私がやらなければ~大阪・実父殺害事件~

大阪家庭裁判所にて

夏の日差しが日に日にその強さを増してきた7月、大阪家庭裁判所では一人の少女に対する保護観察処分の決定がなされた。

少女は16歳、大阪府内の高校に通う高校生だった。

しかし少女が犯した罪は、殺人。しかも被害者は、実の父親だった。
検察官送致もあり得る実父殺害だったが、大阪家庭裁判所の判断は、
「本件の決定的要因は父親にある」
とし、少女を少年院などに送致することはむしろ少女の円滑な社会復帰を妨げるとの観点から、保護観察官による直接的、長期的な指導がなされるべきというものだった。

少女と父と、その家族の辿った道のりとは。

その日

昭和60年5月19日未明、東大阪市内の病院に男性が救急搬送された。
男性は腹部に一か所、刃物で刺されたような傷を負い、そこからは激しく大量の出血があった。
医師らの救命もむなしく、男性はそのまま息を引き取った。

亡くなったのは、東大阪市在住の大平耕三さん(仮名/当時42歳)。耕三さんの腹部の傷は、腹部大動脈に達する深さ12センチの傷で、死因は腹部大動脈切破による失血死だった。

耕三さんは自宅でいたところを刺されており、警察は家族から事情を聞いたところ、その家の16歳になる次女・真由美(仮名)が刺したことを認めたため、父親殺害の容疑で逮捕した。

真由美は取り調べに対し、その日母親とケンカしていた耕三さんが暴れたため、止めるためには殺害する以外にないと思い詰め、台所にあった長さ21センチの刺身包丁で耕三さんの腹部をひと月にした、と話した。

この家には、耕三さんと妻のほか、真由美を含め4人の子供らがいたが、耕三さん以外は全員無事だった。

しかし夫婦喧嘩の仲裁に子供が入ることはあるとしても、いきなり父親を刃物で刺す、というのは突飛な行動にしか思えなかったが、この大平家では、もうずっと前から火種はくすぶり続けていたのだった。

一家のそれまで

大平家は、先にも述べたように耕三さん、妻、子供4人の6人暮らしだった。
鉄工所の工員として働いていた耕三さんは、昭和46年にその鉄工所を退職し、自営業となった。
自宅に併設された工場では、妻も子育ての傍ら手伝いをし、子供らも働き者で愛情深い両親の元何の問題もなく平和に育っていた。

鉄工所の経営は、右肩上がりとは言えずとも食べていくのには困らず、ある時取引先から不渡り手形を掴まされた時も、耕三さんはやけにならずに対応し、事業を縮小して経営を続けた。
従業員も雇い、日々忙しく働く中でも、子供たちに対しては休日にドライブに連れ出すなど、良き父親でもあった。
当然妻も子供らも、父として夫として耕三さんをしたい、尊敬し、大平家は平和な日々を送っていたようだった。

しかし昭和58年7月、耕三さんは交通事故に遭う。幸い、ケガは骨折程度で済んだものの、しばらくは仕事の指図や段取りしかできなくなり、元来働き者だったために暇を持て余すようになっていった。
その暇ができたことから、耕三さんは夜な夜な飲み歩くようになってしまう。事故で賠償金などが入ったことも、耕三さんの気を大きくした一因だったが、それよりも耕三さんの酒好きに拍車がかかったのが問題だった。

まじめな人ほど一度タガが外れると手に負えないとはよく言うが、耕三さんもどうやらそうだったようで、酒の量はどんどん増えていった。
帰宅時間もどんどん遅くなり、しかも泥酔して帰宅することも増え、妻との間で諍いも起きるようになった。
だいたい察しはつくと思うが、ここまでくると次に出てくるのが「浮気」だ。
行きつけのスナックのママと親しくなった耕三さんは、骨折の再手術で入院した際、そのママを頻繁に病室に呼ぶようになった。
その関係は他の入院患者らにも勘繰られるほどだったと言い、そしてそれは妻の耳に入ることとなる。

変わってしまった父

妻に気付かれたことで、自粛するかと思いきや、耕三さんは開き直った。
当然、妻とは飲みに出るたびに口論となり、それはやがて暴力へと変わっていく。
昭和60年になると、耕三さんの態度は相当に悪くなっていたといい、仕事も放りだしてしまった。
妻はそんな夫に成り代わって鉄工所の経営も担っていたが、その負担は相当大きかったと思われる。

耕三さんは、妻から小言を言われると、暴言を吐くようになった。「殺してやる!」「カタワにしてやる!」などと物騒な言葉を吐き、さらには暴力を振るうようにもなった。
煙草の火を押し付けたり、顔を殴る、そして時には包丁を持ち出すこともあったという。
子どもたちはそのたびに止めに入っていたが、その子供たちを押しのけてでも、妻に暴力を振るっていた。

あまりに父の興奮が冷めやらないときは、子供たちは近くの交番に連絡したり、普段から刃物を父親が分からない場所に隠すなどの自衛もしていた。
妻の生傷は絶えず、何度か離婚を考えたとは言うが、育ち盛りの子供4人を抱えて生きていくには躊躇せざるを得なかった。

あんなに優しく頼りがいのあった父の、瞬く間の変貌ぶりに子供たちは戸惑い、悲しんでいたが、一向に止むことのない暴力と深酒に、次第に子供たちの気持ちも「父がいなくなってくれたらいいのに」と思うようになっていった。

そしてその気持ちを一番強く持っていたのは、真由美だった。

「私がやらなければ」

その日、耕三さんは昼からすでに酒を飲んでおり、そのことで妻に小言を言われていた。
その後友人が迎えに来て外出し、帰ってきたのはやはり深夜近くで、泥酔していた。
実はこの時、耕三さんは怒りに満ちていた。昼間、妻に小言を言われたことを根に持っていたのだ。
風呂からあがってきた妻を呼び止めると、子供たちを家の外に出したうえで妻に対し暴言を吐き始めた。

「この女よう昼間恥かかして、ちょっと仕事しよると思って大きな顔しやがって!」

しかし妻も黙っていなかった。

「あんた昼間から酒飲んどいてなによ!」

耕三さんはその妻の言葉で逆上し、妻の腕をつかむと「指を詰めてやる」と言い、殴る蹴るの暴行を働き始めた。
あまりのひどさに妻が悲鳴を上げると、外にいた子供たちが家に駆け込んできたが、それでも耕三さんは暴行をやめようとしなかった。
子供たちは母を救うために父を止めようとするものの、激高している耕三さんは意に介さず、「お前らは外に出とけ!!」というばかり。

なす術もなく子供たちは再び外に出たが、真由美はこの時とっさに、電子レンジの中に隠してあった刺身包丁を取り出すと、弟の机の引き出しに入れた。

いつにも増して興奮している耕三さんの様子に、子供たちも再び止めに戻ったがそれでも止まないため、真由美は警察を呼ぶしかないと考え、「警察呼ぶで!」と叫んで子供部屋の受話器をとった。すると耕三さんは鬼の形相で近づいてくると、電話のコードを引きちぎったうえその電話機を玄関に投げ捨てたのだ。
そしてまた、妻に殴る蹴るの暴行を振るった。子供たちは警察を直接呼ぶため交番へ走っていった。

ひとり残った真由美は、目の前で悲鳴を上げる母親を助けようとしてもその術がなかった。
父はどうしてしまったのか。あんなに優しく大好きな父だったのに。

真由美は、弟の机の引き出しをそっと開けた。

「私がやらなければ。」

真由美

大平家の惨劇は、近所の人々はもちろんのこと、真由美が通う高校の関係者にも衝撃を与えた。

16歳の少女が、実の父親を刺し殺すという大変な事件ではあったが、その背景や事件が起こる経緯にはその誰もが同情を寄せた。

真由美はどんな少女だったのか。

幼い頃から明るくて誰からも好かれていたという真由美は、小学校は6年間皆勤賞、中学でも欠席は3年間で1日だけという、まじめで勤勉な少女だった。
リーダー気質もあったというが、思いやりのある少女だったことで級友からの信頼も厚かったという。
事件後、収容された少年鑑別所でも教科書を持ち込み、しっかりと勉強していずれは元の高校に復学したいという願いも当然持っていた。

ただ、いくら同情が集まったとはいえ、それでも結果の重大性を考えればそう簡単にいかないのでは、という見方も当然あった。
また、真由美自身、まじめで正義感が強い半面、融通が利かない、極度の完全、潔癖主義といった面も窺われた。そして、なんでも自分がやらなければというひとりよがりの気質もあり、それがこの事件を引き起こした要因の一つとも言われた。

真由美が包丁を隠した時、弟がそれを見ていたという。
弟には、姉が何を考えているのか分かったのだろう、「姉ちゃん、やめときや」
弟はそう言って姉に冷静になるよう忠告していた。
しかし真由美は、もうこれしか方法がないのだという考えに凝り固まり、他の兄弟が交番へ走っているにもかかわらず自ら父を刺すという行動をとったあたりは、確かにそのような指摘される一面があると言える。

くわえて事件後の真由美の態度は、自己を正当化し、我こそが母を、家族を救ったのだと言わんばかりの態度も垣間見えたという。

検察官や少年鑑別所の考えは、少年院送致だった。そこで時間をかけて、事件と向き合い自身の足りない部分を専門家らの助けを得ながら補っていく、それが更生への近道であるとした。

しかし、裁判所の判断は冒頭の通り、保護観察処分だった。
家庭に戻し、地域社会の中で見守っていく、それこそが真由美のためであると判断したのだった。

もちろんこれには周囲の理解があった。
高校は協議の結果、真由美を受け入れる態勢を整え、本人の希望通り復学させると伝えていたし、近隣住民らも真由美が家に戻ることを受け入れ、地域で助けていこうという気運も高まっていた。
決定が下されるまでの間は、毎日のように高校の教諭が鑑別所を訪れ、真由美に個別授業を行うほど、皆、真由美のそれまでと、そしてこれからを考えていた。

そしてなによりも、この事件が起こった要因が被害者である父・耕三さんによる部分が大きいことは、誰の目にも明らかと言えた。

この事件については新聞報道もあったのだとは思われるが、見つけることができなかった。
ただ、これより前にあった香川の父親殺害事件では、その事件が起こるに至った経緯がこの大阪の事件よりも深刻だったにもかかわらず、少女に対する決定はかなり差のあるものとなった。

事件そのものの背景や経緯は十分吟味されるとしても、それでも殺人という結果を本人がどうとらえているか、また周囲の少年少女らに対する受け止め方、それが家庭内の事件なのかそうでないのかなど、少年事件においては成人のそれとはまた違った判断が求められるのだと感じる。

父のいなくなった家は、真由美にとってどんな風に見えたのだろうか。

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参考文献

昭和60年7月15日/大阪家庭裁判所/決定/昭和60年(少)4748号
家庭裁判月報38巻3号118頁
D1-Law 第一法規法データベース

 

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