老いてなお~成人した子を殺さざるを得ない親~

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まえがき

令和元年6月1日、練馬区の住宅で76歳の父親が44歳の息子をメッタ刺しにして殺害するという事件が起こった。
これだけでも衝撃的すぎる事件だが、その父親が元農水事務次官であったこと、息子がSNSやオンラインゲームの世界である程度有名な人物であったことなどから、ネットを中心に連日取り上げられるようになった。

一方で、殺害された息子が長いこと問題を抱えていたことや、それを献身的に支え続けた両親の姿も浮かび上がってきた。

そんな中、逮捕された父親が息子殺害の動機として、「いつか息子が誰かに危害を加えるのではないか」という思いがあったと語ったことで、問題を抱えた子供を抱える年老いた親たちの切実な思いもクローズアップされることになる。

ただ、高齢の親が問題を抱える成人した子供をその手で殺すという事件は、なにもこの事件が初めてでもない。珍しくもない。
有名なところでいえば、平成8年に起きた湯島の金属バット息子殺害事件があるが、これ以外にも高齢の親が子供を殺害する事件はいつの時代にもあった。

今回は、過去に起きた老親による子殺しに焦点を当てたい。そこから見えてくるものは、はたしてあるのだろうか。

豊里町の父親

平成14年6月19日、宮城県登米郡豊里町の民家から、「自宅で息子の首を絞めて殺した」と110番通報があった。
駆け付けた登米署員に対し、その家に暮らす鈴木良夫(仮名/当時51歳)が、長男で僧侶見習の健一さん(当時27歳)の首を絞めて殺害したと自供、殺人の疑いで緊急逮捕となった。

健一さんは庭で首にロープが巻き付いた状態で倒れており、すでに死亡していた。

鈴木家は、良夫夫妻と良夫の両親、そして健一さん夫婦と子供という、7人家族だったが、当時その全員が自宅にいた。その中で、なぜ健一さんが殺害される羽目になってしまったのか。
この大家族には、長い長い、苦悩の歴史があった。

奇跡の子

良夫は自衛隊除隊後、実家のある豊里町に戻って両親らとともに農業をしながら生計を立てていた。
田んぼや畑がひろがる長閑な山村で、昭和48年には結婚、2年後の昭和50年に待望の第一子を授かった。
しかし、その出生には大変な苦難があった。
早期胎盤剥離と診断され、医師から「(こどもは)胎内ですでに死亡している」と宣告されたのだ。良夫も妻もそれは嘆き悲しんだ。
しかし、死産のつもりで帝王切開したところ、なんと胎児は生きていたのだ。体重2000グラムと小さかったが、命に別状はないどころか、身体的な障害等もなかった。

良夫夫婦は奇跡とばかりに喜びんだが、この経験で妻が妊娠を極端に恐れるようになったため、「子どもはこの子一人だけ」と夫婦で決め、以降その子を愛しんで育てていた。これが、健一さんである。
良夫の両親も健一さんを溺愛し、未熟児で小さかった健一さんを家族が宝物のように扱ったというが、それは次第に、「甘やかし」へとつながっていく。

吹き荒れる暴力

未熟児だった健一さんは、中学に入るころには立派な体格となり、反抗的な言動が目立つようになる。
高校を3年次に暴力事件で退学となって以降、両親らに暴力を振るうことが増えていく。未成年のうちはそれでも良夫らが対応できていたが、体が大きい健一さんが暴れると、もはや両親らの力では抑えきれなくなっていた。

困り果てた両親は、健一さんが暴れると、近所に住む親せきに助けを求めたりしたが、むしろ健一さんの機嫌を損ねないようにすればいいと考えるようになり、次第に健一さんの言いなりになっていく。
健一さんは母親や祖母から金をせびっては、パチンコに費やしたり飲み歩くようになり、さらには酒癖が悪い健一さんが起こした器物損壊や飲酒の上での事故などの賠償金も両親らがすべて肩代わりした。

平成9年に健一さんが結婚。しかし妻に暴力を振るったことから半年で離婚となった。もはや健一さんの暴力はとどまることを知らなかった。
その直後、健一さんは突然「定時制高校に入る」と言い出した。離婚した前妻に、「今時高校も出てないなんて」と言われたことがよほど癪だったのか、健一さんは実際に定時制高校に入った。そして、その時の担任が僧侶だったことに感化され、岩手県内の寺で僧侶の修行まで始めた。

やれやれ、これで息子も大人になってくれる。そう良夫や祖父母が思ったのもつかの間、寺で修行していたはずの健一さんに、子供ができた、というか、正確には交際していた女性が妊娠したのだ。いつの間に?

平成13年5月にその女性と入籍、子供も生まれ、健一さんは平成14年4月に寺での修行(?)を終えて実家へと戻り妻子らとともに良夫らと生活を始めた。
僧侶として修業を積み、妻子のある身となりながら、健一さんは全く持って変わっていなかった。
そして、事件当日を迎える。

「ひと思いにやっから」

その夜、家族で夕食をとった後健一さんは晩酌を始めた。一旦は寝室に行ったが、飲み足りないと起きだしてきて、飲酒の状態で車で飲みに出ようとしたという。
驚いた妻がそれを制止したが、健一さんはそれを振り切り、大声で金を要求し始めた。
母屋にいた健一さんの母親がその声に気付き外に出ると、健一さんから飲み代をしつこく要求された。しかし飲酒状態であることから母親がそれを拒否すると、健一さんは母親に暴行を加えた。
騒ぎを聞きつけ表に出た良夫も、制止しようとした際健一さんから殴る蹴るの暴行を受けた。なんとしてでも飲酒運転は阻止しなければと思った良夫は、すでに寝ていた父親(健一さんの祖父)を揺り起こし、加勢を頼んだ。

父親とともに再び健一さんのもとに駆け付けた良夫が見たのは、必死で止めようとする健一さんの母親を、健一さんが殴りつけている光景だった。

良夫は背後から健一さんに飛びつき、うしろに引き倒すと、そのまま馬乗りになって妻にこう叫んだ。
「母さん、ロープ持ってこい!」
縛り付けて阻止しようとしているのだと思った妻は、すぐさま手近にあったロープを良夫に手渡した。
ふと見ると、父親が健一さんの足を抑えつけていたことから、良夫はある決断をした。

「このままだと人に迷惑をかけるから。ひと思いにやっから。」

息子の言葉に一瞬息をのんだ父親は、無言で頷いた。

懲役6年

検察は、当初良夫が自身の父親(健一さんの祖父)と共謀していたことを隠していたこと、そもそも健一さんが他人の言うことを聞かない性格になったのは良夫らが甘やかしたせいであり、結果的には健一さんの暴走を助長していたと非難。さらに、すでに酔っていつもより抵抗力もなかった健一さんを、父親と二人がかりで制圧できていたのにもかかわらず殺害を思いついて実行している点などを挙げ、短絡的で残虐であると主張、懲役8年を求刑した。

仙台地方裁判所は、健一さんが直後に結婚披露宴を控えていたことや、何の罪もない子供から父親を奪ったこと、少なくとも寺に修行に行ったりした時は、その都度自身の生活態度を見直そうと思っていたことなどから、健一さんが殺されるほどの落ち度があったとは言えないとした。
一方で、良夫ら家族の長年にわたる苦悩や、ことあるごとに「今度こそは」と期待をしても裏切られ、暴力や金銭の要求が絶えなかったことには、一定の理解も示した。
また、健一さんの妻も、健一さんの母親である良夫の妻も、良夫に対して厳罰を求めていないという点、良夫のこれまでの社会的な評価などを酌量し、懲役6年の判決を言い渡した。

悲劇

良夫はおそらく判決を受け入れ、もうすでに社会復帰しているだろう。
しかし戻った家に、良夫の父親の姿はなかった。
事件後、良夫は一貫して「自分一人がやった」と言い続けていた。おそらく、家族らも同じことを言っていたのだろう。が、実際には先に述べたとおり、良夫の父親が健一さん殺害を幇助している。
良夫がそれを認めたのは、哀しい現実を突き付けられたからだった。
良夫が逮捕されて後、高齢の父親はひっそりと自殺していた。
良夫ひとりに罪を着せることが耐えられなかったのか、それとも、あんなに可愛がった健一さんを殺してしまったことが耐えられなかったのか、あるいは両方か。

奇跡の子と愛しんで育てられた子どもは、27年後に家族をバラバラにした。

大阪の父親

平成19年4月16日午後、大阪市の東住吉署に、「息子を殺した」と、高齢男性が自首してきた。
署員が自宅へ向かったところ、2階寝室で若い男性がすでに死亡していた。
逮捕されたのはその家に住む無職・木岡進太郎(仮名/当時73歳)。進太郎は妻(当時68歳)と息子の裕孝さん(当時32歳)と暮らしており、死亡したのはこの裕孝さんとみられた。

進太郎は調べに対し、「長年にわたる息子の家庭内暴力にずっと苦しめられてきた」と話し、憔悴しきっていたという。近所の人の間でも、実は木岡家の問題は噂になっており、「いつかこんなことになるのではないかと思っていた」と、木岡家を知る住民は肩を落とした。

大人になっても子供

木岡家の問題は裕孝さんが成人したのちに起こった。
高校卒業して2年ほど自動車部品販売の会社に勤めた裕孝さんだったが、退職して以降は自堕落な生活を送るようになったという。
もともと、木岡家の隣には子供のいない姉夫婦(進次郎の姉)が暮らしていたことで、幼い頃からこの伯母に裕孝さんは甘やかされて育っていた。
定職にも就かず、困りごとがあれば甘やかしてくれる伯母の家に逃げ込み、伯母からは生活費や小遣いをもらうなどしていた。

進太郎夫婦はそういった現状を苦々しく思っていたが、その頃その姉夫婦が経営する会社で進太郎も妻も働いていたことから、あまり強いことも言えなかったという事情もあったようだ。

裕孝さんはそんな伯母の後ろ盾を得ていることがよほどの自信であったとみえ、両親の苦言を尻目に好き放題の生活を送っていた。
進太郎夫婦は、そんな裕孝さんをなんとか自立させようと、自立資金200万円を渡したり、家から出ていくよう命じたりといろいろと策を講じてはみるものの、すべては裏目に出た。
自立資金200万円を一か月で使い切った裕孝さんは、遊ぶだけ遊ぶと堂々と実家に戻ってきた。進太郎夫婦はここで行くあてもない息子を突き放しても、他人に迷惑をかけるだけと考えてしまい、裕孝さんを独り暮らしさせつつ生活費の援助だけはしていた。
しかし裕孝さんはその生活費もすぐに浪費し、家賃や公共料金などの支払いに困れば「金を出さないなら死ぬ」などと脅しては、進太郎夫妻から金をむしり取り続けた。

平成15年、住宅を購入した木岡家は、裕孝さんも呼び寄せ家族3人で暮らし始める。心機一転、裕孝さんにも仕事をして少しでも家計を助けるよう言い含めたが、裕孝さんの態度が改まることはなかった。

家族

裕孝さんには姉がいた。すでに結婚して木岡家の近所に居を構えていたが、裕孝さんはその姉の一家にも不義理を働いたことがあり、絶縁状態となっていた。
件の進太郎の姉も、平成16年に経営していた会社が倒産し以前のような羽振りの良さがなくなったことから、裕孝さんの後ろ盾としての役割も果たせなくなっていた。
進太郎はその姉の会社で勤めていた職人らとともに別会社を設立、妻は専業主婦となった。
裕孝さんも、その会社に職人見習いとして入社したものの、その勤務態度は有り得ないものだったといい、一か月も続かなかった。

またもや無職となった裕孝さんは、同じく専業主婦として家にいる時間が増えた母親をターゲットにした。
金の無心は母親に集中し、母親がそれを無視すると暴力を振るった。
その度合いは急速にひどくなり、平成16年と17年には、母親を蹴って肋骨骨折の重傷を負わせ、さらにはナイフを突きつけるといったことにも及び、このころ息子の暴力に耐えかねた母親が隣家に逃げ込むといったことも起きていた。

平成17年になると、その暴力は進太郎にも向けられる。それまでも小競り合いなどはあったが、この頃には顔面を殴る、押し倒す、さらには心筋梗塞を患った進太郎の、心臓を狙って小突くなどといった悪質な暴力もあった。

平成19年には裕孝さんと絶縁状態の長女と会った、というだけで裕孝さんが激怒、姉の家に包丁を隠し持って向かうという常軌を逸した行動に出たため、進太郎夫妻は長女に迷惑がかかることを恐れ、長女とも疎遠にならざるを得なかった。

家族はじわじわと、そして確実に追い込まれていった。

「そやから勘弁してくれよ」

進太郎夫妻はありとあらゆる手立てで裕孝さんを更生させようと努力していた。
バカバカしいと思いながらも、大金をはたいて祈祷師にもお願いしてみたり、暴力については恥を忍んで警察にも相談した。
その他、区役所の相談窓口、精神科などさまざまな専門機関や専門家にも窮状を訴えたが、なかなかこれといった解決策には結びつかなかった。

平成19年以降、妻の体調は目に見えて悪化していく。裕孝さんの存在自体がストレスになり、足音を聞くだけでめまいや耳鳴り、動悸、嘔吐などといった症状としてそれは現れた。2月には、突発性難聴も発症。進太郎は急激に弱っていく妻から少しでも裕孝さんを遠ざけようと、ドライブに連れ出すなどしていた。

しかしそのドライブの最中、運転を誤った進太郎は車ごと転落するという事故を起こしてしまう。
同乗していた裕孝さんもケガをし、そのことが裕孝さんをさらに付け上がらせることになった。
ケガをしたのはおとうのせいや!そういうと、裕孝さんは進太郎の年金が入金される通帳を出せと喚いた。
この頃、裕孝さんは自室に包丁を持ち込んでおり、進太郎は自分が不在の時に妻が刺されるのではないかといった不安に苛まれていく。
自身の体力もとうに衰え、このままでは妻を守り切れない、そう思い詰めるようになっていた。

平成19年4月19日、所用で外出していた進太郎は、妻からの切羽詰まった電話を受ける。
裕孝さんが金をよこせと暴れている、そういった内容にすぐさま自宅へと引き返した。
その時、1月に起こした転落事故を担当している損保会社の代理人弁護士から電話が入った。
なんと、裕孝さんが損保会社に対し、「事故の際、車にあった300万円の現金がなくなった」という内容で保険金請求しているというのである。
そんな事実は一切なく、進太郎は裕孝さんが他人に対して詐欺を働いてでも金を得ようとしていることに驚愕した。
息子は、とうとう他人にまで迷惑をかけるようになってしまった……
父の心には、もはや自分たちの手の届かないところに息子が行ってしまった、そんな気持ちが渦巻いていた。

帰宅した進太郎は、すぐさま裕孝さんを呼びつけ事の次第を問い詰めた。
すると裕孝さんは開き直り、「おとうが嘘言うとるから保険下りひんねん!おとうが悪いんやから。俺何も悪ないねん。」そう言ってあたかも進太郎が嘘をついているかのような言いがかりをつけてきた。

進太郎の心はもはやズタズタだった。苦労を共にした妻は、今にも死んでしまいそうなほど弱り切っている。家族を守らねばならない自分も、もう老いてしまった。
もしも自分たちが死んだら、息子は必ず長女に矛先を向けるだろう。
息子ひとりも、正しい道に導けなかった。このままでは、よそ様に迷惑をかけてしまう。
そう思った進太郎は、「俺が何したっていうんじゃ!」といって掴みかかってきた裕孝さんの背後から首に腕を回すと、そのまま腕で首を絞めつけた。

「もう、わしも後から行くからな。そやから勘弁してくれよ。ごめんな。」

父の目からは涙がとめどなく流れ落ちた。

温情判決

裕孝さん殺害後、進太郎はその言葉通り、死地を求めてさまよった。しかし、妻や親しい知人らの説得によって、そのまま警察へ自首した。
進太郎に対し、親族、知人、近隣住民らからは多くの嘆願書が提出された。
妻が何度も助けを求めて近所の家に駆けこんでいたこと、時には悩みも聞いた人もいただろう。妻の主治医はもとより、夫婦が相談した役所や警察などもその事情はよくわかっていた。

裁判所は、32歳という若さで実父によって殺害された裕孝さんの無念に思いを寄せ、確かに裕孝さんの行状はよくないとはいえ、大金を与え、甘やかす姉夫婦に預けすぎていたのも要因の一つではないか、とする一方で、いずれも成人したのちに暴走したともいえる裕孝さんの素行不良は、一概に進太郎夫婦の責とも言い難い、そしてなにより、進太郎夫婦がありとあらゆる手段で裕孝さんを更生させようとしていたことに理解を示した。

妻がつけていた日記には、日々追い込まれていく家族の、なす術のない苦悩が連綿と綴られていた。
裁判所はちょっと引くくらい、進太郎夫婦には同情していたように思える。それほどまでに、裕孝さんの態度は常軌を逸していた。

実は進太郎には服役経験があった。前科7犯というから結構立派な経歴だ。
警察に相談に行った際、被害届等を出そうかどうかで迷ったという。それもひとえに、自身が服役経験があり、どれほどつらいかを身をもって知っていたからこそ、我が息子にそんな思いをさせたくない、という親心から結局出さずじまいだった。
姉夫婦に対しても、裕孝さんから離れてほしいという一心で、現金を積んで交渉したという。
なんとなく、このあたりに間違った親心が見え隠れするような気もする。

しかし裁判所は、進太郎が息子を手にかけたその情景を生涯忘れることはなかろう、として、検察が求刑した懲役6年に対し、懲役3年執行猶予5年の判決を言い渡した。

盛岡の父親

平成14年11月10日深夜。盛岡市内の住宅で、その家に住む35歳の女性がなにものかに鈍器で頭を殴られて死亡する事件が起きた。
死亡したのは菊地幸代さん(当時35歳)。幸代さんはその家で、小学校の校長を務めた父と、病気の母親と3人で生活していた。

幸代さんは顔面に20か所以上、頭部には30か所以上の挫創があり、頭蓋骨が粉砕されている個所もあった。
死因は脳挫傷。あまりにも残酷な殺害の方法だったが、幸代さんを殺害したのは実の父親だった。

教育家の父とその娘

逮捕されたのは幸代さんの実父、菊地真(仮名/当時69歳)。調べによれば、10日の深夜、寝入った幸代さんの頭を、あらかじめ用意しておいた玄能で10回以上殴打して殺害したという。

真は事件当時はすでに定年退職していたが、それまでの職業は教師だった。平成6年には県北部の小学校で校長を務め、翌年には事件現場となった場所に家を新築、幸代さんと妻との3人で暮らしていた。

幸代さんは一人娘で、短大を卒業した後一旦は医療系の会社で就職するも、もともとコミュニケーションが苦手だったこともあってか、対人関係で悩むようになり退職。
平成9年以降は仕事もせずに自宅にこもるようになっていたという。
娘のことを気にかけていた真だったが、平成10年にさらなる苦悩が菊地家を襲う。
妻(当時68歳)が、パーキンソン病を患ったのだ。
進行は早く、妻は寝たきりとなる。真は家事と妻の介護全般を引き受けたが、幸代さんがそれを手伝うことはなかった。

それどころか幸代さんは、母親にばかり目をかける父親に対し、不満をぶつけるようになる。
最初は不平不満だったものが、次第に暴言になり、挙句暴力を振るうまでになった。
娘の理不尽な要求や暴言を一身に受け止め続けた真は、やがて睡眠も満足に取れなくなって疲弊していった。

平成13年の秋、妻の病状はいよいよ深刻なものとなった。同時に、妻が「死にたい」などと口にするようになったことも、ひたすらに介護を続けてきた真の心を打ち砕いた。
しかし真は己を奮い立たせ、死期が近い妻のためになんとか妻の希望通り、最期は自宅から葬式を出してやりたいと思っていた。

ただ、現状では妻の葬式を自宅で執り行うことは不可能だった。

菊地家は、足の踏み場もないほどのゴミの山に占拠されていたのだ。

狂いゆく娘

幸代さんは引きこもるようになってから、この世のものはそれぞれが唯一無二の存在であると言い始め、包装紙や新聞、値札や商品タグ、さらには食べ物が入れられた容器に至るまでその一切を捨てることを許さなかった。
あっという間に部屋はゴミであふれかえり、悪臭を放ち、それでも幸代さんはそれらを捨てさせなかったという。

事件当時も、幸代さんはなぜかダイニングの床の上に敷かれた布団の上で発見された。おそらく、すでに布団を敷くスペースがそこしか残されていなかったのだろう。

幸代さんはまるで奴隷か何かのように真を顎で使った。
必要なものは真に買いに行かせ、その買い物に不備があると罵声を浴びせかけた。
幸代さんの苛立ちが何に起因していたのか定かではないが、真に対し、「母親ばかりにかまけて不公平だ」「幸代という名前を付けたのが悪い」「というかお前らが結婚したのが間違い」などと、理不尽を通り越して頭おかしいんとちがうか、と思わざるを得ない暴言を連発していた。

しかし真は、娘のそんな叫びを真正面から受け止め続けたようだった。

そしてその「間違った忍耐」は、最悪の結末をもたらすことになる。

殺害以外に道はない

真はなんとしてでも妻の葬式だけは、自宅から送り出してやりたいと考え、何度か幸代さんにその話をした。
その上で、こんな家の状態ではそれもできないから、物を片付けようと提案した。
しかし幸代さんの返事は、「葬式なんか、市民センターでやればいい」という冷たいものだった。
その話が決裂した直後、菊地家で起こった不穏な出来事を近所の人らが目撃している。

ある時、菊地家の窓からゴミ袋や洋服、家財道具などが家の外に「投げ出される」様子が目撃された。
なにごとかと思った住民らは、それ以降、深夜に菊地家から男女が大声で口論する声も聞いていた。
元々近所づきあいはなかったというが、近所の人らの間では「何か起こらなければいいけれど」と噂になっていたという。

真は幸代さんと向き合いながらも、もはや幸代さんとこの先暮らしていくことは無理なのではないかと思い始めていた。
いや、暮らせないというより、幸代さんと二人きりの生活になると、自分は殺されてしまうんではないのか。

11月10日、昼に妻のためにコーヒーゼリーを食べさせていると、幸代さんが怒り出した。この家では、幸代さんの許可なくものを食べることも許されなかった。
幸代さんは真の手からコーヒーゼリーを叩き落すと、床に散らばったコーヒーゼリーを、真に食べるよう命じたという。
さらにそこから数時間にわたって、幸代さんは真を罵倒し続けた。

真が玄能を手にしたのは、その夜のことだった。

裁判

裁判では、真が発作的に犯したことではなく、数日前から計画していたこと、また、教師という職業柄、子供の問題に関する相談先も把握していたはずであり、たとえ常軌を逸した言動がそこにあったとしても殺害に及ぶというのは短絡的であると指摘。
頭部を何十回と殴打するというその犯行の残酷さもクローズアップされた。
弁護側は長期間にわたる幸代さんからの理不尽な要求や罵倒に耐え、さらにはパーキンソン病の妻の介護に明け暮れ被告人は事理の弁識能力が低下していたと主張したが、やはり数日前からわざわざ玄能と犬用のリードなどを購入して隠し持っていた点などから、その主張は退けられた。

ただ、当然ながら幸代さんの言動はもはや常軌を逸しており、そこに介護も加わったことで真の生活がどれほど大変なものだったか、という点は十分に酌量された。
求刑懲役8年に対し、盛岡地方裁判所は懲役4年の判決を言い渡した。執行猶予は、つかなかった。

「俺が全部悪いんだ」

法廷で真は、「生涯消えることのない精神的苦痛に耐えることが娘への供養である」と話し、涙を流した。
確かに、そうすることは幸代さんにとって一番の供養であろう、父を、母をこれでもかと苦しめてきた幸代さんにとって、自分が死してなお、父が苦悩の人生を歩むというのだから、これ以上ないことだろう。
裁判所は、幸代さんの問題行動はいわば甘やかしたツケであり、甘えん坊のまま大人になった幸代さんの、娘としての甘えであるとしているが、被害者を擁護するた目になんとか見出した落としどころのようにも感じる。正直、幸代さんの言動に擁護できる点が見当たらない。

仕事をしない、引きこもるのはいいとして、親を親とも思わない、まるで何かの仇であるかのように振舞う幸代さんは、明らかに常軌を逸していた。
また、菊地家は電話や手紙など、私信のやり取りにも幸代さんの目が光っていた。裁判所は校長という立場から、専門機関へつなぐことは容易だったと言ったが、その術さえ、実は真にはなかったのだ。

事件の夜、菊地家からは「俺が全部、俺が全部悪いんだ」という真の悲痛な叫び声が聞こえていたという。
新聞報道では、それは事件が起こる直前とされているが、寝入っているところを殺害されたということを考えても、殺害直前に真が外に聞こえるほどの大声を上げたとは思えない。
この叫びは、おそらく事件直後、もしくは、幸代さんを殴りつけながらの叫びだったのかもしれない。

神戸の父親

平成13年9月7日、神戸市垂水区。
新興住宅地の一角から、「父が長男を殺したと電話してきた」という110番通報が入った。通報者は、事件現場の家の隣に暮らしていた男性だった。
通報の内容から、通報者の兄が父親によって殺害されたという内容だったが、垂水署員が駆け付けたところ、2階の六畳間で血まみれで倒れている男性を発見した。
被害者は、この家で暮らしていた藤本好治さん(当時53歳)。通報者の兄だった。そして、その傍らには父親の幸松(仮名/当時80歳)の姿があった。

幸松は、警察官に対してはっきりと自分が殺した、と告げた。ふと、警察官はそんな幸松をみて違和感を覚えた。部屋は返り血で凄惨な状況になっていたのに、当の幸松はいたって身綺麗な格好をしていたのだ。

兄弟

藤本家には、被害者の好治さんを含め3人の男の兄弟がいた。幸松は、昭和22年に結婚、当初は家族で暮らしていたが、昭和47年、長男の好治さんが統合失調症との診断を受けた。好治さんは通院が欠かせず、また入退院を繰り返していたため、以降、妻とふたりで好治さんの生活を支えていた。

平成3年に妻が亡くなったころから、好治さんの症状は悪化していく。幸松に対して罵詈雑言を浴びせ、退院した後も、再入院させられるという疑念に囚われ父親の行動を監視するようになっていた。
入院していた平成7年、自ら退院を主張した好治さんは、自宅に戻ると幸松から生活費をもらっては、考えなしに浪費する日々を送る。
加えて、自室に刃物を持ち込み、ことあるどこと幸松に対し、「お前を殺して俺も死ぬ」などと言うため、幸松は自衛のために刃物の刃先全てを折って対処していた。

実家の様子を一番心配していたのは、同じ垂水区内に暮らす次男だった。

年老いた父が一人で精神疾患を抱える兄の面倒をみていることに心を痛めつつも、自身も家族を持つ身であり、物騒な発言を繰り返す兄を引き取ることは出来なかった。
その分、次男はこまめに父親の様子を見て、兄をたしなめたりしていたという。
しかし、何度注意しても意に介さない好治さんを、ある時次男は殴ってしまう。以降、次男と好治さんの関係は最悪の状態になってしまった。

そんな兄弟の確執に、幸松もまた父親として心を痛めており、心労がたたったのか、平成13年2月、自宅で倒れてしまう。
これを契機に、藤本家はそれまでの自宅を処分し、改めて次男宅の隣に家を購入、そこに幸松と好治さんは引っ越す予定となった。

引っ越し前夜

平成13年9月6日、引っ越し準備のために次男が元の実家へ訪れた際、今後面倒をみることになる弟の病状を把握しておこうと、病院へ電話しようとしたところ、好治さんは「再入院させるつもりだ」と誤解、弟に対して暴言を喚き散らした。

それを見た幸松は、こんな状態で次男宅の隣に越したとして、それではかえって次男に迷惑をかけるだけではないか、と思うようになり、その夜好治さんを呼んで、こんこんと言って聞かせた。
しかし好治さんは頑としてそれを聞き入れようとせず、あげく、「なんであんなやつのいうこと聞かなあかん!」といい、さらには自分は病気なのだから次男が面倒をみるのは当たり前だと言い出した。

3時間に及ぶ説教が全く実らず落胆した幸松は、好治さんが部屋を出ていってからもひとり考え込んでいた。

このままでは、ふたりが今後大ゲンカに発展するのは目に見えている。今はまだ自分が間に入れても、自分が死んだあとは殺し合いが起こるのではないか。
幸松は本気でそう考えていたし、それはあながち大げさともいえない、とにかく兄弟の仲は相当険悪な状況にあった。
可愛い息子たちのどちらかが、どちらかを殺さなければ終わらない諍いになってしまうのだとしたら、いっそのこと、老い先短い自分がその殺す役を担えばいいのではないか。

名案だった。

注ぎ続けた愛情

裁判では、統合失調症をわざと、好き好んで発症させたわけではない好治さんを、顔面や頚部などメッタ刺しにするという殺害行為は非常に残虐で、懸命に生きていた好治さんはまことに哀れであるとし、同じ統合失調症患者を家族に持つ人々、ひいては社会に衝撃を与えた責任は重大であると厳しく断罪した。

一方で、30年に及ぶ献身的な幸松の生活、事件も親として兄弟らの行く末を思い悩んだ挙句のことであること、そしてなにより、幸松が息子たち全員を心から、同じように愛していたと認めた。

逮捕時、血が飛び散った六畳間で、幸松が一人身綺麗だったのは、好治さん殺害後、逮捕に備えて風呂に入り、着替えをし、仏壇に手を合わせてその時を待っていたからだった。幸松は自殺して逃げることもせず、逮捕されることを、そして裁かれることを望んでいた。

神戸地裁は、検察の求刑5年に対し、懲役3年執行猶予5年を言い渡した。

老いてなお

いずれのケースも、共通点はある。子供の側の問題はもちろんだが、親がそれぞれ普通に、あるいは過剰な愛情を注いでいる点、子供の要求を真正面から受け止め続けている点、そして、「いずれ家族や他人に危害を加えるのではないか」と恐れてしまった点。これらはあの練馬の農水事務次官の事件でも共通していることのように思う。

だからこそやりきれない。幼い頃、どれほど可愛がったことか。将来を期待し、夢膨らませた時期もあったろうそれが、まさかこんなことになってしまうなど、思いもしなかっただろう。

彼らは皆、ありとあらゆる手段で子供と向き合ってきた。けれども、それが仇となった面もある。成人しているがゆえに、親の力、行政や警察、病院などの力を借りることも難しかったのかもしれない。
他人に委ねることができず、家族で何とかしようとしてしまった点もあるだろう。
ゾッとする話ではないか。放任したわけでも、厳しくしつけたわけでも、親が不仲だったわけでもない。むしろ、一般家庭よりも子供に接し、夫婦、家族が協力してきた家族のように思う。経済的にも比較的裕福な印象もある。

その、出来た家族であってもこんなことになってしまうのか。ならば、どうしたらよいのか。

今この瞬間も、心で刃を研いでいる家族はきっといる。

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参考文献
判決文

「老いてなお~成人した子を殺さざるを得ない親~」への4件のフィードバック

  1. この手の被害者のようなことを一時期親に言っていたことがある子です。
    親不孝者です。
    ただ、被害者の立場から言えば親を超えられない、親の掛けてくれた愛情に応えられない
    というのがすさまじくプレッシャーになっちゃってならいっそ親が…
    みたいな感情に駆られちゃうとどうしようもない気がします。
    管理者様はいわゆるねらーだからあえて書くのですが5ちゃんねる辺りだと
    「子どもは親のステータス」
    「子どもは親を超えて当たり前」
    みたいな価値観が振りかざされていてそういう価値観に触れちゃうと
    一気に親は何も言ってないのにものすごいプレッシャーをかけられたような気分になり
    親を勝手に信じられなくなることもあります。
    そうなると主観的に自分の味わっていたような苦痛を親に味あわせてることで
    ささやかな復讐というか心の安らぎを覚えるのかなとも思います。
    ちなみにこの手の発言をした時に一番子に効くのは見捨てるような発言です。
    役に立つことはないと思いますが何かあったらお試しあれ
    自分が見捨てられるかもと思うと態度変わってきますから。
    とりとめのない話ですみません。

    1. 通りすがり さま
      貴重なコメントありがとうございます。
      仰っている、「ささやかな復讐」これは分かります。私もそうでしたから。
      この記事に出てくる、特に盛岡の事件の場合それがかなり占めているのではなかろうか、そんな気もします。
      実際、判決文において被害者がこんなふうになったのは父親の教育の仕方にも多大に関係がある、と言った一文があります。
      何があったのか、被害者の生育歴は触れられていませんが、要因があったのだと推察されます。
      見捨てるような発言、それも、この記事に出てくる親たちはほとんどしてないんですよね…
      皆、良かれと思ってずっとずっと支え続けていました。
      このようなお話が聞けて大変有意義に思います。はい、私はねらーですw
      ありがとうございます、今後ともよろしくお願いいたします。

  2. 読んでいて「これはもうこいつが重大事件を起こす前にやるしかない」という気持ちになりました。

    それしか言葉が出ない事件ですね…

    差別的発言なのですが、精神疾患の人てリミッターが外れているから突然てっぺんのパワーで襲いかかってきたり走り回り知恵が働くけど黙ってたら健常者と見分けがつかないから怖いです。

    1. ふふ さま

      早速お読みいただき、ありがとうございます。
      今回取り上げた事件の被害者は、みな直前まで加害者でした。しかも、長年にわたっての…😰
      統合失調症と診断されていたのは、最後のケースの被害者だけですが、大阪の被害者も通院していましたし、盛岡のケースに至っては一番ヤバイのでは、とすら思いました。

      でも、みんな日常生活を送ってるわけです、普通に社会で。
      差別してはいけないし、するつもりはないけれどじゃあこうやって全部家族に任せていいのか?
      被害者が一瞬で加害者になってしまう、こんな理不尽なことがあるのかと、書きながら思いました。
      ただ、いずれのケースもかなり情状酌量されていましたね…

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