識や誤った記憶に基づいていたというから手に負えなかった。

夫はどうしていたのか。

平成元年3月、玲子は夫に、真吾君は先天性梅毒による進行性のマヒに侵されていると話した。自閉症だと思っていた夫は面食らう。ていうか、それなら自分たちも梅毒に感染しているはず……
その感染経路についても、玲子はとある記憶を確固たる証拠として夫に話して聞かせた。
それは真吾君を出産した際のこと。帝王切開で真吾君を取り上げた産科医がゴム手袋を外した際、その手がひどく荒れていたのだという。玲子の主張は、その産科医が梅毒にかかっており、その産科医に出産を受け持たれたことで自分と真吾君に梅毒が感染した、というものだった。

夫は当然、そんなことは有り得ないと一時間に渡って説得したというが、玲子は頑として夫の話の一切を聞き入れなかった。

玲子はその後、カウンセラーに対して「先天性の梅毒だと知りつつ、なぜ保育園入所しても良いなどと指導したのか」と詰め寄ったりもしているが、夫や関係者は当然のことながら血液検査をすればはっきりすると主張し、自分も梅毒であると信じていた玲子は当然血液検査に応じた。
結果は陰性。玲子が梅毒にかかったことはないと証明されたが、玲子はその結果から自分の考えの根拠が崩れたと思うのではなく、
「やはり産科医が手袋を外して真吾を触ったから真吾だけに梅毒が感染した」
という妄想を補強する材料としてしまった。

安楽死

ところで玲子の親族には医師がいた。叔父にあたるその医師(K医師)は北海道在住だったが、ある時玲子から電話を受けた。
真吾君のことを相談する内容だったが、その際、叔父から従兄弟にあたる医師(R医師)が聖マリアンナ医科大学にいることを聞き、叔父を通じて連絡先を聞いた玲子はR医師に連絡し、カウンセラーに会ってほしいと頼んだ。
その後、北海道のK医師が上京することになったと聞き、真吾君のことで上京するのだと思った。
玲子はR医師にも、真吾君は先天性の梅毒であると話したというが、その際、R医師が、「あ、これでY先生(聖マリアンナのカウンセラー)に会える」と言ったという。

同じ頃、新聞でおそらく外国の話だと思われるが看護師による患者安楽死事件が報道され、玲子もそれを目にしていた。
4月、真吾君は小学校に入学。しかし玲子は梅毒が学校給食を通じてほかの児童に移ると信じ、それを心配していた。
ここでふと、R医師の「これでY先生に会える」との発言を思い出した。

そして玲子の中で、この発言は、真吾君を安楽死させる計画が進められている証拠だという確信になってしまった。なんで。

4月10日、玲子は梅毒が移ることを心配するあまり、義務教育である小学校をやめさせようと考えた。そのためには医師の書類がいると考え、カウンセラーに書類を書いてもらおうとしたり、12日には真吾君が発熱したことでいよいよ症状が進んでいると確信した。
13日、かかりつけの小児科医院を訪ねた際、普段と何ら変わらない医師の態度がおかしいと思い込み、何かを隠していると思い込んだ。
さらにはカルテが分厚いのは、カウンセラーからの情報を書き込んでいるからだとし、ひいてはこの小児科の医師も真吾君の安楽死に関わっているのだと思い込んだ。
その日の診察料金を支払った時、玲子はいつもより安いと思った。そしてそれは、この小児科医がK医師から安楽死の件を聞かされ、特別に安くしてくれていると思い込んだ。ちなみに、診察料金はさほど普段と変わってはいなかったという。

玲子はそれらを確信しつつも、本来安楽死などというのは内密に行われるものであって、たとえ医師とはいえその事情を知る人間が多いことが気になっていた。
14日、小児科医がどこまで関与しているのかを探ろうとしたのか、玲子は小児科医に電話し、「真吾は進行性のマヒではないか」と尋ねた。
小児科医の反応は「ただの扁桃腺炎で、進行性マヒの症状はない」とのものだったが、玲子はこの答えから、小児科医は真吾君が進行性マヒであることを知りながら安楽死させる計画を知っているためにその事実を隠していると思い込んだ。

さらに、この日は北海道から叔父のK医師が上京する日であり、K医師が来れば安楽死の計画が粛々と進められると考えた。同時に、K医師は親族であり、親族から梅毒患者が出たなどとなれば親族にも迷惑をかけるし、その親族であるK医師に安楽死をやらせるというのはそれはそれで大変なことであると考えるようになる。

そして玲子が出した答えは、「私と真吾が死ねば、皆に迷惑をかけずに済む」というものだった。

その日

決意を固めた玲子は、心中した後すぐに身元が判明するよう、自分あてのハガキやスナップ写真などを持ち、その日の午後4時ころ真吾君を連れて家を出た。
そして近所の高層マンションの最上階まで行くと、真吾君に対し
「二人で死のう」
と告げた。
ところが真吾君は反発。「いやだ!家に帰る。」はっきりとそう意思表示した真吾君に玲子は怯んだ。
それでも死ななければ多くの人に迷惑がかかるため、こうなったら真吾君を無理やりにでもここから突き落とそうか、とも考えた。
が、さすがにそれは出来ず、とりあえずこの時は無理心中を諦めその場から去った。
帰り道、真吾君は「今日は死なないよ」と何度も口にしていたという。

午後5時前、自宅に戻った玲子は真吾君に「二人で寝ようか」と声をかけた。が、真吾君は寝ようとせずに一人で遊び始めた。
それを見た玲子は、首を絞めて殺害することを思いつく。怖い思いをさせるより、その方がまだいい。
玲子はビニールひもを手に、機会をうかがった。少しでも警戒されたくなかった。
背後から真吾君に近づくも、真吾君の目の前に姿見があり、そこに今まさに子供を殺そうとする玲子の姿が映っていた。
それを見て躊躇したものの、真吾君がやがて姿見から少しずれた場所で遊び始めたことで、玲子は一気に背後からその首をビニールひもで絞めあげた。

妄想のはて

報道では最初から最後まで息子の発育や行動に問題があるのは自閉症のせいだと「思い込んだ」というものだった。
しかし実際には、思い込んだのは自閉症であるということではなかった。むしろ、自閉症ではなく先天性梅毒による進行性マヒだと思い込んでいた。

検察は玲子の身体的検査や脳波検査、それらに異常がないこと、IQも問題なく、逮捕後に行われた鑑定の結果でも記憶や知的な問題もなく、意識もはっきりしており、犯行当日、真吾君に反発されいったんは心中を思いとどまったこと、屋上から突き落とすのはかわいそうだと考えたこと、その帰り道で真吾君が「今日は死なないよ」と何度も口にするのを他人に聞かれるとまずいと考えたこと、そしてなにより梅毒にかかって余命いくばくもない我が子のことで親族に迷惑をかけられないとする動機が思い込みだったとしても了解可能なこと、逮捕後の言動から自己の行為の善悪の判断がついていたとして、玲子の起訴に踏み切った。

弁護側は、玲子は少なくとも平成元年1月ころには重度の妄想性障害の状態にあったとする鑑定をもとに、犯行当時は心神喪失の状態だったとして無罪を主張した。

妄想性障害とは、一つまたは複数の間違った強い思い込みがあり、それが少なくとも1か月以上持続する場合をいう。

特徴として、日常生活は比較的問題なく遅れている人が多いといい、玲子もそうだった。
また、その思い込みにはタイプがあり、ストーカーによくみられる被愛型、自分は特別だと思い込む誇大型、身近な人間が裏切ったり浮気していると思い込む嫉妬型、見張られている、中傷されているなど自分が被害者だと思い込む被害型、そして何の異常もないのに自分の体に異常がある、病気だと思い込む身体型に分けられる。

玲子の場合はどうか。身体型が当てはまるようにも思えるが、実際に真吾君には発達面で気になる点があったわけで、しかもそのあと自分で梅毒からの進行性マヒだと思い込み、医師や夫らから有り得ないと説得されても信じ込んだあたりを見ると、自分の発見に固執しているような印象も受ける(誇大型)。

しかもそれならば血液検査ではっきりすると言われ、実際に血液検査をして玲子が陰性だったにもかかわらずその考えを曲げなかったばかりか、梅毒に感染しているという思い込みを改めるのではなく、母子感染でないなら出産時に真吾君が梅毒にかかったと考えただけで、梅毒に感染していることは確定として扱っているなど、その思い込みは強固なものに違いなかった。

裁判所はその責任能力をどう解するかにおいて、玲子がその妄想性障害であるとしてもその妄想から攻撃の幻覚を抱き、それに反撃するための犯行というものとは違うとし、妄想に直接的に支配されたものではない、と判断した。
しかし、その妄想自体が動機の形成に密接に関係していることは否めないとし、その妄想自体が突飛で、素人が見ても医学的に有り得ないことを根拠としているため、医学的法的見地から何度もそれを訂正するに足りる客観的資料を与えられ、あらゆる説得手段で臨んでも微動だにしないその思い込みは相当強固であり、通常では了解できないものである、とした。

また、一見冷静で善悪の判断がついていると思われる一連の言動についても、それ自体は了解可能であっても、動機を形成したその前提が了解不能な妄想である以上、それを切り離して考えることは適切とは言えず、すべてをひっくるめて考えた場合には「了解不能である」と判断した。

玲子は殺人という行為そのものは違法であると認識はしていたとしても、動機は極めて理解しがたく、不合理で、全体として妄想という精神障害により物事の善悪を弁識する能力を欠いていたと結論付けた。

要するに、玲子は無罪だった。

判断の難しさと、ある疑問

この事件はその前に起きたエイズ思い込み事件とかなり似ているように思う。が、エイズ思い込み事件の場合は本人の元来の神経質な面などから、妄想性障害とまでは言えないとされたのか、言及されることもなかったし、実際に心神耗弱どまりだった。

妄想性障害は、その判断基準に「統合失調症ではない」というものがある。ということは、妄想の部分以外は「正常」なのだ。
そしてそれは、裁判所の判断も難しくさせる。鑑定人ですら、どこまでが健常でどこからが病理的かの判断は非常に困難としているからだ。

そのため、同じ妄想性障害であっても、死刑判決が確定する場合もあるし、心神耗弱や玲子のように心神喪失が認められることもある。

永山基準のように、大きな判断が行われるとそれは判例や枠組みとして引き継がれるようになるが、この精神鑑定の結果と裁判所の判断においては合致しないことは少なくない。
鑑定結果がすべて同じではないし、たとえ同じであってもそれを裁判所が採用しないという場合もある。それは、精神鑑定の結果だけを見ても事件の背景などの全容が解明されるわけではないこと、動機の解明などに関係する心理的分野はそもそも精神医学の本分とは言えないといった事情があると思われるが、この精神鑑定の取り扱いについても、昭和58年、59年、平成20年、21年と、最終判断は裁判所、という決定をそれぞれを補強する形で最高裁判所が出している。

玲子の事件の場合は、鑑定結果と裁判所の判断は合致していた。エイズ思い込み事件もほぼ、合致とみていいと思うが、それでもその事件には有罪と無罪という越えられない壁があった。
が、素人的にはその差が正直わからない。
エイズ思い込みの母親も、どれだけ医学的に有り得ないと根拠を示されてもその考えは微動だにしなかった。玲子もまた、同じだった。

ただ、この玲子の事件にひとつだけ気になるところがあった。

玲子は梅毒を否定する夫や医師の説得で自ら検査を受けている。そして陰性だった。そこで玲子は、母子感染ではなく出産時に医師から真吾君に直接感染したのだと、感染経路を変えた。真吾君が梅毒であるという前提は崩していない。

しかし、肝心の真吾君の血液検査をしていないのだ。これはどういうことか。

…わかっていた、ということはないのか。梅毒などではないことを本当は。けれど玲子には梅毒でなければならない理由があったのではないのか。だから、真吾君の血液検査をあえてしなかったのではないのか。梅毒が強烈で忘れかけていたが、当初は自閉症と考えていたはずではないのか。言い換えると、自閉症ではないという理由が欲しかった可能性はないのだろうか。
この時代、自閉症には玲子がそうであったように間違った知識、偏見もあったろう。むしろ梅毒を疑ってそれが否定されるとさらに重篤なエイズだと思い込んだあの母親の方が突飛だし、妄想の度合いが強すぎる気がする。

自閉症は命にかかわるような、余命云々という障害ではない。それはいくら偏見があった昭和の終わりから平成でも同じだろう。梅毒や進行性マヒと自閉症にどう考えても共通するような症状はない。そしてなにより、余命いくばくもないとか安楽死とか、死を意識するような妄想になぜ取り憑かれたのか。
突飛だと言われたその思い込みは、玲子にとって真吾君は自閉症ではなく、この子はもうすぐ死ぬのだというある種の「願望」だったような気もしないでもない。

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参考文献

朝日新聞社 平成元年4月15日東京朝刊、5月3日、28日東京地方版/千葉

妄想性障害と刑事責任能力  本庄武『一橋法学』(一橋大学大学院法学研究科)第 21 巻第 3 号 2022 年 11 月

平成2年10月15日/千葉地方裁判所/刑事第一部/判決/平成1年(わ)415号