母の涙が問うもの~宇和島・6歳双子金網監禁事件~

法廷にて

「私、前に自分一人で解決しないといけないと思い込んでしまって、失敗したことがあるんです。だから今度は、ちゃんと相談しようと思っていました。」

松山地方裁判所宇和島支部第一号法廷。
証言台に座る女の無造作に束ねた髪には、その年齢にそぐわない白髪がのぞいていた。
被告人席には、夫の姿。両脇を屈強な刑務官が固める。その傍らに、女性職員の姿。
この事件の被告は、夫婦だった。

女は時折涙をぬぐい、自己の罪をかみしめるように、言葉を紡いだ。
「最後に何か言いたいことはありますか。」
促された夫は、
「そうですね、こんな事件起こしてしまって、Aくん、Bくんはじめ上の子3人、会社や周囲に大変な迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした。」
と少し早口に証言を終えた。
続いて、妻の番。しかし、妻は顔を上げ前を向いてこう言った。

「特に、ないです。」 続きを読む 母の涙が問うもの~宇和島・6歳双子金網監禁事件~

🔓ママなんか怖くない~ひたちなか市・小1女児せっかん死事件~

台所にて

「これ、どうすんの?」
「立たせとけばいいんじゃない?」

女は目の前にいる女児をそういうと手近にあったモップの金属製の柄で力任せに殴りつけた。女児は悲鳴をあげるが、それでも殴打する手を止めない。
やがて女児の悲鳴は獣の咆哮のようなものへと変化。さらには脱糞するまでにいたった。

「汚い!あっちいって」

まるで汚物を押し付けあうかのように女児の体をどつき回す大人たち。

そしてその日の午後、女児はたった6年の生涯を一人ぼっちで閉じた。

平成12年3月23日、水戸地裁の松尾昭一裁判長は3人の男女にそれぞれ懲役4年から6年の実刑判決を言い渡した。
3人は、あの女児の実母と養父、そして、女児と同じ名前を持つ、実母の友人の女だった。

殺す親、殺される子供~3つの子殺し~

まえがき

子供は、誰にどのように育てられたか、が非常に大切であると私は考えている。
危険から守り話を聞いてくれる大人がいて、教育と適切なしつけを受けられ、衣食住がそれなりに足りていること。
ここに出てくる「大人」は、血のつながりは関係ない。両親がいなくても、自分を守ってくれる存在があればよい。

たとえ衣食住が足りていてもその守ってくれる存在がない、それだけで子供の環境は劇的に悪化し、ましてや本来保護してくれるはずの両親、あるいは両親のどちらかが「危険」な存在であったとしたら。

親であるというだけで外部からそれは見えなくなり、ことは軽く考えられ、結果子供の命は脅かされる。

殺す親と、殺される子供の事件。

荒川区の母親と子供

平成26年12月29日、荒川区のマンションの13階から5歳の男の子が転落したと警察に通報があった。
外出先から帰宅した父親が、男児が家の中にいないことを知って外を確認したところ、マンション敷地内で男児が倒れていたのを発見したという。男児は間もなく死亡が確認された。

亡くなったのは、このマンションで両親と暮らす山岡光希ちゃん(苗字のみ仮名/当時5歳)。
光希ちゃんが転落した当時、自宅には母親がいて、光希ちゃんは就寝しているはずだった。
所用で直前に家を出た父親が10分後に帰宅すると、母親が狼狽えて光希ちゃんの姿が見えないと話したといい、周辺を捜索したところ倒れている光希ちゃんが発見された。

母親は自宅にいたがトイレに行くなどして気付いたら寝室の窓が開いていたという。
状況から、光希ちゃんが両親の姿が見えないことを不安に思い、窓から身を乗り出すなどして転落したとみていたが、不審な点があった。
転落したとみられる窓とその周辺に、光希ちゃんの指紋が一切ついていなかったのだ。

さらに、母親が一週間ほど前に光希ちゃんに対し、首を絞めるという行動に出ていた事実も発覚。
平成12年12月30日、警視庁尾久署はこの母親をまずその時の殺人未遂容疑で逮捕し、あわせて今回の光希ちゃんの転落についても関与しているとみて捜査を開始した。

ただ、この母親には精神科への通院歴があったため、逮捕後およそ3か月かけて精神鑑定が行われることになった。

クリスマスパーティーの夜

逮捕されたのは加藤愛(当時35歳)。調べによると、第一の事件として、平成15年12月23日、荒川区のホテルで行われた夫の会社のクリスマスパーティーにおいて、愛は光希ちゃんを女性トイレに連れ込むとその個室内で暴行を働いた。
捜しに来た夫や知人女性らがトイレに入ると、個室の中から「ママ、ごめんなさい」という光希くんの悲痛な声が聞こえたという。
夫らが必死でなだめ説得したところ、その時は光希くんを解放。しかし光希くんの首には、何かで絞められたような赤い痕が痛々しく残っていた。

愛はこの日の出来事を「何か飲み込んだようだったため、それを吐かせようとしていた」などと夫らに釈明し、首を絞めたことを頑として認めなかった。
夫はそれでも不信感がぬぐえず、また、光希ちゃん自身がトイレ内の電源コードを指さし、「あれでママに首痛くされた」と話したことから証拠として光希ちゃんの顔と首の状態を写真に残した。

この事件があって一週間もしないうちの悲劇だった。
しかも、夫はこの23日の出来事を警察に「妻の精神が不安定で子供に危害を加えた。精神科に入院させたい」と電話をかけていたが、相談にとどまったことと、その時住所も氏名も言わずに電話を切ったことから、警察ではそれ以上の対応が出来ていなかった。

その電話は、光希ちゃんが転落する9時間前のことだった。

愛はクリスマスパーティーの夜の事件で逮捕されたが、当然、光希ちゃんの転落死についても関与が疑われた。
精神鑑定が行われたのちの平成27年5月、警視庁捜査一課は愛に刑事責任能力があると判断、光希ちゃんを投げ落としたとして愛を殺人の容疑で再逮捕した。
取り調べにおいて、愛は光希ちゃんを自ら抱き上げ、13階の自宅マンションの窓から落としたことを認めていた。
しかし、平成28年3月から始まった裁判員裁判において、愛は光希ちゃん殺害を否認した。

手に負えない女

裁判の過程で、愛のそれまでと、結婚生活が明らかとなった。
幼い頃家庭に恵まれなかったことや、義理の父親から首を絞められるという虐待経験があったことも分かった。さらに、軽度ではあるが、愛には知的障害もあった。

これらの事実を踏まえ、弁護側は12月23日のトイレでの事件は、過去の虐待体験がフラッシュバックして発作的にしてしまった行動であり、そこに殺意はないとし、殺人未遂ではなく傷害罪に留まると主張、さらに、転落死については完全な事故死であるとして無罪を主張した。

一方で検察側は、年の離れた夫の愛情を独り占めしたいという愛の独りよがりな願望が根底にあり、光希ちゃんが生まれたことでその夫の愛情が光希ちゃんへ向けられることへの苛立ち、さらには育児へのストレスがあいまって、光希ちゃんがいなくなればまた夫と二人の生活が送れると考えるに至り、短時間に躊躇なく殺害しており悪質として、懲役15年を求刑していた。

証人尋問では、クリスマスパーティーの夜の事件を間近で見て、愛に対し説得を試みた知人女性が出廷。
普段から愛は子育てや光希ちゃん自身に興味がない様子だったと証言、一方で、光希ちゃんは常々不安定な母親を気遣い、幼いながらに「ママ、大丈夫?」と心配していたといい、とにかくかわいくて良い子だったと涙ながらに話した。

光希ちゃんの父親である愛の元夫(裁判当時は離婚済み)も証言台に立った。
元夫によれば、精神的に不安定になった愛を入院させるか迷っていた時、光希ちゃんに「ママいなくなっても(入院しても)大丈夫か?」と聞いたという。
光希ちゃんは、「大丈夫、でもママは好きだから僕が守る」と答えたのだという。
元夫から見ても、愛は育児に割く時間を極力減らそうとしており、光希ちゃんに対しても一緒にいたくないような、そんな風に思えていた。
それでも、光希ちゃんはそんなママが大好きだったのだと、苦しい胸の内を証言した。

しかしそんな関係者らの証言をよそに、愛は一貫して「転落は事故。私は関係ない」という主張を変えなかった。ホテルでの首絞めに関しては認めはしたものの、発作的な行動であり、殺意などなかったと話した。

転落した夜については、
「おならをしたため換気する目的で寝室の窓を開けた。その後、トイレに入っていた時に光希が起きだしてパパを呼ぶ声がしていたから、窓から身を乗り出して落ちたと思う。」
という主張を繰り広げ、窓枠に光希ちゃんの指紋がなかったことについては、自分が窓枠を拭いたからだと話した。
息子が転落した状況であるにもかかわらず真っ先に窓枠を拭くという不可解な行動をしたことについては、
「自分が落としたと疑われると思ったから、自分の指紋を拭くためにしたこと」
とこれまた理解に苦しむ供述をした。

ただ、取り調べの段階では愛は光希ちゃんを窓から落としたことを完全に認めていた。しかもその様子は録画されており、裁判で公開された。
もちろんそれは当初の予定通りのことであり、この裁判の争点は
「愛の取り調べ段階での供述の信用性」
だった。

懲役11年

裁判員裁判として行われた公判では、証拠としてその取り調べの様子を録画したビデオが提出された。
それによれば、愛は当初より録画されていることを認識したうえで、「子どもなんかいないほうがいいと思い、窓から突き落とした」「(成長して)体重が重くなると抱えられない。今だったら自分一人の力でできると思った」などと、光希ちゃんに対する明らかな殺意を認め、その方法についても自発的に証言していた。
あまりにしゃべるため、警察官の側が「あなたは今、自発的に話していますか?」と確認する場面もあった。

それを受けて、公判で無罪主張に転じた愛は、
「自責の念から自分が殺したようなものだ、と考えた」という主張を展開したが、裁判員らの目には何が真実かは明らかだった。

平成28年3月23日、東京地裁の斎藤啓昭裁判長は、
「自白は体験しなければ語ることができない臨場感があり、供述の信用性に疑問はない。」とし、愛の無罪主張を退けた。
一方で、クリスマスパーティーの夜の首絞めについては、発作的な側面が否めず、殺意の認定までは出来ないとして傷害罪にとどまるとした。

そのうえで、
「長男を殺害すれば夫と二人だけの生活に戻って愛情を独占でき、育児のストレスから逃れられると考えた。5歳の長男が母親によって人生を奪われた結果はあまりにも無残で、取り返しがつかない」
として、愛に懲役11年の判決を言い渡した。

盗癖

事件後、詳細が明らかになり、23日の首絞め事件が報道されると一部では元夫の行動に疑問が集まった。
光希ちゃんが死亡した夜、元夫は所用で短時間ではあったが一人外出していた。つい先日、我が子の首を絞めしかもそれを反省もせずに認めようともしない妻と、その被害に遭った当事者である我が子を二人きりにさせたことが理解に苦しむ、というのが理由だった。

実はこの外出には、重大な理由があった。

愛は「盗癖」があったのだ。
始まりは平成21年、ちょうど光希ちゃんが生まれた頃からだという。
愛は万引きを繰り返し、何度も検挙されていた。その盗癖は酷く、回数は数えきれず身元引受で呼び出された元夫が謝罪している最中にも盗みを働くという有様だった。

事態を重く考えた元夫は、四六時中愛を監視するようになる。監視と言っても、会社経営者だった元夫が自身の会社に愛を同行させ、常に人の目がある場所に愛を置いておく、そういう状態だった。
これは致し方ないと思うが、当の愛にとっては相当なストレスだったらしい。
そこに子育てが加わり、本来一身に浴びるはずの夫からの愛情が光希ちゃんにも注がれることが、愛には我慢ならなかった。
盗癖は治まらず、平成26年12月、とうとう元夫は離婚届を突き付けた。

「今度やったら、離婚する。息子は自分が引き取る」

そう愛に告げたというが、実質これが愛の心の闇を増幅させてしまった。

光希ちゃんが転落したあの夜、元夫が外出したのは理由があった。
携帯電話を会社に忘れたと、夜になって突然愛が言い出した。そして、それを取りに行くと言った。
当然、一人になど出来るわけもなく、携帯電話は元夫が会社へ取りに戻ることにしたのだ。
会社と自宅マンションは往復10分ほどの距離だったことで、夫は急いで会社へと戻った。
その、10分の間に、愛は光希ちゃんを投げ落としたのだ。

これについては、計画性は否定されたが実際に携帯電話は「わざと」置き忘れていた。
愛はこの日、外出先から会社の駐車場へと家族で戻った時、「忘れ物をした」といっていったん会社の中へ戻っていた。そしてその時に、「わざと」携帯電話を置いてきていたのだ。

そして元夫が携帯電話を取りに戻るため目を離したたった10分の間に、光希ちゃんを窓から落とし、窓枠を拭いてコロコロを落とすなどの偽装をした後、マンションから出て光希ちゃんを探すふりをしながら夫と合流したのだ。

これを、計画的と言わずしてなんというのだろうか。
もちろん、携帯電話を忘れたから取りに戻る、というのを口実にまたどこかで盗みを働くつもりだった可能性もある。だからこそ、元夫は家にいろと命じ、自分が代わりに取りに行ったのだ。
しかし、本当にそうなのだろうか。いつ何時も「家の外で」一人にはさせてもらえなかったほどなのに、忘れ物を取りに行かせてもらえるなどと思うだろうか。

もし、元夫が取りに行くことになるのを想定していたとしたら。というか、最初から目的が光希ちゃんを殺害することだったなら。

裁判ではその計画性までは認定されなかったが、少なくとも懲役15年が11年に減った要因でもあるだろう。

光希ちゃんは母親によって突き落とされ、血まみれで倒れていた。父親が駆け付け抱き寄せると、父親の指をぎゅっと握ったという。
人工呼吸を施した際には、父親の舌を嚙んだという。
母は最後まで反省の色も、涙も、見せることはなかった。

福岡の子沢山家族

平成10年1月7日、福岡県東区。
福岡市内の病院に幼い男の子が運び込まれた。
付き添っていたのは母親とみられ、遅れて男児の父親も駆けつけた。
しかしすでに男児は死亡しており、両親らに事情を聞くと、
「前日の夜、言うことを聞かないために躾のつもりで屋外に出していた。暗くなればそのうち家の中に入ってくるだろうと思い、確認せずに寝てしまっていた。昼ごろ、外に倒れているのを発見した。」
ということをしどろもどろになりながら答えた。

男児の死因は凍死。運ばれた際も、男児が着ていたのはTシャツにトレーナー、そして下半身はなぜか裸で、足首には何かのコードのようなものが巻き付いていた。
しかも、男児の体には複数の火傷と見られる化膿した傷痕、顔面には殴られたような内出血の痕が認められた。

病院から連絡を受けた警察は両親から事情を聞き、ひどく憔悴していたことや、母親が「玄関には鍵はかかっておらず、まさか一晩中外にいるとは思わなかった」と述べ落ち込んでいたことなどから、不幸な事故であると判断。母親の過失は問わない方針を示した。

しかし2ヶ月後の3月3日、福岡県警捜査一課と東署は、男児を殴り2週間の怪我を負わせたとして父親を傷害と保護責任者遺棄致死の容疑で、そして母親を保護責任者遺棄致死の容疑で書類送検した。

大家族

書類送検されたのは福岡県東区在住の内装業、河野圭一(仮名/当時30歳)と、妻で無職の恵理子(仮名/当時34歳)。
死亡したのは、圭一の息子の大輔くん(仮名/当時6歳)だった。

実はこの夫婦には、大輔くんの他に上は15歳、下は0歳までの7人の子供がいた。
圭一と恵理子は再婚同士で、大輔くんが圭一と前妻との間の子、上の5人が恵理子の連れ子、そして二人の間の子供が2人という構成だった(事件当時)。

大輔くんは平成3年10月16日に圭一と前妻との間に生まれ、当初は圭一の実家で祖父母らと同居する生活を送っていた。
しかし大輔くんが1歳の頃、母親が別居。その1ヶ月後には、父親の圭一も実家を出てしまい、大輔くんは以降圭一の両親(大輔くんの祖父母)に養育された。
両親はその3年後に離婚した。

一方の恵理子もまた、パンチの効いた人生を歩んでいた。
恵まれない幼少期を経て、18歳頃に結婚、すぐに子供を産んだ。そして平成5年までの間にほぼ1年から2年の間隔で5人の子供を産んでいる。
しかし平成7年6月には離婚、育ち盛りの子供5人の親権者となった。

二人の出会いは恵理子が離婚する1年前、テレクラである。
この時点で恵理子はまだ既婚者であるが、それが原因だったかどうかは別にして、恵理子の離婚が成立した直後から二人の交際はより親密になったという。
平成8年2月には事件当時の住居で同棲を始め、翌月には婚姻届をおそらく妊娠を機に提出。圭一は恵理子の5人の子供と養子縁組をした。
大輔くんを実家から引き取ったのもこの頃である。同じように、恵理子も大輔くんと養子縁組をした。

その後7月には二人の間の第一子が、さらにその1年後の平成9年7月に第二子が、そして事件後の平成11年5月にも子供が産まれている……

圭一と大輔くん、恵理子とその連れ子たちでの生活が始まってすぐの4月、大輔くんは幼稚園に入園する。しかしほとんど通わず5月に退園、その後平成9年の3月までの1年間で保育園を二つ変えた。
事件当時に通っていたA保育園には、5歳児クラスと4歳児クラスに大輔くんと恵理子の連れ子二人が、その他0歳児クラスには圭一と恵理子の生まれたばかりの子供が在籍していた。

ここでの大輔くんの一家は、強烈な印象を残している。

要注意の親子

入園当初から、大輔くんは「異様」だった。
表現が正しくないことは百も承知だが、「飢えている(かつえている)」と言うほど、大輔くんの園での食欲は異常だった。しかも給食だけでは飽き足らず、盗み食いすることもあったという。
他にも、毎日汚れた同じ服を着せられていたり、体のあちこちに生傷が絶えなかった。時には目の周りにどす黒いアザをこしらえてくることもあった。

入園から1ヶ月後の5月、大輔くんは頭から血を流して登園してきた。仰天した保育士らが頭を見ると、そこには申し訳程度の絆創膏が貼られただけで、大輔くんの頭部はぱっくり割れていたという。
病院では2針縫う処置がとられた。

明らかにおかしい。同じ園に通う他の恵理子の子供らには、異常は見られなかったことも、保育士らに不安を抱かせた。
「おうちで何かされたと?」
保育士らが大輔くんに聞いても、大輔くんは何も答えない。大輔くんはこの頃からすでに生気の失せたような状態になっていた。

園では母親の恵理子についても対応に苦慮していた。
あまりに汚れた服を着せられているので、他の園児への衛生面の配慮もあったのだろう、園の着替えを着せたことがあったという。
すると恵理子は、感謝するどころか「大輔を特別扱いした!」と言って食ってかかった。
ある時は空の弁当箱を持たせていたため事情を聞くと、「大輔が登園前に弁当を食べたから(そのまま持たせた)」と言う返答。
さらに、家での食事の注意をすれば過度に食事させて大輔くんをあからさまに太らせる、頭にシラミが湧いていることを伝えると、大輔くんを丸刈りにするなど、極端な対応をわざとしている節があった。

他人に指摘されると被害者意識が芽生え、対抗するために感情的かつ、やりすぎと思えるほどの対応をする恵理子に対し、大輔くんも態度が頑なになっているようだった。

事件の日

正月、圭一と家族は全員で圭一の実家へと新年の挨拶に出かけた。そこで、祖父母らから子供たちはお年玉をもらったという。
5日になって、子供達のお年玉からお金が抜かれていることが発覚。圭一と恵理子はもともと「盗み癖」があったという大輔くんの仕業と決めつけ、大輔くんを厳しく問い詰めた。
しかし反抗的な態度を示した大輔くんに対し、恵理子は外で立っているように言いつける。そして、他の子供たちを連れて外出し、夕方弁当を買って帰宅すると、大輔くんはまだ外にいた。

「弁当を見せて、本当のことを言えば食べさせてやると言え」

圭一にそう言われた恵理子は、腹をすかせているであろう大輔くんに、弁当をちらつかせて再び問いただしたが、そこでも大輔くんは曖昧な返事しかしなかったという。

「ほっとけ。(金のありかを)言えば済む話だ。言うまで俺は知らん」

大輔くん以外の子供らに食事をさせたあと、圭一と恵理子は大輔くんがもう手に負えない、という話をし、そしてそのままこたつで眠り込んでしまった。
恵理子が気づいたのは、翌日の昼だった。外のベランダの室外機のところに倒れている大輔くんを抱き起こしたが、大輔くんはもう冷たくなっていた。

当初警察は、事情聴取での憔悴しきった恵理子の様子や、お仕置きで外に立たせた「だけ」のつもりが結果として死亡に至ってしまったと判断し、事故として処理すると発表。
しかし、大輔くんの体に残された数々の傷跡や、保育園での聞き取り、そして当初は昼に発見するまで気が付かなかったと話していた恵理子が、実は早朝の3時頃に外にいる大輔くんを確認していたこと、にもかかわらず家に入れるなどせず、さらには朝他の子供らを登校させる際にすでに室外機のあたりで大輔くんが倒れていたことにも気づいていたことから、保護責任者遺棄致死に問えると判断。
圭一については日頃の暴力行為と、あの夜家にいれるなと恵理子に指示していたことなどで傷害と保護責任者遺棄致死での書類送検となった。

恵理子は大輔くんが倒れていることを知りながら、他の子供らの世話を優先させていた。

育て難い子

書類送検とはいえ二人は起訴された。
平成13年から始まった裁判では、圭一による大輔くんへの暴行と、恵理子の日頃の大輔くんとの関わり方などが詳らかになったが、その中で大輔くんの「育て難さ」も明かされた。
大輔くんは知的な問題はさほど深刻ではないとされたが、生前大輔くんを診察した小児精神科の医師によれば、名前を呼んでもすぐに反応しない、箱庭療法において、動物の模型に過度な攻撃を加えるなどの様子が見られたという。
また、大輔くんの特徴として恵理子は、「2歳の頃から毎日の盗癖。夜中に起きてまで(盗みを)する。自分の持っていないもの、他人のものをわざと壊す、集団生活ができない、目立つためにわざと困らせるようなことをする、排泄物の汚さがわからず、大小便で遊んだりする」と言う悩みを小児科医に相談していた。

ただ、これらのことは恵理子の主観であり、どこまでが本当かは怪しいと言わざるをえないが、一方で第三者の診断もあった。
平成9年の7月頃、恵理子が出産のため、大輔くんを一時的に児童養護施設に預かってもらっていたことがあった。
その際、大輔くんの心理判定を行なった判定員によれば、大輔くんは情緒的な面で攻撃性が高く、心配な面があったという。落ち着きもなく、感情が昂った際、それを制御できないという面もあった。

恵理子はその結果を聞かされ、圭一との間で大輔くんを児童養護施設に入所させることも検討し、保育園では園長が関係機関に連絡をして大輔くんを保護する必要があるという判断で圭一らにも伝え、一時は圭一も恵理子もそれを了承もしていた。
しかし突然、「みんなが自分たちを悪者扱いしている!」などと恵理子が言い出し、施設入所は白紙になってしまった。

大輔くんが育て難い面があったのは事実で、関係機関も含め、大輔くんを施設に入所させる方向で話がまとまっていたのはむしろ、恵理子と圭一にとってもいいことだったはずだ。
ただ、大輔くんを診察した小児科医によれば、恵理子は医師に対し、
「周りの反対を押し切ってまで大輔くんを引き取り、自分のこの世話を差し置いてでもこの子の世話をしているという、健気な母親であるかのような話をされる。多弁で、この子のために苦労していることをむしろ自慢しているかのような印象を受ける。世話に疲れた印象は感じられない。話が全て本当かどうかは怪しい。施設入所予定であるのに当科(小児精神科)を受診し、評価を求められる真意が不明」
と話していたことをカルテに記していた。

恵理子は保育園への送り迎えも一手に引き受けており、圭一よりも遥かに大輔くんに接してはいた。
しかし、医師が言うように、こんなに育てにくい子をしかも自分の子でもないのに一生懸命育てている私、に酔っていたような印象がある。
言い方を選ばずにいえば、恵理子は子供を産むことしか取り柄のない女だったように思う。無計画にも程がある出産歴に、私は正直嫌悪感を抱いた。

大輔くんに手を焼きながらも、唯一の自分の存在価値を見出せるのが、育て難い大輔くんの存在だったように思うのだ。
だからこそ、児童相談所から救いの手が差し伸べられても、拒絶した。取り上げられては困ったのだ。苦労している自分を演じられなくなってしまうからだ。

裁判中も、恵理子は検事から親としての自覚のなさを問われると、
「何が言いたいんですか?!」「あなたが言うようなことはありません!」と、ムキになって言い返す場面もあった。

直接的な虐待死ではないものの、司法解剖された大輔くんはあの朝5時までは生きていた可能性が高かった。3時の時点で家に入れていれば、死なずに済んだ。
小さな遺体には、頭部、顔面に皮下出血、背部、腰部、臀部に円形の瘢痕、左右前腕、左手背に円形、楕円形の瘢痕、左右上肢、下肢に表皮剥脱が見られた。
また、胃のなかに固形物はなく、胸腺は高度に萎縮して実質が確認できず、左右の上肢は下腿から足にかけて浮腫状となっていた。
円形の瘢痕はいずれも火傷によるもので、お灸をすえられたか、もしくはタバコの火を押し付けたようなものだった。
胸腺の状態から見ても、大輔くんが長期間強度のストレス下にあったことは明白だった。

恵理子と圭一は、何かにつけて大輔くんに食事を与えなかったり、外に放置する、あるいは動く回れないよう足首を家具に縛り付けるといった虐待を行なっていたが、圭一と恵理子にしてみればそれらは全て正当な理由のもとに行われてきたものだと信じて疑わなかった。

福岡地裁の谷敏行裁判長は、
「衰弱した末、齢6歳にして自宅の庭で凍死したもので、その間、被害者が長期間にわたり強度のストレスにさらされていたことは、その遺体に残る多くの傷跡や、胸腺がほとんど消失していたことからも明らかであって、誠に悲惨としか言いようがない」
とし、裁判でも終始自己弁護を繰り返していたこの二人を厳しく批難した。

しかし、判決は懲役3年、執行猶予5年という激甘だった。

理由は、家に残った8人の子供の存在だった。

投書

時代的なこともあるだろうが、やはり子殺しは軽い。
結局、裁判長をして「悲惨」と言わしめた大輔くんの死に対する圭一と恵理子が受けた罰は、「真面目に反省してください」と言うお言葉だけだったに等しかった。

確かに汲むべき事情というか、大輔くんの問題行動や子供の多さなどいろいろあったろうが、いやいやそれら全て、この二人が選択して作り上げてきたものではないのか。
無計画に子供を作りまくったのも、自分たちが好きで作ったんじゃないのか。

そしてその無計画に生みまくった子供たちの存在が、この親を懲役から救ったわけだ。うーん。

当初警察が事故として扱うと発表したあと、高知新聞に投書が掲載された。
30代の保育士と名乗る女性は、真っ向この警察の判断に抗議した。
女性は、
「事故死だなんて到底思えない。冬の夜に、一晩外にいれば死んでしまうかもしれないということもわからないほどの子どもに、家の外にいるように言ったまま様子を見に行くこともしないなんて殺人行為ではないでしょうか?
(中略)
最近、幼児虐待についての問題が表面化していますが、この事件を事故死で片付けてしまう警察や日本の法律には、虐待されている子どもたちを救おうとする気持ちすら感じられない
(中略)
でも傷つけたのが自分の子どもなら、親はどんな言い訳も可能です。自分の親に傷つけられた子どもの気持ちは、誰が代弁してやるのでしょうか。
子どもの心を思えば、他人から受ける暴力よりも、自分の頼るべき人から受ける暴力の方がより深く傷つくのではないでしょうか。(後略)」

首がもげるほど同意とはこのことだと思うほど、この女性が抱く危機感は重要なことである。
なんとか警察も事件化したとはいえ、結果として法は大輔くんの無念に寄り添いながらも、殺した親を優先させた。
というか、こんな親に8人も子育てさせるのかよ・・・

大変だったから、育て難い子だったから、一人くらい死んでも仕方ないとでもいうのだろうか。

盗み癖があったという大輔くんは、正月に祖父母にもらったお年玉を、封も開けずにそのまま恵理子に手渡していた。断言してもいいが、この親は子供のお年玉を巻き上げていた。
小さな体に、しつけという名の暴力を一身に受け続けてきた大輔くんのことを、兄弟姉妹たちは覚えているんだろうか。

松本の若い夫婦

平成13年5月24日。新緑眩しい長野県塩尻市のみどり湖に、スポーツバッグが浮いた。
釣りのできる湖としても知られるみどり湖には管理人がおり、この日も釣り客から料金を徴収するために釣り桟橋を渡っていた時、そのバッグを見つけたという。
単なる不法投棄かと、そのバッグを引き揚げてみると、とてつもない異臭がしたため、通報。アシックス製のビニールのスポーツバッグのファスナーは閉じられたままだった。

駆けつけた警察官によってスポーツバッグが開けられると、中から小さな遺体が見つかった。
身長約80センチ、前屈みに膝を抱えるような状態で押し込まれたその遺体は、すでに腐敗が始まっていた。

そして、遺体と一緒に、ソフトボールくらいの大きさの石が数個、入れられていた。

判明しない身元

警察では、死体遺棄事件として捜査を開始したが、そもそもこの遺体がどこの誰なのか、全く分からなかった。
遺体の身長などから、間違いなく2歳前後の幼児であることはわかっていたが、塩尻市内に行方のわからない幼児はいなかった。
入れられていたスポーツバッグも大量に流通しているもので、遺体と一緒に入れられていたタオルと、なぜか女性用のレース製のショーツも、特に身元につながるようなものではなかった。

遺体発見から1週間、死因すら特定できず、捜査は難航。
ただ、幼児の血液型はAB型、上下に8本ずつ歯が生え出していたこと、そして、腕にはBCGの注射痕があることが判明した。
そこで、塩尻署と県警捜査一課は、塩尻市だけでなく松本、諏訪、岡谷、茅野などの中南信地方の自治体に、BCGを受けた1〜3歳の幼児について行方がわからなくなっている子供がいないかを中心に探った。

遺体発見から1ヶ月が経過した6月27日。
松本市内の託児所から、4月以降姿を見ていない当時1歳9ヶ月の子供がいると連絡が入り、捜査員らが両親から事情を聞いたところ、両親が子供をみどり湖に棄てたことを認めた。
死体遺棄容疑で逮捕されたのは、松本市在住の飲食店店員、林善彦(当時22歳)と、妻の絵美(当時21歳)という、若い夫婦だった。

二人のそれまで

湖に棄てられていたのは、長男の克樹ちゃん(当時1歳9ヶ月)で、二人は「克樹が死んだので湖に棄てた」と供述していたが、その死因については曖昧な供述しかしていなかった。

死亡の経緯は別として、二人は5月中旬、自宅で死亡した克樹ちゃんの遺体をタオルで包み、スポーツバッグに入れておもしのために石を入れた上で遺棄したと話していた。

二人は松本城に近い住宅街の中のアパートで暮らしていたといい、克樹ちゃんを遺棄した後、近隣の人らには「子供は実家に預けている」と話していたという。
善彦は当時、JR松本駅に近い場所のスナックでウェイターとして勤務。自宅はそのスナックの従業員寮だったといい、その年の2月頃からこのアパートで暮らしていた。

絵美も、同じように夜の店でホステスとして働いていて、その年の3月頃から克樹ちゃんを夜間の託児所に預けるようになっていた。

若い二人の出会いは平成10年の熊本だった。
ゲームセンターで知り合った二人はすぐに交際を始めた。出会って4ヶ月目には絵美の妊娠がわかったことで翌年の2月に婚姻届を提出した。
しかし若い二人のこの妊娠と結婚は大きな問題を孕んでいた。
絵美は当時、善彦以外にも交際相手が複数おり、加えて援助交際も行なっていたことで、妊娠が判明した時正直誰の子なのかわからなかった。
ところが善彦もそれを把握しており、その上で、
「多分俺の子だよ、産んでほしい、すぐ結婚しよう」
という斜め上の漢気を見せたことで、絵美も産んで結婚しようと決断した。

案の定、生まれた克樹ちゃんの血液型は、0型の善彦とB型の絵美からは生まれ得ないAB型だった。
が、若い二人は「血液型より直感が大事」だったため、以降も克樹ちゃんは善彦の子どもだと信じて育てることにした。

ここまでは、ツッコミどころはあるとしても協力して子供を育てようとしているともいえ、むしろ細けえことはいいんだよ的な懐の大きさも感じられ、温かく見守ろうとすら思えるわけだが、直後から二人の子育て生活はガラガラと音を立てて崩壊し始める。
崩壊のきっかけは、善彦の勤務シフトだった。

熊本県内の工場に勤務してまじめに働いていた善彦だったが、夜勤のある職場だった。
ある時、絵美から一晩中一人で子育てをするのはきついので夜勤をやめてほしいと頼まれる。
今ならば、それを受け入れない会社が怒られてしまうし、そもそも若いふたりにはサポートはあったほうが良かった。この点での絵美の訴えはよく理解できる。
善彦もそんな絵美の申し出を受け、会社の上司にかけあうなどしてみたが、認めてもらえなかった。

結果、善彦は会社を退職、その後も転職を試みるも長続きしなかった。

生活費は消費者金融、実家からの持ち出しに加え、絵美の援助交際でまかなった。が、常にぎりぎりの生活だった。

援交する妻と黙認の夫

平成12年に入ると、絵美が実家の金を持ち出すことが増えてくる。おそらくだが、実家もそんな絵美に愛想をつかせていたのか、その年の5月、絵美は実家である騒動を起こす。

実家から金を持ち出そうと、金庫ごと盗んだのだ。

当初は第三者の犯行を装っていたようだが、家族が警察に被害届を出そうとしていると知ると、自身の犯行がバレることを恐れてなんと善彦と克樹ちゃんと逃亡。宮城県を経由して宇都宮市へ逃れた。
一旦は宇都宮市内で生活をし始めたが、絵美が交通違反で切符を切られたことから実家に居場所がばれるのでは、と不安になり、またもや逃げるように宇都宮を離れた。

そして12月から、松本市内の事件当時暮らしていたアパートへ越してきていたのだ。念のため、表札は「平林」に変えていた。

善彦も絵美も仕事を見つけ、克樹ちゃんの預け先も確保できた。実家には申し訳ないが、所詮家族間のことでもあるわけで、今後まじめに働いていつか熊本に変えることが出来れば、時が許してくれることもあると思わなくもないが、そもそも絵美はこの生活に嫌気がさしていた。

平成13年2月、絵美が勤務する店の客である男性と、絵美は肉体関係を持つ。善彦に隠れ、ほぼ毎日のように逢瀬を重ねたというが、その男性と会うための資金作りとして、またもや援助交際も始めていた。
内緒とはいえ、善彦も絵美の挙動不審には気付いていたという。しかし、「友達と会う」と言われるとそれ以上追及もできず、また援助交際については「生活費のため」という大義名分のもと、黙認していた。

絵美は男性にのめりこんでいったが、どうやら夫と子供がいることはこの男性に隠していたと思われる。
なぜなら、この男性がせめて子供の存在を知っていたとしたら、この後の犯行は起こらなかった可能性があるからだ。

善彦と別れ、男性と結婚したいと思うようになった絵美に、男性は、(絵美に)夫や子供がいたとしたら別れる、付き合ってない、と話していた。
現時点で善彦は絵美の不倫をうすうす気づいていながら何も言ってこないのだから、正直善彦の存在は絵美にとってネックではなかったろう。
が、克樹ちゃんの存在は、どうしようもない。隠し通せなくなるのも時間の問題だった。

絵美の頭の中は男性のことでいっぱいで、どうすれば夫と子供の存在を男性に知られることなくきれいさっぱり縁が切れるか、そればかりを考えるようになっていった。
そして、善彦と離婚して克樹ちゃんを善彦に育ててもらうか、もしくは克樹ちゃんに死んでもらうか、このどちらかしかないと思うようになってしまった。アホである。

言いなり

4月16日、絵美は善彦に対し、男性の存在を暴露した。
そのうえで、
「(相手の男性に)結婚してることや克樹のことは話してないから克樹を連れてはいけない。邪魔だし、面倒見る気もないから置いていく。克樹を置いてでもAちゃん(不倫相手)のところへ行く。だからあんたが克樹の面倒みて。あんたが面倒みれないんなら殺すしかないと思ってる。」
と手紙に書いて善彦に渡した。まともに受ける方がどうかしているというような内容だが、これを渡された善彦も当然、殺す云々のくだりはいわゆる絵美の脅し文句だと受け止めていた。

しかしその後も、克樹ちゃんを殺すしかないといった主旨のメールが絵美から届くことで、絵美は本気でこう言っている、と思うようになったという。

善彦としては殺すなんて、という思いは当然あったとみえるが、だからといって克樹ちゃんを一人で育てていくことには抵抗があった。そこで、絵美に対し、殺す云々についての明言は避けたものの、
「俺も面倒はみられない」
という返答をした。

そしてふたりは何度かの意思確認を経て、4月20日午前8時ころ、アパートの風呂に水を張り、克樹ちゃんを抱き上げそのまま沈めた。
克樹ちゃんは激しく抵抗し、かぶせた風呂の蓋を渾身の力で蹴りあげたという。それを、善彦と絵美は協力して抑えつけ、やがて克樹ちゃんは溺死した。

克樹ちゃんの遺体をバスタオルにくるむと、絵美の私物であるスポーツバッグに入れ、重石用の石を3つ入れて車に乗り込んだ。ちなみに遺体発見時に一緒に見つかったレースの女性用下着は、おそらく絵美のもので、適当にひっつかんだバスタオルに紛れていたか、元からスポーツバッグに入っていたと思われ特に意味はないようだった。
そして人の目がなくなる深夜、善彦がスポーツバッグを持って車でみどり湖まで行くと、そのバッグを抱えて湖に入り、数十メートル泳いでスポーツバッグを沈めた。

ふたりはその後も何食わぬ顔で普通に生活していたという。善彦は逮捕される日までスナックに勤めていたし、絵美は晴れ晴れとした気持ちで男性の元へ足しげく通う日々だった。

しかしそんな日々は、一か月で終わりを迎えた。

情状酌量の余地なし

裁判では犯行当日の様子もつまびらかにされた。
その中で、一旦風呂に沈めた克樹ちゃんが予想以上に暴れたことで怯んだ善彦が、「今なら(助ければ)間に合う!!」と言ったのを、「ここで止めたら二度とできなくなる」と絵美が聞き入れなかったことも明かされた。

検察は絵美に懲役13年、善彦に懲役10年を求刑。弁護側も「今は反省している。弁解の余地もない」と繰り返すにとどまるほど、このふたりの犯行動機、その様態について、庇えるところがほとんどなかった。

長野地裁松本支部の千徳輝夫裁判長は、普通このような親が子供を殺す事件ではそこまで追い詰められたことが理解できる事情が少なからずあるものだが、本件ではそのような事情はうかがえないとして厳しく二人を断じた。
克樹ちゃんは直前まで、善彦や絵美と無邪気に遊んでいた。まさか、今目の前で自分を殺す段取りをされているなど思いもしなかった。
一切の抵抗もなく抱き上げられ、母の胸で安心しきっている克樹ちゃんを、絵美は躊躇なく風呂に沈めたのだ。
どれほど苦しかったろうか。何が起きたのかわけもわからず、母の手によって沈められたこともわからず、克樹ちゃんはおそらく母に、そして父だと思っていた善彦に助けを求めたはずだ。

平成13年12月18日、長野地裁松本支部は絵美に懲役12年、善彦に懲役10年の判決を言い渡した。
さすがに二人は控訴しなかった。

絵美の極悪非道ぶりはもうどうしようもないとして、この善彦のある種の人の好さというか、なんにでも迎合するというか、これは性格なのだろうか。
そもそも克樹ちゃんは自分の子ではないことは、本当はわかっていたはずだ。それでも、むしろそれごと受け入れることで絵美の歓心を買おうとしたのだろうか。
絵美が離婚を申し出、克樹ちゃんのこともいらないと言ったとして、たしかに善彦がすべてを引き受ける必要もない。
しかしそれなら熊本の実家に連絡するとか、いくらでもやりようがあったと思えるのに、結局絵美の「殺すしかない」に同調してしまっている。

結局、熊本に連絡すれば絵美が困る、離婚を受け入れなけらば絵美が困る、子どもの存在があれば結局いつか絵美が困る、全部絵美のため。
ようは、善彦はその経緯がどうあれ、絵美のために生きているようなものだったのかもしれない。

それにしても、計画的な殺人と死体遺棄で情状酌量の余地なしにもかかわらず、検察側の求刑が15年にも満たないのは令和の時代では有り得ないような気もする。
事件から20年以上経過し、ふたりは今どこで何をしているのか。家庭を持ち、子どもを持っているのだろうか。

人は変われる。しかし、子どもを殺した過去は消せないし、どんな言い訳もできない。罪を償っても、世間の記憶からなくなっても、当人たちだけは忘れてはいけない。

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参考文献
NHKニュース 平成13年6月27日、平成26年12月30日
沖縄タイムス社 平成26年12月31日朝刊
共同通信社 平成26年12月31日朝刊
産経新聞社 平成27年5月8日東京朝刊、平成28年3月14日(小野田雄一)
中日新聞社 平成10年1月8日朝刊、平成13年6月28日、10月17日朝刊、平成27年5月12日夕刊
朝日新聞社 平成10年1月8日西部朝刊、平成11年12月7日西部朝刊、平成13年5月25日、27日、6月7日、28日、11月7日東京地方版/長野、平成26年12月31日東京朝刊
毎日新聞社 平成10年3月4日西部朝刊、平成13年9月12日東京朝刊
高知新聞社 平成10年2月21日朝刊(投書)
読売新聞社 平成11年12月7日、12月21日西部朝刊、平成13年5月25日、26日、31日、6月28日、29日、7月1日、7日、17日、8月4日、12月19日東京朝刊、6月27日東京夕刊、

平成28年3月23日東京地方裁判所第3刑事部/判決
平成27年(合わ)第90号/平成27年(合わ)第125号

平成13年12月6日福岡地方裁判所第1刑事部/判決
平成12年(わ)第194号

平成13年12月18日長野地方裁判所松本支部/判決
平成13年(わ)102号/平成13年(わ)117号

D1-Law第一法規法情報総合データベース

🔓Motherly Love~今市市・主婦協力殺人事件~

平成9年夏

栃木県今市市(現・日光市)。
雨が降りしきるその夜、家のガレージ前で佇む女がいた。
通りがかった近所の人が不審に思い、声をかける。
「どうしたの?こんな雨の夜に…」
「夫がまた暴れてるの。落ち着くまでここにいようと思って」
ああ、またか。この家の夫は家族、特に妻に対して暴力を振るうと聞く。かわいそうに。
お大事にね、そう言うしかない近所の人に女も力なく笑った。

特集:こどものじけんぼ

まえがき

現在、少年法では14歳未満の者は刑罰を受けない。刑事責任能力のある年齢に達していないからであるが、11歳以上になると少年院送致が可能となる。
したがって、「子どものしたことだから」が通用するのは10歳以下、となる。

14歳以上18歳未満の者は、死刑を科すべきときは無期刑にしなければならないため実質18歳未満のものへの死刑執行は有り得ない。
無期刑を科すべきときは、成人同様に処罰も可能だし、10年以上20年以下の有期刑にすることもできる。

18歳、19歳の場合はご存じの通り死刑、無期懲役は有り得る。

昭和49年生まれの私が少年事件で思い起こすのは、なんといっても、綾瀬の女子高生監禁殺人(コンクリ事件)である。
しかしその後、神戸の連続児童殺傷事件が起き、犯人が14歳の少年だったことは理解の範疇を超えた。

ただ、インターネットが普及し、いろいろな事件を調べていくうちに度肝を抜かれた14歳~15歳の殺人者は過去にも山ほどいたこと、もっと年少者が起こした事件もあることを知る。
ようは、少年事件だから埋もれていただけだった。

前回、仰げば尊しスペシャルで少年(18歳以下)事件をいくつか取り上げたが、今回は中学生以下に限定して、こどものじけんとしてお届けしたい。

兄弟の事件

福岡県那珂川町。
冬の夕暮れ時、各家庭からはそろそろ夕餉の支度にとりかかる時間。
コンビニの店長は、深くため息をついた。
「あんまり飲まないほうがいいよ」
常連客の女は、赤ら顔ですでに酔っていたが、またカップの焼酎を1本だけ買って、店長に微笑むと店を出ていった。

その数時間後、女は自宅で命を落とした。

自宅にて

那珂川町のマンションから、「母親がぐったりしている」と春日大野城中川消防本部に119番通報が入ったのは平成12217日の午後5時半ころだった。
救急隊が駆け付けると、部屋で母親とみられる女性が吐血し、倒れていたという。母親は病院に搬送された際すでに心肺停止となっており、その後死亡が確認された。

亡くなったのはこの部屋で暮らしていた山中優子さん(仮名/当時49歳)。優子さんは14歳と13歳の息子、10歳の娘との4人暮らしだった。
救急隊が優子さんを搬送する際、玄関の前で長男は呆然と立ち尽くし、傍らでは次男が泣きじゃくっていたという。

その後の調べで、長男と次男が母親に暴行を働いたことが判明、筑紫野署は傷害致死容疑で長男を緊急逮捕、次男を補導した。

優子さんの死因は、胸部圧迫による呼吸不全と見られた。

事件の一報を聞いた学校関係者らは衝撃とともに、無念の思いを抱かずにいられなかった。
この家族の苦しい状況は、ずっと前から学校関係者や行政、民生委員など多くの人がかかわって知っていたのだ。

母親とも、子どもたちともずっと連携を取っていた。にもかかわらず起きた最悪の事態だった。

酒浸りの母

優子さんは夫と離婚後、子供たち3人を引き取り生活保護を受けて暮らしていた。
しかしアルコール依存の問題を抱えていた優子さんは、生活保護費を酒に費やし、さらには日々の子供たちの世話も徐々に放棄するようになっていた。

学校が一家の問題を把握したのは昨年の6月。
中学校に、優子さんから「次男に暴力を振るわれる」という相談があった。
担任や校長らが話を聞くと、次男は母親に暴力を振るったことを認めたという。しかし、その理由として、優子さんが酒に溺れ、食事すら作らないという事実が発覚、学校側もまず優子さんに対し、母親としての役割を果たすように諭した。
そのうえで、次男に対しても「お母さんのお酒のことはみんなでやめさせるよう努力するから、もう暴力はいけないよ」と話し、次男も素直に納得したという。

その後も、弁当が必要な学校であるにもかかわらず、毎日学食でパンを買う兄弟を担任は見ており、この担任は何度も家庭訪問しては優子さんを励まし、県福祉事務所、児童相談所にも相談していた。
実際、2週間後を目途に優子さんをアルコール依存治療も含め入院させる手はずも整っており、あとはその日をいつにするか決めるだけだったという。

優子さんが夫と離婚したのは昨年の3月。わずか1年の間にみるみる崩壊していったこの家庭には、厳しい試練がのしかかっていた。

試練の日々

事件後、この家を取材した西日本新聞社によると、外から見てもこの家の凄まじい日常が垣間見えたという。
家の裏手には焼酎、日本酒の空き瓶が無造作に転がり、台所のテーブルにはカレーを食べたとみられる器が汚れたまま積み重なっていた。
窓ガラスはあちこちが割れ、北風が吹きつけるたびに音を立てたという。茶の間とみられる場所には、洗っているのか汚れているのかすらわからない衣類が散らばり、布団や毛布もそのままだった。

この荒んだ家を、10歳の妹は飛び出した。家出を繰り返すようになったことから、児童相談所で保護されていて、事件当時も家にはいなかった。

一家はちょうどその娘が生まれた10年ほど前にこの場所へ越してきた。父親が働く型枠工事の会社に、母親の優子さんも一緒にパートで勤務していたという。
小さな子供を抱え、共働きでやっとという生活だったというが、家庭は円満、子どもたちの友達を招いて食事をすることもあった。

ところが平成10年ころ、突如歯車が狂いだす。

父親がなんと自宅の前で車に撥ねられてしまったのだ。重傷を負った父親は入院、しかも、足には後遺症が残った。
当初は保険金などでなんとかなったが、その間に父親の勤務していた会社は倒産してしまう。優子さんも職を失った。

自暴自棄になった父親は昼間から酒を飲まずにいられなくなった。年齢や後遺症のこともあって、仕事が見つかる可能性は低く、それもあって職探しの意欲も失われていた。
当初は励ましていた優子さんも、現実を見たときにふと虚しさに囚われたのだろう、自身も酒に逃げ場を求めるようになってしまった。

父親は平成11年の春に家を出、そのまま離婚となった。

優子さんは子供たちを引き取り、月24万円の生活保護費を受け取っていた。
24万円と言えば、親子4人ある程度の生活は出来ると思えるが、この頃優子さんが飲む酒の量は尋常ではない状態になっており、生活保護費の多くも酒代に消えていた。

兄弟

年子の兄弟は、妹をかわいがっていた。その妹が、施設で暮らすようになってからも、何度も電話をかけては妹を気遣っていたという。
ただ、面会は保護者同伴でなければできず、そのために兄弟は母親の優子さんに対し、一緒に妹のところへ行こうと、何度も何度も働きかけていた。

事件当日も、兄弟が学校から帰ったら、妹に会いに行くことになっていた。
しかし兄が帰宅すると、優子さんはすでに泥酔状態。それでも、弟とともに優子さんを連れ出し、施設へと向かったという。

「おなか痛い」

突然、優子さんはお腹を押さえてうずくまった。優子さんが体調不良を訴えたことで、この日妹との面会は叶わなかった。
しかたなく帰宅した3人だったが、夕飯時にもかかわらず優子さんが食事の支度にとりかかる気配はない。
業を煮やした長男が、「酒ばかり飲まんで、ご飯作ってくれ」と言ったところ、優子さんが「からだがきついけん、作りきらん」と返した。しかし口論となり、そのうち優子さんが激怒。
「お前たちは何か!!」
と兄弟に食って掛かった。

そして子供たちに殴られた。優子さんは「わかった」といい、台所に立ったが、直後に血を吐いて昏倒した。この時、裕子さんの肺は致命的な損傷を受けていたという。

学校や関係者らは、入院を急がなかったことを悔やんだ。事件を知った有識者らも、こぞって「孤立した家族」「不安と寂しさから酒に逃げた母を救えなかった」「社会の無理解」などと書き立てた。

こどもになったおかあさん

確かに、入院を急いでいれば事件はこの日は起こっていなかったかもしれない。
しかし、入院を拒んだのは優子さんではなく、次男だった。
優子さんに暴力を振るっていたのも次男だったが、入院を急ぐ関係者に対し、「今、家で薬飲んでるから、入院はもうちょっと待って」と頼んでいたのも次男だった。

別れた夫も、気にかけていないわけではなかった。
今も入院中という夫は、子どもたちのことも、優子さんのことも気にはかけていた。
兄弟は別れて暮らす父親を見舞い、事件の一週間前にも会っていた。
優子さんが家事も育児もしていないことを、子どもたちから聞いていた。自身も職にありつけず、入院中の身とあって、子どもたちに何もしてやれないと歯がゆい思いを抱きながら、せめて、と、一万円を手渡した。

近隣の人らも、皆がこの家族に無関心だったわけではない。
優子さんが行きつけにしていたコンビニの店長は、優子さんが来るたびに世間話をし、時には諭すようなことも言っていた。
次男に殴られる、と話す優子さんに対し、「酒ば飲むけんたい」と叱った。優子さんも苦笑いを浮かべて、「それはわかってるんだけど」と答えた。

長男は静かでまじめな子だったといい、活発な次男とは対照的な印象だった。
コンビニでは、長男が優子さんに対して
「お母さん、もう酒はやめて!」
と懇願する姿が何度も見られていた。

あの日、最初に母を殴ったのは長男だった。物静かで、弟や妹を守って、母までも守ってきた14歳の長男が、この日は手を挙げた。
優子さんは驚いたのではないか。同時に、長男の心の傷の深さも、優子さんはこのときはっきりと気付いたようにも思う。
しかし、遅かった。

次男は病院で母が死んだことを告げられると泣き崩れた。酒を飲んでないときの母を、次男は大好きだったと話した。それは、長男も同じだったろう。

優子さん自身も、酒が入っていないときは自己嫌悪に嘆き、なんどもなんども立ち直ろうとしていた。だからこそ、家庭訪問も拒まず、ケースワーカーとの面談や行政の立ち入りにも心を打ち明けている。
「なんとか高校に進学させたい」
優子さんの思いを、ケースワーカーは何度も聞いていた。

事件が起こる20日前、長女が保護されている福祉施設を、優子さんは訪ねていた。
しかし泥酔に近い状態だったという優子さんが差し出した、「一緒に帰ろう」という手を、娘は無言で払いのけたという。

この時、優子さんは自ら入院を申し出る。娘の無言の抗議がよほど堪えたとみえた。
さっそく準備が整えられたが、二日後、優子さんから入院を拒否する電話がかかってきた。
優子さんの我が儘というより、おそらくこの時、次男が優子さんの入院に難色を示した可能性が強い。
ご飯も作ってもらえず、家も荒れ放題、妹は愛想をつかして家出したこの母親であっても、兄弟にとっては守るべき大切な人だったのだろう。

長男は逮捕後、「立ち直ってほしいという、体罰のつもりだった」と話した。

母はいつからか、子どもになってしまっていた。

兄弟はその後、自立支援施設への入所が決まった。

友達同士の事件

「このまま待ってて」
そういわれたタクシーの運転手は、今しがた降りた客が団地へ向かうのを横目で追った。
場所は浦和市の市営住宅。金を持たずにタクシーに乗って、家族に払ってもらうというのはままあることだが、そのまま払わずに逃げる客もいる。
が、この客は年寄りと孫、といったところか。家に財布でも忘れてきたのか。

しばらくして、先ほどの子供たちが戻ってきた、が、様子がおかしい。
運転手が外に出ると、子どもは泣いていた。
「おじいちゃんの様子がおかしい、見てほしい」

市営住宅にて

平成10217日。浦和市辻八の市営住宅「辻水深団地」の無職、吉田起己(たつみ)さん(当時69歳)方で、吉田さん方を訪れたタクシー運転手が室内で倒れている吉田さんを発見、119番通報した。
救急隊が駆け付けたが、すでに死亡していた。

吉田さんの顔などには暴行された跡があったことから、浦和署員がその場にいてタクシー運転手に助けを求めた14歳と15歳の市内の女子中学生に事情を聞いたところ、ふたりが暴行したと供述したため、同日夜、ふたりを傷害致死容疑で逮捕した。

ふたりは市内の同じ小学校を卒業した友達同士で、現在中学3年生だった。

吉田さんの死因は、肋骨骨折による肺の損傷と判明。少女らは吉田さんに殴る蹴るの暴行を働いたといったが、それとも合致するものだった。

タクシー運転手はその日のことをこう話した。

「団地の吉田さんに呼ばれて、吉田さんと子供たちをタクシーで銀行へ送った。その後、再び団地に戻った直後に、吉田さんの様子がおかしいと聞かされた」

女子中学生らは、警察の調べに対し、
「吉田さんに貸していた金をなかなか返してくれず、腹が立って蹴ってしまった。」
と答えていた。

ひとり暮らしの老人が、女子中学生に金を借りているという理解しがたい構図だったが、この3人に一体何があったのか。

先に結論から言うと、お金を貸していたというのは嘘だった。逆にふたりは、吉田さんから金を奪っていたのだ。

惹き合う孤独

吉田さんは独身で、長いこと警備員などの仕事を転々としていた。若干知的障害があったといい、親しい友人もいなかった。
そんな吉田さんが唯一、相手にしてもらえるのは子どもたちだったという。

一方の女子中学生はどうだったか。
ふたりとも市内の私立高校に合格しており、ひとりはこの後本命の公立高校の入試が控えていたという。ここでは15歳の少女を彩海、14歳の少女を梨奈と呼ぼう。

彩海は銀行員の父がいる家庭で育ち、特にこれまで目立った問題もなかったために彼女が通う中学では大騒ぎになった。

梨奈については、いささか印象が違う。そもそも梨奈が小学生の頃から吉田さんと知り合いで、その後、友人の彩海も梨奈と一緒に吉田さんと関わるようになったのだという。
梨奈の家庭環境はあまりよくなかったようで、中学校でも「浮いた存在」だった。両親は梨奈を放置していたといい、コミュニケーションは全く取れていなかった。
そのため、寂しい思いを抱えた梨奈は外に温もりを求めるようになり、無断外泊やいわゆる非行グループとの交際もあったようだ。

吉田さんの存在は、梨奈と彩海が小学校の頃から有名だった。
吉田さんは団地や公園で子供たちに声をかけ、話し相手になってもらっていたというが、その子どもたちとの関係にはいつしか「お金」が介在するようになる。
子供たちの間で、漫画を買い取ってくれるおじさんがいる、そんな話が聞かれるようになった。
梨奈も、吉田さんに漫画や雑誌を買い取ってもらったり、時にはお小遣いをもらうこともあった。

家にいたくない梨奈が外で時間を過ごすには当然、金が要る。言い方を考えずに言うと、梨奈は「味を占めた」。
公園で会うだけだった吉田さん方へ梨奈と彩海が出入りするようになるのは、中学2年の頃だった。

年金

吉田さんには2か月に1度、15日に27万円の年金が支給されていた。吉田さんは必要な金額を通帳から降ろし、自宅の箪笥の中などに保管していたようだったが、家に出入りするようになった梨奈はある時その金を見つけた。

年金の仕組みを知らない梨奈は、彩海とともに吉田さんのたんすから無断で金を抜いた。そのうち、15日に年金というものが口座に振り込まれることを知り、その15日に合わせて吉田さんに小遣いをせびるようになっていく。

吉田さんも最初は軽い気持ちでいくらかを渡したのだろうが、それはエスカレートし、吉田さんは十数万円を渡すこともあった。
吉田さんの年金があまりに早く減ることを不審に思ったのは、吉田さんの妹だった。
問い詰めても吉田さんの返答は要領を得ないため、妹が年金の管理をし始めた。15日には妹が預かった通帳から口座引き落とし分だけを残してあとは引き出し、必要に応じて吉田さんに渡すことになっていた。

そんなことは知らない梨奈と彩海は、いつものように15日を過ぎた頃に吉田さんを訪ね、小遣いをせびった。
しかし家のどこにも現金はなく、苛立ったふたりは吉田さんを問い詰めた。
銀行に行けばある、と吉田さんが言ったため、ふたりはタクシーを呼び吉田さんとともに銀行へ向かったのだが、カードは妹が持っていたため降ろせなかった。

事件は通帳を取りに家に戻った時に起きた。

「ふざけんじゃねぇ、どこにあるんだよ!」

その日、タクシーを呼び銀行へ回り、再び自宅に戻った時、吉田さんは金を出さなかった。
それに激昂したふたりは、以前にも金を出し渋った吉田さんを蹴ったことを思い出した。
ふたりが吉田さんに殴る蹴るの暴行を加えると、吉田さんはお金を出してきたことがあった。
そこで今回も、同じように吉田さんを蹴った。どちらが先に蹴り始めたのかは、わからなかった。

本当は吉田さんを心配した妹が預金を管理していたために吉田さんの手元にも口座にもお金がなかったわけだが、そんなことを知らない二人は、吉田さんが金を隠していると思い込んでいた。
「ふざけんじゃねぇ、銀行からおろした金はどこにあるんだよ!!」
仰向けに倒れた吉田さんを、厚底ブーツで蹴りあげた。胸や腹を踏みつけられ、吉田さんの肋骨は折れた。

動かなくなった吉田さんを見て、ようやくふたりは我に返り、その事態にパニックになってタクシーの運転手に助けを求めたのだった。
タクシーのメーターは、1万数千円になっていた。

強盗少女

傷害致死で逮捕された彩海と梨奈だったが、浦和地検は310日、容疑を強盗致死に切り替えて浦和家裁へと送った。

ふたりが当初、吉田さんが金を返してくれなかったと話していたことは事実ではなく、実際には吉田さんから金を奪うことが目的の暴行だったと明らかになったからである。

しかもふたりが金を奪ったのは吉田さんだけではなかった。

25日、吉田さんと同じ団地に暮らす68歳の女性に対し、「人に追われている」と助けを求め、その女性宅に入り込んで現金6千円を盗んでいたのだ。
女性が後に被害届を出していて、証言などから彩海と梨奈の犯行と判明した。

吉田さんについても、家に入れてくれないときにはベランダなどを伝って部屋に侵入していたこともわかった。

43日、浦和地裁で個別に開かれた最終審判において、彩海は初等少年院へ、梨奈は医療少年院への装置を言い渡した。
処分決定の理由について、鈴木秀夫裁判官は、
「(彩海は)主体性に乏しく周囲の影響を受けやすいなどの資質、性格上の問題点を総合考慮」したとし、梨奈については「事件の重大性や情緒不安定などの資質、性格上の問題点を総合考慮」したとしている。

梨奈の付添人の弁護士は、この事件は「老人(吉田さん)が安易に小遣いを与え続ける『ゆがんだかかわり』という環境に問題があった。少女が不良グループから金を脅し取られていたという事実もある」とし、梨奈は在宅での試験保護観察が適当、と主張した。

梨奈の家庭、両親に受け止める器量があるかどうかはなはだ疑問ではあるが、年齢的に考えても少年院送致は保護処分の中でも一番重いわけで、それを回避したいという思いからの発言だろう。

吉田さんに事件の要因があるかのような言い分はいかがなものかと思う一方で、大きく見た場合、この吉田さんの行為は大人が未成年者を金で買う、その行為と変わりはないようにも思う。
そこに性的な搾取がなかったとしても、金で子供を意のままにする、というのはやはりよくない点であろう。

しかし、小遣いを渡して子供たちの笑顔が見たい、その吉田さんの思いも痛いほどわかる。孫のような年齢の子供たちに、吉田さんは癒されていた。
吉田さんも、終盤は彩海や梨奈の要求を拒むようになっていた。それでもやってきては金を奪い取っていくふたりを、吉田さんは警察に告発することも、妹に訴えることもなかった。

大人になった彩海と梨奈は、吉田さんを思い出すことはあるのだろうか。

11歳の事件

平成13415日午後7時。尼崎北署に、一本の通報が入った。
発信場所は管轄内の交番。交番に警察官がいないときには、警察署につながる電話が交番には置いてある。そこからの電話だった。

「お母さんを、殺した」

電話の主は確かにそう言った。しかも、かなり幼い声の主だった。
駆け付けた尼崎北署の署員は、交番の前にじっと立ち尽くしている男児の姿を確認。
「君が電話くれたんか?」
男児は頷いた。彼は市内の小学校の6年生、11歳だった。

男児は付き添っていた署員に対し、
「お母さん、どないなったんやろ」
と言って涙をこぼした。

マンションにて

414日、男児は自宅で自分自身と向き合っていた。手には包丁。すでに人差し指を試しに切っていた。
もう、死のう。そうは思ったものの、逡巡しているうちに玄関のドアが開いた。

「なにしてるの!!」

戻ってきたのは母親だった。とっさに、男児は包丁を振り回す。母親はそれでも刃物をよけながら、息子に少しずつ近づいていく。

刃物が刺さったのは、偶然だった。

よろめき、倒れこむ母親。呆然とそれを見下ろす男児。
男児はそのあと、交番まで歩いて行った。

男児は保護され、警察で事情を聞かれた。
「転校したのが嫌だった。友達と別れたくなかった」
そう話したという男児は、この4月に尼崎市内の別の小学校から転校してきたばかりだった。
始業式では全校生徒に紹介もされ、新しくできた友達を家に連れてきたこともあったという。

父親は、息子の様子からまったく悩みに気付いておらず、放心状態だった。それでも、保護された息子に対し、「一人で背負うな、ずっと待ってるから」と手紙を書いた。

が、男児は父親との面会を拒否した。

思いあう家族

男児の家庭は表面的に見れば非常に立派な家庭だった。
阪神淡路大震災で被災し、家を失いしばらくは伊丹の仮設住宅での生活を余儀なくされたが、その後尼崎市内の武庫川に近い住宅地に、立派な3階建ての家を再建したという。

母親はきちんとした性格で、伊丹で暮らしていた時ももともと暮らしていた尼崎市内の小学校に入学した男児を、母親は自転車に乗せて送り迎えをしたという。

そんな母親のしつけがよかったのか、男児はあいさつのしっかりできる子に育った。背の高い男児は、少し大人びても見え、子どもたちの間ではリーダー格だった。

そんな家庭に暗雲が立ち込めたのは、事件が起こる一年前の3月。しっかり者の母親を病が襲った。
簡単な病気ではなく、手術も必要なものだったようで、母親の入院、通院も長引いた。
その間も、母親は病床から息子の担任に対し、クラス替えや学校での様子を聞くなど、息子の様子を心配していたという。

平成1210月、ようやく退院にこぎつけたが、体の負担は大きかった。
3階建ての自宅はそんな母にとって生活しづらく、家族は思い切って別のマンションを借りた。
元の家はそのままに、母親の通院や家事の負担を減らすためのことで、男児も一緒に越したものの、学校はそれまでと同じところへ父親が車で送迎した。

家族がそれぞれの事情を抱え、それぞれを思いやって物事を決めている。そしてそのためには、家族は出来る限りの協力をし、親は子供の意思を尊重しており、いわば理想の家族、そんな風にも思えた。

ただ、当初は卒業まで元の小学校へ通う、としていたのを、平成13年の1月になって男児の転校の話が持ち上がった。
あと1年で卒業であり、なんとかこのままこの小学校に通わせられないか、学校側は男児の意向を知っていたこともあって話し合いがもたれたようだが、2月、結局転校することになった。
この時担任が男児を気遣ったところ、男児は
「ええねん、僕もう決めたんや。」
と話したという。

その後行われたお別れ会でも、男児は笑顔だった。

しかしそのわずか1か月後、事件は起こってしまった。

神に救いを求めた母

母は自身の入院中、聖書に触れた。
病気になっても希望を持って生きていきたい、そう考えた母親はキリスト教徒となる。

7か月におよぶ入院生活を終えた後も、母親は継続的な治療が必要だった。マンションへの転居も、その通院に便利という意味もあった。
通院のほかに針治療なども行っていた母親は、性格がそうさせたのか、家事もきちんとこなしていたという。
洗濯物は毎日行い、家の掃除も行き届いていた。
「病気で家が汚れるのは嫌」
そう話したという母親は、しつけにもその几帳面さとともに、少々「やりすぎ」な面も見えた。

心配性な面もあったのか、男児が友達とケンカをしたと聞けば菓子折りを持って飛んで謝りに行き、些細なことでも男児はきつく叱られたという。

自分を奮い立たせ、病気に立ち向かう強い母。
しかしその母は宗教に、神に救いを求めなければいられないほど、実際には弱っていたのか。
それを間近で見ていた男児にとって、母はどんな風に映っていたのか。

そしてその心配性な面が、この事件のとっかかりになっていた。

消し忘れたホットカーペット

突然に、妻と息子の両方を失った父親の嘆きと困惑は想像を絶する。
父には家庭内の問題など、全く見当もつかなかった。なんでも家族で話し合ってきた。母(妻)の病も全力でサポートし、その上で子の環境にも配慮した。意思を尊重したからこそ、元の小学校へ通うための校区外通学申請をし、その送迎も父が担った。
病身の妻も、母としての責務をこなし、病気だからと言って甘えていられないと日々努力していた。
その妻を支えるための、家族で合意の上での引っ越しだった。
息子も納得し、友達を家にも連れてきた。

しかし、事件後の息子の取り調べや、報道などを見れば「転校と引っ越し」が大きな要因となっているというではないか。
父はわからなくなった。さらに、息子は父に会いたくないという。

それでも父は息子に手紙を書いた。

「泣かんでもいい、全部お父さんの責任や。話を聞かせて欲しい。いつまでも待っている」

男児からの返事はなかった。

父は毎日新聞の取材の中で、ある「事件」について話している。

転居した後、尼崎市内の3階建ての家はそのままにしていた。学校が終わった後、その家なら男児は歩いて帰れた。いずれまた戻ってくる家。マンションの賃貸契約期間は、2年だった。
その元の家で、父が迎えに来るまでの時間を男児は過ごしていた。ここなら、放課後友達と遊ぶこともできた。だから、引っ越しも男児は受け入れていた。

しかし、ある時男児がホットカーペットを消し忘れたことがあったという。両親は事故につながるかもしれないと、当初の話とは違って転校に向けた話をし始めた。
手続き上のこともあったのだろうが、それはやけに急がれた。突然の転校の話に、担任は驚き男児に確認する。転校していいのか、と。
男児は納得している、と答えた。

断言してもいい。両親は最初から転校させたかったのだ。それが日々の送迎の負担なのか、真剣に事故を心配したのか、もともと男児をこの家、この地域に置いておきたくなかったのか、理由はなんでもいい。
しかしあと1年ちょっとで卒業できるこの時期に転校、しかも親の都合でとなればさまざまな見方もされるだろう。当の男児も、転校などしたくないのは聞くまでもなかった。

息子を納得させられる理由を見つけることが、理解してもらえるよう話をすることができなかった両親は、おそらくずっと「転校させる正当な理由」を自分ではなく、息子に作らせたかった。
ホットカーペットの消し忘れは確かに危険である。が、その時は何事も起こらなかったし、気になるのであれば迎えに来た際に親が自分の目で確認すればよい話だ。ホットカーペット自体を取り外せばよいだけではないか。なんならブレーカー事落としておけばいい。
なぜ、そういった簡単にすぐ出来る解決策をとらずに「転校」なのか。

男児にしてみれば、自分が消し忘れたことが原因なのだから、と言われ返す言葉もなかったろう。

男児の幼い心は、理不尽さであふれていたのではないか。

会いたくない家族

11歳という、罪に問えない年齢もあって、母親を刺した細かい順序のようなものは報道されなかった。
「おそらく」という前置き付きで、刃物を振り回す男児をなだめようとするうちに、誤って刺さってしまった、というようなものがほとんどだった。
その中で、毎日新聞は「母は子を、全身で受け止めたかったのでしょうか」「最後は包丁ごと男児を抱きしめた」と書いた。

もしそれが本当なら、なぜ男児はどれだけ父が手紙を書いても、待っていると伝えても家族と会うことを拒否し続けたのか。さらに、事件直後県警が児相に通告した際、「すぐ家庭に帰すのは適当でない」という意見を付けたのか。

詳しいことはわからないが、少なくとも両親らの見る男児と、男児本人の心には溝があるように思える。

男児はその後、児童自立支援施設への入所となった。

幼児の事件

最後に取り上げるのは、あまりに有名すぎるものの、古すぎて事実関係がよくわからないことで、広島のガード下サンルーフ事故とともに都市伝説化している、幼児による嬰児殺害事件である。

昭和50818日。鹿児島県出水郡長島町の民家では、家族総出で家業である養蚕のまゆの出荷作業に追われていた。
この日は親せきに不幸があり、この家の主人と妻、17歳の長女はその葬式に行っていて留守だった。ただ、一か月ほど前に大阪で暮らす長男夫婦(ともに二十歳)が、出産のためにこの長島町の実家へ帰省していた。
731日にはかわいい女の子も誕生し、そのまましばらくは夫の実家であるこの不知火海に浮かぶ風光明媚な島で、若夫婦は新しい生活を謳歌していた。

夫は15歳になる妹と、そのまゆの出荷作業をしていたが、午後になって赤ちゃんが寝就いたことから、妻も手伝いにやってきた。
倉庫は母屋から100メートルほど離れていたが、いつでもすぐに帰れることもあり、赤ちゃんを寝かせた八畳間の障子を閉めたうえで、夫婦は出荷作業を急いでいた。

午後4時、妻は赤ちゃんの様子を見に母屋に戻ったが、その時も不審な点はなく、すやすやと良い子で眠っている娘に目を細め、最後の作業を終えるため倉庫へと戻った。

午後4時半。作業を終えた夫婦と末の妹が母屋へ戻った時。目の前に現れた光景に全員が言葉を失った。

さっきまですやすやと寝ていたはずの娘が、庭の物干しの柱に、犬の鎖で縛りつけられていたのだ。
体は前にくの時に折れ、泣き声も上げずぐったりとしていて、真っ白だったガーゼ生地のベビー服は泥や血がこびりついている状況に、母親は半狂乱となった。

あまりの光景に気付かなかったが、その庭には近所の幼い子供らの姿があった。みな、キャッキャキャッキャと奇声をあげている。
全員、隣の家の長男と次男の子供たちだった。
一番小さなよちよち歩きの女の子が何やら手に持っていた。
それは、血塗れの包丁だった。

子供たちは5歳と3歳の男の子、そして2歳の女の子だった。夫婦がなんとか包丁を取り上げたが、子どもたちはケロッとしていたという。
可哀そうに、赤ちゃんはその後町の病院に運ばれたが処置ができず、阿久根市内の病院に運ばれるもそこでも手の施しようがなく、その後運ばれた鹿児島市内の病院でわずか19日の生涯を終えた。

赤ちゃんには足首に深さ3センチの切り傷、頭部や顔面への打撲による痕など、正視に耐えない傷跡が残されていた。死因は、頭部打撲による頭がい骨骨折だった。

状況から、この隣家の子供3人が赤ちゃんを死に至らしめた可能性は高かったが、調べるまでもなく、この3人がやったことは早々に断定された。子供たちは悪びれることも、動揺して泣き叫ぶこともなく、むしろ自慢げに赤ちゃんへの暴行を話して聞かせたのだ。

その日、隣の家に赤ちゃんがいると聞きつけた子供たちは、そっと障子を開けたという。
眠っていた赤ちゃんをしばし眺めた後、3歳の男児が「包丁で切ってみよう」と言い出した。
ほかの二人も同調し、台所から包丁を持ってきたかと思うと、赤ちゃんの足首に突き刺した。
泣きわめく赤ちゃんを、今度は庭の棒きれで叩いた。さらに、バケツに水を汲んできて赤ちゃんに浴びせかけ、その後傍にあったベビーパウダーをまるでおしろいを塗るかのように塗りたくったのだ。
そして、虫の息の赤ちゃんを引きずって庭の物干し台の柱へ縛り付けたのだった。

どうしてこんなひどいことをしたのか、と聞かれたこどもたちは、刑事ドラマの真似をした、と話した。
にしてもあまりに酷い仕打ち。それにはさらにわけがあった。

こどもは隣家の長男と次男の子供たちだったが、特に次男の子供たち(5歳の男の子と2歳の妹)はそれまでにも小動物を殺したり、母親が父親に包丁を向ける場面を目にしたりしていたという。
こどもたちの親も、自分の親に子育てを任せきりのところもあった。
あまりにも小さな集落の隣同士の家で起こった子供がやらかした事件。加害者の子供の家の祖母は、死んで詫びなければと思い詰めるほどで、双方をよく知る住民らはどちらにも同情を寄せたという。

こどもたちは当然罰せられることはなく、事件の翌日から近所の駄菓子屋へ菓子を買いに来るなど、いつも通りだったという。

娘を殺害された夫婦は、悲しみにひたることすら許されず、無邪気そのものの子供たちの嬌声にやり場のない怒りをどうすることもできなかった。

この事件が起きた昭和50年には、4月にも大阪の岸和田で3歳の女児二人が勝手に他人の家に侵入し、寝ていた生後17日の赤ちゃんをままごと遊びの人形にし、殺害したという事件が起きている。
女児らは、2階で寝ていた赤ちゃんの足を持って階段を引きずり下ろし、家の前の路上に転がして遊んでいたという。
近所の人が発見したが、赤ちゃんは頭蓋骨陥没骨折で死亡。全身には擦過傷があった。

3歳や5歳の子供に責任能力はない。誰しも、幼い頃には多少、限度を超えたことをし、親からぶっ叩かれて二度としない、してはいけないと覚えることもある。
オタマジャクシやトンボを何の気なしに殺したことがある、という人は少なくないだろう。私もある。

けれど、それをした後にそこはかとなくこみ上げる不快感、罪悪感も、忘れることはない。そうやって、様々なことを学んでいくのだ。

しかしそこに、不快感や罪悪感ではなく、快感を覚えた場合は。

彼、彼女たちがその後どういった人生を歩んでいるかは知る術はない。

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参考文献

少年事件データベース
少年法

朝日新聞社 平成12218日西部朝刊、315日西部朝刊、45日西部朝刊、平成13421日東京夕刊
読売新聞社 平成10218日朝刊、311日東京朝刊、平成12218日西部夕刊、219日西部朝刊、310日西部夕刊、322日西部朝刊、平成13415日大阪朝刊、416日大阪朝刊、529日大阪朝刊
毎日新聞社 平成12218日西部朝刊、西部夕刊、226日西部夕刊、平成13415日大阪朝刊、418日大阪朝刊、419日大阪朝刊、421日大阪朝刊
熊本日日新聞社 平成12220日朝刊、39日夕刊
西日本新聞社 平成12229日朝刊
日刊スポーツ 平成10218日、219
産経新聞社 平成1032日東京朝刊
四国新聞社 平成13416日朝刊、529日朝刊

「テレビのまねをした」鹿児島5歳・3歳・2歳の隣家嬰児メッタ刺し 新潮45/福田ますみ 著 平成188月号