悲しみのある風景~自死・無理心中からみえるもの②~

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這い上がれない街

先ほども述べたとおり、愛媛県は全体として住むには非常に良い場所である。環境面でも、気候面でも、他の地域に比べればいくらもマシと思える。
県民の平均年収は四〇〇万円台と全国的に見ても低いものの、それでも「暮らしていける」ということはそれ自体が魅力ともいえる。
若い世代が給料が少ないために結婚できないとかいう話をよく聞くが、愛媛では若いうちは貧しくて当たり前という風潮もあり、経済的なことが結婚や出産の足枷になっているとは言い難い。
それは、田舎ゆえに近所に親兄弟の存在があるから、というのもある。一〇代の若い無職カップルでも、なんとかやっていけるイージーさがある。
また、若いうちは選り好みさえしなければ職にあぶれることはまずないというのもあるだろう。中卒でも失業しても焦る必要はない。
また、実家が近くにあればとりあえず住む場所は確保できるわけで、飢え死にする危険はぐんと下がる。

しかし中高年になった時、そうはいかない現状が起きてくる。
これはなにも愛媛に限った話ではないだろうが、抱えているものが多ければ多いほど、再起へのハードルが高くなる。家族もそうだし、住宅ローンや設備投資などの金の問題もあるだろう。
他の地方都市とちょっと違う点として、立地があげられる。
都会であれば、職を求めて広い範囲を選択肢に入れることが可能だが、日本の孤島ともいえる四国内では、県外、ましてや本州へ職を求めるとなるともはや引っ越しを視野に入れなければならない。お隣の広島県であっても、である。
四国から出るためには、必ず金がかかるのだ、しかもべらぼうに高い橋代が、である。香川や高知に出張はあっても、通勤というのは愛媛県民にとって現実的ではないのだ。電車は特急が時間に本、これでは無理だ。高速道路は場所によっては対面通行となり、時速六〇キロで進まなければならないこともある。そして雪や風で高速はおろか、橋は速攻止まる。もはやどこにも行けないのだ。

そんな立地で再起を図るためには、職を選ばないか、引っ越ししかなくなる。引っ越さずに職を選ぶ、そういう選択肢が他の地域より格段と低いように思う。

「出稼ぎとか単身赴任は?」
そういう声もあるだろう。しかしこれが県民性というか、最初から転勤ありと分かったうえでの就職で予想通りの転勤と、失敗したうえでの転職による出稼ぎ、単身赴任は違う。後者はイメージとして夜逃げに近いのだ。さらに言えば、人見知りで恥ずかしがりやな県民性のおかげでその選択すら躊躇してしまい、にっちもさっちも行かなくなるケースも少なくない。
加えて変なプライドや見栄を捨て去れない。にもかかわらず、他人の不幸話はあっという間に広まる。時には長いこと会っていない同級生の不倫話が、実家の親を通じてもたらされることもある。心配げに近寄ってくる人の割は、その日の夕食時に家族とその話題を共有する。そして電話で親や兄弟、娘や息子に伝え、翌日職場でさらに「ここだけの話やけどな」となる。
しかも非常に密接な地域のコミュニティが存在するため、他人の目はどうしたって気になってしまうのだ。時には見ず知らずの人の話を、さも知人であるかのように誇張してでも、ネタにする。この辺は都会では考えられない話かもしれない。

このコロナ禍においても、愛媛県で最初に感染したとされる女性は即座に特定され、職場を追われ引っ越しを余儀なくされたという話はあっという間に広まった。さらに現時点では、その女性が自殺したという話まで追加されている。
なぜこんなに「情報」を得たがり、広めたがるのか。単に娯楽がない、暇、ということも当然ある。
それは、その地で生き抜く一つの術でもあるからだ。

地方都市での勝ち組

くだらない言葉だと思うが、勝ち組、負け組という分類が存在する。
都会では年収や家族構成、どこに住んでいるか、そういったことが基準になるようだが、田舎の場合は少し違う。
たとえば愛媛県の場合、「どこに住んでいるか」はあまり関係ない。松山市内には一応、高級住宅地として認識されている地域はありはするが、昔から住んでいる人が多い地域でもあるため、そこに新たに住もうとしてもせいぜいマンションを買うくらいしかできない。
それに関係することでいうと、結婚して賃貸か、持ち家かという区別は一応ある。
結婚し、場所はともかく平均的な広さの戸建てに住む、これは一つのステータス()ではある。分譲マンションでもいいが、よほどの高級マンションでなければ戸建てのほうが上である。

次に出てくるのが、「車種」である。所有する車が何か、これも非常に重要である。
マイルドヤンキーという言葉があるように、愛媛でもアルファードやヴェルファイアに代表される高級ミニバンは理想の家族のシンボルの一つだ。
一〇軒程度のちいさな新興住宅地などには、必ずと言っていいほどミニバンがある。その中で、やはり価格の高いミニバンかどうか、これは若い家族には重要なことの一つだ。
(興味深いのは、国産車のディーラーには出向けても、同じ価格帯の外車のディーラーにはなかなか行けないという人が少なくない点だ。メルセデスやBMWなどを所有している人でも、ディーラーではなく中古車販売店で購入し、その後のメンテナンスもディーラーに出さないという人も結構いる。価格の問題もあるが、そもそも気後れするらしい。)

台が余裕で並ぶカーポートに高級ミニバン、そして奥様用の小型車(タントとかスペーシアとか。田舎セレブの場合だとメルセデスのAクラスやBMW、ボルボ、アウディの小型車)、これぞ理想の子育て世代が所有する車だ。

しかしたまに、「その車どうやって買ったんだよ」と思わざるを得ないような家族も存在する。先にも述べたように密接な地域社会の中において、隣近所の人がどこにお勤めをしていていくらくらい稼ぎがあるのかは大体みんな把握している。
そこから判断して、およそその稼ぎではアルファードの新車とか無理やろ!!な二〇代前半の夫婦が暮らす家庭にも新車のアルファードが納車されたりする。
答えは簡単、「実家が太い」これに尽きる。

そして、この「実家が太い」かどうかが、地方都市で真の勝ち組になれる非常に重要なポイントでもあるのだ。
夫婦としての世帯年収の多さも重要ではあるが、そんなものは実家の太さで簡単にカバーできてしまうのだ。それは本来親のすねかじりであるため、都会の自立した人々から見ればよしとはされないと思われがちだが、田舎ではそんなことはない。
愛媛県でも、同一敷地内、もしくは実家の近くに家を建てる(建ててもらう)、親の力はそのまま子世帯の生活レベルを左右するのは珍しくはない。
それが親にとってのステータスにもなる。都会ではごく一部のお金持ちでしか成しえないようなことが、地方都市では珍しくないのだ。

ここでいう実家が太いという意味は、単に経済的なことだけを指すわけではない。いかに地域社会で顔が利くか、これも含めての意味だ。単に大きな会社を経営しているとか、そういうことよりも、同じ金持ちなら土地を持ってる人が強い。土地を持っている人はそれだけで長いことその地に暮らしているわけで、その分、いろんなところに顔が利くのだ。ぽっと出の成金風情に太刀打ちはできない。

顔が利くというのは、町内会長をやっているとかそういうことではない。少なくとも、県議クラスを動かせるくらいか、秋祭りを仕切るレベル、秋祭りの際に神輿が家に勝手に来るレベル、もしくは反社の人物でないと役に立たない。
結婚式の仲人は上司ではなく政治家、これも田舎では絶大なステータスとなる。誰とつながっているか、これらを含めての、「太い」なのである。

そしてもうひとつ、重要なこととして「事情通」であることも挙げられる。
密接な地域社会において、娯楽の少ない地方都市において、真の娯楽は人の不幸であることは間違いない。
愛媛県民は時間の使い方において、娯楽に費やす割合が大きいという調査結果がある。
二〇〇八年と少し古いが、社会生活基本調査によれば、愛媛県民は勉強や仕事に費やす割合が全都道府県中四四位と低いのに対し、娯楽に費やす割合は位である。
NHKの全国県民意識調査でも、メディアに費やす時間の割合は全国二位、流行を気にしない人の割合は全国で最下位となっていて、とにかく情報を得たい、後れを取りたくない、そういう県民性がうかがわれる。
それが、先ほど述べた「あっという間に広まるうわさ」につながっているのだろう。
さらに言えば、情報を得ることは娯楽であり、それが真実であるということはさほど重要でないのだ。とにかく、誰よりも事情通でありたい、本当かウソかよりも、誰もが知らない事柄を知りたい、そういう欲が強い県民性と言える。
その点でいうと、先ほどの顔が利くという人たちは真実を把握している可能性が高い。が、そういった人はぽらぽら他言しないし、おいそれと誰もが聞きにも行けないため、娯楽としての情報源にはならない。

もっと身近な、たとえば犬コミュニティとかママさんバレーとか消防団とか農事組合とか、そういうところにこまめに顔を出す人がここでいう「事情通」と位置付けられる。

もちろん、そういう人々は真実だけを把握しているわけでは必ずしもないため、情報を発信する際には保身も忘れない。
必ず話の終わりには、「知らんけどな」がつくのだ。この一言で、今言った話は本当かどうかはわかりませんよ、でも私はこう聞いたんですよ、どう受け止めるかはあなた次第ですよ、という意味になり、これさえ言っておけば、責任は免れる。便利すぎる。
しかし話題にされた本人はたまったものではない。みんながそうやって、「知らんけど」と言いながら話はどんどん収拾がつかないレベルになっていくのだから。