つむじ風にさせられた殺人~京都・17歳ピストル魔3人殺傷事件~

この記事を転載あるいは参考にしたりリライトして利用された場合の利用料金は無料配信記事一律50,000円、有料配信記事は100,000円~です。あとから削除されても利用料金は発生いたします。
但し、条件によって無料でご利用いただけますのでこちらを参考になさるか、jikencase1112@gmail.comまで連絡ください
**********

 

平成8年11月28日、京都地方裁判所。

「主文、被告人は無罪」

この日、京都地裁は48歳の無職の男性に無罪判決を言い渡した。
男性は殺人などの罪で起訴されていたが、冤罪ではなかった。確実に、一人を殺害、二人に重傷を負わせる大事件を起こしていたのだ。
にもかかわらず、男性は無罪となった。
しかも事件が起き、逮捕されたのは昭和41年、起訴され裁判もすでに4回行われていた。
昭和45年以降、男性の裁判は公判停止となっていたのだ。

第一の事件

昭和41年2月13日夕方。
「行ってくるわ」
京都市東山区の一ノ瀬巡査派出所で、谷口重三巡査(当時51歳)はそういっていつもの夕刻の車の交通整理へと向かった。
谷口巡査が向かったのは、九条陸橋下。ここは立体交差のようになっていて、さしずめ小型のインターチェンジといった風で、夕刻になれば多くの車で混雑するため、ここでの交通整理は日課のようになっていた。

谷口巡査がやってきたのは、八百屋と電話ボックスがあるだけの、やや薄暗いスペース。八百屋には買い物客らの姿も見えた。
目の前をひっきりなしに通る車の列。谷口巡査は事故が起こらないよう車の動向を注意していた。

ふと、車の列の隙間から人がすり抜けてきたのが見えたような気がした。そして次の瞬間、谷口巡査はその場に倒れ込んだ。

同じ頃、タクシー運転手の李さん(当時31歳)は、九条陸橋の下の電話ボックスの横で、いつものお巡りさんが交通整理をしているのを横目に、客を拾うために流していた。
すぐそこで客を拾うと、Uターンしてまたあの電話ボックス前に差し掛かった。さっきまでいたお巡りさんの姿がない。
通り過ぎようとした時、李さんは倒れ込んでいる谷口巡査を発見、慌ててタクシーをおり、谷口巡査に駆け寄った。
血塗れで動けない谷口巡査は、必死の形相で李さんにこう告げた。

「110番してくれ、拳銃を奪われた」

第二の事件

同日午後6時45分、東寺町通河原町西入ルの集合住宅1階では、表に面した四畳半間で山村小夜子さん(当時31歳)が夫とともに夕餉を囲もうとしていた。
その時、突然窓ガラスが開き、男が飛び込んできたという。呆気にとられる小夜子さんに向け、約2mという至近距離から拳銃を発射。
爆発したような大きな音がしたといい、2階にいた同居女性も駆け降りてきた。
小夜子さんは胸に弾を受けており、呆然とする夫の元へ這うようににじり寄ったところで、力尽きた。

大きな音に悲鳴、細い路地の住宅街は騒然となった。畳は血の海と化し、飛び出してきた近隣の人々は、さっきまで元気でいた小夜子さんの変わり果てた姿に驚愕した。

小夜子さんを撃ったのは誰で、一体どこからきてどこへ行ったのか。

小夜子さんも夫も、その犯人を見ていた。そして、その人物がどこの誰なのかも、わかっていた。

小夜子さんを殺害した犯人は、なんと同じ住宅の隣の部屋に住む少年だったのだ。

第三の事件

小夜子さん銃撃事件からわずか10分後、小夜子さん宅から西へ300m離れた室町通りの住宅にその少年は現れた。
この住宅は路地に5軒が向かい合わせに建っていて、どの家もその時間は在宅で風呂に入ったり夕食を取るなど、日曜のゆったりとした時間を過ごしていた。

そのうちの一軒に暮らす大工の妻は、その時風呂に入っていた。すると、バーンという大きな音が聞こえたため風呂場の窓から外を見たという。
彼女が見たのは、別の家から右手に黒いものを持った若い男が逃走していく姿だった。
その後、その家の主人が血相を変えて大工の家にやってきて、そこから110番通報を行ったという。
何事か要領を掴めない大工とその妻だったが、すぐにやってきたパトカーが、その男性の妻を抱き抱えるようにして乗せていったのを見て、只事ではないと悟った。妻は明らかに大怪我をしているようだったからだ。

この時点で、3つの事件の関係性は皆が知っているわけではなかったが、理由はどうあれ若い男が拳銃を手にしてしかも発砲し、怪我人が出ていることはわかっていた。
消防団は手製の防弾チョッキなど着込み、逃げた男の行方を警察とともに追った。

撃たれたのはこの家の主婦、藤原君子さん(当時47歳)。弾は肝臓を貫通しており、重篤な状態が続いていたが、一命を取り留めた。
きみ子さんの夫は報道と警察に対し、怒りと困惑の色を隠せないままこう証言していた。

「犯人は、私の姉の長男に当たります。」

実名報道

事件が起きた翌日の地元京都新聞は、「おことわり」とした上で、少年の実名と顔写真の公表に踏み切っていた。
少年といえども、警察官を襲って拳銃を奪い、それを使って短時間の間に二人の女性に発砲し一人を殺害、未だ逃げているということ、そして、その拳銃には3発の実弾が残っていたからだった。
少年の身柄確保を最優先に考えたとして、顔写真も名前もわからないようでは一般市民からの通報どころか、身の安全も保証できないということだったのだと思われる。

最初の被害者で、拳銃を奪われた谷口巡査の体の傷は深かった。しかしそれ以上に、警察官として絶対にあってはならない、拳銃を奪われるという事態に谷口巡査本人もそしてその妻も、重い責任を感じていた。
谷口巡査の妻(当時38歳)は、事件直後の夫の容態も良くない中で、報道各社に対して「お詫び」の言葉を寄せていた。

「(主人からは)第一線のことだから、何事が起こっても慌てないように、と言われていたので(主人が刺されたことは)覚悟はできていました。市民の皆さんを守る仕事をしているものが、拳銃をとられ多くの人に迷惑をかけて申し訳ないと思います。主人も病床で、拳銃を取られたことを非常に気にしています。」

谷口巡査は警ら中、車の隙間から出てきた少年に突然刃物で刺された。その傷は脊髄に達していたといい、再起を危ぶむ声もあった。しかしその中でも、自身の不手際を恥じ、何よりも市民を不安にさせたことを本人のみならずその妻も詫びた。
もちろん、当時の人々も皆、谷口巡査を案じる人ばかりで、無神経なことを言う人は表立ってはいなかったが、警察内部からすれば内心は別としても対外的には不祥事の一つと言わざるを得なかったのかもしれない。

とにかく、少年の行方を追うことが何よりも優先された。

17歳の狂気

当初公開されたのは、まだあどけなさの残る中学時代の少年の写真だった。丸顔で、学生服姿のその写真からは、後にこのような大事件を起こす様子は見受けられない。
しかし、当時を知る人々によれば、この少年については不安を感じていたという。

中学時代は、一人でいることが多かった。のけ者と言うより、自分から外れている、そんな印象だったという。
もちろん、そんな調子だから集団生活にはなじめなかった。ただ成績は悪くなかったといい、特に理科については好成績を残していた。
中学卒業後はいったん就職はしたがすぐに退職、その後はぶらぶらと無為徒食の日々を送っていた。無職の身でありながら、金はあればあるだけ使ってしまうこともあり、またこのころからうまくいかないことがあると睡眠薬をがぶ飲みして自殺未遂のようなことをするようになっていた。

両親はそんな少年を心配し、事件の前年に病院に入院させているが、そこでの状態は悪くなかった。鬱のような症状は見せていたというが、秋ごろには回復の兆しを見せていたため、家族の希望もあって退院。自宅で静養する日々を送っていたが、昭和41年になってからは再び、自殺未遂をするようになった。
とはいえ、いずれも死には至らない程度の「自殺するそぶり」でしかなかったというが、それでもやはり家族は心配し、もう一度入院させるべく手続きをとっている最中に、事件が起きてしまった。

一方で、少年がなぜ、小夜子さんと君子さんを襲ったのかはわからないままだった。第一の事件である谷口巡査を襲撃したのは、拳銃を奪うためだったとして、それを使う予定があるからこそ、谷口巡査を襲ったのであり、順序としては小夜子さんらへの襲撃が予定としてあったということになる。
二人ともがそれぞれ見知った、いや、親しい間柄と言っていいほどの人々であったことも、その動機をわからなくしていた。
先にも述べたとおり、君子さんは少年から見れば血縁ではないものの、義理のおばさんに当たる人間である。君子さんの夫も、訳が分からないといった風にこう証言した。
「君子は今日の夕方も、(少年に対し)元気にしてるか?と声をかけてきたというのに。撃たれるようなふしは何もない」
そう証言した一方で、こうも話していた。
「おかしいというのはわかっていたので、私たちはもう一度病院に入れたら、という相談をしていたのを、本人が気にして逆恨みしたのだろうか。」
第二の事件で殺害された小夜子さんの夫もこう憤った。
「小夜子はあの子をかわいがっていた。飼い犬に手を噛まれたような気持ちだ。なにをするかわからんということは分かっていたのだし、それを放置していた親も悪いが、それにしても小夜子が恨まれるようなことをした覚えもないし、さっぱりわからない…」

小夜子さんには子供がいたが、事件の時はたまたま家を空けており、事件を目撃することはなかった。

事件の翌日には、少年は全国に指名手配となり、西宮や大阪からは目撃情報なども多数寄せられていた。
そして、第三の事件現場の近くの溝から、少年のものと思われる学生服や血がついた手袋が発見されたが、依然として少年の行方はつかめていなかった。

そんな中、京都新聞本社に手記が届けられた。
それは、少年の母親からのものだった。

自分の息子が、人様の、しかも世話になっていたはずの隣人の命を奪ったという受け入れがたい現実を前に、少年の両親は憔悴しきっていた。
市職員の父親は、早い段階で被害者と世間に詫び、息子の逮捕を願っていた。
そして、少年が全国に指名手配となった2月14日、捜査本部に呼ばれた両親はその苦しい胸の内を明かしていた。
そして、母は京都新聞社あてにいまだ行方の分からない息子にあてて、母の思いの丈をつづった。

「〇、〇、お母ちゃやで。もう此れいぢう(以上)、人様にめいわくをかけないでおくれ。一分も早く此の母の所えかえって下さい。〇、父ちゃん、〇(兄弟)もまって居る。どうぞこれ以上皆様にめいわくをかけないでおくれたのむ。母が手を合わせたのむ。かえってきておくれ。〇え。まつて居る 母より」

また、捜査本部の置かれた九条警察署署長室において、少年の母親がその顔も隠さず、なんと記者会見に応じた。
当時40歳の母親は、花模様の青い割烹着タイプのエプロンをしたまま。昨晩の夕食の支度をしていた時から、全く同じ格好での記者会見だった。
フラッシュが次々にたかれても、母親は顔を背けることなく、その取材に応じた。
「みなさん、おさわがせしてすみません。母はあの子の罪の償いのためにはどんなことも致します。」
小声ながらはっきりと、母は言い、そして深々と頭を下げた。

母はその後、おそらく警察の求めに応じ、逃げている息子に聞かせる目的で呼びかけるような言葉をつづった。

「〇よ、母の気持ちをどうしてわかってくれないの。父も母も〇(兄弟)もみんなちゃんとおまえを寝ないで待っているんや。おまえどこにいるのや。この母の気持ちがどうしてわからん。〇、戻ってくれ。」

最後は涙声だった。しかし、泣き崩れることなく、それでも母は呼びかけを続けたという。この母親の態度には、当時のマスコミもさすがに言葉をなくしていた。
母は「なんでもします」という言葉通り、その後もパトカーに乗り、マイクで逃げる息子に呼びかけ続けた。
京都新聞は、「誰が見ても立派な母の態度」という言葉を添えた。

そんな母の願いが通じたのか、2月15日の夕方、少年逮捕の一報が母に届いた。

変化する風向き

京都市内を恐怖のどん底に叩き落とした少年による拳銃強奪そして三人殺傷という大事件だったが、終止符を打ったのは田辺署の巡査だった。
少年の行方を追うため、非常警戒に当たろうと交番を出た矢先だった。
その日の昼間、同僚とこんな話をしていたという。
「ここは少年が入院していた病院が近いから、今日あたり来るかもしれないよ」
何気ない会話だったが、交番を出た巡査の目の前に、一人の若い男の姿があった。もう、直感だったという。全身でその男があの少年だと直感した。
「君は…〇…」そう言いかけた巡査に対し、少年は「〇です」と名乗った。そのあとのことはあまり記憶にないという。
とにかく拳銃が心配だった。少年に近づきそのズボンに手を差しこんだところ、冷たくごつごつしたものが手に触れた。咄嗟に抜き取ると、それはまさに谷口巡査から奪ったあの拳銃だった。
大声で同僚を呼び、交番に少年を連れ込んだ。覚えてないが、手錠もいつのタイミングかでかけていたという。

肝心の拳銃の中身はどうだったのか。幸いなことに実弾は残り3発そのまま残っていた。
少年逮捕の一報は、入院中の谷口巡査にも伝えられた。寝ずの看病を続ける妻と共にその一方を聞いた谷口巡査は、うん、うん、というように頷いていた。妻の目には安どの涙が光っていた。
もうひとり、少年に撃たれ重傷を負っていた君子さんにもその知らせは届いた。
実は君子さんは、少年に殺害されかけたというのに、その少年の行方を案じていたのだという。あまりに心配するものだから、周囲の人が「もうつかまっているよ」と嘘を伝え、落ち着かせるほどだった。
病院も君子さんを案じ、同室の入院患者らにも口止めをし、テレビラジオも禁じる徹底ぶり。それほどまでに、君子さんは少年の身を案じていたのだ。

少年が逮捕されたこと、被害者が顔見知りや親族だったことに加え、君子さんらが少年を案じていたことなどから、それまで恐怖に震えていた市民らは今度は少年の身を案じ始めた。
なにより、あの母の叫びがことのほか人々の心を打った。
母は息子が逮捕されたと知ると、安堵するとともにこうも言っていた。

「亡くなった方になんとお詫びしたらよいか。息子に人を撃つ度胸があるなら、なぜ、自分の死で責任をとらなかったか。情けない。」
さらにこう続けた。
「ただ、わたくしが生んだ子であり、ひと目あいたい。あの子一人で背負いきれない罪なら私も背負ってやりたい気持ちです。山村さんの通夜にも行きたいが…」
先にも述べたとおり、少年の家と亡くなった小夜子さんの家はいわゆる長屋のような感じで一つ屋根の下だった。そのため、家の前の路地には多くの人々が集まっていたという(さすがに小夜子さんの家族は遺体とともに親戚方へ移っていたのだが)。
そこでこんな声が飛んだ。

「あの子の母親の気持ちを考えたら、犯人を憎む気にはなれへん。今度の事件は”つむじ風”みたいなもんや。どうしてあんな恐ろしいことが起きたのか。少年たちを育てる社会も反省せなあかん。明日からは事件のことは忘れて再出発や!」

正気か、といいたくなるような言葉ではあるが、京都新聞がこれだけを強調して伝えているということはやはり、この時点でこのような空気が主流だったのだと思われる。

今回の事件はつむじ風……。そんな空気を、殺害された小夜子さんの家族も感じていたのかもしれない。
親戚宅に身を寄せた夫と子供たちは、この理不尽な悲しみと怒りの中で必死に耐えていた。
「第四の犠牲者が出なかったことはよかった。これで妻も浮かばれるでしょう。けれど、あれほど妻が(少年に対し)親切にしていただけに……」
夫はそう絞り出すのがやっとだった。
小夜子さんは心臓と肺を銃弾が貫通していた。ほぼ、即死だった。

動機と裁判、そして

逮捕された少年は、その罪の重さを感じているのかわかっていないのか、取り調べにもはきはき答え、時には笑顔も見せていたという。
警察で出されたかやく飯の弁当をおいしそうに平らげ、取り調べが終わった午後10時過ぎに独房に入ると、毛布をひっかぶって寝てしまった。
その後行われた警察の記者会見では、少年の動機が明かされた。
当初、拳銃を奪う計画ではなかったのだという。しかし、小夜子さんと君子さんを殺すつもりではいた。そのため、以前勤めていた会社に忍び込んで肉切り包丁を持ち出していた。
その道中、たまたま谷口巡査を見かけ、拳銃でやる方が殺しやすいと考え、谷口巡査を襲ったと話したという。

しかしなぜ、親切だった小夜子さんと、いまもなお気にかけてくれている君子さんを殺すほど憎んだのか。

「白眼視された」

少年はそう答えた。
小夜子さんは確かに親切に少年に接していた。家も一つ屋根の下、いつも顔を合わせるたびに、小夜子さんは少年を心配し、様子を気にかけていた。
しかしそれは、少年からすれば「馬鹿にした態度、見下した態度」に見えていたというのだ。加えて、共同の炊事場で会うたびに、大きな物音をたてられるのが癇に障っていたと話した。
一方の君子さんは。少年は、君子さんが少年の母親と口論しているのを目撃しており、それで君子さんに憎しみを抱いたと話した。
「ふと、君子さんも殺そうと思った」
ふと思い立って、おばを殺そうと思ったというのだ。どこか、殺すための理由付けに母親との口論を持ち出した印象すらある。

当初から言われていたことだが、おそらく少年は小夜子さんにも君子さんにも親切にされていた。ところが、そんなふたりがどうやら自分を入院させたがっていると気付いたことで、裏切られたような気持になった部分もあるのではないか。

検察は、少年の精神状態を踏まえたうえで殺人と殺人未遂で起訴したが、その裁判は昭和45年の第4回公判を最後に停止した。

少年が、統合失調症と判断され、心神喪失で裁判の維持が難しくなったからだった。

以降、少年の状態は一進一退、国選弁護人は解任され裁判が再開される見込みは立たず、気づけば26年の歳月が経っていた。
そして平成8年11月、京都地裁は裁判を再開、求刑懲役13年に対し、「被告人は犯行当時心神喪失だった」として、無罪判決を言い渡した。
弁護側が主張していた「迅速な裁判を受ける権利が侵害されたことによる免訴」の主張は退けられた。

藤田清臣裁判長は、「本件は公判が停止するまでに証拠調べを終えており、長期の中断で被告が重大な不利益を受けたとは言い難い。本人の犯行であることは紛れもないが、犯行当時心神喪失で、刑事責任は問えない。」とした。
免訴については、「被告の病状は一進一退で、最終的に公判を打ち切る状態には至らなかった」とし、最後に「今も遺族の心の傷は癒されない。日本の刑事裁判史上、空前絶後の長期裁判となり、関係者の冥福を祈りたい」と話した。

京都地検は上級庁と相談の上適切な対応をとるとしたが、その後控訴したという情報がないためこのまま確定したと思われる。

つむじ風

平成に入って、無差別、通り魔的な犯行、そして精神的な問題が関係する可能性があるケースにも死刑判決を辞さないという流れになってきていた。
精神鑑定の進歩や社会の考え方によるところも大きいだろうが、それで言うと昭和はいい意味でも悪い意味でも社会は、世間は感情的だったように思う。

このサイトでも取り上げた、隣人訴訟などを見てもそうだが、被害者、加害者に対する世間の感情は必ずしも一貫していない。そして時にそういった世間の感情論は、人が公正な裁判を受ける権利すら、侵害する。

この京都の少年拳銃殺傷事件は、当初から精神的な問題があることは分かっていた。それについて、当初は世間も「放置していた親の責任」「狂人を野放しにした」などという声があったものが、ある時を境にガラリと流れを変えた。
母の、涙の訴えである。
この母親の捨て身ともいえる行動は、確かに人々の心を打った。だれしも望んで精神を病むわけではない。この両親とて、子を思えばこそ、入院もさせ、親の目の届くところに置いていたのではないのか。
同じような場面を見たことがある。あの、秋葉原の無差別殺傷事件の加藤死刑囚の両親の記者会見である。
自宅の前で顔を晒した両親。気丈にふるまう父親の隣で、顔をあげられなかった母親は会見の途中でその場に崩れ落ちた。
何とも痛々しい限りだったが、因縁のある相手を殺害、あるいは被害者に落ち度があるわけでもないこのケースにおいては、そもそも同情できる状況にはなかった。
また、その後明らかとなった様々なこの両親、特に母親の加藤への接し方などが猛烈な批判を浴びた。
もしも今の時代、京都の少年の母親のような捨て身の行動があったとして、世間は同情するだろうか。

かえって叩かれて終わりな気がするが、事件の性質(虐待事件や新生児遺棄など)によっては加害者に同情する人々は今の世もいるので何とも言えないが……

加害者の関係者が公開土下座することは、人々の胸を打つ一方で被害者遺族にとってはどうだろうか。
恨んでも恨み切れないほどの怒り、悲しみの中で、加害者の家族が土下座して詫びる。本人たちは責務だと感じてマスコミの取材もうけ、ひたすら謝罪の言葉を連ねたとして、被害者遺族は癒されるものだろうか。
むしろ、妙な圧力になったりはしないのだろうかと思う。許さないでいるのも辛いことだろうが、「許さなければならない」ような状況もまた、大変辛いことではないかとも思うのだ。

許す許さないは被害者のみがそのすべての決定権を持っていて、誰かに指図されるようなものではない。たとえ刑期を終えても、冤罪以外で無罪(心神喪失あるいは疑わしきは罰せず的な)となったとしても、被害者が許さないと言えば、許されていないのだ。
しかし時に、この京都の事件の時のように、あたかも社会が悪い、本人や家族はかわいそう、責める気になれない、などという人がいる。数年経っていうならまだしも、京都の事件は事件の2日後である。2日後ですでに世間の一部で事件は、妻が母が殺害された事件は「つむじ風みたいなもん」になり、「明日から忘れて再出発」と言われたら、言うたそいつを踏んづけてやりたいと思ってしまう。

加害者の家族からは何の謝罪も音沙汰もないのは論外としても、加害者側があまりに一方的に出過ぎるのはなんとも言えない後味の悪さみたいなものを感じる。

少年は逮捕直後の取り調べにおいては、「すまないことをした」ということも言っていた。少年が心を病んだのは、本当はいつだったのだろう。

***************

参考文献

京都新聞 昭和41年2月14、15日、平成8年11月28日朝刊、夕刊
読売新聞社 平成8年11月28日大阪夕刊

折原臨也リサーチエージェンシー