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先日Twitterで「八月の母」を読んで感想を書いてほしい、という話があった。
この、「八月の母」を書いたのは悲しきデブ猫ちゃんで愛媛新聞購読者にはお馴染みの、早見和真氏である。
早見氏のことは皆さん検索していただくとして、この「八月の母」という本は実に事件備忘録的な本であり、完全なフィクションではあるけれど、実際に起きた事件がベースとなっている。
平成26年八月のあの日、私は夫の実家のある久万高原町にいた。夕食の準備をしながら見ていたニュースに、全員が「これ、ちょっと……」と言ったきり言葉をなくした。
伊予市の市営団地の一室で、若い女性の遺体が発見されたというニュースだったが、その時点でそれが集団によるリンチの末の死であること、女性が監禁状態にあったことなども併せて報じられていたからだ。
年代的に私は綾瀬のコンクリ事件を思い出した。
被害者は松山市内の10代の女性で、逮捕されていたのが現場となった団地の一室の主である女と、その子供たちが含まれていたことも衝撃だった。
団地、家出少女、未成年者のたまり場、シングルマザー、もうこれだけでお腹いっぱい的な話ではあるが、私はこれが「伊予市」で起きたことにも実は重きを置いていた。
事件の全容は、未成年者がかかわることもあってかなり抑えめだったように思う。途中からは主犯とされた母親の名前さえ伏せられることもあった。
報道をつなぎ合わせれば、たまり場と化していたその団地の一室に、いつからか入り浸るようになった被害者が、家族の感情のはけ口にされ日常的に暴行されるようになり、歯止めが利かなくなった末に命を落とした、というもの。
殺人ではなく、傷害致死である。集団心理という言葉も取り上げられた。
その事件をもとに書かれたのが、「八月の母」である。
この本は、フィクションではあるものの作中には実在する町の名前がでてくる。地元の人間ならばどこなのか、どの店なのかまでわかるほど、場所を意識して書かれている。それが、事件備忘録でよく話題になる「場所と事件の関係性」を意識させ非常に興味深く読んだ。
内容的に結構なネタバレになることはあらかじめお断りするとして、実際の事件と私が生まれ育った愛媛を取り混ぜながら本の紹介と読書感想文を書いてみる。
以下、ネタバレOKな方のみお進みください。嫌な人はまず本を読もう。
「美智子」
物語は東京で暮らす若い夫婦、その妻が長男を出産した時の回想で始まる。
5年前の八月。女は出産という喜びの中で、封じ込めてきた「過去」を思い出していた。
赤ん坊から感じる、母のにおいと、血のにおい。
主要な人物であるのはわかるが、この時点ではその位置づけは分からない。
物語はタイムマシンに乗る。
昭和52年。舞台も東京ではなく、愛媛県。「美智子」という女が八月に女児を出産するまでの出来事が綴られる。
愛媛県南部に位置する「吉田町」で、美智子は厳格と言えば聞こえはいいが、理不尽な男尊女卑が根強く残る家で育った。母も祖母もそれが正しいと美智子に教えた。
都会から来た転校生、初潮、父親の病、母親のふしだらな噂……。海辺の小さな閉ざされた町で、美智子はもがいていた。
父に対し「忠犬のよう」に思えた母が父の死後、男と逃げようとしているのを察した美智子は、自分を捨てていこうとしているその母に縋った。そしてなんとか、その閉ざされた町を脱出することに成功する。
そして舞台は「伊予市」へと移る。
母のおそらく父が存命中からの不倫相手だった町役場勤務の男との「松山市」での三人暮らしは、半年で終わった。
しかも次に母と美智子を「伊予市」で待っていたのは、「吉田町」の男だった。美智子はこの男と母の関係を薄々知っていた。母より8つも年下で、「吉田町」にいたころは漁師だった男。海辺の町で漁師はモテた。小学生の間でもその男は憧れのワルだった。
最初の町役場の男が美智子をあからさまに邪険にしたのとは対照的に、漁師の男は美智子をことさらにかまった。お父さんと呼んでくれとまで言った。
しかし美智子は、何も言わずに佇む母の、得も言われぬ感情の正体にこの時は気づいていなかった。
その後の生活の中で、美智子は男を学んでいく。男の思惑と母の怒りの正体、母が「伊予市」内で開店したスナック、退屈なSEX、そして妊娠中絶……
その中で美智子は家を出、愛もSEXも男も何もかもを金に換える決意をし、金に執着していく。それはすべて、この街を、何もかも捨てて自分一人で生きていくため。そしてその準備は着々と進んでいた。
それは出来心だった。
ふと戻った実家のスナック。老いた母に憐れみを感じ、娘としての最低限の責任を果たしたつもりだった。母はそれを踏みにじった。
「ミチコ」という、美智子と同じ看板のスナックと引き換えに、美智子の、娘の未来を自分のためだけに奪い去った。
その後の美智子が、「きまぐれ」か「幸運」かのいずれかで女児を出産した。
女児は「エリカ」と名付けられた。
「エリカ」
スナックミチコの一人娘、エリカは不思議な雰囲気をまとった子供だった。担任の男はそれに教師としてだけでなく男として惹かれていることを認めきれずにいる。
自分を正当化するための様々な言い訳を親友に見破られても、一方で死んだ父親の秘密と血脈を否定できずにいた。
エリカも思春期に差し掛かり、担任の男との密やかなつながりだけを支えに折り合いをつけながら生きていた。
しかし男は皆ズルく、弱く、去っていく。
初めて信頼できると思った友達もまた、同じだった。
二十歳を過ぎたエリカは「松山市」内のスナックでホステスをしていた。出会った男は、「東京」から戻ってきた男だった。
その男にエリカは、「どこかに連れ出してほしい」と言う。とにかく、愛媛から出てみたかった。
男はエリカに惹かれながらも、「自分を物語のヒロインのように悲劇的に語る」エリカに失望や苛立ちを覚え、しかし欲情する。
そんな男を試すように、エリカは実家へと男を連れていく。「伊予市」の市営団地の一室で男が見たのは、絶対に家族になりたくないタイプのエリカの家族だった。
しかし男は、逃げられなかった。その時は。
お腹の子供は、「陽向(ひなた)」と名付けられた。
そして物語は12年後へ。
舞台は再び、「伊予市」。あの市営団地の一室に移る。
エリカはこの団地の一室で、家族を築き、その頂点に君臨していた。
「紘子」
エリカには3人の子供がいた。すでに高校生になっている長女と長男、そして、あの東京から戻ってきた男との間に授かった、「陽向」。
3DKの、決して広いとは言えないその一室は、いつでもドアストッパーが挟まれ、誰でも自由に出入りができた。
子供らが連れてくるどこの誰かもわからない少年少女を、エリカは分け隔てなく迎え入れた。
そんな中に、紘子がいた。
紘子は「道後」にほど近い「松山市持田町」の子で、エリカの長男・麗央(れお)と交際していた。麗央の姉・愛華やその友人の少女らとも毎日のように団地の一室で顔を合わせた。
紘子は医者の娘。愛媛にある有名私立から東京の大学へ進学した兄と、経済的に裕福な家庭。しかしその家庭に嫌気がさしていて、麗央の実家である「伊予市」のこの市営団地に入り浸っていた。
そんな紘子を、エリカはことのほかかわいがった。紘子に「ママ」と呼ばせ、ずっとこの家におってかまんけんね、と言った。
観葉植物が置かれた「持田町」の家と、常に開け放された鉄製のドアから漏れる嬌声の「伊予市」の市営団地。タバコの煙と、時折鼻先をくすぐる甘いバニラの香り。狭くて汚くてうるさくて、でもここではみんながエリカの前で平等だった。
紘子にはこの団地こそが、自分の居場所だと思えていた。
ある時紘子はエリカを誘って「伊予市」の海岸へ来た。そこで、エリカがなぜ今こうして少年少女を招き入れているのかの理由を知る。
まるで他人のせいであるかのように母親の呪縛を口にしたエリカを、紘子は意外な思いで「ダサい」と思った。
そして、いつか紘子は自分の力でこの「愛媛」から出ていこうと決意したのだ。
しかしその日が訪れることはなかった。
平成25年(本の中では)八月、紘子は団地の押し入れの中で、死亡した。
その場所
本の中には、実在する地名や名前は違えどどこのことを言っているのかわかるような書き方の場所、店が登場する。
そしてそのいずれにも、意味があるように思える。
たとえば、美智子が生まれ育った「吉田町」。そして引っ越した「伊予市」。愛媛に生まれ育った私には、なんとなくこの二つの町は似ていると感じるのだ。
「吉田町」は「宇和島」の手前にあるちいさな海辺の町だが、正直、暗い。立地的にも、高速が抜けるまでは単に通り過ぎるだけの通過の町だったし、高速が出来てからはもはや見捨てられたといったもいいくらい、何もない町である。
そしてこの町では、殺人事件が未解決のままになっていることも忘れてはいけない。
平成14年に起きたその事件は、吉田湾に若い女性の頭部が浮かぶというとんでもない事件だった。しかしいまだに解決していない。
ただ私は近い場所に住んでいたこともあり、いろんな話を知っている。その小さな町の中では、犯人が誰か知っている人は少なくない、そういう話もある。
宇和海に面し、急傾斜の段々畑で潮風を浴びて育つミカンは格別。しかし、こういった暗く、陰鬱な過去も併せ持つ土地なのだ。
一方の「伊予市」はどうか。
立地的には松山へ行くための通過点に過ぎないところは同じで、お隣の「松前町」では多くの商業施設が次々に出来ているの対し、「伊予市」は時間が止まっている。
本の中にも出てくるが、土曜夜市は確かに有名、しかし、わざわざ伊予市外から出向く人がいるかというと疑問である。私は行ったことがない。
いまでこそ世界にその名が知られた絶景スポット「下灘駅」を有する双海が「伊予市」にはあるが、そもそもあれは愛媛県民の感覚で言うと「伊予市」ではない。あくまで「双海」。合併しただけだ。
「伊予市」というのはイメージとして、「松前町」から「伊予市」に入って、伊予鉄郡中線と県道22号、県道378号の両側、しおさい球場まで、そこである。
実際の事件の現場となった新川団地は、「松前町」から「伊予市」に入って割とすぐのその場所にある。
ちなみに「伊予市の海岸線」はナンパされに行ってはいけないと言われていた。はっきりいってロクなのがいないからである。
「吉田町」も「伊予市」も、海に面した古い町並みの残る場所であり、いずれも「通過点」でしかない町という共通点、そして、時間が止まっている。世界につながっているはずの海を毎日見ながらも、皆、どこにも行かない。行けない。
それに比べて紘子が生まれ育った「松山市持田町」とはどんな場所か。
一言で言えば、近隣を含めて高級住宅街である。道後温泉にも近く、歴史や文化を深く感じられる場所で、愛媛大学付属幼、小、中、俳句甲子園でもお馴染み、県立トップの松山東高等学校もある。
少し歩けば、松山市の中心部である一番町から三番町、大街道にもすぐだ。人の流れも多い。ビジネス、観光、文化、歴史、何もかもがそろう場所である。
歴史的な文化を保ちながらも、常に移り変わっていく、しかしなんのツテもなくよそから来て暮らすには相当な経済力と気合が必要な場所ともいえる。当然地価も高い。勝山通りから道後にかけての東側の地域は別格である。いろんな意味で「住む人を選ぶ街」なのだ。
そんな街で生まれたときから選ばれて生きてきた紘子は、「伊予市」の薄暗い寂れた団地の一室に何を求めたのか。
さらにその街で当たり前に生きてきた紘子を、いつしか歪んだまなざしで見つめる者も出てくる。当たり前である、格が違い過ぎる。
育ちというものは嫌でも存在するのだ。自分ではどうしようもない、育ち。だからこそ、それを持ち出して人を判断するのは間違っている。しかし、間違いなく育ちの違いは、存在する。そして人々はその育ちの違いに、翻弄される。
「持田町」に暮らす人に紫色のオーラは似合わないし、健サンにダルジャーでドン・キホーテでたむろするような人もおそらくいない。しかし「伊予市」の市営団地で暮らす人には、全然普通だ。エリカはいう、誰だって受け入れると。
ところが面白いことに、その育ちにこだわり、自分と違う育ちの人を色眼鏡で見ようとするのは「持田町」の人ではないケースが多い。
エリカの母親である美智子は、まさに紘子の育ちの違いを見抜いてはっきりと「仲間ではない」と告げる。
自分とは本来交わるはずのなかった育ちの違う人々の中で、紘子は次第に綻びを見つけるようになる。ゴッドマザー美智子にその育ちを見透かされたこと、エリカが生理の周期にあわせて精神的に不安定になり、時に怒りをぶちまけること、そして、エリカの娘・愛華のささくれだつ心。
ここにはいない方がいいのかもしれない、居場所ではないのかもしれない。そう思うたび、時にエリカが、時に紘子の個人的な事情が、紘子をその団地に引き戻した。
そしてなにより、このゆるゆるとした「蟻地獄」こそが日常であるエリカの末娘・陽向の存在が、紘子が団地に居続ける理由になっていた。
この、どこにでもつながる瀬戸内の海のように無限の可能性と未来のある陽向。だからこそ、紘子は陽向に大きな未来を話して聞かせる。
しかし紘子には、実はあまり時間は残されていなかった。
崩壊
いつそうなっても実はおかしくなかったのだろう。実際の事件では、早い段階で周囲の団地の住民らは異変に気付き、自治会でも話題になって行政への働き掛けも行っていた。
「このままやったら、あの子死んでしまう」
そんな声も聞こえていた。
団地前の公園で、まるでサッカーボールを蹴るかのように、少女は顔面を蹴られていた。女を先頭に家族が出かける際は、その最後尾で荷物を持たされよたよたと歩く少女が目撃されていた。
主犯の女の子供は、実際には10代後半の長男長女と、判決文によるとその下に次女と四女の存在もあった(三女の存在が事件当時はない)。
少女はその幼い四女らにも命令されるなどしており、まるで奴隷のようだったという。
本の中では、エリカの末娘として「陽向」の存在が描かれる。
腐ったどう考えても異常な団地の暮らしの中で、唯一の光がこの陽向だった。下品で教養のかけらもない愛華と麗央に比べ、陽向は明らかに雰囲気が違い、本当に兄弟姉妹なのかと思うほどだった。
陽向も「持田町」からやってきた紘子に何かを求めながらも、この団地を抜け出せないと言った。
しかし陽向が虐待に晒されていると知ったとき、紘子はこの団地の居心地の良さが「蟻地獄」そのものであることをはっきりと認識する。そして、エリカが何よりも大切にしていたこの団地の一室を非難した時、紘子の運命も決まった。
実際の事件では、暴行に至った動機は愛華に相当する長女の「嫉妬心」だとされている。
本の中でも愛華は母親であるエリカが実の子供とよその子供に分け隔てがなさすぎることを快く思っていなかった。分け隔てないとはいえ、他人の子が実の子のように扱われるとき、実の子の扱いは雑になった。
おそらく、団地に集まる少年少女の中に置いても、愛華と麗央の立ち位置は低いところにあったのだろう。
紘子は団地を抜け出すことができなかった。自分の意思でとどまり続けた後に、最後は同じく自らの意思で団地を出ようとしたが、それを阻止したのはエリカだった。
自ら、母親美智子の呪縛から逃れられずにいたことを自覚していたはずのエリカが、今度は全力で自分から逃れようとする者の前に立ちふさがった。
そしてもう一人、紘子の行く手を阻んだものがいた。
陽向である。
「陽向」
この陽向にはモデルがいるのだろうか。
たしかに実際の家族の中に、妹たちの存在はある。しかし、本ではその陽向が成長した後の話も出てくるためおそらく完全に創作上の人物とみていいだろう。
冒頭の、立ち位置が分からない女性は実はこの陽向である。
エピローグはこの陽向が過去に向き合う形になっていて、紘子の死の「秘密」も明かされる。
陽向はあの団地の一室の唯一の光だった。
紘子の死と引き換えに、陽向は団地から解放され、母エリカの、家族の呪縛からも解き放たれていたかに思えた。
この陽向の幸せな人生こそが、この物語の中での唯一の光。
本当にそうだろうか。
私はこの陽向という少女と、あの北九州監禁殺人で助かった少女が重なった。
あの少女は緒方純子と共に外出した際、緒方が咄嗟に逃げようとしたのを全身全霊の力で引き留めた人物だ。
これがいいとか悪いとかではなくて、そうするしかなかったとして、事実としてその後緒方純子には壮絶なリンチが加えられ、それ以降一家6人が消される事件へと発展した。
陽向も、紘子がいなくなることを恐れた。自分が出ていけない以上、紘子にもここにいてもらわなくては、困るのだ。
その理由がどうであれ、陽向は紘子に暴力が向いた途端、エリカの家族としての立場を選んだ。自分を守るために。
月日は流れ、誰にも話せなかったその紘子の死の「秘密」を打ち明けた陽向は、伊予市へと戻ると意を決して過去と対峙する。
そして清々しいまでにはっきりと、決別の意思を示して物語は終わる。
私は一切納得できなかった、いやいやいやいや、なに1人で清々しい感じになっとるん?
ここからが本当の感想になるわけだが、正直少女だったころの、いや、女児だったころの陽向の無垢な残酷さがどうにも消化しきれずにいる。
紘子に対し、あからさまな嫉妬心を向けた愛華。実際の事件でも、長女は被害者をこの団地から遠ざけようと必死だった。自ら暴行を加え、出頭し、事件化されてでも被害者を団地から、母から遠ざけたかったように見える。それは涙ぐましいとさえ思うほど。
しかし被害者の少女は何度も舞い戻った、あの市営団地に。
それに引き換え、陽向はどうだ。弱々しい、守ってやらねばならない存在の陽向。陽向は早い段階で紘子を狙っていたと私は思う。それまでにもいなかったわけではない。愛華の友人、美優も途中からこの団地の異常さに気づいていた。
そして、エリカと直接対決した時、美優は紘子も連れ出そうとしたのだ。しかしそれを阻止したのも、陽向だった。
この辺はまさしく育ちの差なのかもしれない。
美優は感覚としてこの団地の一室が異常であることのほかに、危険性を感じていた。しかし紘子にその感覚はなかった。育ちが違うからだ。ましてや、エリカに立ち向かう勇気など、ハナからなかった。この時点では紘子にとってエリカはまだ「光」だったのかもしれない。
過去のエリカが男らに期待などしないと言いながら、実際はここを抜け出すために利用しようとしていたのと同じで、陽向もまた紘子という人間を利用して生き延びようとしていた。
あの日、紘子に暴力が向けられた途端にエリカの家族であることを選んだのは、その時点で紘子に利用価値がなくなったからではないのか。
ここから逃げ出せる可能性がなくなった紘子は、陽向にとってもう、不要だった。
その証拠に、陽向は新しい「利用価値のある人間」をすでに確保しており、団地の一室での憂さ晴らしはすべて紘子に押し付けた。
そして、最後は紘子を見捨てたのだ。
幼かったから仕方ない、女の子だから仕方なかったのか。それを言うなら、紘子を死に追いやった少年少女らもまた、未熟だった。
ゴッドマザー美智子は、ある時紘子をこう諭した。
「力で勝てんのなら立ち向かうだけ無駄や言いよんの。」
全力で否定したい、そんなことあっていいはずがない、立ち向かうことにこそ意義があるのだ、と言いたいところだが、この美智子の言葉は真理である。
もちろん、立ち向かってもいい。しかし、それに犠牲は伴う。何も失わずに、済むわけがないのだ。相手が未熟であればあるほど。
陽向は生まれついて、その感覚を兼ね備えていた。産まれた時からこの団地で、揉まれに揉まれて生きてきたのだ。幼い、天使のような陽向は実際には、母親エリカ同様、実はずっと醒めていたのだ。
そしてこのゴミ溜めと狂気の団地の一室で、生きる術として、力でかなわないものには立ち向かえないことをわかっていた。
そこに来たのが、感覚としてそれを身につけていない、紘子だった。紘子は陽向の代わりに立ち向かい、そして命を落とした。
エピローグ
すべていつも、八月に起きた。
エリカが、陽向が生まれたのも、あの担任と海へ行ったのも、心許したはずの友人と花火を見たのも、陽向の父親になる男と出会ったのも、そして紘子が命を落としたのも、みんな八月だった。
散々伊予市をdisりまくってしまったが、作者の早見和真氏の中にもその地域性ということへの思いはあったのではないかと感じている。
伊予市の団地はそのままなのに、被害者の実際の自宅の場所が違うこと、そこにあえて「持田町」を持ってきたことに、私はそれを感じずにいられない。
実際の被害者が暮らしていたのは山越という場所で、広いので一概には言えないがどこにでもある住宅街だ。特に治安が悪いとか、場所柄に問題があるわけでもない。ちなみに私の行きつけの美容室も被害者宅の近所にある。
しかし山越では弱い。ピンとこない。そのくらい、普通の街だからだ。伊予市の市営団地を際立たせるには、やはり道後に近い場所が最適だ。
瀬戸内の描写も非常に効果的に思えた。常々思う、私が住んでいるところから見える瀬戸内海は、本当は宍道湖より狭いのではないかと。
私も含め、水平線に馴染みのない瀬戸内のような海辺の人間の中には、高知の太平洋を見てゾッとする人もいる。大きすぎて怖いのだ。
紘子が陽向と瀬戸内の海を見ながら、地図帳を傾けてその角度によって全然風景が変わる、といった話をするシーンがあるが、まさに瀬戸内海の特徴である。
同じ瀬戸内でも、北条から見る瀬戸内海、三津浜から見る瀬戸内海、今治から見る瀬戸内海は同じではない。伊予市から見る瀬戸内海も、同じ伊予市でありながらあの下灘駅からの瀬戸内海とは同じとは思えない。
その海に、紘子は希望を見出し、陽向は絶望を見出していた。
この瀬戸内がそうであるように、物事は人によって見方が変わる。同じ場所にいても、右を向くか左を向くかで何もかもが変わるのだ。
このサイトでも取り上げた、尼崎の男児虐待死遺体遺棄事件の母親は、引っ越し魔だった。しかしいつも、高級住宅街と隣り合わせの場所を選んだという。右を見ればまるで自分もそこの住民であるかのような錯覚に、しかし左を見れば、いつもの猥雑で下品な暮らし。
紘子は高級住宅街で育ちながら、団地の混沌に希望を見出していた。
眉を顰める以外にできることがないほどに傍若無人、品性も理性も恥も外聞もない団地の一家。しかしその場所、その家族がいるからこそ、他とのバランスが保たれていたのかもしれない。全てが凪ではそれはそれで困る。
一方でエリカや陽向も、その育ちの違う紘子に希望を見出していたのかもしれないと思う。先に否定した美優のことは、エリカはさっさと追い出した。追いもしなかった。
しかし、紘子のことは「絶対逃がさない」と言った。
本の内容はフィクションである。
「八月は、血の匂い」
この、「血」とは一体なんだろう。この物語には血がつきまとう。初潮、レイプ、出産、暴力、そして、抗いようのない「血脈」、それは絆なのか。それとも、呪縛なのか。
最後に何もかもを吐き出し、パワーバランスが逆転した今、陽向がその「血」を断ち切るための一歩を宣言したことは、希望だ。この陰鬱な物語のたった一つの光である。
しかし何故か、私の心は晴れない。八月の眩しい夕日が照らす伊予市の新川海岸でのラストシーン、「八月は太陽の匂い」そういう無邪気な子供の言葉があっても、私にはまるで時が止まったような夕凪の中で、ジリジリと灼けつく夕日、生臭い潮の匂いと、鼻の奥にこびりついた腐った血膿の匂いしか、残らない。
陽向は血を断ち切ってはいない。
美智子、エリカ、陽向、そして産まれ来る「明日花」へと、血脈は受け継がれる。
そして私はどうしても思ってしまう、紘子を生贄にした陽向が受ける罰とは、一体なんだろうと。
参考文献
「八月の母」角川書店 早見和真
折原臨也リサーチエージェンシー(起訴された全員の判決文の提供)