美しい人〜愛媛・偽装事故による嘱託殺人事件〜

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平成7年12月8日

松山地裁はこの日、朝日火災海上保険を相手取って約2億7千7百万円の支払いを求めた訴訟に対し、その請求を棄却する判決を言い渡した。

紙浦健二裁判長は、「偶発的な事故として考えるには不自然で、偽装事故の疑いがある」とその理由を述べた。
事故は3年前、平成4年11月の終わりに起きた。

平成4年11月29日

愛媛県喜多郡長浜町(現・大洲市)の長浜港岸壁。
午後10時20分ごろ、この岸壁に止めてあった車が海に転落した。
車には男女三人が乗っており、そのうち運転していた松山市在住の男性Aさん(当時55歳)だけが自力で脱出し、なんとか一命を取り留めた。
しかし、海中から引き揚げられた車の中には、男性の遺体があった。さらに、同乗していた女性もその後、海面を漂っているところを収容、すでに死亡していた。

亡くなったのは愛媛県北条市(現・松山市)在住の海運業、高本孝宏さん(仮名/当時55歳)と、松山市在住のエステティックサロン経営、杉尾由梨子さん(仮名/当時43歳)と判明。
助かったAさんの証言によれば、この日釣りをするために長浜港岸壁に高本さんらときていたところ、運転を誤って海中に転落、たまたま運転席のドアが開いたままだったことで運転席にいたAさんは脱出できたということだった。

現場は街灯も商店などもなく、非常に暗かったこともあり、Aさんが運転を誤ったことも無理はなかった。また、釣りをするためにできるだけ車を岸壁に寄せる必要があったといい、その最中の事故だった。
一人海上で見つかった由梨子さんは、助手席で車をバックさせるために後方を確認していたといい、「オーライオーライ」という由梨子さんの声を過信して転落した、とAさんは証言していた。

警察は不幸な事故として処理、会社を経営していた高本さんと由梨子さんの遺族や会社関係者はそれぞれ、悲しみの中会社の残務整理などに追われた。
その過程で、高本さんの遺族がかねてより高本さんにかけられていた生命保険を受け取るために請求をかけたところ、思わぬ事態となった。

生命保険会社が、その支払いを拒否してきたのである。

支払い拒否

高本さんは、会社をいくつも経営している実業家だった。土地柄、海運業をはじめホテル経営などのほか、貸金業や船舶リース業なども行っていた。
会社を経営していれば、経営者に万が一のことがあったことを考え、誰しも会社名義で保険をかけることはある。高本さんも、会社を受取人としていくつかの保険を契約していた。
ところが、全20口あった保険(生命保険、交通傷害保険、傷害保険など)のうち、15口が事故の起きた平成4年に入ってから立て続けに契約されており、さらに、その総額はなんと12億円を超えるものだったのだ。いくら会社経営といっても、その実態は田舎の自営業者的なものであり、多くの従業員を抱えるような企業ではない。にもかかわらず12億円という金額は確かに異様だった。

保険会社は支払いの申請があれば当然調査を行う。しかもその死に不自然なところがあれば徹底的に調べるだろう。
その中で、そもそも高本さんが契約したいくつかの保険がいわゆる重複保険契約に当たるとも判断されていた。

平成4年12月26日から28日にかけて、朝日火災海上保険、東京海上火災保険、日本火災海上保険、大東京火災海上保険の各社は、受取人である遺族や高本さんの会社に対し、保険契約は重複保険契約であり、高本さんおよび会社が重複保険契約についての告知義務、通知義務に違反しているとして、本件各保険契約を解除する旨の意思表示を行なった。

これに対し遺族と高本さんの会社は、支払いを求める訴訟を松山地裁に起こした。

しかし結果は、保険会社に支払い義務はないとされ、なおかつ、高本さんと由梨子さんの死は、偽装事故による作られたものである可能性を指摘されたのだった。

借金

高本さんは妻と二人の娘との生活を送っていたが、一方で由梨子さんとは愛人関係にあった。
由梨子さんは娘と暮らしており、松山市内でエステサロンを経営していた。
由梨子さんは以前喫茶店で働いていた時期があり、その頃タクシー運転手をしていたAさんとも顔馴染みとなっていた。高本さんにもAさんを紹介し、いつの頃からかAさんは由梨子さんの送迎を担うようになっていた。

高本さんと由梨子さんの関係がいつからはじまったものかは定かではないが、一部その関係をあまり隠そうとしていなかったようなところも見受けられることから、ある程度長い付き合いだったのかもしれない。

高本さんは会社経営ということもあり、複数の金融機関から借金があった。
一部他人の連帯保証人としての債務(1億4732万)もあるものの、高本さん本人もしくは自身の経営する会社の連帯保証などは合計で10億円を超えていた。
この借金にはきっかけがあったようだ。

昭和59年、高本さんは転売、利ざや目的でバージ船とそれを曳航するタグボートを4億3千万円で建造。資金は第一生命からの借入でまかなった。
ところが、この船が内航海運組合総連合会の許可を受けることができず、無許可船という扱いになってしまう。こうなると闇営業しかできず、利用する人間がいたとしても逆に足元を見られて買い叩かれる状況になってしまった。
結局その4億3千万円は焦付き、代位弁済される羽目になった。

バブル景気の頃はなんとかなっても、その終焉が迫る頃には債務がどんどん増えていた。
高本さんの収入はどうだったのか。
生命保険支払いを求める訴訟の中では、遺族や弁護人は、高本さんの総収入は1億円近くあった、としていたが、裁判所はこれを否定している。
証人にたった高本さんの会社の経理担当者は、多く見ても2000万円ほどだったのではないか、と話し、各金融機関の回答や帳簿などから見ても、1000万円〜2000万円とされた。

事故の起きた平成4年以前は、保険の受け取り金額が2億円強であったのに対し、保険料の年間支払い総額はおよそ472万円。口数も5口だった。
ところが、事故の起きた平成4年になると、それまで保険を新規契約したり増額したりといったこともほとんどなかったにもかかわらず、4月から11月までの8ヶ月の間に契約されたのは15口、総額10億円を超える保険であり、年間の保険料も700万円以上の支払いとなっていた。
もちろん、遺族や弁護人らは、会社経営者である高本さんが掛けたものである以上、さほど大きすぎる額とも言えないし、不自然とまでは言えないと主張。
万が一はいつ起こるかわからないわけで、たまたまこの時期保険の見直しを検討したとも考えられるとした。会社経営者ならば自身の負債額に応じた保険金を検討するのは自然である、とも主張した。

しかし、万が一や会社のためを思ってなどというのであれば、高本さんが選んだ保険の種類にいささか疑問があった。

会社が損害を出した際の損害保険的なものではなく、なぜか高本さんは複数の損害保険会社に、交通事故に特化した保険に7口も加入していたのだ。
また、会社の債務に応じて、という主張も、船の建造で4億円以上の負債があった昭和60年頃であっても、当時の保険総額はわずか5400万程度で、その見直しすらしていなかったことからも、説得力はなかった。

ともあれ、高本さんが平成4年になってから保険の増額に固執し、重複保険契約を見抜かれないようにしながら何かに追い立てられるかのようにどんどんと保険契約をして行ったことは間違いなく、そしてそれが交通事故などを重点的に保障する内容であったことから、この高本さんと由梨子さんの事故は、偽装されたものの可能性が極めて高い、とされた。

遺志

となると、運転して海に車を転落させたAさんの存在はどうだったのか。
そもそも、この事故が偽装だったとして、誰が誰のために仕組んだのか。保険金の受け取りはすべて会社もしくは高橋さんの妻であり、そこにAさんの名前はなかった。
支払いを求めて提訴したのも妻と娘たちであり、ましてや高橋さんには由梨子さんという愛人の存在があった。

2時間ドラマならば当然、妻は怪しい存在として描かれるだろうし、ドンファンの例もある。

たとえば、保険の増額を夫に勧め、その上でAさんと結託して借金まみれの夫と、憎き愛人を同時に抹殺し、保険金を得る。Aさんには生命保険金から幾らかの金を渡せばいい。そんなベッタベタな筋書きなのだろうか?

実際にはそんな話にはならず、この民事裁判の時点で答えは出ていた。

裁判所は、多額の負債を抱えた高橋さんが、自らの命と引き換えに生命保険金で何もかもを精算しようとしたと認定。
Aさんは高本さんと由梨子さんから、自分たちの殺害を依頼されていたと認定したのだ。

保険金の支払い拒否となって以降、当初は事故として処理していた警察はAさんの金の流れなども調べまくっていた。
しかし殺人に見合う報酬を得ているような節が見当たらず、刑事事件として立件できるほどの証拠も掴めていなかった。

一方で、高本さんと由梨子さんが自殺を考えていたという話の根拠はあった。
それは高本さんではなく、由梨子さんの言動によるものだった。
由梨子さんはエステ店の従業員の女性に対し、「私に万一のことがあれば、保険金から1000万円あげる。だから残りのお金でこの店を続けて欲しい」と持ちかけていた。
さらに、この話を由梨子さんは「長女にも話しておくから、長女から受け取ってちょうだい」、とも伝えていた。
もちろんこの従業員の女性はそれこそ「万が一」があればの話、と思っていたのだろう。ところがその万が一は一週間もしないうちに訪れた。
混乱するまま、従業員の女性は告別式の際に由梨子さんの長女にこの話をしたという。おそらくだが、お金がどうのこうのではなく、今となっては不審極まりないと感じての確認だったのではないか。

12月になって、何が何やらわからない従業員の元に現れたのは由梨子さんの実弟だった。
長女は「生前にその話は母から聞いています」といい、実弟はとりあえずということで香典の中から100万円を従業員の女性に渡している。

由梨子さんの言葉は、間違いのない、家族にも共有された意思だったのだ。

高本さんにいたっては本人が生命保険契約をしていること、しかもその年間の支払い総額が高本さんの収入の半分以上であり、金融機関への支払いなどを併せれば自身の年収を超える額であることをわかって契約していることなどから、遠い将来にわたって保険料を支払う予定ではなかったことすなわち、それは近い将来、死ぬことを想定したものであることに合理的疑いの余地はなかった。

加えて、高本さんには保険金を騙し取ろうとした過去もあった。

過去

高本さんがタグボート、バージ船の建造でヘタを打ったのは先にも述べた。その負債は回収の見込みがないまま赤字は月に600万円を超え、利息など膨れ上がる一方だった。
そこで高本さんが思いついたのが、船にかけられている5億円の保険金だった。
いっそ船を沈めて、保険金で返済したほうがいい、そう考えたという高本さんは、乗組員や責任者を抱き込むと、昭和61年4月、航海中の船の浸水バルブを故意に開けさせ、沈没させようと試みた。

しかし何も知らない船長が異変にいち早く気づき、バルブを閉めたことで沈没は免れ、計画は失敗に終わる。
ここでお気づきかと思うが、当時この船に乗っていた乗組員全員がこの計画を知っていたわけではなかった。船長ほか三人の乗組員はその計画を全く知らず、バルブが開けられた時点で船長以外の乗組員は就寝中だった。
もしも船長が気づかなければ、何も知らずに寝ていた乗組員らは避難が遅れ、大海原に放り出されていた可能性が高い。人が死んでいた可能性のある企みだったのだ。

計画は失敗したが、高本さんは共犯者らとともに平成2年、艦船覆没未遂罪で起訴された。この裁判の途中で高本さんは死亡したのだが、のちに共犯者らの有罪は確定している。

高本さんは保険金を騙し取ろうとした過去があったことで、ついには自身の命と引き換えにしようと考えたとしても何らおかしくないと判断された。

Aさん

平成9年10月。愛媛県警捜査一課と大洲署は、高本さんと由梨子さんに頼まれて二人を殺害したとして、Aさんを嘱託殺人の疑いで逮捕した。
時効成立が迫る中での、逮捕だった。

民事裁判の時点でも、Aさんの証言には矛盾点が多かった。そもそも、Aさんは長浜港へは釣りをしに行った、と話していたが、高本さんと由梨子さんは長浜町内に食事をしに行くと話していて、釣りをするような服装はおろか、釣り道具すら持っていなかった。
また、なぜ岸壁ギリギリまで車を寄せようとしたのか、という質問には、「寒いので車の中から釣ろうとした」と証言したが、車はセダンタイプの「カムリ」であり、投げ釣りをしようとしていたという証言と合わせて考えると矛盾していた。

この事故の夜、実はこの場にもう一人女性がいた。Aさんの知人だという女性は、その夜釣りに行こうとAさんに誘われたという。
長浜港に到着すると、不意に由梨子さんから、「ジュースを買ってきて欲しい」と頼まれた。女性は少し先にある自動販売機までジュースを買いに行き、戻ってきた時にはすでに車が海に転落していた。

警察では、Aさんがカモフラージュのために事情を知らない第三者をあえて同行させたとし、誤って落ちたこと確実に装うために、由梨子さんが女性を遠ざけたと断定した。

逮捕された段階では、Aさんは容疑を認めていた。
事件後、大きな金がAさんに流れた証拠は出なかったという。だからこそ、民事裁判で偽装事故を疑われても、警察はすぐにAさんを逮捕できなかった。
時効成立が迫る中、事件後飲み歩く頻度が増えたという周囲の証言をもとに、任意でAさんから事情を聞いた。

事故から5年。Aさんはおそらく疲れ果てていた。
「事故で死なないと保険が下りないから、車ごと海に落ちてくれと頼まれた」
Aさんは嘱託殺人を認めた。時効成立まで、1ヶ月を切っていた。

由梨子さん

高本さんは先にも述べたように、10億円を超える借金の他に、自身が犯した艦船覆没未遂罪の結審が迫っており、言葉は悪いがやぶれかぶれ、破産したとしても懲役の可能性もあり、55歳という年齢や家族のことなど精神的に追い込まれていたというのは理解できる。
Aさんに対し、「もし言うことを聞いてくれないのならば、広島のヤクザを差し向けることになる」と脅してまで、自分を事故に見せかけ殺すように迫った。
加えて、裁判の過程で当初由梨子さんがAさんを使って夫を保険金目当てで殺害しようとして失敗していたことが明らかになった。それを知った高本さんに、Aさんは脅されていたのだという。

由梨子さんには1億円の借金があったという。事件の直前には、高本さん同様、それまで自身に掛けていた保険を増額し、1億円以上の受け取り金額を設定していた。

高本さんがいわばやぶれかぶれで命と引き換えに借金の精算を目論んだのはわかる。高本さんの場合は、金だけの問題でもない部分があるからだ。
そう考えると、由梨子さんが死を選択したのも、借金の精算のため「だけ」だったのか。
1億円と聞けば確かに多額ではあるが、破産はできなかったのだろうか。遺された娘のためにと思う気持ちはわからなくないが、43歳、まだまだやり直せる年齢であるし、サラ金から借りたわけのわからない借金とは質も違ったはずだ。
そして何より、偽装事故での保険金詐取など、バレる可能性は高いわけでうまくいかなかったら借金清算どころか、多くの人を巻き込んでしまう。
由梨子さんは、なぜ高本さんとともに死ぬという選択をしたのか。

二人とも、借金の精算が本当の目的ではなかったような気がする。これは私の勝手な妄想なのを断っておくが、二人の目的は「一緒に死ぬこと」だったのではないか。
しかも二人同時に同じ場所でということになれば、二人の関係性が知られてしまうことも間違いないことだ。
その結果というか、せめてもの詫びというか、それが自身に掛けた生命保険金だったのではないか。

二人は事故の直前の11月25日と26日、愛媛県内の宿泊施設に連泊し、そこにAさんならびに由梨子さんのお店の従業員夫妻を招待している。この従業員は、由梨子さんから「後のことを頼みます」と言われていたあの従業員である。

高本さんと由梨子さんによる、頼みの協力者への最期のもてなしそして、最期の念押しだったのか。

正義

高本さんと由梨子さんが画策したことは犯罪行為であり、自分の命と引き換えにであっても、保険会社に損害を与えるわけであり、絶対に許されないのは分かっている。
しかしそれを理解した上でも考えてしまう。
この裁判、この正義はなんだろうと。

事件後、おそらく遺族は分かっていたはずだ、Aさんの役割を。
けれどもAさんを告発もしなければ、告別式で由梨子さんの遺言を持ち出した従業員女性を訝しむことなく、一週間後には100万円を渡している。
警察では事件後羽振りが良くなったAさんについて、保険金から報酬が支払われたのではないかとまで見ていた。ということは、受取人である遺族が渡したことになってしまい、話はもっとややこしくなってしまうのだが、結果としてAさんは嘱託殺人で懲役3年を言い渡された。

高本さんと由梨子さんが願った結末は訪れなかった。莫大な保険金は全ては降りず、遺族らは限定承認相続をした。
Aさんは罪に問われ、家族はそれぞれ大切な人を失った。
けれどたった一つ、高本さんと由梨子さんが一緒に死ぬと決めたこと、それだけは達成された。

美しい人

この裁判があった頃、私は夜の街で働いていた。松山の飲み屋でその名を知らない人はいない某グループの中のとある店。
そこに彼女はいた。

背が高く、腰まで伸びた茶色の髪。抜けるように白い肌を持つその人は、店でも常に人気の人だった。
切長の瞳は捉え所がなく妖しさを放つ一方で、控室では酔って後輩に冗談を言って笑わせるような可愛いところもあった。

客の一人がポツンと言った。

「あいつはああ見えてお母さん保険がらみの事故で亡くしとるからな。傷ついたんや。」

3年ほど一緒に働いたろうか、プライベートの付き合いは一切なかったが、店の中では可愛がってもくれた。
その後、店を辞め数年、大病を患っているという噂があった。

どうしているだろうかと思う。2度と会うことはないけれど。
忘れられないくらい、美しい人だった。

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お断り 
本記事はネット上で公開されている判決文を参考にしていますが、そちらには関係者らの実名(Aさん、死亡した二人のみならず、それぞれの家族や従業員など)が記載されているため、あえてこちらでは記載しません。