思い込み~江東区・二児殺害事件~

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昭和62年7月28日

東京地方裁判所。
村上光裁判長は、法廷でうなだれる女に対し、懲役5年の判決を言い渡した。
女の罪は殺人と同未遂。女が手にかけたのは、幼い娘と息子、そして夫という、家族そのものだった。

判決は確定、女は刑務所へと収容された。
女は家族を葬り去らなければならないと思い込んでいた。しかし、それは全くの思い込みであり、女が思い悩んで悲嘆にくれる必要など本来どこにもなかった。

女は何をそこまで思い詰めていたのか。

事件

昭和62年4月30日早朝、江東区の運送業・相羽幸次郎さん(仮名/当時37歳)方から、
「子供が刺された」
と通報があった。深川署員が駆け付けると、3階建ての自宅の1階部分にあるダイニングで通報者と思われる幸次郎さんが、腹から血を流してうずくまっていた。
署員が子供を探して3階へ上がると、その廊下に、返り血を浴びて立ち尽くしていた母親がおり、3階の子供部屋には二人の子供が血まみれで息絶えていた。

深川署は、幸次郎さんの証言と、現場に血塗れでいた母親の自供から、この母親が子供たちを殺害し、夫である幸次郎さんを殺害しようとしたとみて逮捕した。

逮捕されたのは相羽まりえ(仮名/当時36歳)。なくなっていたのは、まりえと幸次郎さんの長女・里織さん(当時13歳)と、長男・健太郎くん(当時9歳)だった。

調べに対し、まりえは
「今年に入って体重が減り、体調も思わしくなかったので病気だと思った。悩むあまりここ数日眠れていなかった。」
と話しており、深川署では自身の健康を悲観し、発作的に家族を刺したのでは、とみていた。

家族を道連れにしてまで思い悩んだというその病気は何だったのか?

まりえ

まりえは東京の生まれだったが、幼い頃に父親が失踪、その後はまりえだけ母の兄弟夫婦に預けられだが、まりえ自身は時折寂しさを覚えはしたものの、自分の境遇を呪うことなく健やかに成長していた。

中学に入ったころ、職を得て安定していた実母の元へ戻ったが、やはり母を助けたいという思いもあって高校は定時制を選ぶ。
町工場などで働きながら母を支え、無事、定時制高校も卒業するという非常に健気な少女だった。
昭和45年からは新宿のおそらくデパートと思われるが、そこの化粧品部門で働き始め、翌年には夫となる幸次郎さんに出会う。
交際を始めて間もなく二人は結婚し、すぐに里織さんを、そしてそののちに健太郎君を授かり、幸せな家庭を築いていく。
昭和50年ころには幸次郎さんの両親らとともに江東区の事件当時の場所で同居を始め、まりえ自身も近所の喫茶店でパートをするなど、この時代のごく普通の暮らしを送っていた。

まりえ自身、子供の学校関係もうまくやれていて、PTAの役員を引き受けることもあった。
そして昭和57年6月、そのPTAの役員仲間と出かけた夜の女子会で、ある出来事が起きた。

神経質な女

昭和57年6月、まりえはPTAの役員仲間と連れ立って、六本木へと繰り出した。今でいう女子会の流れである。
平凡な主婦が久しぶりに感じる夜の世界は、普段しっかり者のまりえの心に隙を作らせてしまう。

一週間後、まりえはひとり悶々と悩む日々を送っていた。まりえの口に、口内炎ができたのだ。
普段なら、口内炎ごときで狼狽などしないのだが、この時のまりえの頭の中には、あの六本木のディスコでのとある出来事がこびりついて離れなくなっていた。

あの夜、まりえはその場のノリで見知らぬ男性とチークダンスを踊っていた。その際、男性から突然キスされたという。
まりえは神経質な一面があったと言い、口内炎ができたことから梅毒に感染したのではないかと気が気ではなかったのだ。
梅毒は今でも感染の可能性のある性感染症で、平成24年ころには密かに感染者が増加しているなど、結構身近にあるものだ。現在では治療法も確立されていて重篤化することは稀というが、この昭和の終わりはまだその「梅毒」という病名の強烈さや症状のひどさ、そしてなにより「性病」ということで、いろんな意味で恐れられていた。

まりえは悩んだあげく意を決して都内の皮膚科泌尿器科を訪れ、梅毒の検査を受けたところ陰性と分かり、一応は安堵したという。

しかしこの「梅毒騒動」は、数年後にふたたびまりえを苦しめることになってしまう。

暴走する妄想

なにごともなくその後を過ごしていたまりえだったが、昭和62年になったころ、まりえの脳裏に再びあの梅毒騒動がよみがえる羽目になった。
その前年、苦労をかけた実母が急逝し、まりえは深く落ち込んでいた。疲労も重なり、なんとなく体の調子が悪いなぁ、と思っていたところへ、「ある報道」が飛び込んできた。

神戸市で昭和62年1月、ある病気で、日本初の女性死亡者が出たと報道されたのだ。
その病気は、「エイズ」だった。

今でこそエイズは不治の病というよりも、適切なコントロールをすることで日常生活を送ることができるし、社会の中に普通にHIVに感染している人も存在する。
治療を適切に行うことでその予後は無治療に比べれば劇的に伸びるわけで、感染についても現時点(令和3年)では新型コロナの感染者のほうが忌み嫌われるほどだ。

しかし時は昭和、エイズ=死の病、他人にうつる、そしてなにより「性感染症」という強い負のイメージばかりが先行し、正しい知識が一般に知れ渡っていない時代だ。
HIVは濃厚な粘膜接触や血液による感染、母子感染が感染経路だが、当時は空気感染するだの、握手でうつるだの、今となっては信じられないような話がまことしやかに囁かれていたのだ。

まりえも、報道などで見聞きした素人の考えにとらわれ、現在の自分の体調不良は、あのディスコでキスされた際に梅毒ではなくエイズをうつされたのではないのかと、ふと、思ってしまった。

それに思い当たったのが、結果としてはこの一家の運命を決めてしまった。

体のだるさ、食欲不振、微熱、首のコリ、さらにはリンパも腫れているような気がしていた。寝汗もひどい。
これはまるで、エイズの初期症状ではないのか。しかもエイズはキスでもうつる(※基本的に唾液での感染可能性はない)というではないか。
まりえの中でその不安は日に日に肥大していった。

2月下旬、思い悩んだ挙句、かかりつけ医院においてとりあえず腎臓や胃などの検査を受けた。その後、肝臓、甲状腺の状態を検査したのち、意を決してエイズの検査も受けた。
結果は「陰性」。しかしまりえは念のためもう一度検査を受けてみた。当然それも陰性だった。
公的機関での2度の検査で陰性と言われれば安堵しそうなものだが、まりえは違った。
検査結果や医師の判断よりも、自身の体調を信じたのだ。

まりえは検査後も首のコリやそれ以外の体調不良が続いており、その間飲んでいた風邪薬の影響で検査結果が間違ったのではないかと勘繰り始めた。
4月中旬、墨東病院において3回目のエイズ検査を受けるも、こちらも陰性だった。しかしまりえは、
「異常がないのにこんなに体調不良が続くのはおかしい。エイズはまだ未知の病気であり、私は新種のエイズにかかっているとすれば納得がいく」
という、なんとも理解しがたい思い込みに囚われていた。

さらに、そのころ長男・健太郎君が肺炎で入院するという出来事が起き、それがさらにまりえの妄想に拍車をかけた。

「あぁ、家族全員にエイズを私がうつしてしまった……」

殺害計画

体調を崩したのは健太郎君だけではなかった。夫の幸次郎さんも、寝起きが悪く首や肩がこる、という話をしていたし、里織さんも4月以降、疲れが取れないなどと話していた。

冷静に、というか、普通に考えたら、新年度が始まった4月というのは子供もいろいろと疲れるだろうし、夫はアラフォー、なにもなくても体調の変化が如実に表れる年ごろである。しかも幸次郎さんは運送業で、体を使う仕事なのだからそんなことは良くある話だ。
そもそもまりえの体調不良も、実母がなくなって気落ちしたところへ、葬儀や相続の手続きで知らぬ間に相当な疲れが溜まっていたと考えるのが普通である。
健太郎君とて、それまで健康優良児だった、というわけではなく、もともと体は弱く喘息持ちだったことを考えれば、季節の変わり目などで肺炎になってしまったとも考えられるし、どれもこれも、「よくあること」だったはず。

しかしまりえには過ちともいえるあのディスコでの出来事が重くのしかかっていた。
事が事だけに、誰にも相談は出来なかった。一人思い悩むうちに、検査の結果も医師の言葉も、もうなにも信じられなくなっていた。医師はエイズだと言い出せないがために、嘘をついているのだとさえ思っていた。

もはやまりえは狂気だった。

自身が幼い頃親せきに預けられ寂しかったことまで思い出し、自分が死んだら子供たちがかわいそうだと思い、いっそ一家心中すればいい、まりえの狂気はそこまで達していた。
そして子供と夫の具体的な「殺害方法」についても、思いを巡らせるようになる。
4月下旬、健太郎君が退院すると、このあとやってくる天皇誕生日(現・昭和の日)の前日に実行すると決め、あらかじめ夫のネクタイと柳葉包丁を手の届くところに隠した。実兄や親友らに手紙を書き、預かっていた積立金などの配分も書面に残した。

さらには、心中後に発見した人を巻き込まないよう、「エイズです、3Fに上がらないで、血に触ると危険です」などと書いた紙まで用意した。
しかし28日には踏み切ることができず、その日は何事も起こらなかった。

29日、子供たちが寝て、幸次郎さんも日付が変わるころまでには就寝。まりえは夫とともに布団には入ったものの、まりえをとらえて離さない「一家心中」について思いを巡らせていた。
深夜1時を過ぎた頃、まりえは起きだし、隠しておいたネクタイを手に取ると健太郎君の部屋へと向かった。
2本を束ねてその両端を握り締めると、何も知らずに寝入っている健太郎君の首にまわして一気に絞めあげた。

しかし、殺すことは出来なかった。

躊躇したために力が入らなかったのか、健太郎君は目を覚まし、「ママどうしたの!なんでこんなことをするの?気持ち悪い、苦しいよ」と訴えた。
そこで我に返ったまりえは、健太郎君をなだめすかして一旦は部屋を出て、自分の寝室で眠った。
しかし4時半頃、目を覚ましたまりえは、完全に鬼になっていた。

「もう、駄目なのよ」

一度はやめたはずの一家心中を、まりえは今度こそやり遂げなければならないという気持ちになっていた。
しかし体の小さな健太郎君でさえも殺しきれなかったのだから、もう首を絞めるのではなく、包丁で刺し殺すことに決めた。
用意していた注意書きの便せんを3階に上がる途中の階段に置くと、手にはバスタオルと柳葉包丁を持ち、3階の子供部屋へと向かった。最初は、里織さんと決めた。

苦しむ顔を見ることは出来そうもなかったので、眠っている里織さんの顔にそっとタオルをかけると、里織さんの心臓めがけて逆手で包丁を振り下ろす。
と、里織さんが寝返りを打った。包丁は狙いを外し、里織さんの腕の付け根あたりに刺さったという。
当然、痛みで目を覚ました里織さんは、「痛い!ママ何するのよ!!」と叫び、ただ事ではないと察して這うように逃げ出した。
まりえは里織さんを部屋の隅へと追い詰めると、「助けて」と懇願する娘に対し、

「もう、駄目なのよ」

と呟くと、里織さんの胸を複数回、メッタ刺しにした。

次は健太郎君だった。
健太郎君は眠りが深かったのか、バスタオルを顔にかけても、体の向きを変えても起きなかった。
刺しやすいように体を仰向けにし、バスタオルを顔にかけるとその頭を手で押さえ、里織さん同様心臓めがけて何度も突き刺した。

「どうしたんだ、なにしてるんだ」

ふと、背後で声がした。寝ていた幸次郎さんが物音に気付いて起きてきたのだ。
まりえはそのまま両手で包丁を順手に握ると、振り向きざま幸次郎さんに突進、無防備だった幸次郎さんの胸を一突きした。
しかし包丁を抜いた瞬間に幸次郎さんが包丁を取り上げたため、それ以上刺すことは出来なかった。

幸次郎さんは血を流しながらも階下へ降り、110番通報したのだった。

エイズパニックシンドローム

裁判では、弁護人は事件当時まりえが心神喪失だったとして無罪を主張、加えて、まりえの知人ら約1200人の嘆願書が届いていると話した。

事件自体は、結果は幼い子供2人が死亡、夫も重傷という重大な事件であり、人数の面から言えば無期懲役、死刑だってありえるものだ。
里織さんは第三肋軟骨切断、右心房を貫通しさらには横隔膜まで貫通し肝左葉に達する長さ21.5センチの傷、第四肋軟骨一部切断し、同じく横隔膜を貫通して右肺下葉貫通、肝右葉に達する18センチの傷があり、心臓損傷による失血死だった。
暗闇の中、突然の激痛で目覚めた後に13歳の里織さんが見たものは、暗闇で右手に包丁を逆手に振りかざす母親の、鬼と化した姿だった。

健太郎君は、おそらく最初に首を絞められたことは夢か何かだと思ったのかもしれない。泣きもせず、そのまま寝入っていたことを考えれば、まさか母親が殺意を持ってした行動だとは夢にも思っていなかったのではないか。
健太郎君の胸にも深さ21センチの刺し傷があり、同じく失血死だった。

この、深さ21センチという刺し傷には相当な確定的な殺意が見てとれる。普通、愛している相手を殺害するとき、なかなか深くは刺せないものだ。だから浅い傷が何度もつく。あの新居浜の両親殺害事件でも、母親の背中には六ケ所の刺し傷があったが、いずれも致命傷ではなかった。
「母親だから、躊躇った」
そう、高平剛志受刑者は裁判で話していた。そう、躊躇うものなのだ。
まりえもためらった、健太郎君の首を絞めた時は。おそらく。
しかしまりえはそこで学び、殺害を確実のものにするために刺し殺すことを選んだ。

幸次郎さんの傷も浅くはなかった。両手に刃物を持ち、体当たりしたというその傷は、血気胸、横隔膜ならびに横行結腸損傷の傷を負わせた。

裁判所は弁護人の主張を受け、都立松沢病院の金子嗣郎院長に精神鑑定を依頼。
金子医師は、「まりえは気が強い半面、一人で悩みを抱え込んでしまう性格」とし、実母の急逝で心労が溜まっていたところに報道されたエイズ患者の死亡でディスコでのキスを思い出し、エイズではないのかという不安が「訂正不能な観念」にまで達し、善悪を判断する能力が著しく弱まっていた」と鑑定した。

検察側もそれを受けて、「エイズ妄想から精神耗弱状態にあったと認定するのはやむを得ない。しかし、耗弱状態とはいえ、短絡的な性格にも問題があり、結果を考えれば刑事責任は極めて重い」としたものの、それでも求刑は懲役8年だった。二人殺して、8年。うーん。

昭和63年7月28日、まりえに対し、懲役5年の判決が言い渡された。
裁判所は、心神耗弱を認めたが、心神喪失という弁護側の主張を退けた。
また、まりえが思い詰めてしまった要因の一つとして、エイズに関する社会不安(エイズパニックシンドローム)と、マスコミによるエイズの報道は無視し得ない、としたが、それは限定的に考慮されるにすぎない、とも述べた。

まりえは自身のちょっとした過ちをおそらく許せなかった。なによりも、自分自身を罰したかったのだろう。しかし単なる偶然だった自分と家族の体調不良によって、また、連日報道されるエイズ報道に恐れをなした。まりえにとってエイズは、遠くの人の話ではなく、まさに今家の中で起こっていることだったのだ。結果としてそれが壮大な勘違い、思い込み、妄想だったとしても。

まりえは逮捕後、どの段階で自分がエイズでないことを納得したのだろうか。まりえの言葉は報道されていないし、もしかしたらまりえは逮捕後も公判中も、エイズであるという思いが払しょくできなかったのかもしれない。

いや逆か、こうなったらなにがなんでもエイズでなければ困るのではないか。
そうでないなら、思い込みだったならば自分がしたことは頓珍漢どころの話ではない。その事実に耐えられるのだろうか。たかが口内炎で梅毒を疑い、その数年後に梅毒じゃなくてエイズだ!と思い込んでしまうような人間が、家族を皆殺しにしようとしたという事実を受け止めきれるのだろうか。

裁判長は、
「子供を愛していればこそ、選んではいけない道を選んでしまった。これからの人生は悲しみと後悔を背負っていかなくてはならない」
と説諭したという。

はたしてまりえは、その後生きて行けたのだろうか。

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参考文献
朝日新聞社 昭和62年4月30日東京夕刊、昭和63年7月28日東京夕刊
読売新聞社 昭和62年4月30日東京夕刊、5月1日東京朝刊
中日新聞社 昭和62年5月1日朝刊
毎日新聞社 昭和63年6月29日東京夕刊

ニュース三面鏡 エイズ妄想殺人の主婦、求刑へ
朝日新聞社 昭和63年6月27日東京朝刊

昭和63年7月28日/東京地方裁判所/刑事第9部/判決
昭和62年(合わ)80号
判例時報1285号149頁、判例タイムズ683号213頁

🔓救われた命~九州・福祉施設収容承認申立事件~

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大学病院にて

九州地方のとある大学病院。多くの入院患者を抱えるこの大学病院には、もう3年近く、我が子の入退院に付き添う母親の姿があった。
入院していたのは幼い息子。生後1か月の頃から原因不明の下痢や発熱を繰り返し、時には重篤な敗血症を起こしたこともあった。
国立病院に転院しても症状は変わらず、大学病院との間を行き来しながら入退院を繰り返してきた。
入院患者らも、その母親とは顔見知りで、機会があれば話をすることもあった。
「あの方のお子さん、なんだか大変な病気みたいですね」
ある入院患者は、何の気なしに看護師に話を振った。看護師は勝手に他人のことをしゃべるわけにもいかないため、あいまいな表情を見せる。
「余命1年、なんでしょう?小さいのに、かわいそうに…」
看護師は思わず作業の手を止めた。

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絶望の淵の先にあるもの~香川・父親撲殺事件~

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昭和50627

「主文、本件抗告を棄却する。」

高松高等裁判所の小川豪裁判長は、この日、ある少年事件の抗告を棄却する決定を出した。
加害者は17歳の女子少年。彼女は昭和50514日に、高松家庭裁判所において、中等少年院への送致が決定していたが、それを不服として抗告したものだった。
彼女の罪は、父親を手斧で殺害するという非常に重大なもので、高松家庭裁判所は本来ならば検察官送致も十分考えられるとしたが、その内容を考慮して中等少年院送致を決めた、としていた。

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私がやらなければ~大阪・実父殺害事件~

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大阪家庭裁判所にて

夏の日差しが日に日にその強さを増してきた7月、大阪家庭裁判所では一人の少女に対する保護観察処分の決定がなされた。

少女は16歳、大阪府内の高校に通う高校生だった。

しかし少女が犯した罪は、殺人。しかも被害者は、実の父親だった。
検察官送致もあり得る実父殺害だったが、大阪家庭裁判所の判断は、
「本件の決定的要因は父親にある」
とし、少女を少年院などに送致することはむしろ少女の円滑な社会復帰を妨げるとの観点から、保護観察官による直接的、長期的な指導がなされるべきというものだった。

少女と父と、その家族の辿った道のりとは。 続きを読む 私がやらなければ~大阪・実父殺害事件~

もうひとつの「MOTHER マザー」~桐生市・高齢女性殺害事件~

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川口の事件

平成27年年94日、東京高等裁判所の秋葉康弘裁判長は、強盗殺人などの罪に問われた事件当時17歳の少年に対し、控訴棄却、懲役15年の一審判決を支持する判決を言い渡した。
少年は、平成26年に川口市で起きた高齢夫婦強盗殺人の実行犯であり、その高齢夫婦の孫だった。
裁判では、被害者夫婦の娘であり、少年の母親でもある女も強盗と窃盗の罪で起訴されていたが、そもそもこの母親による「殺してでも借りてこい」という指示があったことが明らかとなり(母親は現在も否定)、また、少年の信じられない不遇な生い立ちにも注目が集まった。

母親の判決は懲役46月、その後この事件は令和2年に長澤まさみ主演で映画化された。

その、ずっと前。
平成16年にも、同じく母と息子が共謀して祖母を殺害、その金を奪うという事件があった。

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