放蕩と暴力そして、狂気の沙汰~喜多方・男性殺害死体遺棄事件~

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平成14719日、福島地方裁判所。

殺人の罪に問われた被告人は、最後までその罪を悔いることはなかった。
そればかりか、被告人の口から出たのは「騙された。遺体は見つからないはずだったのに。」という理解しがたい言葉。

判決は求刑懲役12年に対し、懲役9年。
殺人の罪としては比較的軽い刑ではあったが、被告人は「9年は重すぎる」として控訴。
反省のかけらもないこの被告人に対し、平成15325日、仙台高等裁判所はさらに減刑の懲役6年を言い渡した。

報道はここで終わるためにおそらくこの判決が確定したと思われるが、無反省でかつ殺人という罪を犯した被告人にいかほどの事情があったのか。

喜多方の遺体

事件発覚の発端はとある廃村で見つかった遺体だった。
喜多方市内の男性がかつて暮らした住居跡地の農機具などを片付けに来たところ、近くの林になにかがあるのを発見。
近づいてみたところ、地中から人間の足が突き出ていた。
驚いた男性はすぐに110番通報。警察官によって掘り起こされたそれは、男性の腐乱死体だった。
遺体は損傷が激しく、一部白骨化していたことから死後数カ月が経過しているとみられたが、その年齢などは分からなかった。

現場は喜多方の市街地から北東に10キロほど入った山の中で、昭和の終わりに廃村となった村の山林だった。北塩原村との境に位置し、近くには関柴ダムがあり、遺体は林道の行き止まり付近に埋められていた。

状況から男性は何者かに埋められたとみられ、警察では殺人事件も視野に入れて捜査を始めた。
遺体は衣服を身に着けており、靴まで履いていた。紺色と白のチェック柄の上着にズボン姿、黒い革靴で、その上着には「矢内」というネームが刺繍されていたという。

その後の司法解剖から、遺体は1025日から行方が分からなくなっている埼玉県行田市の無職・継田(ままだ)恒雄さん(当時54歳)と判明。当初数カ月経過しているとみられた遺体も死後2週間ほどだったとわかっており、警察では継田さんが行方不明となった直後に殺害されて埋められたとした。
継田さんは後頭部を棒状の鈍器で殴打されており、現場での捜索でそのような凶器が発見されていないことや、血痕、争った痕跡もなかったことから、継田さんは別の場所で殺害されてここまで運ばれてきたとみられた。

上着にあった「矢内」という名前は、その後の調べで継田さんが親しくしていた男性の娘夫婦が引っ越す際に、その娘婿が継田さんに不要になった衣類を数着譲渡しており、その中の一つだったことも判明した。

継田さんは83歳の母親と49歳の弟との3人暮らし。
息子の遺体発見の知らせを受けた母親は、「もともと月に1~2回ふらりと戻ってくるような生活だったが、まさか事件に巻き込まれていたなんて」と驚きと悲しみを隠せない様子だった。

継田さんは当時無職だったが、十数年前には大宮市でラーメン屋を開いたことがあったという。が、商売はうまくいかず半年ほどで閉店。その後は定職に就いていなかった。

そのせいか、継田さんを知る人からは、継田さんが金銭トラブルを抱えていた、という話も聞かれていた。また、継田さんは地元の中学を卒業して以降、刑務所に出たり入ったりの生活を送っていたといい、警察では交友関係を中心に行方不明直前の継田さんの足取りなどを捜査していた。

遺体を埋めた場所が埼玉から遠く離れた福島県だったことなどから、喜多方に土地勘のある人間の可能性を考え捜査していたところ、継田さんの遊び仲間で埼玉県熊谷市に住んでいた男が喜多方市出身であることを突き止める。
そしてその男の行動を調べていたところ、1024日に遺体発見現場近くでこの男の車が目撃されていたこと、さらには男が車のトランクを洗っていたこと、その車の処分を依頼して、レンタカーで逃走していることもわかった。
埼玉県内のスクラップ工場にあった車のトランクからは大量の血痕が発見され、後にそれが継田さんのものと一致したことから、警察は男を全国に指名手配した。
男は1113日に、群馬県高崎市の健康センターにいるところを発見され、事情を聞かれた後に継田さんの遺体を埋めたことを認めたために死体遺棄容疑で逮捕となった。

まさかの展開

逮捕されたのは喜多方市出身で住所不定の元トラック運転手・山岡善廣(仮名/当時36歳)。
山岡は継田さんの弟と知り合った関係で継田家に出入りするようになったといい、その後、服役を終えて出所してきた継田さんとも知り合った。
山岡は調べに対し、継田さんの遺体を運んで埋めたことは認めていて、「全部自分一人でやった」と話していたが、警察は共犯者の存在を疑っていた。

山岡はトラック運転手として働いていたが、平成13年からは定職に就いていない状態だった。継田さんとの付き合いは、先にも述べた通り継田さんの弟と知り合ったのがきっかけであるが、警察は山岡が消費者金融に280万円の借金があるにもかかわらず定職にも就かず、なぜか国産スポーツカーなどを購入し、海外旅行へ出かけていたことなどを疑問視。
金銭トラブルを抱えていたという継田さんのトラブルの相手が実行犯役として山岡に金銭で依頼した可能性もあると見ていた。

そしてそれはズバリ的中していた。
12月に入って、山岡は継田さんの遺体を遺棄する相談を別の人間としていたことを自供。

が、その依頼者を知った捜査関係者らは驚きを隠せなかった。

継田さんの遺体を山林に捨てることを相談した相手は、継田さんの実母だったのだ。

母の苦悩

福島県警喜多方署の捜査本部は、死体遺棄容疑で継田さんの実母・継田ちとせ(仮名/当時83歳)を逮捕した。
ちとせは死体遺棄を認めてはいたが、捜査本部では二人が殺害にも関与しているとみて厳しく追及していた。

わかっていることとしては、殺害された継田さんを山岡が一人で1024日頃にあの喜多方の山林に埋めたこと、遺体を遺棄することはちとせから提案されたということだった。
しかしその後の調べで、ちとせには想像を超える苦悩の人生が続いており、その原因が息子の継田さんにあったこと、そして苦悩の果てに息子の殺害を山岡に1000万円で依頼していたことが分かったのだ。

ちとせは大正8年の生まれ、尋常小学校を卒業したのちは実家の農業を手伝いながら、昭和19年に結婚。夫とともに婚家である継田家を守ってきた。
夫は前妻と死別しており、前妻の子供もいたというが、ちとせはその前妻の子を含む五人の子供を育てていた。
昭和34年、夫が突然の交通事故で死亡した後も、たった一人で農業をしながら子供達を育て上げたという。

継田さんは昭和22年に生まれたが、中学を卒業して以降その素行は悪かったという。母親が一人地に這いつくばって仕事をしていてもそれを助けることもないばかりか、金の無心を繰り返し、成人してからも母親であるちとせを助けようともせず放蕩三昧の日々だった。
継田家は土地を多く所有するもともとの資産家だったが、昭和49年、土地の一部が上越新幹線建設用地として買収される。
その際、土地の名義が亡き夫のままになっていたことから、買収にあたって名義変更する必要に迫られたという。通常ならば、長男である継田さんに名義をかえるところ、素行が悪すぎる継田さんを跡取りとすることはできないと考えたちとせは、継田さんに内緒で次男に名義変更させた。ちなみにこの時、継田さんは服役中だった。

ところが出所した継田さんがその事実を知ってしまう。ちとせは財産を横取りされたと怒り狂う息子を宥めるために、継田さんに言われるがまま、以降金銭を渡すようになる。
それに味をしめた継田さんは、毎日のように飲み歩き、金がなくなれば母親であるちとせに無心を続けた。その額は案の定、次第に大きくなっていき、ちとせはこのままでは継田家の財産が失われると不安になり、無心されても応じないようにした。

すると、継田さんは家の窓ガラスを割ったり、高齢の母親に対して殴る蹴るの暴行を働いたという。一度は農機具の鍬でちとせは頭を殴られた。
家には次男もいたが、荒れ狂う刑務所帰りの酒乱の兄貴に太刀打ちできるような次男ではなかった。ちとせは嫁に行った娘に助けを求めるなどしたが、かといって甘え続けるわけにもいかず、継田さんに怯えながら暮らす日々が何年にもわたって続いたという。

平成12年、継田さんはちとせに対して家を出て行く代わりに3000万円寄越せ、と要求する。ちとせは3000万を手切金と考え、それを受け取ったら継田さんが他所へ行ってくれると約束したため、近隣の土地を売却して3000万円を用意した。
ちとせは平成12年の暮れから正月にかけてその金を継田さんに渡すと、継田さんは約束通り実家を出て行ったという。

ところが、正月気分も抜け切らない、まだ松の内だというのに、なんと継田さんが実家へ舞い戻ってきたのだ。
唖然とするちとせに対し、またこの家で暮らすと言い放った。あの3000万円は、数日で全て使い果たした、とも。

ちとせはもう金は渡せない、しっかり働くようにと言いはしたものの、暴力で向かってこられてはひとたまりもなく、自分を守るために都度金を渡さざるを得なくなってしまった。

他の子供たちも当てにはならなかった。ちとせは、このままでは長男に全てを食い潰されてしまうと危惧するあまり、いっそ長男がいなくなれば、死んでくれれば、と思うようになっていった。

救世主

一方、この継田家の実情を知る人物がいた。それが山岡だった。
山岡は継田さんの弟の遊び仲間だったが、継田家に出入りするようになってから、継田家が市内有数の土地持ちの資産家であることと、どうしようもない放蕩息子がいて母親に暴力を振るって金をせびっているということを知った。

ひどい話だ、と思う反面、息子に言われたからといって3000万円の大金を手切金として用立てられる継田家ならば、上手いこと言えば自分の借金である280万円くらい引っ張れるのではないか、とも思っていた。

そして平成131月のあるとき、ちとせと世間話をする中で、ちとせの口から「あんな倅は自分の倅ではない。どこかへ行って、戻ってこなければいいのに。いっそ死んでくれたって構わない」という言葉が出たのをきっかけに、報酬と引き換えにならば自分が継田さんを殺してやってもいい、と持ちかけた。

ちとせは当然、そんなことをすればまず自分が疑われてしまうからと本気にはしなかったが、山岡から「殺した後は薬品をかけて溶かしてしまえば誰にもわからない」と言われたことで、ちとせの心はざわつき始めた。

このままでは継田の財産どころか、住む家さえ失いかねない。必死で守り続けてきたものが、何もかも奪われてしまう。
あの子さえ死んでくれれば、その心配も無くなるしもう暴力に怯えて暮らさなくてもよくなる……

ちとせの心は決まった。

決行の夜

ちとせは山岡に対し、着手金として報酬のうちの300万円を平成133月頃に手渡した。山岡も、4月に入って継田さんを殺害すべく飲みに誘い出し、泥酔させたのちに場所を変えようと言って継田さんを人気のない場所へ連れて行って絞殺しようと計画していた。

ところが実際に殺害を実行するために飲みに出かけた夜、継田さんは泥酔状態になったはいいがなんと店の客と喧嘩をし始めてしまう。
これではあまりに周囲に印象付けてしまうと考えた山岡はその日の殺害は見送った。

継田さんが生きている以上、残りの700万円をもらうことはできない。サラ金の借金はまだ返せていなかった。着手金としてもらった300万円は、すでに消費して残っていなかった。

一方で山岡は、自分しかちとせには頼る相手がいないのだから、たとえ殺害に及んでいなくてもそれらしい理由をつければ報酬を前払いさせられると考え、ちとせに対して殺害実行を仄めかしては7月までに950万円を受け取っていた。
しかしその金は借金返済や旅行の費用などであっという間になくなってしまった。

ちとせも黙って金を渡し続けるには限界だった。いつまで経っても、あの放蕩息子はやりたい放題ではないか。
もうこれ以上は前払いなどできない。山岡に、息子を殺して持ってこいと迫った。

山岡も、すでに払い受けた950万円は手元になく、残りの金をもらうためには(と言っても、残金は50万円である)継田さんを殺害しなければならないと腹を決め、1022日、23日の両日継田さんと飲みに行く約束をした。
そして、23日の昼頃ちとせを訪ね、「今晩やるよ」と告げた。
ちとせもそれを聞いた上で了承。ここに、継田さん殺害の共謀が成立した。

同日夜7時半頃、継田さんを迎えにやってきた山岡は、その自動車の中に金属バットを乗せていた。ちとせはこれで最期になるかもしれない生きている息子の姿を見送った。

山岡は継田さんを酔わせ、何軒かの店を回った後、「俺の女の家で飲み直そう」と誘い、埼玉県児玉郡上里町内の路上で歩いていた継田さんの背後からその後頭部を思い切り金属バットで殴りつけた。
何度殴ったろうか、動かなくなった継田さんを車のトランクに入れると、車を走らせた。車が向かったのはあの喜多方の山林、ではなかった。

山岡は、継田さんをちとせのもとへと連れていった。そして、母に息子の無惨な遺体を見せ、確実に死んだことを確認させた。

「あとは俺が絶対に見つからないようにやるから」

そう言って、山岡は喜多方の遺棄現場へと向かった。

ちとせは、血まみれの息子の顔をどんな思いで確認したのだろうか。
その後、疑われないように捜索願を出し、ちとせは何食わぬ顔で被害者の母を演じ続けていた。

命乞いした息子と、無情の母

ちとせと山岡はその後殺人の罪でも再逮捕となり、取り調べの中でちとせは息子に対する憎悪を明かしている。

裁判ではちとせが味わった息子である継田さんからの暴力や裏切り行為など同情できる部分はあるとしながらも、かといって命を奪われるほどのいわれはないと非難。
山岡は高齢のちとせにつけ込み、同情を装ってちとせから金をせびり、元勤務先の社長が再雇用してくれるといった際にも、「もっと楽に稼げる方法がある」などと言って真面目に働こうともせずに金のために人を殺害するという利欲的動機に酌むべきものはないとした。

また、実行犯は山岡だとしてもその山岡を1000万円という高額な報酬で雇い、自らの手を汚さずして目的を遂げようとしたちとせの行状についても酌むべきものはないとした。
実は、ちとせが継田さんをどうにかするのではないかと、次男や姪は気づいていた。そのうえで、バカな考えは止めろとちとせを諌めていたという。家族に諌められても、ちとせの考えは変わらないほどに強固な殺意に凝り固まっていたのだ。

継田さんはたしかに傍若無人、放蕩の限りを尽くし、女手一つで育ててくれた母ちとせに恩を感じるどころか金づる程度にしか思っていなかったことは明白で、しかも数日で3000万円を使い切るなど、常軌を逸していた。
そんな継田さんだったが、夜道で突然山岡に殴られた際には、必死で命乞いをしたという。しかし山岡は、個人的な恨みがあるわけでもなかった継田さんのその命乞いを無視し、バットを振り下ろし続けた。
福島地方裁判所は、依頼者はちとせであるものの、当初はそれを渋っており、そのちとせを説得し、実行した点で山岡が主導権を握ったと判断。
山岡に対し懲役12年(求刑懲役15年)を言い渡した。ちとせに対しては、83歳という高齢にも配慮してか、懲役9年(求刑懲役12年)の判決を言い渡した。

83歳のちとせは量刑不当を理由に控訴。仙台高等裁判所は、たしかにちとせの行いは狂気の沙汰であり、その犯行については斟酌すべき点はないとしてものの、その背景には大いに同情する余地があるとした。
金を出さぬなら殺しちまうぞ、そう日ごろから継田さんに脅され、実際に頭を鍬で殴られるという命の危険さえあるケガを負わされ、救急搬送されたこともあった。
頼みの綱の次男は「母親を兄から守る」という大義名分を掲げて仕事を辞め、ちとせから小遣いをもらっては麻雀に明け暮れる毎日。
継田さんが精神的な病気ではないかと保健所に相談したこともあったが、誰もちとせを救い出してはくれなかった。
精神的に限界に達していたちとせの前に表れたのが、山岡だったのだ。

福島地裁が一定の同情の余地があるとしながらも、その背景や山岡に殺害依頼するに至った経緯を含めて酌むべきものがない、としたのは文脈としても齟齬があり、酌むべき事情があったとするべきであって、高齢であることも踏まえ懲役9年の判決は重すぎるとする弁護人の論旨には理由がある、とした。
その上で、ちとせに対し懲役6年の判決を言い渡した。

ちとせはこれを受け入れたとみられる。

高齢の母親が息子を他人に報酬を出して殺害させたという事件は社会にも衝撃を与えた。
ただちとせにしてみれば、自分が逮捕されたこと自体に納得が出来ていなかったようだった。これは老人特有の頑固さというか、致し方ない部分かもしれないが、地裁でのちとせの様子は冒頭の通り、すべて山岡が悪い、自分は騙された、遺体を見つからないように処理すると言ったのにそれをしていなかった、だから自分は逮捕されたと、ちがうちがうそうじゃないでは追い付かないレベルで理解できていなかった。

息子である継田さんへの母親としての憐憫の情は最後まで見られなかったという。

地裁での判決言い渡しの際も、意味が理解できずに騒ぎ、裁判長から諌められる一幕もあった。
事件からすでに20年近く経過し、ちとせは息子の住む世界へ旅立っている可能性が強い。
息子を殺してまで守りたかった継田の家は、今真新しい家々が立ち並ぶ一角となっている。

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参考文献

毎日新聞社 平成13117日、1218日、平成14720日地方版/福島
読売新聞社 平成13117日、9日、1214日、16日、平成14720日、平成1535日、26日東京朝刊
朝日新聞社 平成131216日、26日東京朝刊

平成14719/福島地方裁判所/刑事部/判決/平成14年(わ)3
平成15325/仙台高等裁判所/第一刑事部/判決/平成14年(う)142