悲しい嘘と置き去りの被害者~加古川刑務官乳児誘拐事件~

この記事を転載あるいは参考にしたりリライトして利用された場合の利用料金は無料配信記事一律50,000円、有料配信記事は100,000円~です。あとから削除されても利用料金は発生いたします。
但し、条件によって無料でご利用いただけますのでこちらを参考になさるか、jikencase1112@gmail.comまで連絡ください
**********

 

平成3年6月5日早朝

「おはようございますー、鳥取県警です」

兵庫県加古川市。市内の集合住宅に、なぜか鳥取県警の刑事らの姿があった。彼らはその住宅から出てきた男に声をかけた。
一瞬たじろいだかに見えた男だったが、すぐさま何かを観念したかのように俯き、なにごとかを捜査員らと話した後、捜査員とともに覆面パトカーに乗り込んだ。

男の自宅の玄関ドアを開けると、部屋の中には寝ぼけ眼の妻の姿、そして、その傍らにはすやすやと眠る赤ちゃんの姿があった。
妻は捜査員らを見ると、「赤ちゃんを返してあげてください…」そう言って泣き崩れた。

事件概要

それは突然のことだった。
平成5年4月30日午前3時半。鳥取市内のとある産院の授乳室に、白いマスクで顔を隠した男が押し入ってくるやいなや消火器を噴射。あたりは消火器の粉で真っ白になった。

騒ぎを聞きつけた看護師らが授乳室に飛び込んできたが、その日8人いたはずの赤ん坊が7人しか見当たらなかった。
パニック状態の中、どうやら消火器をぶちまけた男が赤ちゃんの一人を連れ去ったのではないかということで、医院は警察に通報した。

連れ去られたのは、花岡義彦さん(仮名/当時26歳)の長男。生後4日目で、まだ名前も正式にはついていなかった。
鳥取県警捜査本部は、300人体制で医院周辺の検問や聞き込みを続けたが、有力な情報はこの時点ではなかった。

へその緒が付いたままの赤ちゃんが心配される一方で、身代金の要求もないことから、営利目的ではなく赤ちゃんそのものが目的だった可能性も出ていた。
花岡さんらも、それを受けて犯人に対しメッセージを出した。
「赤ん坊を奪った人はきっと子供好きなのだろうから、一刻も早く赤ん坊を返してほしい。ミルクを与えて、大事にしてくれていると信じている」

しかし、家族らの願いも空しく、事件から10日経っても2週間経っても、赤ちゃんの行方はつかめていなかった。

不審な男女

犯人は男で、20代から40代の丸顔、身長は170センチ程度というくらいしかわかっていなかった。こんな男は山ほどいて、捜査本部は頭を抱えた。
しかし5月1日、新たな情報が寄せられた。
医院から2キロほどの場所にあるジャスコ鳥取店のベビー用品売り場で、不自然な買い物をした女がいたというのだ。
女は急いでいて、新生児用の肌着やよだれかけを購入していたが、もうひとつ、「おむつを一枚」購入していたという。
その買い物の仕方に違和感を覚えた店員が情報を寄せたのだった。

捜査本部では、かねてより赤ちゃんの世話をする「女性」の存在があるのではないかとみており、この女の目撃情報から探ったほうが早いのでは、ということで女の特徴を公表した。
女は160センチくらいのがっしりした体格でうりざね顔、後ろ髪だけ伸ばした「オオカミカット」のヘアスタイルだった。

医院側もこの情報を受けて、思い出したことがあった。
犯行前日の4月29日、待合室で長時間ひそひそと会話していた男女がいたというのだ。二人は母親らの親族や友人でもなく、男のほうは授乳室へ通じる階段を何度も行き来していたという。
一緒にいた女がまさに、公表された女の特徴と似ていたのだ。

また、5月3日になって、公表された女と特徴が似た人物が、別の産婦人科医院からタクシーに乗っていたことも分かった。「キタムラ」と名乗ったという女は、JR鳥取駅前の産婦人科医院から乗車し、1キロほど離れた吉方温泉で降りたという。

さらに、倉吉市のJR倉吉駅前の産婦人科では、不審な男が犯行前日にその産婦人科の裏口を開けようとしていたのを目撃されていた。

これらのことから、捜査本部では身代金目的の誘拐ではなく、赤ちゃん欲しさの犯行と断定した。

難航

不審な男女の目撃情報が出たものの、その後の情報提供はさっぱりだった。
単に見知らぬ女性が粉ミルクを買ったというだけの情報や、急いでベビー用品を買っただけの客なども不審者として寄せられる始末で、捜査本部も情報の取捨選択に追われた。
結果的に、新しい情報は皆無だった。

赤ちゃんをさらわれた花岡さん夫妻は、赤ちゃんに「試練に耐えてほしい」という願いを込めて、「琢磨」と名付け、写真をおくるみでくるんで添い寝する毎日だった。
母親の瑞江さんは憔悴しきっており、母乳の出も吸ってくれる赤ちゃんがいないことからどんどん悪くなっていた。
それでも、きっと犯人は子供好きな人に違いない、大切にしてくれているに違いないと信じ、ただただ返してくださいと、平身低頭訴えるしかなかった。

いわば赤ちゃんを人質にされているも同然、怒りを表明など出来なかった。

全国からは花岡夫妻に激励の手紙が殺到したという。それらにも励まされながら、花岡夫妻は琢磨ちゃんをその手に取り戻せぬまま、退院していった。

焦りの色が濃くなる中、捜査本部は縮小される。
しかし、事態は急転した。それはあの不審な男女の目撃情報ではなく、「不審な車」の情報だった。

姫路ナンバー

「事件の前日、マークⅡに乗った男女が宿泊した」

聞き込みのさなか、鳥取市内のラブホテルから寄せられた情報が、犯人への手掛かりとなった。
さらに、そのマークⅡに乗った男女が、事件発生直後に別のホテルに赤ちゃん連れで宿泊したという情報も得ていた。

捜査本部では事件発生直後から、県外ナンバーの車の動向を調査しており、数百人を洗った結果、そのマークⅡが姫路ナンバーであることを確認。所有者の動向を探った。

所有者は兵庫県加古川市在住の男。鳥取県警は早速加古川市に不審な出生届がないかの確認を急いだ。
すると、4月25日生まれと届けられた出生届の父親と、そのマークⅡの所有者とが一致したのだ。
すぐさまそこに記載された大阪市内の産院に問い合わせると、「その日に出産は扱っていない」との返答が来た。

捜査本部は6月4日の昼過ぎ、三木市役所前でそのマークⅡを発見、自宅を突き止めるために尾行した。
運転していた男を確認し、そのまま逮捕準備に入ると、翌日の5日早朝、男の自宅を捜索し冒頭の通り、琢磨ちゃんを発見したのだった。

捜査員らは安堵するとともに、その男が暮らす集合住宅を見て驚いていた。
そこは加古川刑務所の刑務官舎。男は、加古川刑務所の刑務官だったのだ。

完璧な偽装

逮捕されたのは清水俊博(仮名/当時29歳)と、妻の裕子(仮名/当時33歳)。裕子は俊博の同僚刑務官の姉だった。

ふたりの逮捕を知って、加古川刑務所は大騒ぎだった。
誰もがふたりに赤ちゃんが生まれることを信じて疑っておらず、先日にはお祝い金まで渡していたからだ。
清水は勤務態度もまじめ、実家の隣にあった自宅と官舎を行き来する生活をしていたという。

裕子はお腹を大きく見せるよう偽装していた。それはあまりにも自然なふくらみだったといい、不審に思った人はいなかった。

偽装の念の入れようは、それまで経営していたスナックを閉めたほどだった。妊婦がそんな場所で働くのはおかしい、と言われたくなかったからなのか。

4月24日には、裕子の弟である同僚刑務官の元を訪れ、「今から病院へ行く」とあいさつしたという。「姉のおなかも膨らんでいたので何とも疑わなかった…」とはこの弟の言葉である。

刑務所にも年次休暇の申請をし、5月5日まで休暇をとっていたという。

清水夫妻を知る近所の人らも驚きを隠せないでいた。3月下旬には、大きなおなかを抱えた裕子を複数の人が見ていたし、夫の実家の周辺でも、裕子の妊娠、出産はみんなが信じていた。

「大阪大学病院で出産した」
そう語ったという清水夫妻は、その後夫の実家へ行き、近所の人らからもお祝いされていたという。
俊博の父親が赤ちゃんをあやしながら、「うちの孫やねん、男の子や」と言って嬉しそうにしている姿を多くの人が微笑ましく、そして心から良かったと感じていた。

俊博の両親はお宮参りの準備を嬉々として行い、着物を作ってやるんだと話していた。

清水夫妻も、同僚や周囲の人らにこう話していた。

「結婚6年目で、ようやく恵まれました」

悲しい動機

清水夫妻が結婚したのは昭和62年のこと。
その後、一度は妊娠したというが流産という悲しい結果に終わった。
その後、俊博が片方の睾丸摘出の手術を受けたり、裕子自身も卵管閉塞で自然妊娠は難しい状態だったという。
不妊治療を試みたものの、あまりに高額なその費用がネックとなって途中でやめてしまった。

それでも子供が欲しい、その気持ちは夫婦ともに消えていなかった。

里親制度も当然知っていたし、養子縁組も頭にはあり、一度は親せきの子供をもらおうか、という話もあったという。
しかしふたりは「実子」にこだわった。

それに加えて、双方の実家の圧力もあった。裕子の高齢の祖父はひ孫の顔を見たがったという。
気が付けは裕子は33歳になり、高齢出産の文字が見える年齢になっていた。

平成5年の8月、裕子は実家との会話の中で、思わず「子どもができたかも」と言ってしまった。
なぜそんなことを言ったのか、しかし大喜びする周囲に、間違いだったとは言えなくなっていく。
病床の祖父はことのほか喜んだ。

夫の俊博はどう思っていたのか。妻が嘘をついたことはわかっていたはずだ。
特別養子縁組制度が5年前に始まっていたが、その詳細を知ったのは、「子どもができた」と口走った後のことだった。
急いで特別養子縁組制度を調べたが、手続等にかかる時間は、嘘の出産予定日に間に合わなかった。

3月になって、いよいよ出産予定日が間近に迫ったことで夫婦の焦りはどうにもならないものになった。
4月25日、俊博は実家の父との電話の中で、思わず「赤ちゃんが生まれた、男の子やで」と言ってしまう。
もう、あとにはひけなかった。

赤ちゃん探しの旅

刑務所に休みの届けを出した後、ふたりは車で岡山、広島、鳥取などをめぐって、産婦人科を物色し続けた。
倉吉市の産婦人科で目撃された不審者も、俊博だった。

しかしそう簡単に実行できるわけもなく、鳥取のその医院に目を付けた後も悩んでいたという。

何度も下見をし、事件当日病院についた後も1時間近く悩んだ。
午前3時、とりあえず正面入り口のドアを開けてみた。この時ここが閉まっていたら、犯行は出来なかった。
しかしその日は急患があったことで、正面玄関のカギは開いていたのだ。

俊博は消火器を手に、下見しておいた授乳室へと向かった。
その後の行動は先述の通りである。

ふたりは赤ちゃんをさらって逃げ、俊博の実家へと向かった。そこでは待ちわびる俊博の両親らがおり、しばらくそこで生活していたという。
その後、5月10日に加古川市役所にニセの出生届を出した。産婦人科の印鑑は偽造した。
赤ちゃんの名前は「怜良(れいら)」。刑務所にも忘れず扶養届を提出していた。

俊博の実家ではお披露目もされ、近所の人らも祝福に駆け付けた。
ただその時、出産経験のある女性らは、「出産直後やのに、奥さんあんなに動き回って大丈夫かいな」と言い合っていた。裕子は嬉しさのあまり、いつもよりもいろいろと動き回っていたようだった。

その後、裕子の実家へも赤ちゃんを連れて里帰りした。
実はこの宮崎への帰省は、絶対に成し遂げたいことだった。裕子の祖父に、赤ちゃんを抱かせてやりたい、これは裕子の悲願だった。
宮崎に帰って数日後、祖父は息を引き取った。
俊博と裕子はそのまま赤ちゃんを連れて祖父の葬儀にも出席、仕事がある俊博が先に加古川へ戻り、裕子はしばらく宮崎にとどまった。
が、赤ちゃんに会いたいという俊博の言葉で、6月4日に加古川へ戻っていた。

そして翌日、逮捕となった。

置き去りの被害者

犯人が逮捕され、赤ちゃんが無事花岡さん夫妻の元に戻ると、世間の人々もホッと胸をなでおろした。
しかし、清水夫妻の犯行動機が明るみになると、とたんに世間の流れが変わった。

同じように不妊で悩む人々から、「気持ちはわかる」と言ったある種同情のようなものが寄せられ始めたのだ。
当時の新聞の投書欄にも、清水夫妻への同情や、子供を持つ人々の無意識の無神経さ、恵まれていることに気付いていないなどと言った批判めいたものも寄せられていた。

それまで当事者間だけで共有されていた不妊の悩みが、この事件で爆発的に世間で共有されるようになったのだ。

それは時に、被害者である花岡さんに対し、暗に「生きて戻ってきたんだからもういいじゃない」といった無礼な声として現れた。
報道で、琢磨ちゃんの爪がきれいに切られていたことや、順調に成長していたことが報じられ、清水夫妻が琢磨ちゃんを大切に可愛がっていたと印象付けられたことも、清水夫妻への同情を強めた。

世間では、極悪非道な子供さらいの夫婦ではなく、心から子供を欲しいと願っていたのに恵まれなかった可哀そうな夫婦、になっていた。
そしていつしか、生後3日でさらわれ、生死が不明の状態で一か月もの間苦しみ続けた、一点の落ち度もない完全な被害者である花岡さん夫妻の存在は、薄くなっていった。

裕子は花岡さんに6通もの手紙を出していた。しかし、それらは花岡さん夫妻に受け取り拒否されている。
これらについても、当時「受け取るくらいしてあげてもいいのでは?」と思う人もいただろうし、もしかしたらそれを花岡夫妻に忠告した人がいても不思議ではない。

花岡夫妻はその後の裁判も、わかりやすく言うと「無視」した。夫はいつものように出勤し、仕事をこなし、妻は自宅で琢磨ちゃんと一緒にいつも通りの日常を送った。

行かなくて正解だったと思う。
判決の日、裁判長は二人に懲役3年を言い渡した後、
「夫婦二人が仲良く生きていけるのが幸せ、出所後でも遅くない、お互い手を携えて歩んでいってほしい」
と説諭。これに対し、清水夫妻は手を取り合って見つめ合い、涙を流したという。
こんなの見せられてはたまらない。なにが夫婦の幸せだ、バレなければ、花岡家の家族はいったいどうなっていたか。

しかも、裕子が書いたという花岡夫妻への手紙の内容は、いかに自分たちが子供を欲しがっていたか、と言ったことが記され、謝罪の手紙なのか理解してほしい手紙なのか、よくわからないものもあった。

「『クリスマスのプレゼント何が欲しい?』『赤ちゃん』『デパートで売ってるものなら、どんなに金を出しても買ってくるんだけどなぁ』
困ったような顔で答えた夫を、知らずに傷つけていたのかもしれない」

こんなこと書かれてなんて答えればいいのか。
(´・ω・`)知らんがなである。これよくぞ被害者に対して書けたよなぁと思う。

有識者らも、清水夫妻の追い詰められた心情に一定の理解は示した人も多かった。
そして、子供のいない夫婦に対する社会の目、子供はまだかという圧力、そういったものに警鐘を鳴らした。
もちろん、これは非常に大切なことだ。
しかし、子供がいない夫婦を、人生を一番受け入れられなかったのは当の清水夫妻である。
嘘をついたのも、なにもかも「実子」にこだわったからだ。
なぜ実子にこだわったのか。
それは、清水夫妻が「子どもが近所であの子は実の子じゃないと言われたら可哀そうだと思った(供述調書より)」と考えたからだ。
本来ならば、そんなことを言うほうを正すべきであり、なんら可哀そうではない。
この清水夫妻の中に、「実の子じゃないなんて…」という偏見があるから、かわいそうだという話になるのだ。

平成5年の事件であり、今とは比べ物にならないほど実子へのこだわりなどはあっただろう。
しかし、だからと言って自分の嘘を守るために、傷つきたくないがために、そしてなにがなんでもほしいものを手に入れるために、他人の人生をめちゃくちゃにしていいわけがない。

花岡夫妻は、判決の日、冷静にコメントを出した。

「判決に対して不満に思うことはありません。決まった刑罰を受けていただき、人 の人生に傷をつけるということの罪の重さを十分に考えていただきたいと思います」

加古川市役所に提出された、「清水怜良」の出生届はその後、速やかに抹消された。
誘拐の現場となった産婦人科も、閉院となった。

**********************
参考文献
朝日新聞社 平成5年5月1日大阪夕刊、3日大阪朝刊 6月5日大阪夕刊 6月6日東京朝刊、大阪地方版/兵庫
6月8日東京朝刊 7月3日朝刊(記者:永島学/鳥取支局)12月23日大阪朝刊
毎日新聞社 平成5年5月1日、2日 大阪朝刊 6月5日東京夕刊 6月7日大阪朝刊
読売新聞社 平成5年6月5日東京夕刊
北海道新聞 平成5年6月6日朝刊
日刊スポーツ 平成5年6月6日