忘れないで~生きた証⑤~

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山本 涼司くん(兵庫県姫路市:平成12年1月24日死亡/当時6歳)

生死不明の子

その男の子は、もう半年以上その姿を誰にも見られていなかった。
男の子が暮らす姫路市立津田小学校でも、入学通知が届いているはずなのに、学校に来ない男の子を心配していた。

平成12年9月、姫路署にとある相談が持ち込まれる。

「身内の男の子の姿が長いことみえない。その子の姉が、父親が弟を殺して捨てたと言っている」

相談に訪れたのは姿が見えない男の子の親類だった。前々からその子に会えていなかった親類が、ある時10歳の姉に聞いたところ、姉の口から驚愕の話が出たのだ。

警察は両親から事情を聴き始めたところ、すでに男の子は死亡しており、なんと山中に遺棄されていたことが発覚。
その後、両親の供述から兵庫県神崎郡須加院の山に捨てたとの供述を得たことから付近を捜索。9月21日、3回目の捜索で人骨と思われるものが発見された。

鑑定の結果、骨は紛れもなく人骨で、しかも子供のものと判明。両親らの自供と照らし合わせると、この骨があの男の子のものである可能性は高かった。

発見された紙おむつ

人骨が男児のものであることはこの時点で確定は出来ていなかった。
そんな時、遺骨発見現場の近くで、紙おむつが発見された。両親は取り調べで遺棄した時は紙おむつ1枚だけだったと話していたことから、その紙オムツが男児のものである可能性が高く、そしてその後、遺骨は行方が分からなくなっていた男児と確認された。

当初死体遺棄で逮捕されたのは、姫路市亀山の無職・山本理(仮名/当時47歳)と、その妻で無職の佳穂(仮名/当時36歳)。
遺骨となって発見されたのは、佳穂の長男・涼司くん(当時6歳)。

佳穂は10歳の長女と涼司くんを連れての再婚で、理との間にさらに3人の男児をもうけていた。
理は取り調べで涼司くんに暴力をふるったら死んだので捨てた、と話しており、警察は傷害致死あるいは殺人容疑も視野に捜査を始めた。

遺骨が見つかったのは国道312号線、須加院交差点から西へ入り県道80号線宍栗香寺線夢前町方面にある暮坂(くれさか)峠。
須加院交差点からしばらくは民家も多いが、少し走ると畑ばかりになり、峠の坂道に差し掛かるころにはほとんど山の中といったところだ。
峠の頂上辺りにはくれさかクリーンセンターのほか、その奥の山にかつて存在していた置塩城跡へつづく登山道などもあるが、そうそう一般の人が連日多く訪れるような場所でもない。
ここを遺棄場所に選んだのは、母親である佳穂が過去に暮らしていたことから土地勘があったためだった。

涼司くんの遺骨は暮坂峠の道路から100mも下の谷底で見つかった。動物にあらされたのか、その遺骨は小さく散らばり、当然ながらすべてを回収するのは難しかった。

6歳の男の子がなぜこんなに残酷な最期を迎えなければならなかったのか。

再婚家族

世の中には山ほど再婚家族というものが存在するが、その多くはいろいろあるけれどそれなりに関係性を築き、それなりに家族として成り立っている。
したがって、この事件が再婚家族だったから起きたということは妥当とは言えないが、再婚家族ということが無関係だ、とも言い切れない。

虐待を受けていたのは、実は涼司くんだけではなかったからだ。
佳穂の連れ子である長女(当時10歳)に対しても、理は、そして実母である佳穂までが、虐待行為を行っていたのだ。

事件当時、山本家には佳穂の連れ子の二人以外に、理と佳穂との間に生まれた3人の男の子たちもいた。

山本家が暮らした姫路市亀山のアパートでは、日常的に子供たちの笑い声や子供と遊んでいる大人の男性の声が聞こえていたという。
理は少なくとも、下の3人の「我が子」に対しては、優しいパパであった。
しかしその同じ部屋の中で、血のつながらない涼司くんと長女に対しては、目を覆いたくなるような凄惨な虐待が続いていた。

佳穂と理は再婚同士。平成8年、ふたりは当時住み込みで働いていた島根県内のパチンコ店の従業員として知りあった。当時、二人にはそれぞれ家庭があり、佳穂は長女と涼司くんの実父との4人暮らしだった。
ところがふたりは不倫関係となり、知りあって1か月後には駆け落ちした。佳穂はその時、当時6歳と3歳だった子供たちも連れて行った。

その後二人の離婚が成立、すでに二人の間には子供が生まれており、平成9年12月に佳穂の再婚禁止期間が過ぎたことでようやく入籍となり、佳穂の連れ子二人も養子縁組した。

若気の至りという年齢はとうに過ぎていた二人だが、駆け落ちまでして一緒になった幸せはあったろう。しかし同時に、佳穂には理の両親に対する負い目があったという。
「子供たちがきちんとしていなければ、自分もだらしないと思われるのではないか。しつけができる嫁だと思われることが大切だった。」

さらに、30歳を過ぎた稼ぎもない子連れの女にとって、もはや頼るべきは理ただ一人という錯覚に陥っていた。

発端は実は長女の方だった。
長女には爪を噛む癖があったという。それを佳穂はことのほか嫌がった。それをやめさせるために、佳穂は理に告げ口し、理からしつけと称した体罰が長女に加えられるようになった。
私も子供の頃から爪を噛む癖がある子供だった。爪を噛むのは自傷行為の一つとも言われるが、血が出るほどに噛んでしまうこともあった。
なかなか直らない長女の爪噛みに、次第に理も佳穂もイライラがエスカレートし始める。
「ちゃんと叱ってや!」
実際に体罰を加えるのは理でも、けしかけるのは佳穂だった。
理は激しく殴るにとどまらず、なんと包丁を突き付けたり熱したフライパンを近づけたりし始めた。それでも直らないとみるや、熱湯をかける、タバコの火を押し付ける、裸で屋外に放り出す、実際に包丁で手の甲を刺したり、蹴って足の骨を折るけがも負わせていた。
当時10歳。どれほど恐ろしく悲しかったろうか。

しかしその矛先は、長女の爪を噛む癖が目立たなくなるにつれ、幼い弟へと向かっていった。

けしかける女、暴走する男

長女の爪噛みが収まりつつあった頃、佳穂は理との間の次男を出産した。理との間にはすでにもう一人長男にあたる男児が生まれており、佳穂はその乳児に手がかかる日々だった。
涼司くんは当時4歳、まだまだ甘えたい盛りだったが佳穂はどうしても下の2人に手がかかる。そんな母親に涼司くんは甘えたくていたずらをするようになっていった。
仏壇のお水をぶちまけたり、ふすまや畳に落書きもするようになった。
ただこれらはこの年齢の子どもにはよくあることであり、涼司くんに何か問題があったわけではない。

しかしすでにこの時点でしつけは暴力で行うことに何の抵抗もなくなっていた理と佳穂は、そんな涼司くんにせっかんを繰り返していた。
平成11年3月、山本家は事件現場となった姫路市亀山のアパートに引っ越す。涼司くんはいたずらに加え、おもらしをしたり勝手に食べ物を食べたという理由で激しいせっかんが加えられていた。

長女同様、激しい殴打やタバコの火を押し付けたり熱したフライパンを押し付ける、そういったことに加え、涼司くんに対してはさらに凄まじい暴力が加えられた。

洗濯機に入れて回す、階段から突き落とす、灯油を染み込ませた付近に火をつけ投げつける、熱湯を浴びせる、両手足を縛って風呂場に長時間閉じ込める、水風呂につけたうえ、顔を水中に押し込む……
しつけどころか、ありとあらゆる方法で涼司くんを痛めつけ、精神的に追い込む、これはあの広島の二児殺害事件を彷彿とさせるレベルだ。

幼い涼司くんが、このような虐待を受け続け、そのたびにどれだけ泣いたか、どれだけその小さな胸が潰されたか、もう考えるだけでどうにかなってしまいそうだ。

突然現れたこの義理の父親に受けた暴力、しかしそれをけしかけていたのは、涼司くんが大好きだった母親だった。

「きょうもまた涼司がこんなことをした。ちゃんと叱ってや」

そう、日々の出来事を理に言いつけた。そして、理が熱湯を使って虐待するためにその湯を沸かし、木で叩くためにその木の棒を手渡したのは、佳穂だった。

片腕には生まれたばかりの赤ん坊を抱き、その赤ん坊をあやしながら、同じわが子である涼司くんが泣き叫ぶのをどんな思いでこの母親は聞いていたのか。

佳穂は時に自ら手を下した。
涼司くんの小さな体を壁に叩きつける、火傷させる……
盗み食いをするからと食事は2日に1度しか与えられず、涼司くんはどんどん衰弱していった。それでも生きるために、涼司くんは佳穂と理の目を盗んで食べ物を漁った。
平成12年1月22日、佳穂はいつものように理にその日の涼司くんの行動を告げ口した。
「また涼司が盗み食いしとったわ。お父さん(理)が甘いから涼司が反省せぇへんのや。ちゃんと叱ってよ」
理は自身の不甲斐なさを突き付けられたと思ったのか、怒りがこみ上げたという。

そして、涼司くんがとっさに「盗み食いなんてしていない」といったことで怒りは頂点に達した。

2人の鬼

平成12年1月22日午後5時からそれは始まった。
手拳での殴打にとどまらず、佳穂が手渡した木の棒で涼司くんは体中を殴られた。さらに、胸部、腹部を蹴られ、その暴行は3時間に及んだ。
午後8時、理は殴り疲れたのか、風呂場の浴槽に水を張り、そこに泣き叫ぶ力も失った涼司くんを肩まで浸からせたという。
1月の水風呂。それがどんなにひどい拷問か、誰でも容易に想像がつく。
佳穂と理は1時間以上水風呂に涼司くんをつけた後、ぐったりとして口から血が混じったよだれを垂らす涼司くんをオムツ姿で放置し、パチンコへ出かけた。

そして、帰宅した時にはすでに涼司くんの命は、消えた後だった。

「無我夢中だった」

後の裁判で佳穂はそれ以降の心境をこう話している。
佳穂は水風呂から引き揚げた後、病院へ連れていくつもりだったという。しかし虐待がばれることを恐れて結局は放置した。

山へ向かったのは2日後だった。
ふたりは涼司くんの遺体を山に捨てると決めた。場所は、佳穂が土地勘のある場所を選んだ。
捨てるとき、身元を隠すために涼司くんのそのあどけない顔に、理は石を何度も投げつけた。暗闇の中、佳穂もその一部始終を見ていた。
たった6歳の涼司くんは、氷のように冷たい体でさらにその顔まで潰され、峠から谷底へと落とされた。

その後も二人は何食わぬ顔で日々自堕落な生活を続けた。
事件当時はふたりとも仕事をしていなかったにもかかわらず、山本家が生活保護を受けていた記録はない。どうやって残された4人の子どもを育てたのか。

その生活は、佳穂の実母の死で得た保険金と、理の盗みで成り立っていた。

消し去りたい過去

理の盗癖は小学生の頃にすでに表れていた。
万引きはやがて空き巣へと変わり、少年院には実に3度も送られていた。さらに、5度の実刑判決を受けるなど、筋金入りであることに加え、一切の更生の気配すら見られないという深刻な事態だった。

そんな生活の中でも愛する人と家庭を持ったのもつかの間、佳穂と不倫関係となり、全てを無責任に捨てると借金取りから逃げ回る生活を始める。
佳穂と一緒になってからも、債権者らから逃げるために住所を移さずに引っ越しを重ねた。
それもあって、長女は学校にも通えず、涼司くんも就学前の様々な手続きが出来ていないままだった。

一方の佳穂は、幼いころからしっかり者で通っていた。両親が離婚し、父親とその再婚相手のもとで育った佳穂は、厳しい父親に体罰を受けながらも6人の異母弟妹の面倒をよく見たという。
性格も穏やかで、高校を卒業後は看護師の道を志す。

ところが、看護師にはならず職を転々とし、姫路市内のスナックでホステスとなった。そこで出会ったのが、長女と涼司くんの父親だった。
結婚し、二人の子に恵まれたものの生活はどん底だったという。子育て中の佳穂は仕方ないにしても、一家の大黒柱の夫は怠け者だった。
パチンコ屋に入り浸り、あっという間に借金が膨れ上がった。一家は夜逃げ同然で家を出ると、幼い子供二人を連れて車中泊をなんと1年以上続けたという。

佳穂は夫を恨んでいた。事件後の検察の調書にも、最初の結婚は失敗であり、生活に疲れ果てていたと供述した。

そしてこの時の夫への恨みが、後に涼司くんと長女に対する憎悪としか思えないような所業につながっていく。

「佳穂は長男を憎んでいた。自分から見てもそれは異常なほどだった」

裁判で理はこう述べていた。
佳穂はそれについて、弁護士に対し「今のすべての原因は前夫にある。自分の人生を狂わせた男。長男は成長するにつれ、その男に似てきた」と語っている。

その憎き夫との痕跡を消し去るかのように、前夫との間にできた長女と涼司くんを虐げたのか。
そして、理との間に次から次へと子供を作った。しかし生活は一向に楽にならない。現実から目を背けるように、理と2人でパチンコに興じた。家事は放棄し、学校に通わせてもらえない長女に押し付けた。
長女は弟が死ぬのをずっと見続けていた。佳穂はそんな長女に、「誰にも言うな」と口止めしていた。

一家が暮らした場所は、亀屋と播磨区亀山、播磨区都倉の境に位置していた。周辺は昔からそこで暮らす人々が多く、回覧板を回したり、地域の交流も多い地域だったというが、山本家に子供が5人もいたことは誰も知らなかったという。

佳穂が涼司くんの遺棄場所に選んだ香寺町の奥須加院は、前夫と暮らした場所に近かった。
そこにわざわざ捨てたのは、何か意味があったのだろうか。

佳穂は「残った子供を引き取ってやり直したい。子供に必要とされる母親になりたい」と話したというが、ふたりは涼司くんが死亡した後、ほかの子供たちにも虐待行為を行っていた。

神戸地裁姫路支部は、理に懲役10年(求刑懲役12年)、佳穂に懲役8年(同10年)を言い渡した。
2人は控訴せず、確定した。

酒井 〇〇さん(名古屋市千種区:平成8年12月23日死亡/当時11歳)

平成8年10月、名古屋市千種区内のとあるアパートを近くの交番の巡査が訪ねていた。
玄関先にはペットボトルやゴミが散乱、家に入る前からその家が全く機能していない様子が窺えた。
警察官がこのアパートを訪ねた理由は、学校からの相談だった。
このアパートに家族で暮らしている小学6年生の女児が、2学期以降学校へ来ていないというのだ。
学校関係者が週に1〜2回、様子を見にアパートを訪れたが、母親とは会えたものの、肝心の女児の様子は全くわからずにいた。対応した母親によれば、「学校へ行きたがらない」「体調を崩しているだけ」「何日かすればまた通わせる」とのことで、面会は断られた。

学校は、父親に宛てて女児の様子を確認したいので話がしたいという手紙を母親に手渡したというが、その後返事はなかった。

9月半ば、学校は区役所を通じ児童相談所に通告、その上で、女児の意思による不登校なのかそれとも病気なのかの判断がつかず、警察に調査を依頼していた。

玄関を入ると、そこからすぐの六畳間に布団が敷かれ、女児が寝ていた。女児の布団の周囲には、というか、部屋の中がゴミだらけ。女児の寝ている布団も衛生的とは思えなかったが、警察官が声を掛けると、女児はモゾモゾと布団から起き上がった。こもっていた部屋の空気が動き、耐え難い悪臭が鼻をつく。

「立てるか?」

警察官の問いかけに、女児は「少しエラいけど」と言いつつも、すんなりと立ち上がったという。
傍の母親に、警察官は病院へ連れて行くよう言い、その家を後にした。

それから2ヶ月後、女児はゴミの中で顔を覗かせるようにして、死んだ。

放置された少女

女児の死が事件として扱われたのは、それから半年後のことだった。
平成9年6月4日、千種署は女児が食欲不振から体調不良になっているのを知りながら、病院へ連れて行くなど保護者としての適切な対応を怠ったとして、女児の両親を保護責任者遺棄致死容疑で逮捕した。

逮捕されたのは名古屋市熱田区在住の酒井誠(名のみ仮名/当時62歳)と、妻の美喜子(名のみ仮名/当時54歳)。
死亡したのは二人の次女で小学6年生だった女児。報道で名前が明かされていないため、ここでは次女、とする。

司法解剖の結果、次女は極度の栄養障害と、体の傷が悪化し感染を引き起こしての敗血症で死亡したとわかった。体重は、わずか25キロ。

体の傷、というのは、いわゆる褥瘡(じょくそう)だった。

平成8年12月23日、母親は朝から外出していたといい、昼過ぎに帰宅したところ同居している次男(当時17歳)から、「妹が息をしていない」と伝えられ、慌てて119番したとのことだったが、すでに死亡していた。

事態を受けて学校は最悪の結末に言葉を失った。
次女が通っていた小学校の教頭は、
「まさかこんなことになるとは。親が大丈夫といえば、それを信じるしかなかった。ある一線以上は家庭内に踏み込めない。」
と朝日新聞社の取材に答えた。

ただこの時点では事件性があるかどうかの判断は難しかった。
次女が死亡する2ヶ月前に警察官が対応した際、次女は自力で立ち上がっていた。当の警察官も、まさか2ヶ月後に死亡するような状態だったとは思えなかったと話していた。
病院に連れて行った形跡がなかったのも、実はこの家庭は国民健康保険料の未納が続いており、10月の時点で保険証が使えなかったのだという。
次女の体には褥瘡はあったものの「虐待」を思わせるような暴行の形跡はなかった。家族の聞き取りでも、「虐待」があったことは窺われなかった。

その上で、慎重に聞き取りを重ねた結果、次女の体の状態を考えれば介護が必要だったことは明白で、病院に連れて行ったり適切な食事や住環境を整えるといったことが出来ていれば敗血症にはならず次女は死ななかったと判断、両親を「不作為犯」として保護責任者遺棄致死容疑での逮捕となった。

実は次女の容体は警察官が対応した直後から急激に悪化の一途を辿っていた。食事を摂れなくなり、自力で立ち上がることも難しくなっていたといい、親戚や別で暮らしている長男(当時23歳)が訪ねてきた際、「病院へ連れて行くように」と母親である美喜子に忠告していた。
しかし美喜子は、「病院代もないし、本人が嫌がっている。」として次女を病院へ連れて行くことはなかった。
父親の誠は、次女が体調を崩していることは知っていたが、「風邪をひいているだけ」と思っていたという。
加えて、早朝から仕事に出ていたことで、子供らのことは全て母親任せだった。

美喜子は家事がとにかくできなかったといい、家の中がゴミ溜めのようだったこと以外にも、食事は三食コンビニ弁当だった。

ただ、この家には両親と次女だけが暮らしていたのではなかった。

この六畳二間しかないアパートに、両親と次女のほか、別居している長男を除く会社員の次男(当時23歳)、無職の長女(当時21歳)、三男(当時17歳)の計6人が生活していたのだ。

普通、寝たきりで放置されていたら家族の誰か一人くらいは何か言うのではないのか。たしかに、別居している長男は病院へ連れていくよう言っていたようではあるが、なぜそれで終わってしまったのか。

精神鑑定

暴力をふるっていたわけでもなく、いくら病院代がなかったからと言って具合の悪い子供を病院に連れて行かないという理解しがたい事態に、警察は長男を含めた兄姉についても全員を被疑者として調べていたが、両親が健在である以上、兄姉に保護責任はないとして立件はしなかった。

保護責任者遺棄致死で起訴(父親の誠は在宅起訴)されたものの、弁護側は当然と言っては語弊があるかもしれないが、「二人には精神障害があり、保護責任能力がなかった」として無罪を主張、同時に精神鑑定も求めた。

死亡した次女は悲惨な状況で死亡していた。

ゴミ溜め同然の部屋の中で8月下旬からは寝ていることが多くなり、10月以降はほぼ寝たきりになっていた。風呂にも入れず、汗をかいても汚れても着替えすらさせてもらえず、いつからか排泄物も垂れ流す状態になっていた。
それでも美喜子は娘を清潔にすることすらせず、ようやく体をタオルで拭いてやったのは、次女の体にできた褥瘡にウジがわいてからだった。

その状態でも、父親の誠は「(寝たきりになっているとは)知らなかった。風邪だと思っていた」という。
法廷での両親は、おどおどとして、小声ながらも言葉遣いなどは丁寧だった。しかし一方で、自宅の住所を聞かれても、ふたりとも正確に答えることができなかった。

美喜子は時折涙を拭うしぐさを見せながら、起訴事実についても「間違いございません」と全面的に認めた。

美喜子については人によってその印象が違う。
法廷での美喜子は先にも述べたが、肩を落とし目線を落とし神妙な様子だったが、逮捕直後の取り調べでは警察官に対し威圧的な態度をとっていたといい、「(娘が)死んだのが自分のせいだというなら、それはそうだろう」とふてくされていた(毎日新聞/平成9年7月25日中部朝刊22頁より)。
逮捕されるまでの美喜子を知る人々からも、辛辣な評価が並ぶ。
近所の高齢男性によれば、美喜子は怒りっぽく、話にならないため誰も付き合おうとしなかったと話した。10年以上暮らしていたというその千種区の家は掃除をすることもなく、洗濯物すら干されているのを見たことがなかったという。
「普通の常識では測れない人」
そう男性は中日新聞の取材に答えている。

他にも、飼い猫のことで注意したら逆ギレされて怒鳴られた人もおり、近所でも皆、美喜子とその家を避けていたこと、いや、酒井家が周囲を拒絶していたことは明らかだった。

弁護士に対しても、当初美喜子は反発心を隠さなかったという。
しかし根気よく面会を続けた弁護士に対し、7月に入って突然、「弁護士さんだけが分かってくれる」と言って号泣したという。
美喜子にとって、子供たちの中でも末っ子の次女はことのほか、可愛く大切な存在だったと、弁護士に話した。

毎日新聞社の取材に答えた精神科医・加藤正医師によると、美喜子はアダルトチルドレン(AC)の可能性が高いという。
愛していた次女を病院に連れて行かなかったのは、AC特有の劣等感が関係しており、責任を感じるあまりに自分の殻に閉じこもり、現実逃避を続けるしかなかった可能性をあげた。

悲惨

裁判では2度にわたって美喜子に対して精神鑑定が行われたが、責任能力なしとする鑑定と、一部責任能力に欠けるとする鑑定が提出された。
当時の言い方で言うと、美喜子は「単純型精神分裂病」であり、かなり以前に発病していたと考えられ、感情の変化が激しいこと、子どもに情緒的に接することができなかった、という。
また物事や将来を考えて行動する能力や、社会生活の処理能力が低いため、子どもを適切に保護することはそもそも難しかった、とされた。

酒井家は経済的に非常に困窮していたのは、健康保険料が未納だったことなどからも分かるが、実は美喜子の浪費も大きな問題だった。
少しの移動でもタクシーを使い、必要な支払いをせずに食料や安物の服などを大量に買い込むなど、生活費の配分も普通ではなかった。しかもあの朝、美喜子は美容院へと出かけていたのだという。
その結果、愛してやまない末娘が病気になっても、役所に事情を話すといったことが考えられず、この状態を他人に責められることを恐れ「なにもしない」ことを選択した。

法廷で証言に立った22歳の姉によると、病院へ行ったほうがいいのではないかと兄姉が次女に言っても、次女は泣いてそれを拒否したという。
美喜子もそう言っていた、次女が病院へ行きたがらないのだと。

しかしその本当の理由を、姉はこう証言した。

「不潔な状態の自分の姿を、見られたくなかったんだと思います。」

平成11年12月10日、あの日のように寒い12月のその日、名古屋地裁の三宅俊一郎裁判長は、美喜子に対し人格障害を認め、それによって行為の是非善悪を弁別して行動する能力が減退していたが責任能力はあったとした。
その上で、誠に対して懲役3年執行猶予4年、美喜子に対しては心神耗弱を理由に懲役2年執行猶予3年の判決を言い渡した。
この報道以降、それまで一切を伏せられていた両親の氏名も公表された。
弁護人は判決を受けて激しく反発、美喜子と誠のように親が監護する意思があってもできなかった場合に、どうその子供を救うかが問われた事件だったはずなのに、判決は「親の責任で何とかしろ」と言っているにも等しいとして批判した(読売新聞社 平成9年12月10日中部朝刊31頁)。

その後最高裁まで争われたが、平成12年10月2日までに最高裁は上告を棄却。二人の判決は確定した。

この裁判で、美喜子の精神鑑定は行われたが、父親の誠については精神鑑定の申請が却下されていた。
他の虐待、無理心中などの事件でも、母親に対しては精神鑑定が行われるケースは多いが、父親に対しての精神鑑定はなぜか行われないことが多いという。
酒井家の場合、そもそも美喜子だけの問題とは思えなかった。片付けが下手とか、そういうレベルではなかった。それを、家族の誰も正そうともせず、悪臭漂う六畳二間で成人が4人、17歳と11歳の合わせて6人が暮らしていた。それ自体、もはや常識では考えられない状態だった。

どこか、おかしい家族。

あの、伊勢崎の主婦監禁を家族ぐるみで行った家族にも通じるものがある気がする。金井家にはあった凶暴性が酒井家にはなかったことは救いの一つだが、それでも結末はまさに同じだった。
愛している、大切にしていたものが手に負えなくなった時、家族は何もしないことを決めた。ただ、時間が過ぎていくのを眺め、彼女たちが朽ちていくのを、このままでは多分ダメだとわかっていながら、何もしなかった。

そして、彼女たちは朽ちてしまった。

もがく家族と、傍観する家族

二つの家族は同じように子供が死亡したが、名古屋の酒井家が何もしない傍観する家族だったのと違い、姫路の山本家はとにかくもがきまくった家族だった。

佳穂は最初の結婚が早い段階で失敗だと気付いたが、それはおそらく自分が想像していた以上の「失敗」だった。貧困にあえぐ家庭は山ほどあるが、幼子を抱えて一家で車上生活を1年も続けるまで堕ちるケースは日本においてそう多くはない。

そんな時に現れた理は、というか、この状況よりも悪い状況の男の方が少なく、佳穂は飛びついた。

しかし今度こそはと思った男は、まさかの前夫よりも最悪だった。

ふたりは立て続けに子供を作った。まだ年端も行かぬ上の前夫との間にできた2人の子供を消し去るかのように。
佳穂の実母が死亡したことで手にした保険金で再起を図ろうとしたのかもしれないが、長年染み付いた怠惰な性格は変わらず、生活を立て直せず再び生活は困窮する。
理と佳穂がしたことといえば、サラ金から借金をしパチンコ屋へ通い、子供を作って空き巣をすること。

この姫路の事件の後、兵庫県内ではあの勢田恭一君の事件が尼崎で起きた。
勢田恭一君の事件については事件備忘録でも記事にしているが、過去に新潮45において中尾幸司氏による詳細なルポが公開されている。
中尾氏は事件そのものよりもどちらかというと母親の生い立ちとその家族、そして加害者である夫婦の行動に焦点を当てていた。
それによると、勢田家は頻繁な引っ越しという名の夜逃げを11回も繰り返していたというが、なぜかその引っ越し先は似通っていた。
瀬田家が選ぶその場所は、境界の場所。雑多な、文化住宅がひしめくような場所しか瀬田家の経済状態、信用履歴では借りられなかったが、それでもその一本通りの向こうは、旧家が立ち並んでいたり、高級住宅地と言われるような場所だったという。
瀬田家、特に母親がそのような場所を好んでいたというが、取材者の中尾氏はそこに瀬田家の母親が必死で逃れようともがいていた痕跡を見て取っている。

この姫路の山本家はどうだろうか。瀬田家同様、夜逃げ同然で引っ越しを重ね、債権者に知られないために住所を移動させていなかったが、同じ校区内での引っ越しだった。
瀬田家ほどあからさまではないにしろ、事件当時に暮らしていた姫路市亀山のアパートもまさに、播磨区都倉、播磨区亀山地区の境界地点にあった。
その地域に詳しくないので的外れかもしれないが、地図を見るとそのアパートの向かい側から東に広がる地区(播磨区亀山・播磨区都倉)を走る播磨街道沿いには旧家、旧いけれど大きな家などが見られるが、アパート周辺「だけ」は某政党のポスターがそこかしこに貼られていたり、同じ古い家でもその趣は違って見える。
播磨区都倉、播磨区亀山の住民によれば、たとえ目の前の家でも地区が違えばさほどかかわりもないのだという。
実際に住んでいた亀山地区も、自治会や子供会などの活動は活発だったが、山本家の家族構成すら、知っている人はいなかった。

佳穂は自分の境遇を嘆き、自分の選択であるにもかかわらず前夫のせいにしていた。しかしなんとかこの状態から逃れたい、そういう思いもあった。
子供が5人もいるのに、子供会はおろか学校にすら通わせていない現実。どんな思いで日々暮らしていたのか。
同世代の母親らを、どんな思いで見ていたのか。

存在すら認知されていなかったその場所で。

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参考文献