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当初、その事件は「自殺」との見方で処理されかけていた。
浜松市内の瀟洒なマンションで、若い女性が自室のベッドで死亡していたのを、連絡が取れないことを不審に思った同市内にある実家の母親らが発見、通報したのだ。
遺体はあおむけ、着衣に乱れはなかったが、特に抵抗した様子がなかった。遺体の傷も、致命傷とみられる首の傷のほか、体のいたるところに細かい切り傷が無数にあった。まるでそれは、ためらい傷のようだった。
しかし、自殺に用いられた刃物が、部屋の中の何処にもなかった。
流しの下には包丁があったが、普通、自殺を試みた後でわざわざ刃物を洗い、流しの下へ戻してからベッドに横たわったりするだろうか。
一方で、他殺にしては争った形跡が顕著ではなく、部屋の中も少々散らかってはいたが、いつもと変わらない部屋の中で、その主だけが、変わり果てていた。
事件
平成9年8月1日午後3時過ぎ、浜松市佐鳴台のマンションから「娘が死んでいる」と通報が入った。
浜松中央署が臨場したところ、部屋の中でこの部屋の住人である女性が死亡しているのが見つかった。
死亡していたのは、ピアノ講師の兼松まゆみさん(当時23歳)。
まゆみさんは浜松市内に実家があったが、事件直前の7月10日にこの部屋を契約していたという。
理由としては、「一人の時間が欲しい」という、実家暮らしの女性のごくごく当たり前の理由のほか、「いずれ婚約者と暮らす」とも話していた。
現場の状況として、当初警察は捜査に支障があるとして「鍵」があった場所を明らかにしなかったが、のちに玄関のカギは開いていて、まゆみさんの部屋の鍵は玄関そばのトイレのドアノブに引っ掛けてあったとわかった。
当初自殺と思われていたのは冒頭でも述べたが、その後、使用したはずの刃物が見当たらないこと、司法解剖や医師の所見などから、致命傷となった傷より後にできた傷も場合によっては生体反応が出ることも踏まえ、警察は自殺ではなく殺人と断定した。
死亡推定時刻は、まゆみさんが前日の7月31日午後11時半から、翌8月1日の午前9時半とされた。
これは、実家の母親が電話をしたものの、まゆみさんが出なかった時間から導き出されていたが、後に、東京にいるまゆみさんの婚約者が
「1日の午前〇時過ぎにまゆみさんから電話があった」
と話したことから、犯行は8月1日午前1時以降と捜査本部は判断した。
当時、まゆみさんのマンション付近では不審者の情報がありはしたというが、そもそもまゆみさんはこの部屋に常時住んでいたわけではなかった。
ピアノ教室をしていたこともあり、ほとんどはマンションからも近い実家で生活しているような状態だったという。とすれば、たまたまこの日マンションの部屋にやってきたまゆみさんを狙った、ということになる。ずっとまゆみさんを見張っているか、まゆみさんの行動を把握していなければ、なかなかできない事でもあり、行きずりの不審者と言う線は薄かった。
事件から一週間、特に進展もないように思われていたが、水面下で警察はある事実を掴んでいた。
それは、婚約者の嘘だった。
「ええとこの」ふたり
まゆみさんには大学時代からの交際相手がいた。それが、当時の婚約者・大下弘嗣(仮名/当時23歳)。
ふたりは同じ浜松市内で育っていて、同じ小学校に通っていた。当時は特になにもなかった二人だが、事件の3年前に行われた同窓会で再会したという。
一次会から意気投合していたという二人。まゆみさんは武蔵野音大、弘嗣は中央大学商学部に在籍していたこともあり、同じ東京で暮らしているそんな境遇も関係したのかもしれない。
加えて、ふたりともいわゆる「ええとこの子」だった。
まゆみさんの両親の職業はわからないが、実家のある場所は浜松市内でも高級住宅街と呼ばれる場所だったという。
まゆみさん自身、地元の小学校を卒業後は私立西遠女子学園中等部へ進む。歴史ある女子校で、なんとなくお嬢様学校的なところに思えるし、現在でも4年制大学への進学が多いらしいが、旧帝大や早慶は少なく有名女子大やMARCHクラスへの進学者がまぁまぁいるのをみてもなんとなく想像できる。
まゆみさんは高等部を出てから武蔵野音大へと進学。ピアノ教師になるためだったというが、プロを目指すとかではなくて、目指していたけど実力を直視して、でもなく、ピアノ教師になるために武蔵野音大というのもちょっとピアノをやっていた人間からするとある意味すごい……と思う部分もある。
一方の弘嗣は筋金入りだった。実家が太いなんていうもんではなかった。極太である。
よく知られた話なので隠す必要はないかと思われるが、念のため伏せるとして、実家は全国展開(沖縄以外)の大手住宅メーカーの創業者の家系である。多分、一定ランク以上の注文住宅を建てようとしたら一度は名前を聞く、検討するくらいの超有名住宅メーカーである。
大学生活は東京の中野区にある一軒家。家自体は普通だったが、高級外車も所有していた。
中央を卒業後は公認会計士になるために専門学校に通い直していた。
経済的余裕もさることながら、人柄も大変良かったという。学生時代に中野で近所に暮らした人は、「近所の子供らとも嫌がらずに遊んでやるような人。優しい人だった」と言い、中高の同級生らも、
「他人の悪口など一切言わない。周囲に気を遣っているようなタイプ。いやなことがあっても自分の中でおさめてしまう」
と話していた。
成績もトップクラス、そのうえ運動神経も良かったという。弘嗣は非の打ちどころのない、ええとこの子だった。
再会したまゆみさんと弘嗣は、そのまま交際へと発展。大学を休学してまゆみさんが浜松に戻ってからも交際は続いており、実家の両親らとも顔を合わせる仲となっていつしか結婚の話も出るようになっていた。
大手住宅メーカーの実家と、公認会計士を目指す婚約者。まゆみさんも武蔵野音大出の美人と来れば、この時代まさにお似合いのカップルのお手本だったろう。
しかし、弘嗣が大学を卒業してしばらくした頃から、二人の間には価値観の相違が積み上げられていた。
1日の行動報告
まゆみさんはとても情熱的な女性で、弘嗣もそれを好意的に感じていた。まゆみさんが大学を休学して浜松へと帰郷した後も、東京浜松間をお互いが行き来し、時には友人カップルと一緒に出かけたり、とにかくお互いがお互いにとって自慢の相手だったようだ。
それがいつの頃からか、少しずつ軋み始める。
東京にいた頃から「それ」はあった。しかし、距離的に離れてしまうと、「それ」はより顕著となった。
「それ」とは、まゆみさんによる行動チェックだった。
男女問わず、交際相手の1日の出来事や行動を全て把握したがる人は珍しくはない。理由も用事もないのに、「声を聞きたくなった」「今何してるの?」そんな電話も、交際相手からならば特段嫌な気持ちはしないだろう。
しかしそれも度が過ぎると話は変わってくる。
まゆみさんは度が過ぎていた。
まゆみさんはやきもち焼きな一面を持っていたのに加え、勝ち気で一本気なところもあった。こう、と思うと譲らず、相手に自分の気持ちを伝えないと気が済まないというか、やややり過ぎてしまう面があった。
この頃、弘嗣は公認会計士を目指して勉強中の身であった。
公認会計士の難易度は、この当時と今とでは違いもあるかもしれないが、医師、弁護士に並んでかなりの難関国家資格である。6年間まず医学部に通わなければならない医者に比べるとコストや時間はかからないものの、試験内容では司法試験に次いで難しいとも言われる。
学歴も年齢も関係なく受験可能な公認会計士だが、やはり大学の専門分野で学んだり、弘嗣のように専門学校に通い直すといったコースが王道だ。最短だと、1年半くらいで合格する人もいるというが、もれなく数千時間に及ぶ勉強の時間を確保する必要がある。
それは、公認会計士の試験範囲が死ぬほど広いからだと言われる。
弘嗣は中央大学商学部卒であり、ある程度の知識や地頭は持っていたわけだが、それを持ってしても、生半可な気持ちで合格できるような資格ではなかった。
そんな弘嗣に、まゆみさんは容赦なかったという。
家に帰っていなければ「どこで誰と何をしていたのか」を問い、たまの休みに男友達と会うといえば、「女の子と遊ぶんでしょう!」と臍を曲げた。
電話攻勢は強まる一方で、しまいには「今から風呂に入る」とか、「買い物をしてくる」といった日常の些細な行動まで、まゆみさんは把握したがったという。
その報告のたびにまゆみさんに電話しなければならず、それも気分を滅入らせた。
勉強に疲れ、それでも時間を作って勉強に励む弘嗣は、いつしかまゆみさんに翻弄されているような気持ちを持ち始めていた。
存在を消すしかない
公認会計士の試験は、短答式、論文式と二つがあり、まず12月と5月の年に2回行われる短答試験に合格しなければ、年に一度の夏の論文式試験には臨めない仕組みになっている。
何度目の受験かわからないが、この時点で弘嗣は短答式試験に合格できていなかった。にもかかわらず、弘嗣は周囲に対し、5月の短答式試験に合格した、と話していたようなのだ。
ちなみに、公認会計士の試験は先にも述べたが一発合格する人は多くなくて、2回目や3回目もしくはそれ以上でようやく合格できる人が多数である。弘嗣の23歳という年齢を考えても、実家の太さを考えても決して後がないとか、そういった状況とも思えない。短答式試験の合格率は10%前後と言われることからもわかる。
しかし、弘嗣は追い詰められていたという。
公認会計士試験がうまくいかないことの苛立ちが、いつしか、分刻みで電話連絡を要求するまゆみさんの存在とイコールになり、この状況から逃れるためには、もうまゆみさんの存在自体を消す以外にない、そんな風な考えにとらわれるようになっていた。
7月31日、公認会計士試験の論文式試験を受ける予定だと嘘をついていた弘嗣は、まゆみさんと電話で話した後、まゆみさんが実家ではなく一人暮らしのマンションへ帰ることを掴んだ。
どういう事情かは不明だが、この時、弘嗣は「今日はまゆみさんから電話がかかって来ない」と確信したという。そして、この時を逃せばまゆみさんの存在をなくすことは出来ないと考え、8月1日未明、浜松へ帰りストッキングを覆面代わりにかぶると合いかぎを使ってまゆみさんのマンションへ侵入した。
まゆみさんは寝ていたという。弘嗣は意を決して布団をはぐと、まゆみさんの胸めがけて自宅から持参した包丁を突き立てた。
暗闇で手元が狂ったのか、まゆみさんは起き上がろうとしたという。焦った弘嗣は、無我夢中で何度も何度も、まゆみさんの体を斬りつけた。
「生き返ったら、困る」
ただその一心で、包丁を振り下ろし続けた。
やがて、まゆみさんは息をしなくなった。
穴だらけの「完全犯罪」
弘嗣はとりあえず強盗に見せかけようと、室内のポットを倒した引き出しを開ける、バッグの中身を出したり財布を奪うなどの偽装工作をした。
そしてその後、車内で返り血のついた服を着替え、それらすべてを凶器と共にゴミに出したり川に捨てるなどし、車内を念入りに掃除した。
自宅から持ち出した包丁を捨ててしまったため、怪しまれないように包丁を買い直し、あらかじめ録画予約していた深夜テレビを見た。アリバイ作りだったという。
そしていつものようにまゆみさんのポケベルにメッセージをいれ、無関係を装った。
公認会計士試験を受けるという口実もあった。一時は自殺も考えたという弘嗣だったが、
「再スタートを切るためには捕まるわけにはいかない。完全犯罪で疑われないと思った」
と話している。完全犯罪。どこが?これで??
警察は、当初弘嗣が東京にいる前提で考えていた。疑う理由がなかったことや、それこそ公認会計士の試験を受けるという話が、犯罪に結びつかなかった可能性がある。
加えて、まゆみさん自身が周囲や家族に対して「死にたい」と思いつめる様子が確認されていたことで、自殺の可能性が拭いきれなかったためだ。
が、警察は見逃していなかった。この婚約者の手に残された小さな傷を。
弘嗣は無我夢中でまゆみさんを刺しているが、その刺し傷は小さなものを含めるとなんと100か所に及んでいた。その際、自分の手にも傷をつけてしまっていたのだ。
さらに、偽装工作のつもりの部屋を荒らしたのも、お粗末だった。
そもそも弘嗣はええとこの子であり、育ちがいい。おそらく、部屋を荒らすにしてもその「荒らされた部屋」「荒れた部屋」というものが想像しづらかったのではないか。
だから、ポットを倒すとか、ドラマみたいな引き出しを無造作に開ける(実は引き出しの開け方一つ見ても、偽装か物盗りかの区別がつく。)程度のことしか思いつかなかった。
公認会計士試験を受けるというのも、ちょっと問い合わせれば受験資格がなかったことなどすぐバレてしまう。
そして弘嗣は、信じられない大きな失敗をしていた。
東京浜松間の移動に、高速道路を使用していたのだ。これでは、なにもかもバレてしまうではないか。
警察から任意で話を聞かれていた際、東京にずっといたと話してしまった弘嗣が、事件当夜、東名高速のしかも浜松西インターを利用していたことが判明したのだ。それも、自分の車で。
弘嗣はそれに対する答えを、全く持ち合わせていなかった。
これで完全犯罪だと思ったというのだから、開いた口が塞がらない。
逮捕された後は、なにもかもをまるで吐き出すように、供述した。
母親の前で電話できない男
裁判では検察が、終始監視されることを疎ましく感じ、まゆみさんの死を望むようになっていたところ、7月31日にまゆみさんと口論になった際、
「あなたはお母さんがいると電話一つもできないものね」
となじられたことが直接的な殺意を抱くきっかけとなったと主張。
別れたいならば別れ話をすればいいだけなのに、本来の優柔不断さとまゆみさんへの未練からそれすらもできず、そのうちにうまくいかないことを何もかもまゆみさんの束縛のせいであるかのように思い込み、まゆみさんがいなくなることで自由になろうとした、とし、短絡的で自己中心的な犯行として懲役13年を求刑した。
一方の弁護側は、まゆみさんからの束縛で心身ともに疲弊し、事件当時は心神耗弱の状態だったとして責任能力を争うとした。
そして、捜査段階で行われた精神鑑定(簡易鑑定)の結果を明かすように検察に要求した。
平成10年2月の第三回公判では、まゆみさんの母親が証言台に立った。
実家にも何度も出向き、弘嗣はまゆみさんの両親、特に母親にはかなり世話になっていた部分があるという。
「娘の死から立ち直ろうと一生懸命ですが、いつも思い出し、部屋の香りも絶やしていません。」
「なぜ、命まで奪うようなことをしたのか。(弘嗣を知っているからこそ)無念で鳴りません。」
と、ハンカチで涙を拭いながら証言した。
そして、「命を奪ったのだから、償いは自分の命で」と、極刑を望んでいることも明かした。
弘嗣は頭を丸刈りにして出廷し、時折弁護人の方を見るなど落ち着かない様子ではあったが、検察が殺害時の様子を読み上げる際には、がっくりとうなだれていたという。
まゆみさんと遺族に対しては、取り返しのつかないことをしてしまった、と謝罪。
一方で、被告人質問の際には、「別れ話をしたくてもまゆみさんがパニックになり話し合えなかった。連絡は分刻みで要求され、東京都浜松で離れていても頻繁に呼び出され、自由になるためには殺害以外の方法が思い浮かばなかった」と話した。
が、母親の前で電話できないことをなじられたことが殺害のきっかけ、とした検察の言い分については、「そんなことはもう慣れていました」として、それがきっかけではないとしていた。
婚約者として報道されていたことを考えても、まゆみさんの実家へも出入りしていたことからも、ふたりは親にも認められた交際に思えるが、極太の実家である弘嗣の両親についての話は一切出ていない。
おそらく、慰謝などの申し出はしていただろうし、通常のケース以上の「尻ぬぐい」ができると思われるが、極太過ぎるがゆえに、なのか、当時の報道でもそれらには触れられていない。
そこへ来て、まゆみさんのこの発言である。
興味深いこととして、小中の同級生の話がある。
「あいつは特に親の前でいい子であろうとしていた。みんなであいつの家でふざけて遊んでいても、親が来るとぴたっとふざけるのを止めていた。」
弘嗣にとって、極太の実家は少々荷が重かったのかもしれない。
似合いのカップルだと思えるまゆみさんについても、もしかしたら極太の両親は違う印象を持っていた可能性もある。まゆみさんの実家も、弘嗣個人には悪い印象がなくても、もしかすると同じように極太実家に対して思う部分があったかもしれない。
(その点について、実は弘嗣の極太実家の「ある事情」が関係しているんでは、と思うのだが、ここでは触れない。触れられない。)
一方のまゆみさんも、あの現場となったマンションの部屋を契約する際、不動産業者は取材に対して
「契約に手間取った」
と話している。どうも、保証人の件でスムーズにいかなかったという。そういったことから、
「まゆみさんは実家の両親の反対を押し切っていたのではないか」
という話も出ていた。
精神鑑定では弁護側が依頼した福島章・上智大教授(当時)が「別れさせまいとする被害者の執拗な束縛が被告を追い詰めた」とする意見に対し、検察側が依頼した保崎秀夫・慶応大学名誉教授(当時)は「被告は被害者に支配されていたのではなく、むしろ余裕をもって交際していた。交際中に被告が自分の怠惰な生活ぶりを繕うためについた嘘が、被害者の精神を不安定にさせた面がある」と指摘していた。
二年半に及ぶ公判を経て、検察は弘嗣に懲役13年を求刑。
平成12年7月19日、静岡地裁浜松支部の虎井寧夫裁判長は、「殺害以外に交際関係を断ち切る方法はあった。犯行は計画的で残虐。刑事責任は重大」として弘嗣に懲役10年の判決を言い渡した。
虎井裁判長は、双方の精神鑑定をうけて
「被告人は優柔不断で物事に回避的な性格から、泥沼化した関係から抜け出せなかった」とし、「被害者が精神的に不安定になったのは被害者自身の神経質な性格によるもので、これが事件の要因になった一面はあるものの、殺害を決意させるほどに被告人を追い詰めたとは言い難い。別れる方法はいくらでもほかにあった。」とその量刑の理由を述べた。
暴走する若者
この事件が起きた1997年というのは、あの神戸連続児童殺傷事件が起きたことでそれの印象が強い。が、ほかにも、宮崎勤に死刑判決が言い渡され、永山則夫元死刑囚の刑が執行され、福田和子が逮捕された。海外では香港が返還され、ペルーの日本大使館公邸占拠事件、エジプトのルクソールで無差別テロが起き、日本人を含む60名が死亡、ダイアナ元皇太子妃が事故死した。
芸能界でも松田聖子と神田正輝が離婚し、菅野美穂がヌードになって安室ちゃんが結婚し、可愛かずみと伊丹監督がそれぞれ投身自殺をし、勝新と三船敏郎と内海恵子師匠、萬屋錦之介も死んだ。
大きな事件、出来事の陰で、実は20代の男性による凶悪犯罪が立て続けに起きていた。
事件備忘録でも紹介している、奈良・月ヶ瀬の女子中学生拉致殺害遺棄事件、福岡の小学女児殺害死体遺棄事件などなど。
しかもそれらの20代男性による事件はいずれも短絡的で思い付きを実行したような、行き当たりばったりのもの。
バレないわけがないじゃないかというような、そして被害者の尊厳を踏みにじるような、凶悪犯罪である。
まゆみさんは判決文でも触れられたとおり、神経質な面はあった。しかしそれらはどれも言い方を変えればなんとでも受け取れるものだった。
分刻みの行動報告も、大げさではないのだろう、それ自体は褒められたものではないし、逃げたくなるのも分かる。
しかし全身100か所も傷を負わされて殺害されなければならないようなことでは絶対にない。
弘嗣はそれこそ唸るほどの経済力が実家にはあり、それゆえに、トラブルに対応する弁護士らの存在もあったはずだ。
にもかかわらず、思いついたかのように殺すというのはいくら何でも短絡的過ぎる。
それほどまでに追いつめられていた、と言うのも分からなくはないが。
弘嗣は懲役を終えた後、どこでどうしているのか。
事件を起こす前までは、極太実家の系列企業の役員に名を連ねていた、と言う話もあるが、シンガポールの関連企業を取り仕切るという兄の名はあっても、この弘嗣については、全く表に出てこない。
弘嗣がほんとうに逃れたかったのは、まゆみさんだったのだろうか。
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参考文献
静岡新聞社 平成9年8月2日、3日、4日、5日、6日、7日、8日、9日、27日、29日、10月31日、12月18日、平成10年4月29日、6月10日、平成12年4月5日朝刊、7日、8日、9日、平成12年5月30日夕刊
朝日新聞社 平成9年8月8日東京地方版/静岡、平成12年7月19日東京朝刊
毎日新聞社 平成9年8月8日東京朝刊
読売新聞社 平成12年7月19日東京朝刊
週刊朝日 1997.08.29 p.30~36
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