🔓謎の一家失踪と蔓延るうわさ~世羅町・一家失踪事件~

平成一三年六月四日

「なんで来とらんの。家に行っても誰もおらんってどういうこと?」

その採石会社では、社員旅行で中国の大連に向かうことになっていた。
しかし、集合時間を過ぎても、一人の女性社員が現れなかったのだ。同僚らが自宅を訪れたが、その女性もその家族も、誰一人として家にはいなかった。

「鍵もかかっとるし、どうしたんじゃろ……」

とりあえず連絡をつけられる親類に事情を話すと、なんと女性の夫も無断欠勤をしていることが分かった。さらに、家にいるはずの男性の母親も見当たらない。玄関にはしっかりと鍵がかけられ、呼びかけにも中から返答はない。
「車が一台ないけぇ、どっかに出かけたんじゃろうか」
その家には、乗用車と軽トラがあったが、乗用車がなくなっていた。そのかわりに、一人娘のものと思われる車が止まっていた。

連絡を受けた女性の弟が、はしごをかけて家の二階にあがった。一か所、鍵のかかっていない窓があったため、そこから家の中へ入ると、そこにはごく普通の、ありふれた生活の匂いが残っていた。

忽然と消えた家族

平成一三年六月四日午後五時半。
親族らは甲山署に捜索願を出す。いなくなったのは世羅町戸張在住の山上政弘さん(当時五八歳)、その妻・順子さん(当時五一歳)、政弘さんの母・三枝さん(当時七九歳)。
しかし、いなくなったのはこの三人だけではなかった。

「六月二日の土曜日、娘さんが家におったよ」

実は二日の夕方、牛乳を届けに訪れた隣家の主婦が、山上さんの一人娘で、竹原市内で小学校教諭をしている千枝さん(当時二六歳)が戸張の実家へ帰っていたと話した。
実は両親の行方を捜すために当然娘の千枝さんにも連絡がいったが、連絡が取れていなかった。
それもそのはずで、千枝さんの車は敷地内に停められており、実家の離れの二階の部屋に、千枝さんの私物と思われるバッグ、携帯、財布などが残されていたのだ。

家の中は特に荒らされた形跡もなく、窓やドアがこじ開けられた、あるいは、室内で争ったり物色したような形跡も見当たらなかった。

山上家は昔ながらの大きな家で、母屋と隣接する形で二階建ての離れがあった。母屋と離れの間は屋根付きの駐車スペースとして利用され、庭から出入り出来るようになっている。
食事や入浴などは母屋で行い、政弘さん夫婦と千枝さんの寝室が離れの二階にしつらえてあるという、田舎の農家にはよくある作りだった。
離れの2階には、翌日から旅行に出かける予定だった順子さんのものと思われる旅行かばん、奥の夫婦の寝室には、千枝さんの着替えと思われる洋服が畳まれており、テーブルには食した後のみかんの皮がお皿の上に残っていた。
なにごとも変わったところのない、むしろ整然と片づけられた中に日常の生活の匂いが残る、人が暮らしている普通の家の様子だった。

その部屋には千枝さんの私物も残され、財布や携帯電話もそこにあった。
親族らは一階へと下り、庭に面した扉を開けた。そこも、鍵はかかっていたという。ただ、その鍵は外からボタンを押すことでかけることが出来るタイプのものだったようだ。
離れから出て母屋に通じる勝手口に手をかけると、その扉には鍵がかかっていなかった。まずは政弘さんの母、三枝さんのことが気にかかり、三枝さんが使用している奥の部屋へと向かう。
三枝さんはベッドを使用していたが、そのベッドは、今さっきまで三枝さんがそこにいたかのような、人のかたちに盛り上がった布団があったが、中に三枝さんの姿はなかった。

その後、再び母屋の居間へ戻ると、そこには三枝さんが着用している農作業着が今から着るためだったのか、広げてあり、ふと横を見ると台所の豆球がついていた。
そして、シンクの作業スペースには卵と刻んだネギがお椀に入れられた状態で置いてあったという。テーブルには、翌朝食べる予定だったのか、蠅帳がかけられた状態でいくつかのおかずも置かれていた。

状況から察するに、朝食を食べるより前に山上さん一家はなんらかの理由で家を出なければならなかったと見られた。

「あれ、犬がおらん」

山上さん宅には、「レオ」という名前のシーズー犬がいた。しかし、家族と共にそのレオの姿も見えない。
犬を連れて深夜か早朝にどこへ行くというのか……
ふと、親族の一人が風呂場の脱衣所に洗濯されていない衣服があるのを見つけた。
調べると、政弘さんと順子さん、そして三枝さんのものとみられる衣類が残されていた。千絵さんのものらしき衣類はなかった。
そういえば、離れの寝室には千枝さんの衣類が畳んでおかれていたはず。
推測するに、千枝さん以外の3人は前日夜に入浴を済ませていたと思われた。
しかし、さらにおかしな点が浮かび上がった。
前日に来ていた服がここにあるということは、洗濯は行われていないはず。にもかかわらず、3人が着用していたであろう寝巻が家の中のどこにも見当たらなかったのだ。

ということは。
家族全員が、深夜から早朝の間に寝間着姿で車で出かけたというのか。しかも犬を連れて。

家族はどこへ行ってしまったのか。自発的に出かけたのか、それともなにかよからぬ事件に巻き込まれたのか……
この時点では全くわからずにいた。

前日までの家族の行動

戸張地区は、現在だと尾道から尾道自動車道を経由するが当時は開通しておらず、国道一八四号線をひたすら北上して車で五〇分程度で到着する山間の地区だ。
国道一八四号線沿いではあるものの、山上家周辺の家は戸張川の西側に多く存在しており、東側に位置していた山上家の周囲は、隣家と砕石工場があるだけでほとんどは畑である。
隣に家はあるものの、その家の一家は五年ほど前から住んでいたといい、山上さん一家とは比較的新しい付き合いだったという。

失踪の二日前の六月二日。先述の通り、隣家の主婦が牛乳を届けるために山上家を訪れた際、娘の千枝さんが家にいた。
千枝さんは、竹原市の小学校で教諭をしており、普段は竹原市内のアパートで独り暮らしをしていた。
しかし、週末などの休みの前日には、特別な用事がない限り実家へ戻って過ごすのが常であったという。
千枝さんには交際相手がいたが、当時は県外で資格取得のために勉強中だった。そのため、週末も交際相手に会うより、実家で過ごすことも多かったのだ。

政弘さんも、六月三日の日曜夕方、自宅前の畑で作業をしているのを目撃されていた。母親の三枝さんも、夕方五時ころ近所の人と立ち話をしていた。
妻の順子さんについては、三日の様子は判明していないものの、こちらも四日から行く予定の中国旅行を楽しみにしていたという。二日の土曜日は、勤務先の砕石工場にいつも通り出勤していて、変わった様子はなかった。

千枝さんは、実は三日の日曜、勤務先の小学校で参観日があり出勤していた。
参観日の後、保護者らとの球技大会に参加し、その後の反省会にも出席、午後九時半ごろ、同僚を自分の車で送った後、世羅の実家へ戻っている。
千枝さんは実家への道中、携帯で交際相手に電話をし、その日あった出来事をいつものように話したという。その様子から、たとえばなにか重大な家族の問題や悩みは窺えなかった。
深夜近く、隣家の人が山上家に車が止まり、ドアが閉まる音を聞いている。おそらく、千枝さんが帰宅した際の音と思われた。
家族の足取りは、ここで途絶える。

警察は、捜索願が出された四日の夜から捜索を開始、地元警察のみならず、県警も捜査に加わり、警察犬も投入された。
四日間にわたってヘリも飛び、空と陸、両方からの捜索が行われている。
一家全員プラス犬までが失踪という異様な事態に、警察も通常の家出人捜索とは違う体制で臨んでいた。

山上さん宅から、山上さんの乗用車(白のスプリンター)がなくなっていたことなどから、Nシステムも調べられたが、それらから足取りは判明しなかったという。
田舎には幹線道路のほか、地元民しか知らないような抜け道もたくさんあることから、警察は事件と覚悟の家出の両面から捜査していたが、全くと言っていいほど有力な手掛かりはつかめなかった。
一方で、Nシステムなどに写っていない以上、そう遠くへ行けていない可能性もあり、捜索は山上家近辺のため池やダムなどに誤って転落した可能性、あるいは事件だったとしてそういった場所に沈められている可能性も否定できず、ありとあらゆる場所を捜索した。捜索には、地域の人らも参加していた。

時期は六月、雑草が生い茂るのは早い。しかし、この時期であれば、もしもダムやため池に車で転落したのであれば、絶対にわかる。
そう思って重点的に捜索がなされたが、車が進入した痕跡や、これは、と思うような痕跡は見当たらなかった。

捜査が進展を見せない中、順子さんの職場の人が情報提供を広く求めたいと手作りのチラシなども作成し、千枝さんの交際相手は連日、思いつく限りの場所を捜して回った。
千枝さんから、両親の思い出の場所として聞いていた京都など、車中泊をしながら捜した。
九州から東京、とにかく思いつく場所という場所を、夏中捜しまわったという。

しかし、平成一四年九月。事件は最悪の形で終焉を迎える。

【有料部分 目次】
発見
順子さんのうわさ
金銭トラブルとヒソヒソ
預貯金総額3000万円
一家心中説の謎
発見現場の謎
チラシ作成代金と相続の行方
様々なうわさ
「永久に見つからんと思うとった」

🔓双葉ハイムで死んだ女②~宇都宮・男女4人殺傷放火事件~

平成一二年八月五日

茨城県大洗町の海岸から東に約四〇キロ離れた太平洋上で、その日釣りをしていた船が漂流遺体を発見した。
那珂湊海上保安部が収容したところ、その遺体は二〇代から三〇代半ばと思われる成人男性で、背中一面に入れ墨があった。刺青の状態から、おそらく日本人だと思われた。
ベージュの半そで姿にスウェット姿、足元は素足。遺体の状態から死後一週間ほど経過していると見られた。

平成一二年八月二一日


深夜二時半。その男性は、火災報知機のベルと、大きな叫び声で目を覚ました。

「助けてくれ!!」
宇都宮市一条にある双葉ハイム最上階の十二階の一室から聞こえるその声に驚いた男性は一一〇番通報。すぐさま宇都宮署員が駆け付けると、一二〇一号室から煙が出ており、室内には衣服の乱れた男性二名、女性二名が倒れていた。

部屋の主は小堀英二さん(仮名/当時三七歳)で、小堀さんも部屋の中で倒れており、それ以外に栃木県高根沢町の中村慎吾さん(仮名/時三七歳)、宇都宮市鶴田町の無職、稲見晃子さん(仮名/当時三一歳)そして、宇都宮市宝木本町の飲食店従業員、小林潤美(ますみ)さん(当時二四歳)がいた。
小堀さん、中村さん、稲見さんは胸や背中を刃物で刺されたような傷を負い、稲見さんは左腕に火傷も負っていた。
三人の命に別状はなかったが、小林さんは収容先の病院で死亡した。ただ、小林さんには致命傷となるような外傷が見当たらなかった。

室内はソファなどの家具が焼けており、三人の証言で暴力団員風の男らが複数で三人の両手足をひもで縛り、刃物で傷を負わせたうえに灯油をまいて火を放ったことが分かった。
男らが出て行った後、もがいているうちにたまたま縛られていたひもがほどけた中村さんが自力で消火したという。

外傷のないにもかかわらず死亡した小林さんの死因は、後に大量の覚せい剤を打たれたことによる急性薬物中毒死と判明。
その場に居合わせた三人の証言からも、犯人と思われる男らのうちの主犯格が、小林さんに無理やり覚せい剤を注射したことがわかった。
一命をとりとめた三人も、それぞれ覚せい剤反応が出たが、日常的に使用していた痕跡は四人になく、それらも犯人の男らが強制的に注射したということも判明した。
現場となったマンションは、大通りに面した大きなマンションで、周辺には店舗、学校もある。そういったどこにでもあるような日常の中で、若い女性二人を含む四人が脅迫され、覚せい剤を打たれた挙句室内に火を放たれ、結果、一番若い小林さんが死亡するという事件が起こり、この時点では犯人らも逃走中であったため、宇都宮市内は物々しい雰囲気に包まれていた。

被害者と犯人の関係

当初、被害者の小堀さんと中村さんらは、「四人組の男にやられた」「暴力団員風だった」などと、犯人を知らないといった供述をしていた。
しかし、捜査員らが話を聞くうちに稲川会系大前田一家後藤組の後藤良次(当時四二歳)が主導して事件を起こしたことを把握。その日のうちに放火、殺人未遂容疑で後藤を指名手配した。

ただこの時点では「何らかのトラブル」があったことは推測できるものの、なぜ稲見さんと小林さんまで巻き込まれたのかもわからず、そのトラブル自体もつかめていなかった。
中村さんは以前、後藤の運転手をしていたことがあったという。自動車販売を行っていた小堀さんとはその後親しく付き合っていた。小堀さんもまた、過去にマンションの家賃に関するトラブルを暴力団との間で抱えていたという。
当日は、午後九時ころに市内のパチンコ店で後藤と合流し、小堀さんが暮らす双葉ハイムへ中村さんとともに車で向かっていた。
しかしその際、部屋の鍵を小堀さんが持っておらず、交際相手の小林さんに鍵を持ってこさせることになった。そして、その小林さんを車でマンションへ送ってきたのが稲見さんだった。

この双葉ハイムは、一般の人々が多く入居している普通のマンションだが、当時の住民の話によれば、「事件の数か月前から暴力団員風の人の姿を見かけるようになった。それ以降、夜男性が怒鳴りあうような声を聞くこともあった」ということだった。
小堀さんが入居していた最上階の部屋は、同一部屋内に一階と二階があるメゾネットタイプで、他の部屋に比べるとつくりも家賃も立派である。マルチ商法なども手掛けていたという小堀さんにはある程度の収入があったと見られた。

事件から一週間たっても、依然として後藤の行方は知れず、共犯の男らの行方も分かっていなかった。
小堀さんらの供述もあいまいな部分が多く、捜査はなかなか進まなかった。
本人らの供述や知人らへの聞き取りで、小堀さんと後藤の間で金銭トラブル、人間関係のトラブルがあったことまではわかっており、その話し合いが決裂したあげくの犯行との見方は固まってはいたものの、大量の覚せい剤を打ち、縛り上げた状態で火を放つという犯行に至らせた決定的な動機はわかっていなかった。
三人は犯行時に大量の覚せい剤を打たれた影響で記憶もあいまいだったが、小林さんは交際相手の小堀さんから後藤の話を聞いてはいたもののそれ以上の接点はなく、稲見さんに至ってはまったく接点がなかった。
そのため、小林さんと稲見さんの二人は、たまたま巻き込まれたとの見方が強まっていた。

逮捕から起訴

事件発生から一〇日。この日宇都宮署の捜査本部は、埼玉県松伏町のホテルにいた後藤を発見。同時に、共犯として指名手配されていた後藤組幹部の小野寺宣之(当時三一歳)、無職の浦田大(当時三四歳)、そして出頭してきた土木作業員の沢村勝利(当時三七歳)を逮捕した。
容疑は後藤と小野寺が現住建造物等放火未遂、殺人未遂、逮捕監禁、浦田と沢村は逮捕監禁だった。
その際、沢村以外の三人は自動式短銃一丁も所持していたため、銃刀法違反(共同所持)でも逮捕された。

後藤と小野寺は容疑を否認したが、浦田と沢村は容疑を認めていた。

九月七日。送検された後藤は、当初こそすべてを否認していたものの、この頃から少しずつ同期に関する部分を話し始めていた。
また、死亡した小林さんを含めて四人に覚せい剤を注射したのも後藤本人であると認め、殺人容疑でも追及されることになった。
そして新たに暴力団幹部の吉澤浩(当時三七歳)と、暴力団員の男(当時二一歳)もこの日指名手配された。

九月二一日。最初に逮捕された四人はこの日宇都宮地裁に起訴された。また、警察ではこの四人を強盗致死の容疑でも再逮捕する方針を決めていた。
四人を監禁した後、稲見さんのセルシオと現金二万円弱、小堀さん宅にあったペアの腕時計などを奪っていたことが判明していたのだ。

後藤をはじめ、計六人が逮捕されたこの事件は、暴力団員が一般人四人を死傷させた事件として扱われたが、裁判が始まり、トラブルの全容などが明らかになると、複雑な人間模様が露呈することとなった。

【有料部分 目次】
事の発端
阿鼻叫喚
大洗町の漂流遺体
ヤクザのメンツと別の顔
人間性のかけら
人生が”あおり運転”
被害者と言えたか
凶悪

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あなたと、地獄の果てまでも~大和市・連続主婦強盗殺害事件~

令和元年八月二日

この日、元号が変わって最初の死刑が執行された。
ただ、先だってのオウム教団の死刑執行とは打って変わって、その元死刑囚らの事件にはピンと来ないという人が多かった。
一人は、福岡で三人の女性を次々と強姦したり強盗して殺害した鈴木泰徳元死刑囚(事件当時三五歳/執行時五〇歳)。
そしてもう一人は、神奈川県大和市において、短期間の間に2人の主婦を殺害して金品を奪い、また、別の女性に対しても強姦と強盗の罪に問われていた庄子幸一元死刑囚(事件当時四六歳/執行時六七歳)である。
この、庄子幸一元死刑囚の事件では、一緒に逮捕されて無期懲役となった女の存在があった。
そして、庄子に殺害された被害者の主婦らは、この女の知人であった。

平成一三年八月二八日

(注:こちらの事件については、被害者の名字は伏せ、かつ、加害者と被害者以外の人名は仮名とする。なお、この記事をまとめるにあたって、折原臨也氏に多大なるご協力をいただいたことをここに記します。)

大和市下鶴間、コートつきみ野。

「ただいま」
その日、仕事から帰宅した夫は、家に入ったところで異様な雰囲気を感じた。
いつも家にいるはずの、妻・弘子さん(当時五四歳)の声がない。夕食の準備をした形跡もなく、家の中もどこか様子がおかしい。
胸騒ぎをおさえられない夫が次に目にしたのは、首に何かが巻かれ、全裸状態で腹部に深々と包丁を突き立てたまま息絶えていた弘子さんの無残な姿だった。

現場の状況から殺人事件と断定、捜査の過程で自宅から現金二三万円、キャッシュカードの入った弘子さん愛用のリュックサックがなくなっていること、そして、その日の夕方四時ころ、横浜駅前にある東京三菱銀行のATMから弘子さんの預貯金四〇万九〇〇〇円が二回にわたって引き出されていることが判明した。

夫はその日いつも通りに朝七時四五分頃に家を出た。そして、これもいつも通り夕方の五時五〇分頃に帰宅したという。
自宅マンションの六畳間で変わり果てた姿となった妻を見つけた際、腹部の包丁を思わず抜いてしまった。
司法解剖の結果、夫が帰宅した時点ですでに死亡して三時間以上が経過していたこともわかり、正午から午後三時の間で殺害されたとした。
致命傷は首を絞められたことと腹部を刺されたことの、その両方と断定。首を絞めて間髪入れずに腹部も刺されていた。

家の中は特に荒らされた形跡はなく、単なる物取りというよりは顔見知り、宏子さんに恨みを持つ者の犯行として警察は交友関係を洗った。

そして、犯行時刻にこのマンションに出入りする二人の男女の姿が浮かび上がっていた。

平成一三年九月一九日

大和市鶴間、クリオ弐番館。

その日、学校から帰宅した長女(一一歳)と長男(一〇歳)は、いつもならかかっている玄関の鍵が開いていることが気になった。
専業主婦の母親は、いつも帰宅したときには在宅していた。しかし今日は、声をかけても母親の姿は見当たらない。
ふと、浴室を覗いたふたりは凍り付いた。
そこには、粘着テープをグルグルと顔面にまかれた母親らしき人が、水が張られた浴槽の中で倒れていたからだ。

被害者は、この家の主婦・文子さん(当時四二歳)で、同じマンションに暮らす義父母の病院通いの世話などを日課にしていたという。
しかしその日は、朝一〇時ころに義母を病院へ送った後、一一時半ころに迎えに来るはずがなぜか来ていなかった。

長女らが帰宅したのは午後二時二五分頃。
司法解剖の結果、一九日の午前一〇時以降、一一時二〇分ころまでには殺害されていた可能性が高いことが分かった。

そして、文子さんは浴槽内に沈められてはいたものの、死因は窒息死。溺死ではなかった。
さらに、その腹部には包丁が差し込まれており、二〇日前に起った同じ大和市内の弘子さんの事件とその手口が酷似していた。

指名手配から逮捕へ

神奈川県警大和署は、弘子さんに対する強盗殺人の容疑で、防犯カメラに写っていた男女二人の逮捕状を取った。
この二人の男女は、銀行のATMに設置されている防犯カメラにもその姿が映っていた。
平成一三年九月二五日。大和署はいずれも住所不定の庄子幸一(当時四六歳)と、無職の女(当時三八歳)を全国に指名手配した。

警察にはこの時点で弘子さんの事件と文子さんの事件にはつながりがあると考えていた。
というのも、そもそも二つのマンションは同一市内の二キロ程度しか離れておらず、さらに、指名手配の女は文子さんのマンションに昨年の一一月まで居住していた事実があったのだ。

女は山本章代(ふみよ)。
文子さんが暮らしていた大和市鶴間のクリオ弐番館の一〇八室に、夫と子供と暮らしていたのだ。
章代の子どもは当時中学生になっていたが、文子さんの子どもとほぼ同世代であった。
そのため、子供を通じて何らかの接点があったことは疑いようがなく、章代と文子さんも顔見知りかそれ以上の関係であると予想していた。

一方で弘子さんとの関係は、事件の一~二年前に章代が会員であった物品販売会社の大和支部長を弘子さんが務めていたことから始まっていた。

直接的な関係ではなかったが、その物品販売会社はいわゆるマルチ商法のような会社で、平成八年には破綻、当時の会長が逮捕されるなどした。
章代はその清算の過程で弘子さんと知り合っていた。会社が破綻しても弘子さんと章代の付き合いは続いており、体が不自由だった弘子さんの手伝いなどをする間柄だったという。

被害女性らはいずれも当初は章代の知人であり、庄子とは直接的な関係はなかった。

大和署特捜本部は、市民からの情報提供を求めて二万枚のビラを作成した。
特に庄子には、警視庁、群馬県警などからも無銭宿泊などで指名手配がかかっていたため、総力を挙げての捜索となった。

またその頃、文子さんの自宅にあったテーブルから、庄子の指紋も検出されていた。これで、文子さん殺害にも庄子と章代が関わっている可能性が極めて高くなっていた。

九月二十六日。
小田急線伊勢原駅構内において、県警の捜査員が二人の男女を取り囲んだ。
黒いチューリップハットをかぶった女は、最初ひとりで駅構内をうろついていたが、そこへ同じような色違いのチューリップハットをかぶった男も現れた。
張り込んでいた捜査員らは、「庄子だな」と声をかける。男は一瞬ハッとしたかに見えたが、すぐさま女に「逃げろ!」と叫んだという。
驚いた女が踵を返したが、捜査員らに阻まれその場にひっくり返った。
公開捜査から二九時間。実は県警には市民からの目撃情報が相次いで寄せられていたのだ。

横浜市瀬谷区の相鉄線瀬谷駅周辺の目撃情報は特に多かった。
そこで特捜本部は、相鉄線と、そこにつながる小田急線の主要な駅に捜査員六〇名を配置して庄子と章代が現れるのを待つ作戦に出たのだ。
そこへ、章代がひょっこり現れたことで逮捕となった。

二人の所持金は逮捕時合わせても二〇〇〇円程度だった。リュックを背負った庄子は髪を短く整え、章代はグレーのシャツにジーンズ、化粧品などが入れられた紙袋を所持していた。

逃走資金を得るために強盗殺人をやらかすかもしれないと危惧していた警察だったが、所持金が二〇〇〇円だったことを知り、もう少し逮捕が遅れれば再び犠牲者が出ていた可能性もあり、市民の協力と結果として当たった「作戦」に胸をなでおろした。

一〇月一七日に弘子さんへの殺人と強盗の容疑で起訴された二人は、文子さん宅から出た庄子の指紋などについても追及され、一〇月一八日、文子さんに対する強盗殺人などの容疑で再逮捕された。

警察では当初、住所不定で職もない二人が、事件より前から北関東一帯を転々とする生活を送りながら、金がなくなると窃盗、無銭宿泊などを繰り返していたこと、さらには庄子に対するいくつもの余罪が判明していたことから、逃走資金や生活費を得るためにこの強盗殺人を働いたとみていた。

しかし、裁判では事件が起こった背景に加え、庄子の異常な性癖やふたりの歪な関係性が次々と明らかにされていった。

🔓あなたと、地獄の果てまでも~大和市・連続主婦強盗殺害事件②~

庄子のそれまで

庄子幸一は昭和二九年一〇月に生まれ、両親と弟と四人で川崎市を中心に生活してきた。
父親は感情の起伏が激しく、家族は父親の顔色をうかがいながらの緊張した中で生活し、庄子も時に暴力を振るわれるなどして育った。中学二年の時に両親は離婚。母親に引き取られたものの、中途半端な時期の転校となったこともあり、中学へはほとんど通わなかった。この頃は附田(つくだ)姓であった。
中学を卒業した後、電気店などに就職はしたものの長くは続かず、怠惰な日々を送っていた。そんな中、庄子は次第に犯罪に手を染め始める。

最初は窃盗だった。しかし犯罪行為はエスカレートの一途をたどり、放火事件を起こして中等少年院へ。退院後も素行が改まることはなく、昭和五〇年に懲役五年の実刑を受ける。
その後、三年足らずで仮釈放となったものの、住居侵入、窃盗、強盗、強姦などの重罪を積み重ね、仮出所から一年もたたない昭和五三年一一月、懲役八年の実刑となった。
昭和六一年の暮れ、出所した庄子は母親のもとに身を寄せた。その際、離婚した父親が「庄子」の姓を継がせたいと希望していたことなどから庄子幸一に戻った。

昭和六二年の秋、母親とその内縁の夫、そしてその二人の間にできていた子供と埼玉県春日部市に引っ越し、きちんとした会社に一旦は就職した。
しかし半年で辞め、またもや以前のような無為徒食の日々を送るようになる。その後、母親らが川崎市へ戻ってからはひとり春日部市内に残ったものの、出所後間もなくから犯した罪(強盗強姦未遂、窃盗、強盗致傷など)で逮捕され、懲役九年の判決を受けた。
次に出所したのは平成一〇年七月のことである。

このように、庄子の人生は、少年院なども含めるとこの時点で人生の多くの時間を塀の中で暮らしていたことになる。
殺人こそ犯していないとはいえ、同じような犯罪を何度も繰り返すあたり、刑罰をもってしても矯正、更生には程遠いと言わざるを得ない男だった。

平成一〇年に出所した後は、東京都内で経理関係の仕事に就きはしたがここもすぐ辞め、当時横浜市瀬谷区に住んでいた母親の近くに住居を構えていた。
時折、近隣の県へ働きに行くなどしたともいうが、横浜市瀬谷区内のアパートを母親に借りさせ、生活費なども頼りながら怠惰なその日ぐらしが主であった。

そして平成一二年四月、大和市鶴間のスナックに行った際、ホステスをしていた章代と出会うこととなる

【有料部分 目次】
章代のそれまで
「藤原孝」
逃避行
保土谷の祈祷師
東京事件
5つの扉と、仇(あだ)なすもの
共同作業
摩訶不思議な供述
フミのことだけ
死刑台手前の告白と、異常性欲
章代という女
別れの時