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昭和63年5月24日午前9時
文京区小日向の営団地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅ホーム。
ふらふらと中年女性がホームに歩いてきた。
その視線は虚ろだったが、どこか目的を持ってその場にやってきた、そんな印象だった。
通勤ラッシュが終わった時間、それでも電車のを待つ人は多く、その多くの人は女性のことなど気にもしていなかった。
電車が入ってくるアナウンスが流れる。荷物を持つ人、歩き出す人の合間を縫って、女性はそのまま電車に飛び込んだ。
もう一つの事件
茗荷谷駅で電車に飛び込んだ女性は、全身打撲に加え複数の骨折を負ったものの、幸いにも一命は取り留めた。
飛び込んだ電車が停車のために速度を落としていたことも幸いした。
所持品から女性は、文京区小石川在住の56歳の主婦と判明。
その確認を取るため、富坂署員が女性の自宅を訪れたところ、なんと2階の四畳半の寝室で若い女性が死亡しているのを発見した。
調べによると、家の中で死亡していたのはこの家の長女・初江さん(当時22歳)。初江さんは首にひものようなもので絞められた跡があった。
この家には、初江さんと両親、兄、父方の祖母が暮らしており、警察官が訪ねた際は初江さんの死亡に誰も気付いていなかったという。
その後、茗荷谷駅に飛び込んだのは初江さんの母親である春(当時56歳)と確認された。
一命は取り留めたものの大怪我を負っていた母親からは、話が聞ける状態ではなかった。
しかし、状況から春が初江さんを殺害した直後、電車に飛び込んで自殺を図ったという見方が自然だった。
初江さんは婚約中で、近々結婚する予定があった。春も、それをことさらに喜んでいたというが、家族らの話によればここのところ春は悩みを抱えているようにも見えたという。
母と娘、そしてこの家族に何が起きていたのか。
母親のそれまで
春は昭和7年、埼玉県埼玉郡太田村(現在の行田市)で両親と4人姉妹の次女(さらに弟ひとり)として生まれた。
地元の尋常小学校を出た後、2年間親せきの家に奉公に行き、子守や農業手伝いを覚えたあと実家へと戻り、その後は近くの縫製工場で働いていた。
春は縫製の仕事が好きで、また腕も良かったためずっと働きたいと思っていたというが、時代も時代、二十歳をこえれば多くの女性は結婚するもの、といった風潮もあり、事実周囲の友人たちは皆結婚し仕事をやめていったという。
結果、親元にいづらくなった春は、親が持ってきた見合いの話を、気乗りしないまま受けてしまう。
見合いした半年後には挙式となり、その後長男を身ごもったことで晴れて入籍となった(後述あり)。
しかしこの時代、嫁という立場はどこでも非常に低いのはよくある話で、春は嫁ぎ先である夫の実家である現住所において、夫の両親、義弟二人との生活を余儀なくされる。
家事育児の全てを春がになってはいたものの、家計は姑がその全権を握っており、自由になることはほぼなかった。食事の用意をしても、春だけは同席できなかったり、外出も制限された。なにもかも、姑の許可が必要だった。
子供が生まれようが、家族は特に喜ぶ風もないばかりか、病気になっても病院へすら連れて行ってもらえないこともあったという。
いつまでたっても春は他人のままで、結婚生活は春にとって苦痛以外のなにものでもなかった。
離婚も考えたことはあったというが、そうそう簡単にできる時代でもなく、子供たちにとってもそれは良くないと考えていた春は、子供たちの成長ただそれだけを心の支え、喜びとして日々淡々と姑や夫に尽くしていた。
完全同居の家の中で、子供たちが生まれて以降は2階部分が春夫婦と子供の生活場所、1階が舅と姑の場所、となっていたが、昭和54年に舅が亡くなった後、なぜか夫が1階の姑の部屋で生活するようになる。
寝起きまで共にしたというから、もはや春と夫の間ではほとんど顔を合わすことも会話もなくなっていた。
そんな春にとって、長女の初江さんは唯一、話ができる相手だった。
まだ10代だった初江さんと一緒の部屋で寝て、初江さんもまた、母親である春には何でも話してくれていた。
そんな初江さんが、23歳になったころ。
かねてより自分のような不幸な結婚だけはしてほしくない、初江さんにだけは、幸せになってもらいたいと願っていたところへ、初江さんに交際相手ができたという嬉しい話を聞いた。
しかも相手は警察官。職業も申し分なかった。
さらに、63年4月には、どうやら二人が結婚を前提に交際していることも分かった。
5月3日、初江さんが交際相手を春に初めて会わせてくれた。交際相手は凛々しく、かつ、その言葉遣いや表情、しぐさなどどれをとっても思いやりと優しさに裏打ちされたものであり、春はこの上なく感動した。
この人なら、娘は必ず幸せになれる。春はわがことのように心から喜んだという。
話はとんとん拍子に進み、結納は9月、挙式は翌年の1月と決まった。
しかしこの春の唯一の喜びは、初江さん自身によって打ち砕かれることとなる。
まさか娘に限って
一方、初江さんの結婚話について、春以外の家族は非常に冷淡だった。
義母は何か言うことはなかったものの、かといって喜ぶ風でもなかった。夫は、娘の結婚であるにもかかわらず、相手のことを聞くことも、父親にありがちな「娘は渡さん!!」的な憤慨もなく、ただ「花嫁修業の一つもやってない、飯すらろくに炊けないものが10年早い」とあしらうだけだった。
娘の結婚にさえ、このような反応しか示さない夫や義母に失望した春は、ならば自分だけでもこの娘の結婚を応援し、なんとしてでも娘を幸せにしなければ、と強く思うようになった。
ところが。
5月15日頃、初江さんは衝撃の告白をする。
「私、彼の後輩を好きになっちゃったみたい」
はぁ?!である。4月には、結婚するかも、とあんなに喜び、つい10日ほど前には日比谷公園であの彼に会わせてもくれた。そして結納や挙式の日取りが決まったと、幸せそうだったあれはいったい何だったのか。
春でなくとも、この初江さんの心変わりには驚いて当たり前だろう。
狼狽した春は、このままでは彼に対して酷い裏切り行為になってしまう、あまりに身勝手ではないか、と思い悩み、同時に初江さんに対してふつふつと怒りも沸いていた。
その思いは初江さんにとっては非常にしつこく映ってしまう。何度も説得にかかる春を、次第に初江さんは遠ざけるようになり、何か言おうものなら「うるさいな!」と怒ったり、不貞腐れるようになってしまった。
日が過ぎるごとに、当初はなにがなんでも予定通り結婚させなくてはと思っていた春も、頑なな初江さんの態度を見るにつけ、
「いっそ結婚話はなかったことにしたほうがお互い良いのではないか」
と考え、それを初江さんに話してみたという。
しかし、初江さんの答えは
「もう決まったことなんだから、このまま彼と結婚する」
というもので、それはどこか投げやりにも聞こえた。
春はふと、自分のこれまでを思い起こしてみた。
親の言うまま、流されるままにしたこの結婚は、最初から気乗りしなかった。
案の定、そんな結婚生活がうまくいくはずもなく、私はずっと寂しかった。
娘もこのままでは、同じような道を歩んでしまう……
普通ならばこんなことが起これば、夫に相談し、経験深く思慮のある姑の話を聞くこともできたかもしれない。
しかし春に、そんな家族は初江さん以外にいなかった。
そして今、たった一人の心を許せる家族だった初江さんも、失おうとしていた。
その日
5月23日夜、同居する26歳の長男は、寝ようと思ってふと妹と母親の春が寝る2階の四畳半間をのぞいた。
すると、すでに横になって寝ているであろう妹を、背後から無言で見つめている母親の姿があったという。
春は、この時間いつもならすでに布団だけはきちんと敷いて寝る準備をしているはずなのに、その夜は布団も敷かず、畳の上にしゃがみこんでずっと初江さんを見つめていた。
その様子に、長男はなんとなく声をかけそびれた。
5月の中旬に初江さんから他に好きな人ができたという話を聞かされて以降、春の様子は傍目から見てもおかしかった。
ずっと楽しみに続けていた、縫製の仕事仲間と出かける旅行を、春はこの年キャンセルしたという。
かと思えば「やっぱり行く」といってみたり、再び行くのをやめると言い出すなど、周囲は不審に思っていた。
パートに出ていた職場でも、突然八つ当たりしたり、有り得ないようなミスをしたり、誰とも口を利かなくなるなど、明らかに精神状態が不安定な面が見られた。
心配した同僚が21日、話を聞いたところ、初江さんの件を涙ながらに告白し、その際には
「いっそ死んでしまいたい」
と吐露するまでになっていた。
24日午前8時半、眠れぬ夜を過ごした春は、布団の中で考えていた。初江さんはすでに起きだし、テレビをつけ寝ている春に背中を向けて何か用事をしていた。
春は起きだすと、そのまま廊下を挟んだ向かいの長男の部屋へ入ると、そこにあった電気のコード(長男は趣味か仕事で電気製品を扱っていたようで、コード類がたくさんあった)を取ると、部屋に戻り、テレビの音量を上げた。
そして、初江さんの背後からその首に電気コードを巻き付け、絞めあげたのだった。
「初江も苦しんでいる。このまま好きでもない人と結婚しても辛いだけ。幸せになんてなれない。ならば死んだほうがいい。親子で死ねば、彼にも申し訳が立つ」
その思いと覚悟は本物だった。
初江さんを殺害した後、春もまた、駅で電車に飛び込んだ。
あわれというほかなし
事故で重傷を負った春は、その回復を待って起訴された。取り調べを受けられるまでに回復したとはいえ、裁判が行われた時も歩行障害が残り、さらに裁判が行われたのは3年後であり、事件から5年経ってもその後遺症は全く回復の兆しがないほど重いケガだった。
春はなぜ、初江さんと無理心中しなければならないという思いにとらわれてしまったのか。
裁判では春自身の知能がいわゆるグレーゾーンにあったこと、当初から恵まれない結婚生活だったことなどが、その要因になったとされた。
心神耗弱とまでは言えないものの、犯行直前には友人に希死念慮を吐露していることや、ぼうっと座り込んでいつもと違う無気力な様子が家庭でみられたことも、春の精神状態が極限に追い込まれていたことを表していた、とも認めた。
しかしながらすでに成人した娘を道連れにし、娘が別人格であることも忘れまさに母子一体、自身の勝手な思い込みで勝手に絶望し、勝手に申し訳なく思った挙句の犯行であるとして、強く批難されなければならないとし、懲役3年の判決を言い渡したが、その刑は5年間の執行猶予が与えられた。
春は見合いをし、挙式までしたが入籍はされていなかった。入籍を果たしたのは、長男を身籠ってからである。
これは、昔から日本のどこででもあったという風習のひとつで、「嫁して三年、子なきは去れ」というあの言葉のそのまんまの意味である。
また、子供が出来ようが出来まいが、嫁ぎ先の水に合わない嫁は返すこともあり、その際、入籍してしまったら籍が汚れるため、しばらく様子を見て大丈夫と判断してから入籍、という意味合いもあった。
当然だが、大丈夫かどうかを判断するのは嫁ではなく、嫁ぎ先である(女系の場合で男性が婿入りする場合も同様、男女差というより、入籍する側が立場が下、という感じ)。
この時代は、子供が生まれて戸籍が出来た後に、母親(嫁)が嫁ぎ先に入籍ということも珍しくなく、中には男の子が生まれるまで入籍してもらえないこともあった。
昭和10年ころまでに生まれた女性の間では、挙式から半年程度で入籍、ましてや子供もできていないうちに入籍になるのはレアだったとする話もある。
子供が出来たと言っても、妊娠どころか陣痛が来ても入籍は出来ず、しっかり生まれてから、さらにはたとえ男児でも一人ではダメで、ふたり生まれて初めて嫁と認められるという話も普通にあった。
春の場合も、まさにこの子供(長男)が生まれたことで初めて入籍を許されたという結婚だった。
夫は、春のことを「後妻」と呼んでいたという。詳しい話はないが、もしかしたら夫は死別か離別した前妻、もしくは、子なきで去った女性がいたと思われる。
最初から、愛もクソもなかった結婚だった。
だからこそ、娘にだけは、愛する人と幸せな人生を送ってほしかった。それがかなわないとなればそれは、死んだほうがマシといえるくらい不幸なことなのだと、春は自分が身に沁みてわかっていた。
しかし、自分と娘は全く別人格、ということは分かっていなかった。
裁判所は、春の罪は非常に重いとしながらも、現在も苦しい後遺症が残っていることや、冷たい家庭において唯一心の支えだった最愛の娘を自ら殺さねばならないとまで思い詰めたその心情は、まことにもってあわれというほかない、とした。
そして、今となっては自身の浅はかさを認識し、反省しているのがうかがえること、なにより初江さんの死を深く悲しんで、悔悟しているのは春自身であるとし、その刑の執行を猶予した。
初江さんの結婚に何の興味も示さなかった父親と義母(長男は情報なし)は、おそらく初江さんの死にも、あまり興味を示さなかったのだろう。当然、春の長年にわたる苦悩や悲しみ、寂しさにも、興味はなかった。
体に障害を抱え、春は執行猶予になったとはいえこの後どうやって生きていったのだろうか。
二度と幸せを感じられなかったとしてもせめて静かに初江さんを思う人生であったことを願う。
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参考文献
読売新聞社 昭和63年5月25日 東京朝刊
平成4年2月6日/東京地方裁判所/刑事第3部/判決
平成2年(合わ)268号
D1-Law 第一法規法情報総合データベース