愛を乞う人Part2~練馬・長男殺害事件~

この記事を転載あるいは参考にしたりリライトして利用された場合の利用料金は無料配信記事一律50,000円、有料配信記事は100,000円~です。あとから削除されても利用料金は発生いたします。
但し、条件によって無料でご利用いただけますのでこちらを参考になさるか、jikencase1112@gmail.comまで連絡ください
**********

 

平成11年3月28日、三鷹市の杏林大学医学部付属病院で、2歳2カ月の小さないのちが消えた。
井戸雄斗ちゃん。雄斗ちゃんは11カ月前の平成10年4月15日から、この病院に入院していたが、実はすでに脳死状態が続いていた。

脳死状態になった原因は、低酸素脳症による呼吸不全。
そしてそれは、実の母親の、思いもよらない理由から行われた虐待によるもだった。

平成10年4月15日

通報があったのは練馬区東大泉のマンションの一室。救急隊員が駆け付けると、部屋の中で幼い男の子が倒れていた。
傍らにいた母親らしき女性に話を聞いたところ、自分が平手打ちしたと話したため警察官も臨場した。

救急搬送された男の子は、救命医らの懸命の治療で一命はとりとめたものの、その2日後には脳死状態となってしまった。

治療にあたった医師が母親から話を聞いてはいたが、男の子の症状と母親の話が合致しない部分があった。男の子を平手打ちしたと母親は話していて、確かにその痕跡はあったが、それ以外に男の子は首を絞められた痕跡もあったのだ。

医師から事情を聞かれた母親は、その説明の矛盾点を突かれると
「私が首を絞めました」
と犯行を認めた。

しかし母親の精神状態が安定していないことから警察はすぐに逮捕はせず、精神科の医師による診察などを経るなど慎重に捜査を進めていた。

そして平成11年2月になって、母親が取り調べにも耐えうる状態であることなどから、殺人未遂の疑いでこの母親を逮捕した。

逮捕されたのは練馬区東大泉在住の主婦、井戸若葉(仮名/当時32歳)。脳死状態になっていたのは、若葉の長男・雄斗ちゃん(当時1歳3か月)だった。

当初、調べに対して若葉は「雄斗がむずかるのに腹が立ち、以前から叩いたり噛みついたりしていた。あの日も泣き止まないので首を絞めてしまった」と話していたため、警察では日常的な虐待の末に、言うことを聞かない幼い我が子を発作的に殺害したとみて捜査を続けていた。

そして若葉の逮捕から1か月半後、雄斗ちゃんは死亡した。

若葉にとって雄斗ちゃんは初めての子育てであり、泣き止まないことから手を上げ、それがエスカレートしたというような、言い方は悪いがありがちな事件かに思われたが、捜査段階からその本当の理由が実は別にあったことが判明していた。
たしかにあの日、雄斗ちゃんはぐずっていた。が、そのぐずっていることに腹を立てたわけではなく、若葉にとって雄斗ちゃんの存在自体が許せないものだった。

若葉はある人物との関係に思い悩んでいた。
そしてそれは、雄斗ちゃんさえいなければ、生まれてこなければ、その人物との関係が壊れることもなかったのであって、若葉にとって雄斗ちゃんの存在は忌むべきものに成り代わっていたのだ。

その人物とは。

それは、若葉の「母親」だった。

若葉は昭和41年生まれ。特に家庭に問題もなく、若葉自身もごく普通の成長過程を経て大人になった。
平成2年、東京都内の製版会社に就職、そこで知り合った男性と同棲し、平成5年には正式に籍を入れた。

婚姻届けを提出する際、若葉は母親に保証人欄への署名を求めたが、そこで衝撃の事実を知ることとなる。

若葉の母親は、実の母親ではなかったのだ。

若葉が生まれた直後、両親が離婚。そして若葉が3歳の頃に実父が再婚したのが、この母だった。幼かった若葉には、両親の離婚も実母の顔も全く記憶に残っていなかったようで、今の今まで、母は実母だと信じて疑っていなかった。
ただ、思い返せば母に対し、なんとなく冷たいな、と感じることはあったという。
精神的に動揺した若葉だったが、予定通り入籍し、その後も母とはそれまで通りの関係を続けていた。

「あんたもこの子を捨てるの?」

平成9年、雄斗ちゃんが誕生。初産に不安を感じていた若葉は、母にそばにいてほしいと思っていたが、その日は元旦だったこともあってか、母が若葉の出産についてくれることはなかった。
若葉は無事大仕事を終えたことでホッとしながらも、母が来てくれなかったことに落胆していた。

1月4日になってようやく母が若葉のもとを訪ねてきたが、若葉はお産を見守ってくれなかったことへの落胆や反発心から、母に対しつっけんどんな対応に終始した。

退院後の1月下旬、雄斗ちゃんの健診があり、若葉は母と連れ立って健診へ向かった。ところがなぜそんな話になったのかは不明だが、道中で母から「あんたもこの子を捨てるの?」と言われたという。
若葉はそんなことするわけがないと即座に言い返したが、心の中では、
「もしかしたら私も同じことをするのだろうか?」
という不安が芽生えていた。
以降、若葉はこの漠然とした不安と、母への反発心に苛まれることになる。

4月、夫と共に雄斗ちゃんを連れて実家を訪ねた際、またもや若葉と母の間でひと悶着起きてしまう。
母が何気に雄斗ちゃんのことを「私の孫」と言ったことに、若葉は激しく反発した。若葉からしてみれば、出産のときそばにいてくれなかったのに、母親らしいこともしてくれなかったのになにを言うのかという思いがあった。同時に、なぜここまで些細なことで母に対して反発心が起こるのか、若葉にもよくわかっていなかった。

その後も、母の口から「孫」という言葉が出るたびにケンカになった。若葉は孫と言われた回数を数え、母も母で若葉の気持ちを理解したい一方でやはりなぜそこまで些細なことにこだわるのかが理解できずに、結局絶縁状態になってしまった。

そしてこの母とのケンカ別れが、若葉の心を闇へと引きずり込むことになってしまう。

この子さえ生まれてこなければ

若葉はそれ以来、雄斗ちゃんに対して虐待を加えるようになる。
泣き止まない、言うことを聞かない、そんなときには平手打ちした。また、雄斗ちゃんがおとなしくしていても、自分のイライラが募ったときにはその頬にかみついたり、足を爪でひっかくといった行為をしていた。

当然、夫はそのようなことをやめるよう言っていたが、仕事で家を空けがちな夫はやがて見てみぬふりのような状態になっていった。

そして事件当日を迎える。

その日は朝夫を送り出した後、雄斗ちゃんに離乳食を与え、四畳半の部屋で雄斗ちゃんとテレビを見て過ごしていた。雄斗ちゃんはぐずりもせずにおとなしく遊んでいたが、昼過ぎになっておなかが空いたのか、ぐずり始めた。
若葉はそれを無視し、雄斗ちゃんがぐずるのを放置していたところ、雄斗ちゃんはいったん泣き止み、また遊び始めたという。
ところが午後2時半ころになってまたぐずり始めた。
この頃、若葉は雄斗ちゃんがぐずると、母とケンカ別れした時のもやもやとした感情が沸き上がり、雄斗ちゃんのぐずりと重なってさらにイライラが募るようになっていた。

私がこんなに悩んでいるのに、どうしてこの子はそれを邪魔するかのようにぐずるのか

この日、若葉は雄斗ちゃんにかみつく、平手打ちするにとどまらず、倒れ込んだ雄斗ちゃんの顔を足で踏みつけた。雄斗ちゃんが泣けば泣くほど、本来ならばイライラが解消されるはずなのに、この日はどれだけ雄斗ちゃんを叩いても解消されることはなかった。

そのうち、若葉はそもそも母との関係がこじれたのは雄斗が生まれてきたからだと思い始めた。なにもかも、私の悩みもイライラも、全部雄斗が生まれたからだ。こんな子は産まれてこなければよかったのだ。生まれてこなかったら、今でも私と母は、母娘のままでいられたのに。

若葉は雄斗ちゃんの首を両手で絞めあげた。どれくらい締めたろうか。雄斗ちゃんは激しく痙攣していたが、若葉は何をするわけでもなく、ただ雄斗ちゃんを見下ろしていた。

そして夜の7時になってようやく、119番通報した。

愛を乞う人

裁判では、若葉の精神状態について争われたが、一連の行動からは理解不能というほどのものは見受けられず、いずれの言動も了解可能であるとして完全責任能力が認められた。

検察は、幼い我が子に理不尽な思いを募らせた挙句の犯行で結果は重大、酌量の余地はないとして懲役5年を求刑。対する弁護側は心神耗弱を主張し、執行猶予を求めた。

東京地裁の阿部文洋裁判長は、短絡的かつ身勝手な犯行であるとし、幼い我が子に馬乗りになってその首を絞めた行為は悪質であり、結果数か月にも及ぶ脳死状態の末に命を奪われた雄斗ちゃんは誠に哀れというほかなし、と述べた。

一方で、現在では雄斗ちゃんに対し涙ながらに後悔の念と謝罪を口にし、また日常的な虐待についてはそれを知りながら積極的に止めようとしなかった夫の態度にも大きな問題があるとした。
そして根本である母との確執についても、若葉の精神状態を不安定なものにしたと認めた。

夫は事件後も若葉とは離婚せず、相応の刑に服す必要はあるにせよ、出来るだけ軽くしてほしいという思いを持っていた。夫の母親も、孫を殺害された立場ではあるものの、法廷に立って若葉の更正に協力すると証言していた。

平成11年12月10日、東京地方裁判所は若葉に対し、懲役2年6月未決勾留日数210日算入の判決を言い渡した。

若葉はなぜここまで母との関係にこだわったのか。
実母だと信じて疑わなかった母が、実は継母であることを知った時の衝撃は計り知れない。
実母ではないと知ったことで、若葉のそれまでの人生の「母の愛」は、「母の愛」ではなかったことになってしまったのだろうか。だから、執拗なまでに自分に対する母としてのふるまいにこだわったのか。
一方で抗いがたい感情としての、実母ではなかった母への恨みも垣間見える。本来ならば思春期の辺りで「ほんとの親でもないくせに!」的なやりとりを経験するところが、大人になって母になってから、それをするしかなかった。

自分が欲しかった母の愛を、自分が母となった以上本来ならばそのままわが子に向ければよかったわけだが、それ以上に若葉には「母から愛される自分」の方が大事だったのか。

しかし法廷で、我が子を殺してでも取り戻したかったその母が若葉に寄り添うことは、なかった。

****************

参考文献

平成11年12月10日/東京地方裁判所/刑事第7部/判決/平成11年(合わ)80号