親父〜尾鷲市・少年による父親殺害事件〜

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「最近、父ちゃんどうしてる?姿を見んけれど」
不意に声をかけられた少年は、
「父さんは家出したみたいで……家に帰って来んのです」
と答えた。
この借家には少年とその父親が暮らしていた。アル中で仕事もろくにしない近所でもいい評判のないその父親。一家の家計はこの少年が遠洋漁業に出た稼ぎで賄われていた。
どこかで野垂れていなければいいが。そう思いながらも、むしろあの父親はいない方がこの少年にとってはいいのかもしれない、そんな思いを抱きながら住人は少年を見つめた。

しかし父親は実は家にいた。正確には、殺害されて床下に埋められていたのだった。

銀バエのたかる家

昭和58年、三重県尾鷲市のとある借家から大量の銀バエが湧いているという「事件」が起きた。
当時、一般家庭では汲み取り式のトイレも多数残っていたが、それにしてもその銀バエの量は尋常ではなかった。
住民らにはくわえて気になることがあった。その借家に住んでいたはずの男性の行方が数か月前からわからなくなっていたのだ。
ただ、男性は当時16歳の息子と暮らしており、その息子によれば父親が家出したと話しているのを近所の人や親せきは聞いていた。もともと、生活態度が安定していなかった男性ということもあって住民らも心配はしていたものの積極的に捜すといったことはしていなかったようだ。
また男性の息子である16歳の少年は、その時点で遠洋漁船に乗っており連絡がつかない状態になっていた。

住民らは親戚と相談し、警察に通報。借家を捜索したところ、家の中には誰の姿もなかった。しかし、家の中の三畳間と、続きの六畳間の押し入れの中には、血痕らしきものが残されていた。
銀バエはどこから湧いているのか。そして念のために床下を確認したところ、そこには変わり果てた姿の住民男性の姿があった。

警察はその状況と検視の結果から男性は殺害され遺棄されたと断定、そして遠洋漁船に乗っている少年が何らかの事情を知っているとみて漁船の帰港を待った。
昭和58年、ようやく戻ってきた漁船から降りた少年に警察が事情を聞いたところ、少年が父親を殺害して床下に遺棄したことを認めたため、殺人と死体遺棄容疑で逮捕した。
殺害されたのは三重県尾鷲市の無職、山本鶴吉さん(仮名/当時60歳)。逮捕されたのはその長男である16歳の少年。ここでは武男(仮名)と呼ぶ。
その年の6月に行われた武男の審判において、津家庭裁判所の木村烈裁判長は、父親殺しという重罪であるにもかかわらず武男に対し、中等少年院送致の決定を下した。

そこには、武男が父親を殺してしまうに至った壮絶な16年間があった。

家族

武男は昭和40年の生まれ。二つ年下の弟と両親の4人で暮らしていた。
父親の鶴吉さんは漁師や土木工事などの仕事をしていたというが、それが長続きすることはなく家計は苦しかった。
その上に酒好きで、給与を得ても先に酒代につぎ込んでしまい家計にはわずかな金しか入れなかったという。武男の母親は子供たちに食べさせるために実家の母親に援助を頼んで何とか日々をしのいでいた。
鶴吉さんはその上暴力をふるう人間だった。酒が入っていなければ問題はないのだが、酒が入ると途端に暴力的になった。時には殴る蹴るでは飽き足らず刃物を持ち出すこともあったという。
あまりのことに親族が警察に相談。鈴鹿市内の病院に入院させるに至った。そこでアルコール中毒などと診断された鶴吉さんだったが、退院してもその病的な飲酒と暴力行為に歯止めがかかることはなく、妻は武男と弟を連れて実家へと逃げた。
妻と子供たちは妻の実家の物置で半年もの間鶴吉さんから身を隠して生活していたというが、鶴吉さんに連れ戻されてしまった。
鶴吉さんの態度は全く改善されておらず、次第に妻は自殺を考えるほどに追いつめられた。
鶴吉さんは昭和44年に再度入院したが、妻が心の拠り所としていた実家の母親が死亡。心の支えを失った妻は、子供らを置いたまま姿を消してしまった。

残された武男は当時4歳。酒乱の父親はこれより前から幼い兄弟に対しても暴力をふるったり精神的に委縮させるような行動をとっており、武男が小学校へ入学した後は空腹に耐えかねて万引きに走ったりと武男自身にも問題行動が出てくるようになってしまった。
昭和49年、武男は小学校の職員室から、集められた給食費を盗んだことで紀州児童相談所へ通告されてしまった。
しかし問題行動がおさまることはなく、昭和52年、一時的な保護として「天理教三重互助会」に兄弟そろって入所となった。

武男は中学校へ入学し、施設を出た。退院していた鶴吉さんはやはりまったく生活態度や子供らへの接し方を改めておらず、武男に対し木刀で殴るなどの体罰を加えていた。
耐えかねた武男は自ら施設へ戻りたいと助けを求め、児童相談所もこのままでは武男のためによくないとして鶴吉さんに武男を施設に預けるよう説得にあたった。
しかし虐待する親が子供を手放さないのは昔からで、鶴吉さんも武男を手放そうとはしなかった。そればかりか、武男に対して出て行くならば父を殺して出て行けだのと脅し、施設に対しても建物を破損させたりもう手に負える状況ではなくなっていた。

武男の成長

武男は問題行動はありはしたが、その多くは止むに止まれぬ理由があるものであり、子供ながらに精一杯生きようとした結果の行為であることは周囲もよく理解していた。
想像を絶するストレスにさらされながらも、そのはけ口として他人をやみくもに傷つけたり、粗暴な行為はみられなかった。
武男は実によく耐えていた。

そんな武男も次第に成長し、体も大きくなった。それまでは一方的に耐えるだけだったが、時に鶴吉さんに対して反抗することも多くなっていた。

昭和55年、鶴吉さんの暴力から逃れるために家出した武男は、野宿を重ね、自転車窃盗で保護されたことから教護院へ入所。1年後に退所したあと、武男は鶴吉さんにすすめられて遠洋漁船での仕事をするようになった。そこで調理の仕事などを学んだ。途中、上司に厳しく叱られることで嫌気がさしたこともあったというが、それでも二度の航海を完遂し、休暇の際には土産を持って鶴吉さんのもとへと帰った。
鶴吉さんも息子の成長がさすがにうれしかったようで、武男を連れて実家の墓参りに行き、親戚中に武男の成長を自慢していたという。

しかし11月8日に3回目の航海を終えた武男は、突然漁船の仕事を辞めてしまう。理由は上司とそりが合わないことだったようだが、それを知った鶴吉さんは激怒。さんざん武男をなじった挙句、酒を飲みに出かけて行った。さらに帰宅した後も木刀を持ち出したために武男はその晩友人宅へ避難した。
翌日も酒浸りの鶴吉さんから逃れようと友人宅へ行ったものの、鶴吉さんの報復を恐れた友人が武男が宿泊するのに難色を示したため、しかたなく武男は鶴吉さんが寝入るのを待ってこっそりと便所の窓から家に入った。
翌朝、起きだした鶴吉さんは武男を見つけるとまた怒りだし、すぐさま職を探してこいなどと怒鳴った。
武男は尾鷲市の職安に出かけるとすぐに工場での仕事を得た。それを報告するために武男は心配をかけている児童相談所へ立ち寄ったところ、そこには鶴吉さんがいた。
武男が家出したと思っていた鶴吉さんは、武男が仕事を見つけてきたと伝えても許さず、そこではなく元の遠洋漁業の船に乗るよう強く説得してきた。
武男もいやいやながら承諾し、鶴吉さんから明日漁船の会社へ出向いて謝罪するよう約束させられた。

鶴吉さんの怒りは収まっておらず、その夜も「お前の顔など見とうない」などと言って飲みに出かけていったため、武男はひとり自宅でテレビを見て過ごした。
そして夜中に帰宅した鶴吉さんを、武男は殺害することになってしまった。

耐え忍んだ末の憤怒

昭和56年11月13日午前零時すぎ、酔って帰宅した鶴吉さんはいつになくわけのわからないことを言っていた。
寝ていた武男を蹴って起こすと、酒が足りないと言い出したかと思えばステレオをかけろと命じ、その合間には武男が船を降りたことにねちねちと小言を連ねた。
武男は黙って鶴吉さんの口汚い𠮟責を受け止め、ステレオをかけたり消したりを言われるがままに繰り返していた。
その𠮟責は、3時間を超えた。
午前3時、鶴吉さんは武男を正座させた。そして
「教護院に入った奴がほかで働けるものか。われみたいなやつ少年院にぶちこんでやろうか。いつでも少年院にぶち込めるのや」
と武男に言い放った。
武男の堪忍袋の緒は弾け飛んだ。

武男は包丁を持ち出すと鶴吉さんを引き倒し、その左胸を一突きにした。
さらに鶴吉さんに馬乗りになると、もう一度心臓めがけて包丁を突き立てたのだった。
鶴吉さんはその場で死亡した。

武男はその後、鶴吉さんの遺体を六畳間にある押し入れに隠し、数日後には遺体を床下へ隠した。
武男は父・鶴吉さんの遺体を床下に放置したまま、次の航海が始まるまでの2か月その家で生活を続けた。その間、鶴吉さんの不在をいぶかる近隣の人や親せきには冒頭のように家出したと言い繕い、警察で捜索願いも出していた。

アンビバレンツ

津家庭裁判所の木村烈裁判官は、少年の審判において事件の結果の重大性や武男自身に罪悪感があまり見られない点などを踏まえ、検察への逆送致も十分に考えられるとしたが、その一方で、この事件が武男のそれまでの人生が大きく関係していること、事件は武男と鶴吉さんの間でのみ成立するものであったことを「特定の事情」とした。
そして、審判を下すにあたりその「特定の事情」を十分に考慮しなければならないとした。

武男が生まれたのは昭和40年。私が昭和49年生まれであるから、ほぼ同じ時代に同じく子供時代を過ごしたといっていいだろう。
私の覚えている昭和のあの時代は、もはや戦後とは遠い昔のことであるかのように日本中が輝いていた。子供たちには十分な教育、十分な衣食住があり、その差はあれど少なくとも私はリカちゃん人形も持っていたしクリスマスや誕生日にはケーキもあった。
しかし同じ頃武男は、あまりのひもじさに墓の供物を盗んで弟と分けて飢えを凌いでいた。父親に裸でガードレールに縛り付けられたり、大変な暴力にさらされたとはいえ実母にまで置き去りにされたと言ってよく、酒乱で暴力を振るう危険な父親のもとで幼き日々を生き抜く以外になかった。
にもかかわらず、武男は実に耐えた。弟は中学卒業まで施設で暮らしていたことを考えれば、遠洋漁業に出てからは稼ぎもあったわけで、この異常な父親を捨て逃げることも選択肢としてあったはずだ。
それでも武男は父の待つ家に戻った。しかも手土産まで持参して、あの父の家に戻ったのだ。
そこには、非常に複雑な武男の心が見える。
鶴吉さんは酒を飲んでいない時は、時に優しい一面もあったのだという。経験を積んだ大人であればそれは一時の気まぐれで、暴力を振るう男であることが帳消しになどならないのだとわかるが、武男はそれでもその素面の時の鶴吉さんこそが自分の父親である、あってほしいと願っていた。

船から戻って実家に帰った時の鶴吉さんの自慢げな様子に、武男も嬉しかったことだろう。これからは自分も働いて、親父の面倒を見るのだと思ったろう。借家住まいだった鶴吉さんに家を建ててあげたいとも思っていた。
それをぶち壊した原因は鶴吉さんの言動にある。武男は少年院という言葉を心の底から嫌っていて、おそらく鶴吉さんもそれをわかっていた。にもかかわらず、少年院にぶち込んでやると鶴吉さんは言った。
武男にしてみれば、実の父親からそのようなことを言われたことがあまりにもショックだった。そして、かろうじてここまで繋ぎ止めてきた親子の絆を絶たれたような気さえした。
これまで言い返すことはあっても、どれほど殴られ蹴られようとも拳で立ち向かわなかった武男が、人生においてたった一度、鶴吉さんに立ち向かったのがこの事件だった。

家庭裁判所は、中等少年院への送致を決めた。

裁判所とて、闇雲に武男に同情したのではない。何をおいても、どんな事情があろうとも人の命を奪うことは許されない。親戚も施設も幼い頃から武男のことは心配していたし、都度協力もしてくれていた。相談できる人がいなかったわけでもない。虐待に耐えることはある意味その場しのぎでしかなく、先に述べた通り逃げることも可能だった。しかしそれをせず、結果として怒りと憎悪が爆発するに至った、そうせざるを得ないとまで思い込んだ武男の心中は思い遣った。
そこには間違いなく、被害者である父親・鶴吉さんのあまりに異常な子育てが関係しているからだ。

武男に対し、地域の人々は優しかった。そして武男を厳しく叱ることもあった船会社も、武男を再雇用したいと申し出ていたという。
ただ裁判の時点では遠洋漁業の出航日が未定であり、また父と暮らしたあの借家は解約となっており、武男がいますぐ戻れる場所は実はなかった。
そういった事情も踏まえ、武男には情操教育をしっかりと行う必要があるとしての中等少年院送致だった。

裁判所はさらに、仮退所前にも必ず環境調整を行うようにとの思料もつけた。

武男のその後の人生はどうだったか。幸せで今もどこかで生きているだろうか。
武男は鶴吉さんの墓を建てたいと話したという。

参考文献
判決文