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相模原の首吊り遺体
それは、一見よくある首吊り遺体だった。
霊園内の森の散策道にある一本の楢の木からそれはぶら下がっていた。地上約1,3mのところで二股に分かれた枝部分からロープがさがり、木の根元にはロープが重みで緩まないよう、複数回巻きつけられて固定されていた。
遺体は男性、年齢は30代後半から40代といったところか。着衣に乱れはなく、また男性の体格や楢の木の形状などからも、男性が自ら木に登って首を吊ることが可能な状態だった。
ただ、男性の胸には、刃物による傷があった。そして近くには使用されたとみられる刃物も落ちていたのだ。
死にきれなかったときのために、男性が持参したのだろうか?しかし首を吊った状態で遠のく意識の中、自分の胸を複数回深く刺すということが可能なのだろうか。
警察は自殺と事件の両面で捜査を開始、そして7月15日、警察は「霊園内の遺体は息子ではないだろうか」と届け出ていた相模原市内に住む男性から事情を聞いたところ、その男性が息子の自殺を手伝ったという趣旨の話をしたことから男性を殺人容疑で逮捕した。
父と息子
相模原の首つり 「息子を早く楽に」胸刺す 殺人容疑で父親逮捕=神奈川
相模原市磯部の霊園内の森で十一日、胸に刺し傷のある男性がロープで首をつった状態で死亡しているのが見つかった事件で、県警捜査一課と相模原南署は十四日、死亡していた男性の父親で、相模原市新磯野、無職鈴木敦夫容疑者(仮名/71)を殺人容疑で逮捕した。
調べによると、敦夫容疑者は十一日午前六時半ごろ、遺体が見つかった現場で、二男の同所、無職智広さん(39)の胸を包丁で刺すなどして失血死させた疑い。敦夫容疑者が十四日午前九時二十分ごろ、「自分の息子ではないか」と同署に届け出たため、事情を聞いたところ、智広さんを刺したことを認めたという。
「息子が自殺するというので、一緒に現場に行った。苦しんでいるので早く楽にしてやりたかった」と供述しているという。(後略・仮名表記は事件備忘録によるもの)(読売新聞 平成16年7月15日東京朝刊)
逮捕された敦夫は、長年教員として働き副校長の役を終えて退職、その後も町内会の自治会長やボランティア活動などに励み、教員であったことから年金も十分に支給され、ある意味理想的な老後を送っていた。
ただ、ふたりの息子のうち次男である智広さんについては、なにかと気にかかることがあった。
智広さんは商業高校を卒業した後、最初の職場を3年で退職してから、運送や広告業など様々な会社に就職するもなぜか長続きしなかった。昭和63年の夏ごろには心身の不調が顕著となり、仕事に就くことが難しい状況になっていたという。
そこで北里病院で診察を受け、ノイローゼと診断され通院を続けていた。
その後平成11年になってようやく下水道関係の職を得、体調と相談しながら仕事をするようになっていたが、平成15年に誤ってマンホール内に転落、くも膜下出血を起こして半年ほど入院せざるを得なくなった。
智広さんには事故時の記憶の欠落などがあったが、それ以外は精神状態も含めある程度回復できたことから復職した。しかし、医師から車の運転を禁じられていたことなどもあってそれまでよりも業務に携われる範囲が狭くなったことで給与も10万円ほど下がってしまった。智広さんはかなり不満だったようで、以降無断欠勤するようになった。
その後、会社と話し合いを持ち、しばらく休職扱いということで落ち着いたが、結局その後も復職しては無断欠勤を繰り返してしまい、会社から解雇されてしまった。
敦夫は智広さんを心配し、北里病院への通院を再開したうえで、職安で智広さんにも務まるような仕事を探すなどしたという。そればかりか求人をみて敦夫が会社に応募の電話をかけ社長面接にまでこぎつけ、あとは智広さんが面接に行くだけ、という状況をお膳立てしたこともあった。しかし智広さんは元の会社に解雇されたことのショックが抜けきらず、日々飲酒に耽るなど自堕落な生活を送っていた。
そんな智広さんに、次第に敦夫も心配よりも苛立ちが募るようになっていた。
「散歩に行くからな」
仕事もしないままに一日中自室にこもって酒浸りの智広さんを何とかしようと、財布を取り上げ、酒を買えないようにしてみた。時には智広さんの顔を叩くこともあったという。しかしそれでも智広さんは考えを変えようとはせず、日に日に口数も少なくなっていった。
平成16年5月、敦夫は衝撃的な場面を目撃する。
智広さんが自宅の鴨居にロープをかけ、首を吊ろうとしていたのだ。その時は事なきを得たものの、敦夫はそれ以降、智広さんに対し「もう死ぬしかない」「お前は生きている価値がない」といった、自殺をすすめるような発言をするようになった。
ただ、智広さんがその言葉に対して衝動的に自殺しようとするようなことは、見られなかった。
しかし智広さんの生活態度は改まることはなく、もはやこのまま仕事もしないで敦夫に頼りきりの生活になってしまうのではないかと思うほどになっていた。
敦夫の苛立ちも大きくなる一方で、ある時、智広さんが隠し持っていた日本酒を見つけた際には思わず首を絞めてしまう。すぐに我に返ったものの、敦夫には苛立ち以外に絶望感のようなものも湧き、智広さんに対し、「今度酒を勝手に買ったら散歩に行くからな」などというようになった。
散歩に行く、というのは、敦夫と智広さんの間でいうところの、「死にに行く」ということだった。
その朝
平成18年7月11日午前5時。
智広さんはそっと自室を抜け出し、隠し持っていた金で酒を買いに行ったところを敦夫に見咎められた。まだ酒を隠れて飲んでいるのか!と問い詰める敦夫に、智広さんもそれを認めるしかなかった。
5時30分。
「もう、わかっているな。さあ、これから散歩に行くぞ。散歩に行くということがどういうことか、わかっているな。」
敦夫は智広さんに告げた。すると智広さんも、「わかっている」といい、自室から以前自殺未遂をした際に使用したとみられるロープを手に戻ってきた。
さらに智広さんは、台所から包丁も新聞紙にくるんでたずさえていた。
6時30分。
相模原市営の霊園にたどり着いた二人は、手ごろな木を探した。そしてあの楢の木を見つける。
二人で手分けしてロープを木にかけると、敦夫は包丁を智広さんに持たせたうえで、木に登るよう促した。智広さんは楢の木の節に足をかけ、ロープの輪の部分に頭を入れると、そっと木から足を離した。
空中でもがく智広さんは、敦夫に「はやく楽にさせて」と言い、握っていた包丁を差し出してきたという。敦夫は、その包丁で智広さんの胸を刺した。智広さんの死因は、心臓損傷などによる失血死だった。
承諾殺人
検察は殺人として起訴した以外に、予備的訴因として承諾殺人も加えた。検察によれば、智広さんはたしかにその状況や敦夫との体格差を考えても無理矢理首を吊らされたということは考えにくかったものの、そうすることに決めた背景として、敦夫が智広さんに対しあとから自分も死ぬと欺き追死を誤信させたものであるから、殺人罪は成立するという主張だった。
加えて、当時智広さんは事故の影響で思考判断能力が相当低下しており、その生活のすべてを敦夫に依存している状況で、敦夫からいわば一緒に死のう、父さんも後から行くから的なことを持ちかけられればそれを拒絶することは難しかったとした。
しかし裁判所は敦夫に対して承諾殺人を認定。
敦夫の日記には「とうとう二男の自殺を手伝ってしまう」といった記述があり、あくまで敦夫の中には智広さんが死にたがっているという認識であることが認められた。
また、智広さん自身、兄に対して気力、体力が続かないと訴え、かなり落ち込んでいたという事実もあった。
その日の行動、死亡時の客観的な状況などももはや自己の死を受け入れていると思わせるようなものだった。
裁判所は「二男は自己の死を認容し、被告に殺害されることを承諾していたと強くうかがわれる」とし、敦夫に対して懲役4年6月を言い渡した。
死んだ人の気持ち
この承諾殺人というのは非常に難しい判断を求められるものだと思う。
客観的な証拠がどれだけあるかなどである程度は判断できるかもしれないが、この敦夫のケースは個人的にちょっとよくわからない。
たしかに智広さんの日常は自堕落だったし、自殺未遂も事実だ。しかし、自殺未遂の後、敦夫はことさらに智広さんに対し「生きている価値がない」「死ぬしかないよ」などと自死を慫慂するような発言を繰り返している。
もともとうっすらと希死念慮を抱いている人に、そうだよもう死ぬしかないよなどと言い続けるのは、危険ではないのか。
ましてや、迷惑をかけまくっている親に言われたら。
智広さんは、実は仕事をしたくなかったわけではなかった。下水道会社を解雇された後、なんとかその会社にもう一度雇ってほしいと願い、何度も電話を掛けていたという。
現実的に考えて、会社も無断欠勤などを大目に見てきた経緯もあるため、その会社が智広さんの再雇用を受け入れなかったことはいたし方なかろう。
敦夫は智広さんの希望を知りながら、親としての現実的な判断として別の就職口を斡旋していたわけだが、なかなか心の整理がつかなかった智広さんの気持ちもわからなくはない。
敦夫とて、智広さんを叱咤したのはいずれ先に自分がいなくなってしまうことを考えてのことであり、決して智広さんがいなくなればいいなどとは思っていなかった。
当時妻とは離別だったか死別だったかは不明だが、智広さんのことのみならず家の中のこともすべて敦夫がこなしていた。教員だった敦夫は、性格としても曲がったことが嫌いな性格だったという。
そんな敦夫の献身に、智広さんは最期まで向き合おうとしなかったのも事実だ。
けれどやはり思う。智広さんは本当に「死にたかった」のかな、と。「死ぬしかないと諦めた」のではなかったのか。
父と息子は、どんな会話を道中交わしたのか。
ロープを結わえ終えたあと、敦夫と智広さんはふたりでタバコを吸ったという。初夏の、早朝の公園の散歩道、ふたりの目にその深い緑はどう映っていたのだろう。
敦夫は智広さんを殺害した後、大量の血を流している息子の亡骸をおろしてやることもせず、人目に晒されることをわかっていながらその場を離れた。そして当初、警察に対して自分の関与を隠蔽するかのような虚偽の供述もしていた。
智広さんは、これで良かったと思ったのだろうか。
岐阜の夫婦と、愛人の産んだ子
「そんなこと言ったって奥さん、あんたの亭主の子どもでしょうが」
昭和62年1月の終わり。岐阜県加茂郡八百津町の民家で、その家の夫婦を前に捲し立てる人の姿があった。その人の腕には、生まれたばかりの赤ん坊。
その赤ん坊を前に、夫婦は戸惑うばかりだった。
「とにかくあんたの子なんだから。育ててくださいよ」
ちょっと待ってくれと慌てる夫婦を尻目に、その人は赤ん坊を押し付けるとさっさとその家を後にした。
「なんなのよこれ。どうするのよ。」
怒り心頭の妻に対し、夫は狼狽え、頭を抱えていた。
この赤ん坊は、夫と愛人の間に生まれた生後2日の女の子だった。
夫婦の2年
夫婦の間にどんな会話があったか。その後の夫婦がとった行動は、あまりに残酷なものだった。
その夜、人目を忍んで夫婦は赤ん坊を神社の境内に置き去りにした。父親が誰かなんてわからない。勝手に押し付けられてこっちだって迷惑してるんだ。死んだって自分たちのせいじゃない。
いや、死んでもらわなければ困るのだ。
ところが赤ん坊は3時間経っても真冬の寒さに耐えていた。さっさと死んでくれると思っていたのが、赤ん坊の生きる力は思いのほか強かった。
夫は妻が止めるのも聞かず赤ん坊を連れ帰ると、腹をくくった。そして嫌がる妻を説き伏せてその赤ん坊の首を絞めた。
これで赤ん坊をどこかに埋めるか捨てるかすれば、誰にも見つからない……
しかし赤ん坊といってももしも動物に掘り返されたらすぐにわかってしまう。そこで夫は、なんと我が子の遺体を包丁で切断したのだ。妻にも手伝わせたという。
そして細かくわからないようにした遺体を、同じ町内にある菩提寺の実家の墓近くに埋めた。墓地を選んだのは、弔いの気持ちが少なからずあったからか、それとも墓地ならたとえ骨が出たって不思議じゃないとでもいう感覚だったのか。
最初はいつバレるかと気が気ではなかった。が、一か月が過ぎ、半年が過ぎ、1年が過ぎても誰も赤ん坊のことなど気づかなかったし、骨が出ることもなかった。
しかし3年後。
突如終わりは訪れた。
愛人が訪ねてきたのだ。
狂気
松本清張の名作「鬼畜」。
岩下志麻と緒形拳主演で映画化もされたが、あちらは愛人の子を手段を問わず始末しろと迫るに妻より、衰弱死(病死)し、あるいは置き去りにされ、さらには崖から突き落とされるも一命を取り留めた子どもの心の叫びと、人の心をわずかに残していた父親の場面で終わる。
しかし現実は、自分たちの生活を守ることしか考えられない、孫がいてもおかしくないような年齢の夫婦による生後2日の赤ん坊を殺害し切り刻んで埋めるという、作り話でも避けて通りたいようなものだった。
当初の報道では、妻が嫉妬に駆られ殺害した、と思わせるような報道もあったが、岐阜地裁の佐藤寿一裁判長は、「何の罪もないえい児を殺し、妻に半ば無理やり手伝わせた責任は重大」として夫に懲役4年を言い渡した。妻には、いやいやでも結果として犯罪行為に加担したとして懲役2年6月を言い渡している。
赤ん坊を殺して以降、夫婦はどんな生活を送っていたのか。夫婦に子供がいたかどうかも分からないが、2年も音沙汰なしだった愛人が突然訪ねてきた日、愛人は「預けた子どもはどうなっているのか」と聞いたという。
この愛人もどうかしているとはいえ、それでも当時は産後の肥立ちが悪かったとか事情もあったかもしれない。自分の手で育てようにも、それを許さない事情があったかもしれないし、子供の父親に我が子を託す、というのもその状況を度外視すれば筋は通っている。
ただその父親は、ひとではなかった。
守口のマンションの消火器
それは運が悪かったで済まされるものなのか。
何気ない日常の中で起きた、突然の死。交通事故も、そのほとんどは起こそうと思って、ましてやその人を狙って悪意を持って起こしたものではないだろう。
それでも、人は死ぬ。
守口市内のマンション敷地内で起きたその事故も、大きく分ければたまたまそこを通りがかったために遭遇した事故だった。
しかし、その結末には被害者遺族のみならず社会全体が言葉をなくしてしまうような行為が隠されていた。
突然の死
平成7年11月4日の午後、守口市の19階建マンションの敷地内を歩いてマンションに入ろうとしていた女児が、落下してきた消火器の直撃を受け死亡した。
死亡したのはそのマンションに暮らす小学3年生、藤谷和美さん(当時9歳)。和美さんはマンションの別棟の友達宅で開かれていたパーティーに出席、その後、まだ来ていなかった友達を呼びに別の棟へ向かって友達と歩いていたところだった。
このマンションには踊り場などに消火器が設置されており、通常は壁に据え付けられていたというが、その性質上誰でも取り外すことは可能な状態だった。落ちてきた消火器は17階と18階にあったものとも判明。しかも、落ちてきた消火器は合計3本。和美さんを直撃したのは2本目で、その直後にもすぐそばにもう1本落ちてきたという。
和美さんがいた場所はマンションの入り口近くで、消火器は放り投げられたというよりもベランダから真下に落とされた、という感じだった。
警察は、前後の状況や消火器が据え付けられていた位置などから誰かが故意に落下させたとして殺人容疑で捜査を開始した。
まさかの犯人
マンションは複数の棟が敷地内にあり、約1000の世帯が入居していたという。また、マンションの敷地内への部外者の出入りも自由で、中庭にはアスレチック広場もあることから住人ではない人や、中高生らがたむろしていることもよく見かけられていた。
さらに調べを進めると、このマンションでは消火器以外にも三輪車や傘立てなどが落下してきたことがこれまでにもあったのだという。幸い、そのいずれも下に人はおらず、大事には至らなかったが、人的被害がなかったことからマンション内での周知が徹底されていなかった。
一応、マンション内で張り紙などによる注意喚起は行われたというが、それ以降もビンなどが落ちてくるといった出来事が複数回あった。
警察に相談した住民もいたようだが、とうとう人の命が奪われてしまうという事態になってしまった。
犯人は一体何が目的なのか。こうして人の命を無差別に奪うことが目的だったのだとしたら、そんな恐ろしい人間が野放しで今も自由にこのマンションの敷地内を何食わぬ顔でうろついているということか。しかもその犯人は、部外者であるとも限らず、もしかしたら普段にこやかに挨拶を交わす住民かも知れず、一刻も早い犯人逮捕が待たれた。
その住民らの不安に応えるかのように、事件から2日後の11月6日、警察は和美ちゃんに消火器が当たった際、その消火器が落とされたであろう真上の9階付近にいた人物を特定、任意で話を聞いていると発表した。
ただ、その事情を聞かれていたのは、小学校低学年の男児だった。
運が悪かったで済ませたくない
犯人は不審者でも、狂った思考を持つ殺人者でもなかった。詳細を伏せられているものの、おそらくそのマンションのいずれか、もしくは近くに住んでいるのであろう10歳以下の男児二人だった。
実は事件直後、複数の住人がベランダから下を覗き込むこの男児の姿を見ていた。別の住民は、逃げるように走り去る2人を目撃していたし、そもそもこの男児らはそれより前にも廊下の目隠しパネルなどを蹴って住民から注意されていたという。
消火器の落下状況もベランダの手すりは約1.3mで、男児らの身長と合わせて考えると、男児らが消火器を持ち上げて手すりを越えさせ、そのまま惰性で落下させたと見ればほぼ真下に落下した説明もつく。
そして、その状況だと男児らは真下に和美さんらがいるというのが見えていなかったという可能性もあった。
また、和美さんに直撃した後にも消火器が落とされてはいるが、直後だったということから、もしかするとほとんど時間をおかず、和美さんにあたるより前にすでに3本目が男児らの手を離れていた可能性もある。
そしてなにより、男児らに殺意はおろか、誰かを傷つけようなどという意思もなく、さらに言えば、高所から物を落とすとどうなるか、そしてもしもそれが下を歩く人に当たったらどうなるかということが全くわかっていなかった。
両親立会いのもと、警察に事情を聞かれた男児のうち1人は、自分が消火器を外したと認めたが、元の場所に戻したという。それを再度取り外し、実際に落としたのは自分ではないと訴えた。落としたとされる男児の話は、調べた範囲では報道されていない。
男児らは小学校低学年ということで、12歳以下であることは間違いなく、少年法では罪に問えない。児童相談所への通告などはあったとはいえ、彼らに法律が罰を与えることはできなかった。
和美さんの両親は、「運が悪いと言われる方もいらっしゃいますが、私たちはそう言ってほしくありません」と、やり場のない怒りと悲しみを打ち明けた。
成長としつけ
この事件は結果として「子供のいたずら」だったことで、通常ならその後繰り広げられる加害者に対する報道はなくなり、代わりに事件は防げたのではないかというものへとシフトしていった。
そもそも論として、先にも述べたが消火器が落とされるよりも前に傘立てや三輪車などが落とされるという事態があったのだから、なぜもっと真剣に対策や注意喚起などを行えなかったのか、というものがあった。
落とされたものは全て、マンションの玄関前の廊下に置いてあるようなものばかりで、かつ、「子供でも持ち上げることができる」ものばかりだった。
不審者がどうとかいう以前に、まずは子供のいたずらの可能性を考え、子供のいる世帯に対しての注意喚起をすべきだったかもしれない。
一方で、このようないたずらが出来てしまうマンションの構造事態を批判する声もあった。マンションの出入り口付近など、上から物が落ちてくる可能性がある場所には防護ネットや低木を密集させクッションの役割にするなどの防護措置が十分になされていないという指摘もあった。それらは法律で「設けなければならない」とはなっていないものもあるが、だからといってしないというのでは危機意識に欠けるのではないか、と、マンション問題研究会代表の先田政弘氏は当時の読売新聞の取材の際に苦言を呈している。
しかしやはり社会全体が改めて考えなければならなかったのは、この時代の子供の「経験不足」「想像力の無さ」と「親のしつけ」の問題だった。
私は昭和の田舎で育ったので、子供の頃から年上、年下の子供に混じって遊んだ。その中で、年上の子から教えられ、それを年下の子に教え、守るというような構図が自然とあったように思う。
高いところからものを落とす、というのも当然経験している。しかしそれは、2階から夜店で買った水入りのヨーヨー風船を落としてみるとか、そのレベルから始めるのだ。それで少しずつ「感覚」を知ることで、やっていい範囲とこれ以上はダメだというその限界、境界が知らず知らずに身につくのだ。
トンボの羽を何も考えずにむしった後、飛べなくなってもがくトンボの姿に恐れをなした。自分はなんて酷いことをしたんだろうと考えることで、小さな命について考えた。子供の成長に、自然は「ある程度は」寛容である。その身を犠牲にして、教えてくれるのだ。
しかしその度が過ぎた時には、時に手痛いしっぺ返しを喰らうがそれも成長には大切な経験である。
それが、都会の子達にはなかなか機会として恵まれなくなっていた。
さらに、親のしつけの問題を取り上げる声もあった。
高いところから物を落としてはいけません、ではなく、そもそも「他人の物を勝手に触らない」というしつけが出来ていないというものだ。
これはまさにそうで、いろんなしつけがあるなかで、人様のものに触るな、というのは全ての事柄に通じる大切なしつけである。これが身についていれば、物だけでなく他人の体を、命を尊重するということにもつながる。
一方でそういったしつけをなされていない子は、そこに置いてあるから、簡単に取り外せるから触る、おもちゃにする、傷つける、盗む、そして殺すというそれぞれの壁が異様に低い。これは真理だと思っている。
男児らは共用の廊下や踊り場でいたずらをしているのを何度も目撃され、注意されていた。しかしおそらく親からそのしつけをなされていなかったために、男児らにその注意は響かなかった。大人をナメていたというのもあるだろう。
水風船を2階から落とす経験もないままに、子供には誰しもあって不思議ではない好奇心が、水風船の代わりに消火器、2階からではなく慣れ親しんだ高層マンションに結びついてしまった。
最近でも熊本市の13階建てマンションから泥団子を落とし、下にいた男性の頭部に大怪我を負わせるという事件があった。これもおそらく落とした子供に傷つけてやろうという思いはなかったろう、しかし当たったら面白いな、という気持ちは、事件後に現場検証を行う警察官や被害者に水をかけるなどのいたずらをしていることからも、あったかもしれない。が、繰り返すが大怪我をするなどとは思わなかっただろう。
そこに殺意がなかったのは間違いない。けれど、なんの落ち度もない人の命が奪われたのも事実。
叱られることのない子、なんでも先回りされ経験を積めない子、些細な失敗すらもさせてもらえない子。初めての失敗が、人の命を奪うことになってしまっては、誰も救われない。
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参考文献
読売新聞 平成5年11月3日中部朝刊、平成7年11月6日東京夕刊、11月27日東京朝刊、平成16年7月14日、15日、平成17年3月11日、4月8日東京朝刊
中日新聞 平成2年7月6日朝刊、平成5年8月25日、11月3日朝刊岐阜版
産経新聞 平成7年11月5日、7日東京朝刊
毎日新聞 平成7年11月10日東京朝刊社説、平成7年11月27日大阪朝刊
朝日新聞 平成7年11月27日東京朝刊社説