かしの樹の下で~中国人妻と残留孤児の事件~

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平成時代、農業や漁業に従事する独身男性が多い地域に、そこでの生活と結婚を希望する女性らを引き合わせるお見合い番組がいくつかあった。
都会の生活に疲れた女性は、時に自然豊かなのんびりとした地方都市での生活に憧れを抱くこともあるのだろう。
しかし実際に来てみると、確かに食べ物は美味しいし自然は豊かだが、その生活を維持するためには想像を絶する労力と、地域との密接な関係の中で立ち回っていかなければならず、都会での人間関係など足元にも及ばない濃い人間関係や地域の風習はストレス以外にもなにものでもないと気づき、帰りのバスに乗ってしまう女性が多かった。

同じ日本人であっても、おいそれとうまく行かないお見合い。恋愛でも同じだ。

それが、言葉も通じないような相手だったら?相手の求めていた理想と現実が激しく乖離していたら?
帰る場所もない人たちだったら?

素晴らしい国、日本に憧れ日本の地にやって来た人々と、祖国日本へ帰ってきた人そして、殺された人、殺した人たち。

奄美大島の中国人妻

その子どもは、屈託のない笑顔を見せ、寝転がってテレビを見たりどこにでもいる普通の5歳児に見えた。

しかしある話になると、その子どもはギッと相手をにらみつけ、それまでとはうって変わって暗く険しい表情になった。

「心を開いてもらえるか、不安だった」

子どもに寄り添い、寝食を共にしながら子どもに語り掛け、話を引き出す役目を担ったのは、まだ23歳の若き女性警察官だった。

その子どもは、母に殺されかけた。二つ下の弟は、目の前で母親に首を切られ、殺害されていた。

事件

平成20年3月8日、午後6時55分。鹿児島県奄美市の消防から「首を刺された子どもを搬送」という通報が県警奄美署にあった。
搬送された子どもは二人。兄弟と見られた。

兄の手には切り傷のようなケガ、そして弟の首には数十センチの切り傷があり、搬送先の病院で弟は失血死した。

死亡したのは手島貴史くん(当時3歳)。5歳の兄に命の別状はなかった。しかし後の調べで、兄は首を絞められそうになっていたことも分かった。

警察は兄弟を発見した父親(当時53歳)と母親(当時33歳)から事情を聞いたところ、母親が無理心中を仄めかしたことから殺人と殺人未遂容疑で母親を逮捕した。

逮捕されたのは手島愛実(仮名/当時33歳)。
その日、外出先から帰宅した夫が見つけたのは、まず錯乱状態にあった愛実だった。しばらく前から通院していたという愛実をなだめ、とりあえず病院へ連れて行ったという。
その1時間後に帰宅した際、部屋の中で倒れている貴史くん兄弟を発見したのだ。
現場には血の付いた包丁も落ちていて、のちにその血液は兄弟のものと一致した。

頑張り過ぎた人

事件は地域に衝撃を与えた。
愛実の夫は飲食店を経営しており、愛実もその店を手伝うなど近隣とのつながりも当然あった。
なにより、母親も父親もこの兄弟のことをとにかく可愛がっていたという。
しかし家族は、事件が起きるずいぶん前から、危うい状態が続いていた。

愛実の出身は中国の東北部に位置するハルビン。本名は徐蓮峰という中国人だった。
平成13年に知人を介して知り合った男性と結婚、奄美市で結婚生活を送りながら二人の男の子にも恵まれた。
日本語が堪能で、同じ奄美で暮らす中国人のグループとは距離を置き、むしろ日本人との付き合いを大切にしていたといい、愚痴や悩みを相談することはなかった。夫の店を子育てをしながら支える頑張り屋だった。

ところが、平成19年ころから愛実に異変が現れた。

「中国へ帰りたい。」

このころ、愛実は貴史くんを出産した直後かと思われるが、その様子は入院しなければならないほどになっていたという。
産後ということもあって周囲も心配していたようだが、愛実は貴史くんをとにかく可愛がっていた。
夫も、多忙な中で家族を海へ連れ出したり、愛実がバカな真似をしないように気を配りながらなんとか家族を保とうと努力していたというが、愛実の心はもう壊れてしまっていた。

事件の起きた日の昼頃、愛実は単独で自殺を図っていた。それは夫が気づいたことで未遂に終わり、ケガも大きなものではなかったという。
夫はケガの治療を済ませた愛実と子ども二人を連れて奄美の美しい海を見に出かけた。数時間を海辺で家族で過ごしたという。
愛実も落ち着きを取り戻したため、夫は愛実と子どもたちを家に連れて帰ると、一旦外出した。

これが大きな過ちとなってしまった。

愛実はおそらく、落ち着いたのではなく「今度はやれる」と思っていた。そして、自分が死んでしまえば残された子どもがあまりにも可哀そうだと思い込んでいた。
包丁で貴史くんの首を斬りつけた愛実は、長男の首にタコ糸のようなひもを巻き付け、力を込めた。

「生きたい」

長男が涙を流して言った。生きたい、生きたい。愛実は、長男から手を離した。

一命を取り留めた長男は、冒頭のように事件について聞かれると途端に表情を険しくし、相手をにらみつけたというが、それは「母親をかばう」気持ちからではないかと、そばで見守っていた女性警察官は考えていた。
目の前で弟を殺した母親。自分も殺されそうになった。それでも、長男にとって愛実は、大好きなお母さんでしかなかったのだ。

「自分の収入が欲しい」

愛実に通院歴があったことや、母子の無理心中という状況からこの事件の報道は多くない。
ただ、その少ない情報の中から「想像」できることはいくつかあった。

愛実にはその後、懲役4年(求刑懲役7年)が下されたが、その判決文の中では日本人男性と結婚し、奄美での生活を送る中で生活習慣の違いなどで精神的に不安定になっていった、とある。
愛実が中国から来日したのは平成13年。結婚も同じ年である。日本語が堪能ということだったが、もともと日本で暮らしていたわけではない。日本語が出来ても、実際に日本で生活するのは大変な気苦労があっただろう。
ましてや、客商売をするわけで、普通の主婦として生活できていたわけでもない。もちろん、人とのつながりを嫌でも日常とすることで良い面もあったと思われる。

奄美で暮らす外国人の中で、事件当時中国人はその半数を占めていた。当然、中国人のグループなども存在していたのだが、本来頼りになるはずのそのコミュニティに愛実は全くかかわろうとしなかったという。
一方で親しくしていた日本人女性はいた。日本人とうまくかかわれずに精神的に不安定になるという話はよく聞くが、愛実の場合はどうもそういうことではなさそうだった。

その日本人女性によれば、愛実は事件が起こる2年ほど前から不安定さが目立っていたといい、「自分の収入が欲しい」と話していたのだという。
愛実とて、夫の店を手伝っていたはずでは?
多くの自営業者の配偶者や家族内の女性(母親、妻、娘など)が無償で「手伝い」をするというのは日本人の世帯でも当たり前にある話である。
しかしそれは決して「受け入れるべきこと」ではない。そういう考えが、ヤングケアラーを生みやがて大きな事件につながるのだ。

愛実が言っていた以上、夫は愛実の労働に対して報酬を支払っていなかったのは間違いない。ましてや愛実は幼い子供二人を抱え、子育てをしながらの労働だった。

もしかすると愛実にもいろいろと夢ややりたいことがあったのかもしれない。いや、異国の地で生きていくためには、少しでも自分のお金を持っていなければ誰でも不安だったろう。
それが叶うことはおそらくなかった。

精神を病んだとはいえ、裁判所は責任能力を認めている(心神耗弱による減刑はあったかもしれないが)。何の罪もない我が子を殺害したことは、決して許されない。たとえ、生き延びた長男が母を許したとしても、それとは別の話である。
ただ、愛実を追い詰めた要因にも、目を向けなければならないだろう。

事件直前に見た奄美の美しい海は、愛実の心を癒すことは出来なかった。

浪江町の中国人妻

女は日本に強いあこがれを持っていた。
日本は住みやすく、中国のように広くもないから人が住んでいる場所は利便性の良い場所ばかりと聞いていた。
治安も良いし、日本で暮らせるのはステイタスだ。

知人の中国人女性を介して行われたお見合いで、初めて会う日本人男性は結婚を申し込んでくれた。。

結婚から半年後。

女は夫を背後からナタで斬りつけた。もう、殺してしまいたかった。

事件

平成17年2月11日。福島県浪江町の民家で、怪我をした男性がいると通報が入った。
警察と消防が駆けつけると、その家の住民男性が後頭部から血を流していた。
幸い、命に別状はなかったが、男性によるとその日夕方、自宅で風呂を沸かすために薪をくべていたところ、背後から何者かにナタのようなもので切り付けられたという。

警察は、男性の妻から話を聞いたところ、この妻が夫である男性に切りつけたことを認めたため、殺人未遂で逮捕した。

逮捕されたのは、男性と半年前に結婚したばかりの中国人妻。
「やるなら今しかないと思った」
新婚の夫婦に一体何が起きていたのか。

逮捕されたのは中国籍で無職の李桂栄(当時37歳)。

裁判で李は殺意を否認したものの、福島地裁いわき支部の村山浩昭裁判長は殺意を認定。そのうえで求刑懲役6年に対し、懲役3年6月を言い渡した。

ただ、「精神的に追い詰められていたにもかかわらずそれに適切な対応ができる者がいなかったことは考慮すべき」と付け加えた。

かけ離れた結婚生活

李と男性が結婚したのは、男性の知人が中国人女性と結婚していたことがきっかけだった。
独身で40歳を超え、結婚したい気持ちはあったものの林業を営んでいた男性は女性との出会いがそもそもなく、ならば最近増えているという国際結婚を考え始めた。
当時、山村など嫁の来てがなかなかない地域において、中国やアジアの国の女性と結婚するケースが増えてきていた。特に、東北の山村などでは行政としてもバックアップするケースもあった。

中国やアジアの女性からすると、日本人男性は優しくお金を持っているという印象もあって、また、日本という国自体へ憧れを持っている人たちもいた。
李も日本に対して強いあこがれを抱いていたといい、中国・撫順で男性と初めて会ったその一週間後には、結婚式を挙げた。

ただ、準備などの都合もあってか、実際に来日したのは見合いから4か月後の平成17年12月。
それまで、夫から日本のことをたくさん聞いた。少し田舎だというけれど、夫の車もあるし不便ということはないと思っていた。

ところが、来日した李は、生活の場となる夫の実家を訪れて絶句する。

浪江町というと東日本大震災で津波の大きな被害を受けた場所であり、沿岸部という印象が強い。が、実際には山間部も多く、JRや高速道路などが通る場所のさらに山手側に位置しており、福島市からは車で約1時間、太平洋側へも車で約30~40分という中途半端な場所に位置していた。
ちなみに、直で利用できる公共交通機関は、バスなどはあると思うが電車等はない。
国道459号が走ってはいるが、とにかく見渡す限りの山である。住民自体は結構いるのだが、家と家がとにかく離れていてポツンと一軒家さながらの状態だった。

こんな山奥だとは、李は想像すらしていなかったのだ。

しかも、李は日本語がほとんど出来なかった。あまりの違いに李は来日して2日間泣いてばかりだったという。
それでも何とか自分の気持ちを奮い立たせ、この地で生きていこうと決意し次第に家事などをこなすようになったが、それでも日中夫が仕事で家を空けると、一人ぼっちの寂しさを埋めるのは容易ではなかった。
テレビを見ても言葉が分からない。本も雑誌も、何も読めない。知り合いもいない山奥で、同居の義父が唯一の話し相手だったが、義父は中国語など全くできなかった。

話し相手を求めて李は中国の両親にすがった。電話代が跳ね上がり、月10万を超えた。

正月が明けたころ、李は突然家出した。
なんとか調べて東京にたどり着くとタクシーで日本橋まで行って徘徊していた。
2月、今度は体調不良を訴え、深夜や早朝に119番や110番に通報する騒ぎを3度も起こした。
小さな田舎のコミュニティで、もう李は限界だった。夫もこれはもう無理ではないかと思ったのか、一旦中国へ帰らせることを決め、飛行機のチケットも準備した。

その4日後、李は夫に斬りかかった。

目的

そもそもそこまでして結婚しようと思うのはなぜなのか。
これは都会育ちの人には全く理解できないことかもしれないが、地方、田舎へ行けば行くほど、「家族」というものには強い力がある。
なにごとも家族が最強であり、自分たちが先祖から受け継ぎ守ってきた土地や村を未来へつなぐためにも、家族というものは絶対に必要なのだ。

もちろん、その中には女性、嫁という存在に何を求めているのか、ということもある。

どんなにきれいごとを言ったところで、そこまでして嫁に来てもらうという裏には、家を守り家事をこなし同居の両親の介護をし、子を産み育て家業の手伝いを無償で担わせるということが当たり前に存在している。
そのためには、自由を知り発言力があってすぐに帰れる実家がある日本女性よりも、おいそれと帰れる距離に実家はなく、かつ夫に尽くす、義両親に尽くすということに重きを置く国の女性たちの方がいわば「容易い」のだ。

もちろん、それでうまくいく家庭もある。浪江町をはじめ福島県内ではボランティアや自治体主催で日本語教室が開かれたり、外国人女性を対象とした相談所の設置、通訳などのサービスはあったという。
しかし慣れない日本の生活習慣をフォローしたり、定期的な健康診断を行うといったことはなく、李の寂しさや悩みを受け止めてくれる存在はなかった。
李が暮らした場所は浪江の中心部からも結構距離があるため、日本で車の運転もできない李にしてみれば、何の意味もなかった。

李は日本で幸せになれると信じていた。夫に聞かされていた日本での暮らしに、胸躍らせていた。
けれど、夫は守ってくれなかったし、多分、求めているものもお互い違っていた。

李は、ただただ、寂しく心細く、愛されたかったのだと思う。故郷と両親を捨てたとは言わないまでも、海を越えて嫁に来たのに、夫はわたしをひとりぼっちにした。

だから、許せなかった。

荒川村の中国残留孤児

中国残留孤児。日本から中国へ渡った人々が、第二次世界大戦後のソ連侵攻などで日本に帰国できずそのまま中国の残らざるを得なくなった人々。
1981年以降、多くの中国残留孤児らが日本の親族らを訪ね、あるいは永住し現在では2万人を超える残留孤児とその「家族」が日本に永住しているという。

私が子どもの頃、小学校に男の子が転校してきた。その子も、中国残留孤児の方の子どもで、親族を頼り日本へやってきていたのだ。
日本語も会話が通じる程度には出来ていたし、とにかく可愛くて人気者だったけれど、しばらくすると引っ越していった。

日本人でありながら戻って来られなかったその長年の想いがようやく叶った人々。しかし現実は、かなり厳しいものだった。

バラバラ遺体

平成11年3月9日朝、埼玉県荒川村(現:秩父市荒川村)の山林で土砂を積む作業をしていたダンプの運転手が、林道脇の杉林の中で不自然な白いものを発見した。
それはシーツのようなもので、近寄った運転手はそのシーツがある場所から下に15mほどの場所であるものを見つけた。

それは、人間の両足だった。

通報を受けた警察が捜索したところ、さらに下方で透明のビニール袋に入った胴体と頭部も発見された。
衣類はなく、断面からかなり鋭利なもので切断されたとみられた。

遺体は男性。年齢は40歳くらいとみられ、中肉中背、死後2~3日といったところだった。

現場は国道140号から南、荒川支流の安谷川沿いを走る林道の下の斜面。その林道は5~6キロ先で行き止まりであり、当時は工事車両以外の車は立ち入らない場所だった。
ただ遺体発見の前日の夜中、車が走っているような音を近所の住民が聞いており、警察は関連を調べていた。

翌日の捜索でも両腕や遺留品らしきものは発見されず、司法解剖の結果、死因は鈍器で頭を殴られたことと腹部を刃物で刺されたことによる失血死と判明していたが、遺体の身元は判明していなかった。
ただ特徴として、頭蓋骨と足の裏が極端に黄みがかっていたこと、胃の内容物にかんきつ類があったことから、男性が幼少期よりミカンやカボチャなどの黄色の食材を好んで、あるいは習慣的に食べていた可能性があることが分かった。

さらに3月14日、現場から北に7キロほど離れた秩父市の秩父ミューズパーク内の山林から成人男性の両腕が発見され、同一の遺体のものと判明したが、それから4か月が経っても身元は杳として知れなかった。

逮捕

事態が動いたのは8月に入ってからだった。
遺体の身元が、3月から行方不明になっていた中国籍の男性だと判明したのだ。
遺体は、上尾市在住の会社員・周宝成さん(当時32歳)。
周さんは妻と上尾市内で生活していたが、3月12日に妻から「夫がいなくなった」として捜索願が出されていたのだ。

その後遺体の指紋と、会社に残されていた周さんの指紋が一致。警察は妻から事情を聞いたところ、妻が母親と共謀し、周さんを殺害したことを自供。
警察は周さんの妻で中国籍の高岡宏美(仮名/当時30歳)と、宏美の母親の高岡依子(仮名/当時59歳)を殺人と死体損壊、死体遺棄などの容疑で逮捕した。
しかしその後の調べで、周さん殺害と死体損壊、遺棄について、依子の夫で中国籍の高岡剛宏(仮名/当時65歳)も関与しているとして、親子3人を逮捕することになった。

当時、依子と剛宏夫妻は行田市内で生活しており、娘である宏美と周さん夫妻とは別居だった。

取り調べで3人は、周さんとのあいだに経済的なトラブルがあったと話していたが、この家族には複雑な歴史の傷跡と、中国人と日本人の関係性、そして様々な思惑が蠢いていた。

夫の思惑

依子は中国残留孤児の一人だった。
生後間もなく、昭和16年に家族で満州へ渡った依子は、平成7年に日本に永住帰国。元々の生まれである埼玉県荒川村の村営住宅で日本の生活を始めた。

中国では黒竜江省で夫と子供4人で暮らしていたが、まず依子と剛宏夫妻が日本へ渡り、その1年後に三女にあたる宏美と夫の周さんが来日した。

周さんは桶川市内の工場に職を得、平成10年には男の子も誕生。しかし三女夫婦の生活はかなり冷え込んでいたというか、特殊な状態だったという。

「夫が家にお金を入れてくれない」

両親は宏美からの話を聞いて驚いた。子供が生まれたというのに、周さんは生活費として5万円しか渡してくれないのだという。
さらに、日本語がほとんどできなかった周さんは、日常のストレスを宏美に対する暴力で発散していた。生後間もない長男にも、見向きもしなくなっていた。

事件が起きる一か月ほど前から、宏美は周さんに離婚してほしいと訴えるようになった。しかし周さんは、「1千万の貯金が出来たら離婚してやる」と言い放ったという。

どうしようもなくなった宏美は3月6日の夜、両親らを自宅へ呼んで、周さんと話し合いを持った。
あまりにも宏美と子どもを蔑ろにしている周さんに対し、依子と剛宏も、生活費をきちんと入れるか、養育費を支払って離婚するよう求めた。
しかし周さんは応じない。応じないどころか、湯のみを手に宏美に殴りかかってきた。
暴れる周さんを剛宏が抑え込みながら、そもそも給与の残りはどこに行ったのかと尋ねた際、周さんはこう言った。

「中国の母に300万送金した」

宏美の中で何かがキレた。実母に送金しただと?額面的に給与のほぼ全額ではないか。
宏美はめん棒で周さんをなぐりつけ、さらにはハサミでその胸を一突きにした。
遺体の処理は剛宏が担った。周さんを解体し、依子の生まれ故郷である荒川村へ向かい、遺体を捨てた。

裁判で3人は事実を認め、殺害を実行した妻の宏美に懲役12年(求刑懲役15年)、母親の依子に懲役7年(同10年)、損壊、遺棄を行った父親の剛宏には懲役10年(同12年)が言い渡され確定した。

裁判で依子は、「中国に帰りたい、帰してください」と泣いた。

それぞれの思惑と闇

「来日した中国人は、稼いだ金を中国へ送金するよう、両親から言い聞かせられていることが多い」

そう話すのは、当時高岡一家が帰国した際に支援した自立支援担当の男性だった。

一方で、娘夫婦を日本に呼んだ依子と剛宏夫妻からすれば、周さんが主体となって義両親である自分たちの面倒を見るのもまた当たり前だと思っていたのだという。

「両方の親の板挟みになっていたのではないか」

周さんを知るその支援員は肩を落としたが、実は周さんはそんなヤワな人ではなかった。

周さんは大連の大学を出た後、平成5年に宏美と中国で出会った。交際に積極的だったのは周さんだった。
結婚は来日の1年前だったが、なぜかその間、中国で周さんと宏美は同居していなかった。これは何を意味するのか。
中国では当時、残留孤児の2世、3世と知り合いたがる人が多かったという。それは中国籍でありながら「日本への永住」が約束されている人たちであり、中国の高学歴の特に男性らは未婚の帰国予定者が身近にいると積極的に結婚を申し込み、一緒に日本へ渡るケースが少なくなかった。

女性らも、相手は高学歴であり、ましてや日本で暮らせるとなれば中国で暮らすよりもより良い暮らしが望めると思って結婚に応じていた。

周さんもそうだった。

宏美自身、周さんと結婚するつもりではなかったという。ところが、ある事件が起きたことで宏美は周さんと別れられなくなった。
それは、宏美に対する強姦だった。
ある時、周さんの姉の家を訪れた際、そこで宏美は周さんから強姦されたという。知りあって半年も経っていなかった。ただ中国では、男女が交際関係にあると簡単に別れられない事情もあったのだという。

日本へ来てからも歯車は噛み合わないまま。もともとハルビンで生活していた高野一家は、ボイラー製造の向上に勤めていて結構裕福な暮らしをしていたという。
日本ではさらに上の暮らしを期待していた。ところが受け入れ先の荒川村はかなりの田舎であり、田舎暮らしになじめないまま一家は上尾市と行田市で別れて暮らすことになり、依子と剛宏夫妻は生活保護を受けざるを得なかった。

宏美の生活も想像とは全く違う苦しいものだった。日本語がわからないため、日々の生活もままならない。そこへ子供が生まれ、さらに宏美は苦しさが増した。夫である周さんとの関係はもはや冷え切っていた。

こんなはずではなかった。宏美の胸にも、依子と剛宏夫妻の胸にも、どうしてこうなってしまったのかという思いが渦巻いていた。

日本側の問題もあった。

当初、受け入れ先として打診した依子の親戚はなぜか受け入れを拒絶したという。村が間に入って調整しても、断固拒否の姿勢は変わらず。10年間に及ぶ説得も実らなかった。
結局、特別に村が身元引受人となったという経緯があった。依子は生まれたばかりで荒川村を離れているため、親戚といっても見ず知らずといっていい。しかも、日本語も話せない「中国人家族」を受け入れられる余裕はおそらくその親戚だけでなく、村にもなかった。

離婚話がこじれた際には警察が駆け付けたこともあったが、事情を知った警察は「役所で相談するように」といい、役所に離婚の相談に行くと「中国大使館に行きなさい」と言われた。

周さんはというと、日本での生活と仕事を得、あとは本来の目的である中国の実家への送金を果たす。周さんにとって宏美はそもそも、ただの道具に過ぎなかった。

「中国帰国者の会」(東京都)の長野浩久事務局長は指摘する。「家族や親類が分散し、日本と中国とを行き来せざるをえない状況の中では、少なくない残留邦人はその子、孫の世代までも、その立場につけこもうとする人たちに利用され、人生をほんろうされる」
(朝日新聞社 平成11年12月7日朝刊 井田香奈子記者)

「彼が私を騙していなかったら、私は彼を殺しはしなかった」

法廷で宏美はつぶやいた。

日本人でありながら、日本人として受け入れられなかった依子。真面目に仕事をし、ついに憧れの日本での暮らしを実現しようと意気揚々とやってきた剛宏と、宏美。
そして、彼らを利用しようと目論んだ周さん。

剛宏は、遺体を捨てた場所について、土地勘があったからと答えた。
たしかに、ただそれだけだと思う。でも少しだけ思う。

あの村に捨てることに、本当にそれ以外の意味はなかったのだろうか。

自分たちを拒み続けた、あの村に。

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🔓The Killing Fields~秦野市・カンボジア難民一家殺害事件~

参考文献

毎日新聞社 平成20年3月15日西部朝刊(川島紘一)、
信濃毎日新聞社 平成20年3月25日夕刊
南日本新聞社 平成20年10月1日朝刊
読売新聞社 平成11年3月10日、11日、7月10日、8月5日、25日、平成12年5月17日東京朝刊、8月4日東京夕刊、平成17年2月13日、4月14日、平成18年3月9日東京朝刊、平成20年9月27日西部朝刊
朝日新聞社 平成11年3月10日、17日東京地方版埼玉、平成11年12月7日東京朝刊(井田香奈子)、平成17年7月21日東京地方版/福島
中日新聞社 平成11年8月4日夕刊

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