それがあなたの幸せならば~福井・大野市老夫婦火葬場心中②~

大正生まれ

定栄さんは大正14年生まれ。戦争の時代を生き抜き、日本の戦後を支えた世代である。
全てではないにしろ、この大正生まれの男性は非常に自分に厳しい人が多いように私は感じている。日本男児を絵にかいたようなというか、とにかく他人に迷惑をかけたり、甘えたり、ましてや泣き言を言ったり、そういったことを極端に嫌う人が多いように思う。

実は、私の祖父(大正4年生まれ)もまさにそういった人だった。
戦争へも行き、生きて帰ってからも黙々と日々働き、無駄口をたたかず、長男である私の父が大黒柱として一人前になっても、私の実家の主は80歳を超えたこの祖父であった。
祖父は座って写真に写るとき必ず、ぐっと拳を膝の上で握り、足を大きく開いていた。立ち姿のときは背筋を伸ばして胸を張り、笑顔は見せずにいつも凛々しくあった。
それを祖母は、「偉そうね」と言っては微笑んでいた。

そんな祖父も、子供や妻である祖母には非常に愛情深く接し、ケンカなどは見たこともないし、ほかに家族はいたものの、実質的には祖母と二人で田畑を切り盛りしていた。
長男である私の父が跡を継ぎ、私を含め孫が3人もいて、古いものの昔の百姓の家の特徴である大きな平屋も建て、黒毛和牛の飼育では何度も表彰された。
田畑も多く、とにかく一年中働き通しの祖父だったが、病気もせず80歳を超えても何キロもの山道をてくてく歩けるほどだった。

嫁に行かなかった長女が離れで同居し、経済的にも困ることはなく、孤立とも無縁、そんな絵にかいたような幸せな老後を送っていたはずの祖父は、定栄さんと同じように、ある日突然、命を絶った。

祖父と定栄さん

実際の年齢は10ほど違うが、いずれも大正の生まれ、ほぼ同じ時代を生きたといってよいだろう。
私はこの大野市火葬場心中事件を知ったときに、一番に頭をよぎったのが祖父のことだった。
二人とも、夫婦仲睦まじく、経済的にも特に問題もなく、近隣から孤立することもなかった。にもかかわらず、私の祖父も、定栄さんも、自ら命を絶った。

定栄さんが身辺整理を行っていたのと同じ、私の祖父も、周りに気づかれないように自分の遺影を用意していた。貯金や不動産などは慣習として長男が相続すると決まっていたが、それらもきちんとわかるようにしてあった。
そして定栄さんが早く見つけてもらえるようにカーステレオを鳴らしっぱなしにしたように、祖父もその日、朝食を済ませた後、祖母と父にどこの畑に作業にいくかを告げた上で、その畑で人生を終えた。
昼になっても戻らない祖父を探しにその畑へ行った父が、すでに亡くなっていた祖父を連れて帰った。誰にも迷惑をかけないように、自分が所有する山林を祖父は選んだ。

家族はみな、全く祖父の心の変化に気づけなかった。
祖父は何を苦にしていたのか。
家族が途方に暮れる中、私は思い当たることがあった。それははるか30年ほどさかのぼるのだが、曾祖父が病の床についたときの話だ。
いよいよ病状が思わしくなくなって、意識のあるうちに、と、曾祖父の枕元に家族や親族が詰めかけた。
その時、曾祖父が「これでお別れやぞ・・・」と言って泣いた。皆、もらい泣きをする中、長男であった祖父だけは、「男らしくない!」と吐き捨てて部屋を出て行ったのだ。
私はその光景を、祖父の後姿をいつまでも覚えていた。
祖父が自ら命を絶ったことを知って、私はその30年前の光景を思い出したのだ。

祖父にとって、自分が自分でなくなること、自分の意志で物事が決められなくなること、それがなによりも辛いことだったのではないか。
どんなに健康でも、80歳も超えれば耳も遠くなるし、物忘れもあるだろう。しかしなにより、祖父にとっては周囲の過剰な「年寄扱い」が耐えがたいことだった。
おそらく、定栄さんも同じだったのではないか。
定栄さんの場合、妻が認知症になり、前後不覚に陥ることもしばしばだった。まるで少女のようにふるまう妻を、愛おしく思う反面、自身がそうなったときのことを想像したのではないか。
定栄さんの場合は自身も痛風の持病があった。もしも入院などする羽目になれば、貞江さんの世話も他人に任せなければならないし、自分自身もどんどん弱るのではないか。
そんな「当たり前」のことを、定栄さんも私の祖父も、死ぬほど恐れていたのではないかと思うのだ。少なくとも私の祖父にとって、曾祖父のような人前で泣き言をいう姿は、生き恥以外のなにものでもなかった。

私には、いまだに後悔と自責の念をもって忘れられない祖父とのやり取りがある。
暑い夏の日、実家に帰省していた私は、祖父が集会に出るため数キロ山を下ったセンターへ行くというので車で送った。
昼過ぎには終わると聞いたので、当然迎えに行くつもりだった。公衆電話から電話をしてねと伝えたが、祖父は炎天下を歩いて帰ってきた。
平坦な道ではない。けもの道と言っても過言ではない山深い坂道を、80歳を超えた祖父が炎天下帰ってきたことに驚き、私はつい、「こんなに暑いのに何かあったら大変!」と言った。いや、言ってしまった。
祖父は、「なんのこれしき」と笑っていたが、おそらく、そういう「思いやりという名前の年寄扱い」が、祖父をだんだんと追い込んだのだと思っている。

さらに言うと、曾祖父の30回忌だかの時に、代々お世話になっているお寺の住職に祖父は「代替わり」をすすめられた。
それも、高齢の祖父を気遣ってのことだったのだが、住職から「あなたの息子も立派になったのだから、そろそろ家督を譲りなさい」と言われた祖父の背中は、小さくなったように見えた。

定栄さんも祖父も、この先に待つのが自分らしさを失った身のみ、であるならば、自分らしくあるうちに潔く逝こう、そう思ったのだ。
そしてそれは、ある意味「幸せな結末」だった。

それがあなたの幸せならば

当初は自死だと知らなかった私は、祖父の死の知らせを受け取り乱し、涙にくれた。
しかし、直後に自死であることを知らされたとき、涙は引っ込んだ。
畑仕事に精を出している最中、思いもよらず死に直面したのだとしたら、祖母を遺して逝ってしまうことへの不安、父への思い、そんなものが唐突にあふれてさぞ無念だったろうと、それを思って私は苦しかった。
しかし、祖父は決めていたのだ。自分で選んだ人生の幕引きだったのだ。
全ての準備を整え、いつも通り祖母の作った朝食を食べ、風呂で使う薪をまとめ、いつも通り畑を見てくるといって出て行った祖父の手には、ロープが握られていた。

叔母の一人がぽつんとつぶやいた。
「88歳。死に急ぐ必要なんてなかったのに」
いや、祖父にすれば急ぐ必要があったのだ。曾祖父は92歳で亡くなっているからだ。
私は祖父が決めたことを受け入れるとその日、決めた。

祖父は死んで幸せなのだ。自分の人生、誰に恥じることなく88年生きてきた。戦争で戦友の遺骨を抱いて家族のもとへ届けもした。子供たちを立派に育て上げ、祖母とふたり、一生懸命働いてきた。
その人の決断を、誰が止めることが出来る。そんな権利などない。
ただ一つ、祖母と父を思うとその点だけは複雑だ。祖母はその日、遺体となって祖父が帰った後も、祖父の昼食を用意していた。「父ちゃんが食べなる(食べるの丁寧語)と思て・・・」その時の祖母の心を思うと胸が張り裂ける。
もしも祖母が寝たきりなどの状態や、定栄さんと同じで二人きりの生活だったならば、祖父も同じように祖母を連れて行ったかもしれないと思う。

しかし祖母は非常に元気だったし、定栄さんと違い子供がいたことがそこを分けたかなと思う。でもその選択は間違ってなかったと思う反面、97歳で亡くなった祖母の最期は、祖父が懸念した通り、そして息子である父が葬儀で「最期は食べ物を受け付けなくなってまるで餓死でした」と言ったように、決して安らかとは言えなかった。死ぬ瞬間だけは、眠るように逝ったけれども。

よくよく考えれば、自分で自分の死にざまを決められるというのは幸せなことだともいえる。
会っておきたい人、やっておきたいこと、片づけておきたいこと、それらをきちんと決めておける。もちろんこれらは「終活」として多くの人がやっていることでもある。

しかし、いつどこでどうやって死ぬか。それは決められない。さらにもう一つ。
最後の晩餐も、希望はしてもかなえられない人がほとんどだ。
祖父が選んだ最後の晩餐、というか食事は、祖母が拵えた朝食だった。

定栄さんもまた、1年以上かけてじっくりと身辺整理を行った。
そして、死の少し前からは、それまでいつも厳しい表情を崩さなかった定栄さんが、安らかで柔和な顔つきに変わってきていたとデイサービスの職員が言う。
不本意ながらも通わせることにしたデイサービスのおかげで、定栄さんはそれまで放りっぱなしだった庭木の手入れや趣味の鑑賞菊、錦鯉の世話など、自分の時間を持てるようになっていたという。
職員らは、自分の時間が持てたことで余裕ができたのでは、というが、私は違うと思う。
もうすでに、心のどこかで幸せな結末を定栄さんなりに描いていたのではないか。
それをいつの日にするかは決めていなかったとしても、「その時が来たら」どうするかの迷いが消えた。
そもそも気難しいのは昔からで、柔和になること自体、定栄さんの本来ではなかったのだから。

10月20日。痛風の発作で庭木の手入れ中に倒れた定栄さんは、いよいよその時が近いことを感じていたのだろう。
11月3日。様子を見に訪れた親戚の人が、茶の間のこたつに寝転がっている定栄さんに声をかける。ふすまの向こうでは、貞江さんがタンスの引き出しをぶちまけていた。
いつもきちんと整えられていた卓袱台には、茶わんや湯呑が片づけられないまま置かれていた。

11月7日。
最期まで添い遂げると誓った定栄さんと貞江さんは、ふたりで火葬場の扉を閉めた。

合掌

何もかもを間違えた一家にとどめを刺した8000万円~豊田市・家族3人殺害放火事件~

平成27年5月26日未明

愛知県豊田市太田町の民家に、男が駆け込んできた。
家主を起こした男は、「家が燃えている、自分は用事があるから119番通報を頼む」とだけ告げて、どこかへと去っていった。
慌てた家主が外に出ると、先ほど訪ねてきた男の家が確かに燃えていた。

その頃、男は岡崎市岩津町へと車を走らせていた。
岩津天満宮の駐車場に車を停めると、そこから300メートルほど離れた場所にある「はんこ屋」を訪ねていた。

「お前のせいで家族がめちゃくちゃだ、妻が病気になったのはお前のせいだ!殺してやる」

喚き散らして逆上する男に、はんこ屋の主人とその妻はただただなだめるのに必死であった。
男は通報で駆け付けた豊田署の警察官に逮捕された。

男の名は松井芳治(当時65歳)。芳治は、はんこ屋に怒鳴り込む前、妻とその母、そして長女の3人を殺害し、自宅に火を放っていた。

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暗闇で「やったつもり」の育児の果て~厚木・男児死体遺棄事件~

平成26年5月30日

神奈川県厚木市下荻野のアパートに、警察官に連れられた男の姿があった。
男は警察官に促されて自室のアパートの玄関を開けた。
室内は真っ暗だったが、それでもゴミだらけの凄まじい状態であることは一目瞭然、カビとも腐敗臭ともつかない異様な臭いがたちこめていた。

警察官らが室内に入るのを横目に、男はその場に立ちすくみ、額から汗を滴らせている。

室内奥の六畳間を開けた警察官らは、にわかに騒がしくなった。
ゴミをかき分け進んだ6畳間の布団の上で、小さな小さな白骨遺体が発見されたのだ。

男はその部屋に住んでいた斎藤幸裕(当時37歳)。トラックの運転手をしていた。
その年の3月、厚木児童相談所が所在のつかめない児童を掲載したリストの一斉点検を行ったところ、小学校に入学していない男児の存在が明らかになったことで、父親であり、該当の住所に住んでいた男のアパートを警察が任意で調べることになったのが事件発覚のきっかけだった。
白骨遺体は、幸裕の長男で所在不明になっていた斎藤理玖くんだった。所在が不明になってから10年近くが経過し、さらにはいつ死亡したのかもわからなかった。

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暗闇で「やったつもり」の育児の果て~厚木・男児死体遺棄事件②~

もう一人の保護責任者

この事件では幸裕の無責任っぷりばかりがクローズアップされた。法廷でも時に居眠りを長時間していたり、理玖くんの死は「事故のようなもの」と言い放つなど、裁判員らに対する心証も最悪であった。
そんな中、ある時妻のことに話が及んだ際、聞かれてもいないのに「妻は風俗で働いていました、自分は知りませんでした」と言った。
これも、妻は風俗で働くような女だから信用ならないと印象付けたかった、かのようにも報道され、幸裕の責任転嫁の表れととらえられもした。 続きを読む 暗闇で「やったつもり」の育児の果て~厚木・男児死体遺棄事件②~

暗闇で「やったつもり」の育児の果て~厚木・男児死体遺棄事件③~

発覚が遅れたのはなぜか

幸裕は会社に勤め、外部との接触を持っていた。結婚したのはそもそも理玖くんができたからであり、双方の両親や家族だって理玖くんの存在を知っていた。
にもかかわらず、理玖くんの存在が7年以上も誰からも気にされなかった、こんなことってあるんだろうか。

児相が役立たずだったのは今も昔も同じことで、厚木児童相談所もそもそも朝の4時にオムツ姿の裸足の乳児が外で震えているのに、迷子で片づけるくらいだから程度が知れる。

しかし、家族らはどうだったのだろうか。 続きを読む 暗闇で「やったつもり」の育児の果て~厚木・男児死体遺棄事件③~