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救急車にて
「ごめんね、ごめんね…」
救急車の狭い車内で、母親と思しき女性は意識のない子供の手を握りしめ、涙を目にためながらそう呟いた。
大学病院に搬送されたのは、まだオムツも取れていない小さな男の子。意識はなく、かなり危険な状態だった。
男児はその後搬送先の病院で救命及ばず、短い一生を終えた。
横浜地方裁判所
平成17年3月1日、横浜地方裁判所は、当時3歳の内縁の夫の連れ子に暴力をふるい死なせたとして、辻岡裕美(仮名/当時28歳)に対し、懲役4年6月の判決を言い渡した。
罪状は、傷害致死。
裕美はこの裁判で一貫して無罪を主張していた。事実、裕美が逮捕されたのは事件が起きた約1年後であり、判決が出たのはさらにその2年半後で、未決拘留日数は800日に及んでいた。
しかし裁判の結果は、有罪。
男児の死は事故か、それともそこに誰かの悪意があったのか。
有罪の決め手は、小さな目撃者の存在だった。
あの日
「なんでウンチ出るって教えてくれないの!」
平成13年11月3日。座間市のアパートの一室には、裕美とその子供ら3人、合計4人がいた。
朝から裕美はいらだっていた。3人の子はみな男の子だったが、その真ん中の大島輝弥(仮名/当時3歳)には裕美を悩ませる行動があった。
どれだけ教えても、大便だけはパンツの中でしてしまうのだ。
今日も夫は遅いのだろうか。祝日だというのに、家のことなんて何もしてくれない。子供たちのことも全部私に押し付けて…
裕美の夫に対する不満は今に始まったことではなかったが、だからこそ、話が違うじゃないかという思いは強かった。
子供たちを引き取る時、俺も手伝う、協力するからとあれほど言ったくせに。どうしてこうなってしまったんだろう。
ふと台所のほうへ目をやると、子供たちが食卓に上り、そこから飛び降りて遊んでいる。あぁもう、そんなところに上ったら危ないのに…
言っても聞かないいたずら盛りの男の子3人、放っておこう。
裕美はそのまま別の部屋で家事を続けていたが、突然、泣き声が響いた。
驚いて台所に駆け付けると、隣接する居間との境目付近で輝弥があおむけで倒れていた。
輝弥は大泣きしていたが、裕美が抱いて居間のソファに寝かせると、その泣き声はだんだんと弱まり、意識も朦朧としているような状態になってしまった。
ただ事ではないと思った裕美が119番通報、駆け付けた救急隊員によって応急処置が施され救急搬送されたが、その日のお昼を過ぎたころ、輝弥は死亡した。
家族
この家の3人の男の子たちは実は全員が裕美の子供ではなく、一番下の慎弥(仮名/当時2歳)だけが、裕美の子供だった。
上の二人、長男・大島龍弥(仮名/当時5歳)と次男の大島輝弥は、裕美が同居している内縁の夫の連れ子で、末っ子の慎弥の父親は、この内縁男性だった。
当初は内縁の夫と慎弥との3人暮らしだったが、慎弥が生まれて1年ほどしたころ、前妻が引き取っていた龍弥と輝弥を引き取りたいと夫から告げられる。聞けば、前妻も了承しているというではないか。
自身にもまだ1歳の子がいて大変なのに、そこへ年の変わらない二人の男の子の育児が重なるのはどう考えても無謀だったが、内縁の夫と前妻に対して「引け目」のようなものを感じていた裕美は、夫も育児に協力すること、義務教育が終わるまでは実の母親である前妻と会わせないことを条件に二人を引き取ることに同意した。
実は裕美は、この夫がまだ既婚者だったころからの不倫関係の末に慎弥を妊娠しており、それが原因で夫は前妻と離婚したという経緯があった。
夫の家族、特に母親からは相当に嫌われていたこともあって、ここで子供らを引き取らなければ裕美自身、夫に愛想をつかされるのではないかという不安もあったという。
平成13年2月、ぎこちないスタートではあったが、3月には家族5人で座間のアパートへと引越し、裕美の子育てが始まった。
精一杯の育児と軋む夫婦
裕美の育児は立派なものだった。夫の連れ子たちが通っていた保育園に慎弥を入園させると、その送迎を一人でこなした。
保育園で必要なものはきちんと準備し、龍弥、輝弥、慎弥全員を差別することなく育てており、保育園への連絡ノートも几帳面に記入するなど誰の目から見てもそれは献身的だった。
それもひとえに、愛する夫の子供たちを大事にしたい、そういう思いが一番にあったわけだが、当の夫はそれを知ってか知らずか、家のことはすべて裕美に丸投げしていた。
引き取る際の条件などなかったかのように、夫は飲み歩き、休みの日であっても家庭を顧みることはなく、ただでさえ3人の男児と日々奮闘している裕美に対し、自身の会社の同僚や友人らを突然招いては裕美に食事の用意を含め、接待させたという。
そんな中、夏ごろから始めた輝弥のトイレトレーニングはうまくいっていなかった。
保育士にも相談したというが、それをきっかけに輝弥と裕美の関係も険悪なものへと変化していく。
輝弥は裕美とあまり話そうとしなくなり、それを心配した夫の母親が、これまた約束を破って龍弥と輝弥を実母に会わせてしまってからは、いっそう輝弥は裕美と話さなくなってしまった。
夏が終わるころ、輝弥の体には傷が出来始めていた。
不穏
平成13年8月の終わりから9月の初めにかけて、保育士は輝弥の唇が腫れ、頬にこぶのようなものが、さらには両足裏に火傷のような跡、首の付け根に不自然な皮下出血があるのを発見する。
迎えに来た裕美にそのことを問うと、唇の腫れについては「食べさせたピザが辛かった」、頬のこぶは「スーパーで転んだ」、足の裏の火傷のような跡は「知らなかったが、砂利の上を裸足で歩いたのではないか」、などと答えていた。
保育園側はこのことから座間市の福祉部児童課と相談、虐待の疑いありということで児童相談所に通告した。
実はこの時、長男・龍弥が保育士に対し、「(足の裏の傷は)裕美ママが鉄砲で撃ったんだ」と話していたのだ。
保育士と児童相談所の担当者らと面接した裕美は、その席で虐待を認めることはなかったものの、輝弥との関係を悩んでいると打ち明けた。そして、夫との関係や、夫の家庭に対する考え方などでも悩んでいると話し、今後カウンセリングを受けることと同時に、輝弥とは一対一でしっかりと関係を構築していくことも話し合った。
その数日後に保育士が家を訪ねたところ、龍弥も輝弥もどことなくぼうっとした表情が気になったが、父親の知人が遊びに来るとその知人にじゃれつくなど、本来の子供の姿に戻ったという。
その後裕美は仕事をはじめ、前にもまして忙しくなった。ところが、なんと夫が傷害罪で逮捕されてしまった。
10日ほどの拘留で釈放となったものの、その間毎日の面会のみならず、相手方との示談交渉まで裕美にのしかかっていた。
10月。保育園にはいつものように子供たちを迎えに来た裕美の姿があった。
しかし輝弥は、裕美が迎えに来ると泣いて保育士にしがみつくようになっていた。その輝弥の頭部にはたんこぶ、両腕や背中には痣そして、殴られたかのように晴れ上がった左目。
保育士らはこっそり輝弥にどうしたのか、誰にされたのかを確認した。
しかし輝弥ははっきりとは答えず、兄弟や父親の名前を出された後、「裕美ママ?」と聞かれた際には、ようやく「うん」と答えた。
11月2日、裕美を見たとたんに顔色が変わった輝弥を、保育士は不安な思いを隠せないまま強く抱きしめ、帰宅させた。
そして、翌日輝弥は死亡した。
死因
裕美は119番通報した際、「子供が食卓テーブルから飛び降りて遊んでいたら落ちて、泣いていたが意識が薄れていった」と話していた。
救急隊が到着した際も、「椅子から落ちたか、テーブルから落ちたかわからない、泣き声で気づき、見に行ったら泣いていたが、その後寝るような感じで意識がなくなった」と話した。
現場となった自宅の部屋には、テーブルの高さが約70センチ、腰掛部までが床から40センチの食卓用の椅子があった。
付近にはソファや座卓などもあったが、飛び降りた際に当たるようなものは見当たらなかったという。
遺体は外見的には、頭部の受傷後2~5日と思われる皮下出血が数十か所、顔面、背部、ひざに受傷後2~4日とみられる表皮剥奪がみられた。
輝弥の死因は、門脈・冠動脈枝損傷に基づく出血性ショックで、総肝動脈の枝(胃十二指腸動脈)の付け根が完全に離断、門脈が一部糸状につながるのみでほぼ離断、総胆管は完全に離断していた。ちなみにこの部位は約6センチメートル×4センチメートルの範囲にある。
このような損傷は、腹部打撲によって心窩部を強打したことで生じるものだという。
こういった状態の傷を負うには、
①先の丸みががった小さなもの(鈍体)と、②胸椎によって強く挟まれる形の外力が、肝臓が上方に向かうような動きで③肝門部の組織にかかった張力と合わさることが必須である。
簡単に言うと、先の丸いそこそこ硬いものがある程度の力で腹部に当たったことで、背中にある胸椎との間にある総肝動脈の付け根を押しつぶした、というような状態である。
さらに、その力がかかった方向はやや下から上に向かって、かつ、輝弥の前身からで、その回数は1回とのことだった。
裕美が証言した内容では、どうやって、何におなかをぶつけたのかはわからない。
一緒に遊んでいた兄の龍弥も、「輝がテーブルから落ちた」としか話していなかった。
が、直後には龍弥から聞いた話として、輝弥が飛び降りた直後にバランスを崩し、居間にあった座卓の角部分に突っ込んだ、というは話をしていたこと、さらには「龍弥が輝弥のおなかに乗ったのではないか」という話も裕美がしていたことから、これは不幸な事故、ということでいったんは処理されていた。
しかし輝弥の死から3か月後、重大な証言がもたらされた。
平成14年2月13日、それまで自分は子供部屋にいてわからないと話していた長男の龍弥が、祖母に対して
「裕美ママと輝弥はソファーのある部屋にいたの。輝弥がウンチを漏らしたので、裕美ママが怒って輝弥のおなかを蹴った」
と話したのである。
事故から一転、事件へ
それまでも龍弥は、父親や祖母らから輝弥がケガをした状況を聞かれていた。しかし、当日の夜は父親に対し、「台所のテーブルから落ちた」と話していたが、翌日には裕美に対し、「低いテーブル(居間の座卓)に突っ込んでおなかを打った」と話したとして、裕美自ら夫に連絡していた。
ただその後、父親から再度状況を聞かれた龍弥は、「こっち」と居間のほうを指さすにとどまり、以降、「子供部屋にいたからわからない」と言うようになった。
12月に祖母から聞かれた際も、「テーブルから落ちた」「慎(慎弥)と隣の部屋で遊んでた」というばかりで、裕美に話したような具体的な話はしていなかった。
そして平成14年2月、祖母に対して裕美の関与を初めて話したのだった。
さらに龍弥は驚くべきことも話した。
なぜ最初からそう言わなかったのかと聞かれた龍弥は、
「輝君はテーブルから落ちて死んだことにしてね、パパには内緒だよ」
と、裕美に口止めされていたというのだ。
警察ではこのことと、輝弥の死因や遺体の損傷具合などから事件の可能性を視野にいれて改めて捜査、平成14年9月3日、傷害致死の容疑で裕美を逮捕した。
虐待する動機
弁護側も裕美も、そもそも実子でないのは龍弥もそうであり、輝弥だけに死なせるほどの虐待を加える動機がないとして、かつ、そこまでの虐待をしていたというのならばなぜ実の父親が全く気付いていないのか、と反論していた。
たしかに、自分の子じゃないというのは虐待の要因の一つにはよく出てくる話であるが、それならば龍弥とて同じことである。
しかし龍弥は比較的裕美との関係は良好で、それまでにも輝弥のような不審な傷や痣などは見られなかった。
しかし裁判所は、連れ子がそれぞれ誰に懐くかはまた別の話であり、龍弥は裕美に懐いていたとしても、輝弥はあきらかに裕美を嫌う祖母に懐いていた事実があるとし、それが同じ連れ子でありながら差がついた要因と考えられるとした。
また父親が輝弥の傷や虐待に気づいていなかったというのも、そもそも家庭を顧みず裕美に何もかもを丸投げしていたような父親がそのようなことに気づかずとも不思議はないとして、弁護側の主張をもってしても裕美が虐待を行っていないということにはならないとした。
虐待行為については、そのすべてを裕美が認めているわけではなかったが、先にも述べたとおり保育園との話し合いの際に、裕美は輝弥との関係の悩みなどを打ち明けていたし、事件後の調べに対しても、虐待の意図を持っていなかったにしろ、トイレトレーニングがうまくいかないことで感情的な対応をしたこと、着替えをさせる際などに輝弥を邪険に扱ったことはあったかもしれないと話していた。
そして実際に、輝弥の左目が腫れあがっていた件に関しては、感情的に左目付近を一回殴ったことを認めた。
これらのことから、事件当日大便を漏らした輝弥に対し、怒りから単発的な暴力を加えたとしても不思議はなく、あの日裕美には輝弥に暴力をふるう動機があったと認めた。
遺体との符号
裁判では輝弥の遺体の状況と、裕美が聞いたとする居間の座卓の角にぶつけた場合、単に輝弥がテーブルから落ちただけの場合、裕美が主張していた龍弥が輝弥のおなかの上に乗った場合、そして、龍弥が証言した裕美が蹴った場合にそれぞれ遺体の損傷と符合するような損傷になりえるかという点と、当時5歳の龍弥の証言の信用性が審理された。
まず、テーブルから落ちただけでこのような損傷になるかという点は、先端の丸みがかった鈍体が床や部屋に存在しないこと、やや上方へ力が加わっていることなどから考え難いとされた。
次に、座卓の角に打ち付けた場合。
例えば交通事故などで肝門部分のみを損傷して死亡するケースがあるとすれば、時速30キロから40キロの速度は必要という。この時点で、狭い部屋の中で3歳の輝弥がそのような速度で座卓の角にぶち当たるというのは考えにくく、損傷具合とも合致しないとして退けられた。
では龍弥があおむけに寝ている輝弥のおなかに乗った場合はどうか。
龍弥は当時足のサイズが14センチで、あおむけで床に寝ている輝弥の腹部めがけて龍弥が飛び降りた場合、たしかに肝門部が開きやすいことから同じような損傷具合になる可能性はあるという。
ただ、遺体はやや下方から上方に力が加わっていることを考えると矛盾が生じる。さらに、飛び降りたとなれば足の裏全体が力を加えることとなり、先の丸みがかった鈍体というものとも矛盾する。
そうなると肝門部にとどまらず、肝臓にも損傷が起こる可能性が高く、肝臓部を損傷させずに肝門部のみをピンポイントで損傷させるのはかなり難度が高いということとなる。
かかとで踏みつけたとしても、この角度の問題はクリアできなかった。
…では、裕美が座っている輝弥の腹部を蹴りあげた場合はどうなるのか。
輝弥の体は、腹部の厚みが12センチ、背骨部分が厚さ3センチとすると腹部の表面から肝門部までは約9センチだったと考えられる。
成人女性の足のモデルサイズとして、23,5センチの場合で考えたところ、床に座っている輝弥の体のサイズに対して腹部を蹴った場合、下方から上方に力がかかることからそこはクリアとなる。
そして、足先はまさに丸みがかった鈍体であり、その細さから肝門部をピンポイントに損傷させることは可能だった。
さらに、裕美の足のサイズは23,5センチより小さいことから、より肝門部位にのみ力を集中させることができたと言えた。
その時の輝弥の体勢如何によっては若干の差は生まれるとしても、他のどの場合よりも、遺体の損傷と符合するのは裕美が足蹴りにした場合だった。
5歳児の信用性
もう一つの争点として、5歳の龍弥の証言がどこまで信用できるか、というものがあった。
年齢的なことのみならず、龍弥の供述は変遷していることも当然弁護側は信用できないと主張した。
その後検察官による証人尋問が行われた際もまだ6歳、しかも輝弥の死から1年4か月以上経過しており、その供述の信用性はたしかに慎重に見極める必要があった。
また、祖母に告白した点についても、祖母はもともと裕美に対してよい印象を持っていなかったことから、どこかで誘導のような聞き出し方があったのではないかという主張もあった。
裁判所はそれらを踏まえたうえで、龍弥の証言の信用性を認めた。
裕美に対してよい印象を持っていなかった祖母だが、当初は祖母自身、龍弥が輝弥のおなかの上に乗った(踏んだ)のではないかと考えていた。そのため、輝弥の死の直後は龍弥を傷つけないよう、あえて輝弥の死について聞くことはなかったという。
ところが捜査員が裕美から長時間にわたって事情聴取をするのを不審に思い、裕美に聞こうにもその機会もなかなかなかったことから、龍弥に確認したという経緯があった。
龍弥がやったのかもしれないということを念頭に置いて、「パパにも言わないから教えて?」と聞いたところ、龍弥は祖母が思いもよらなかった裕美の関与を話したのだ。
また、後の自宅アパートにおける証言録取は、祖母や実父を排除し、龍弥の通う保育園の保育士を付添として行われており、そこに誘導があったとは言えなかった。
さらに、検察官による聞き取りにおいては、以下のようなやりとりがあった。
検察官「輝くんさぁ、救急車で病院に行って死んじゃったけど、なんで具合が悪くなっちゃったの?どうして死んじゃったのかな。」
龍弥「裕美ママやったから」
検察官「裕美ママがどんなことしたの?」
龍弥「蹴ったの。」
検察官「おじちゃんを見てごらん、これ頭でしょ、お顔でしょ、胸でしょ、お腹でしょ。これ腰でしょ。あんよでしょ。裕美ママはさぁ、輝くんの何処を蹴ったの。」
龍弥「ここ。(左の手の平で自分のおなかを一回叩く)」
検察官「裕美ママは、どうして輝くんのおなかを蹴っちゃったの。」
龍弥「うんこしちゃった。」
検察官「(蹴ったのは)1回だけ?それとも2回や3回も蹴ったの?」
龍弥「1回だけ(即答)」
(以上、「」内は判決文からの引用※被告人の名前は仮名、()と検察官、龍弥の表記は事件備忘録による追記)
子供の扱いに慣れているという検察官が証言録取に当たったというが、この時の龍弥は、眠そうな様子を見せることはあっても、緊張したり落ち着かないといった様子は見られなかった。
また、わからないことや聞こえなかったことは「え?」と聞き返したり、覚えていないことは「忘れちゃった」などとも話していることから、龍弥は自分が見たこと、その中で覚えているものだけを話していると認定された。
そして、輝弥の死から3か月がたった後で証言したことについては、裕美の口止めによるものと認定、龍弥は「怖かった」とも話していた。
龍弥は輝弥に比べると裕美に懐いていたが、それは裕美の顔色をうかがいながらのことであり、裕美に従うことが自身を守る術だったともいえる。
しかも龍弥は輝弥の詳しい死因を理解できていたはずもなく、にもかかわらず死因とがっちり符合する内容を話したということはすなわち、それを実際に見ていたから、事実を話しているからだとされた。
変遷する大人の供述
これに対して裕美の反論はと言うと、時間の経過があるとはいえ不自然な変遷が見られた。
輝弥の死の当日のことについて、平成14年2月の調書によれば「子供たち3人を足蹴にしたことはあるが蹴った部位は覚えていない」と話していたのが、9月の調書になると「お尻を右足で蹴ったが、輝弥のおなかは蹴ってない」とし、その翌日の調書は「お尻を蹴ったかどうかもはっきりしない、輝弥が振り向いたときにおなかの辺りを蹴ったかもしれない」となっていた。
しかもこれはあくまでその日輝弥の容態が急変するまでの出来事として話していて、裕美の暴力が原因で容態が悪くなったということは否定していた。
そしてなにより、裕美が龍弥から聞いたという座卓に突っ込んだというものも、裕美が推測した龍弥が輝弥のおなかに乗ったということも、テーブルからただ落ちたということも、いずれも輝弥の遺体の傷とは符合しておらず、裕美の供述そのものが信用できないとされた。
横浜地方裁判所は、裕美の態度は真摯に反省しているとは言い難く、祖母が激しい処罰感情を持っていることも十分に理解できるとし、幼い兄弟らの目前で行われた暴力がどれほど子供たちの心に衝撃を与えたかにも言及した。
一方で、裕美のそれまでには一定の理解も示していた。
裕美は兵庫県出身で、高校卒業後職を転々としながら平成7年に職場の11歳年上の上司と結婚した。
ところがその年に生まれた長男は生まれつき体が弱く、2歳のころには手術もしたが両足に障害が残った。
にもかかわらず夫は家計費も十分に渡さず、育児も非協力的であったという。
その後紆余曲折があって離婚となり、当時長男は裕美の実家で生活していた。
そして輝弥らの父親と知り合い、子供まで生まれたのに籍は入れてもらえず内縁状態であったことや、夫の母からは疎まれ、一度は荷物を勝手に実家へ送り返されるなどの嫌がらせにもあっていたこと、それでも当初裕美は我が子同様に龍弥、輝弥の面倒を見ており、その内縁夫の出来の悪さから裕美の負担は相当なものだったと酌量した。
それらが被告の心を蝕み、心身ともに疲弊状態へと追いやったという側面は否定しがたく、また輝弥が死に至った原因の暴行も1度だったこと、当たった部位が多少なりともずれていれば死亡しなかったことも可能性としてはあり、偶然にも最悪の結果を招いたとも考えられるとして、求刑懲役8年に対し懲役4年6月に未決拘留日数800日を算入するとした。
実家で暮らす介護が必要な長男のことも、この量刑の理由に含まれている。
検察側、弁護側、あるいは双方なのか控訴されたが、それ以降の情報はなく、棄却もしくは取り下げで確定したと思われる。
嘘
裕美はたしかに善き母であろうと努めていた。生まれたばかりの子供のほかに3歳と5歳の男の子を一気に引き受ける、引き受けさせたのはどう考えても無謀だった。
裁判所の言うように、裕美の責任だけでこの結末になってしまったわけではないのは理解できる。
しかし裕美自身、どうもそれまでの人生を垣間見ても、行き当たりばったりというか出来もしないことをやって投げ出す、そういう印象も否めない。
最初の結婚も、長男の病気や後遺症などで苦労があったのは分かる。生活費もろくに入れない夫など捨てていい。
しかし、裕美はこの夫との結婚生活の間に、夫の部下と不倫をし始めている。
長男の介護や育児は、実家に丸投げしていた。
さらに、その夫の部下が子連れでの再婚に難色を示すと、とりあえず夫の元へ戻ってその後結局離婚した。
正確に言うと、この夫の部下と別れた直後、今回の龍弥と輝弥の父親と出会っている。そこで妊娠が発覚したため、離婚したのだ。
しかも、裕美は長男の存在がネックになるのだということは学習していて、実家で暮らす長男については、「前夫が引き取った」と嘘までついていたのだ。
学習すべきはそこじゃないだろうよ。
そこじゃないといえば龍弥、輝弥の父親との出会いからも結構アレだ。
裕美は平成10年4月ころから夫の部下と不倫をし始め、海老名市内で同棲までしていた。その部下と別れたのが平成10年10月。
そして同じ年の12月に輝弥らの父親と「出会い」、その後妊娠発覚を機に平成11年3月に同棲をはじめ、夫とも離婚している。
そして慎弥が誕生するわけだが、生まれたのは平成11年の8月30日である。なんともすごいタイミングというかなんというか。
このあたりからも後先や自分の今置かれている状況など全く考えようとしていない様子が窺える。
なんとしてでも前妻から奪い取る気だったのか、もはやお腹の子を武器にしていたとみられても不思議はない。
結果として、それらの後先を考えない行動が、輝弥を死なせたのだ。
ちなみに事件後、慎弥だけは裕美が引き取っている。
一時は弟を死なせた汚名を着せられかけた龍弥は、その後立派に成長しているようだ。
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参考文献
NHKニュース平成14年9月3日
読売新聞社平成14年9月4日東京朝刊、平成17年3月1日東京朝刊
中日新聞社平成17年3月31日夕刊
平成17年3月31日/横浜地方裁判所/第4刑事部/判決/
平成14年(わ)2639号
判例タイムズ1186号342頁
D1-Law第一法規法情報総合データベース