なーんにも考えてない男~大阪・義姉殺害死体損壊事件~

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昭和63年10月12日

薄曇りの秋の日、徳島県小松島市の小さな港町の民家で、さみしい告別の儀が執り行われていた。
参列者はまばらで、柩ではなく骨壺を前にしての葬儀だった。

家族と思しき人々の間からは、悲痛な、押し殺したような嗚咽が時折漏れている。その中でも若い女性の哀しみ様は、事情を知る者の心を抉った。
骨壺の中には、お別れすらいえなかった大切なこの家の長女が入っていたのだ。妹は姉と大阪で同居するほど仲良し姉妹だった。

そして、姉を骨に変えたのは、その女性の内縁の夫だった。

事件

昭和63年10月10日、祝日のこの日、大阪府吹田市の建設機械会社1階工場付近から煙が噴き出しているのを通行人が見つけ、119番通報した。
駆け付けた消防署員らがシャッターを開けると、工場内は煙が充満し、さらには異臭がしていた。

煙の奥に、動く人影を見つけた消防隊員らが声をかけると、そこには成人男性がおり、どこか慌てている風だったという。
ふと、足元を見ると横倒しになったドラム缶。どうやら火はそのドラム缶から出ているようだった。
さらに、その奥には大型の扇風機が置かれ、その風が火や煙の勢いを強めていたとみられた。

「お前、なにしとるんや!」

突然、消防隊員が叫ぶ。そういえばこの臭い、あきらかに人が焼けている臭いだ。
隊員らは男に駆け寄った。男の足元に転がっていたドラム缶からは、人形のような足が突き出て炎に包まれていたのだ。

消防隊員らによって110番通報され、男は吹田署に逮捕される。
逮捕されたのは大阪市東淀川区在住の会社員、山内一祐(当時27歳)。山内は調べに対し、
「サラ金から多額の借金があった。金を持っている義姉に借金を申し込んだら断られたため、殺害してしまった。」
と供述した。
殺害されていたのは、徳島県出身で大阪市西区在住のホステス、東条和代さん(当時22歳)と判明、和代さんはこの日から4日前の10月6日以降連絡が取れていないことから、10月6日に殺害されたとみられた。

義姉、と山内は和代さんのことをそういったが、和代さんは山内の内縁の妻の姉だったのだ。

それまで

徳島県の小松島高校を卒業した和代さんは、スチュワーデスになる夢を胸に大阪へと出た。
この頃、徳島の若者の多くは大阪へと進学、就職することが多かったという。
淀川区のビジネススクールに通いながら夢を追いかける日々、年子の妹・美香さん(仮名/当時21歳)も徳島商業高校を卒業後に姉を慕って大阪へと出てきたことで、ふたりは東中島の家賃5万6円円のマンションで同居し始めた。
間取りは1DK、仲の良い姉妹にはその狭さも気にならなかった。

アパレル関係の会社に就職した美香さんは、その通勤電車の中で一人の男と知り合った。
建設機械を取り扱う会社の営業マンだというその男は、北海道出身で5年ほど前に大阪営業所に来た、と話した。
すらりとしたスタイルに、切れ長の瞳。どこか冷たそうに見える横顔も、時折見せる笑顔を引き立てた。この男こそが、山内だった。

一方の和代さん、美香さん姉妹も、徳島に残る末の妹を含め美人三姉妹として地元では有名だった。
実家は洋品店を祖父の代から続けていて、両親ともに人格者でもあり地元では知らぬ人はいなかった。

姉の和代さんの写真があるが、この令和の時代で考えても、目鼻立ちの整った相当な美人である。

美香さんは大阪のアパレル会社で勉強したのち、地元の徳島で自分のブティックを開くことが夢だった。
通勤電車の中、いつも会う素敵な年上の彼との会話は弾んだ。そして、ふたりは恋人となった。

美香さんはすぐに姉の和代さんにも山内を引き合わせた。
妹の彼氏を和代さんも受け入れ、山内はこの姉妹が暮らす部屋に頻繁に遊びに来ていたという。

昭和60年10月、なんと山内は和代さん、美香さん姉妹が暮らす1DKの部屋に引っ越してきた。
いくら仲が良いと言っても、姉妹の部屋は6畳の1DKである。そこに姉と、妹とその彼氏が暮らすというのは無理があると思うのだが、その生活は約半年間続いた。

昭和61年6月、和代さんはその部屋を出て別のマンションへと越した。その後、ビジネススクールを卒業したものの、念願のスチュワーデスにはなれなかった。今は違うかもしれないが、当時は身長の下限があったようで、160センチに満たなかった和代さんはあきらめたという。
それでも夢を人生の片隅に置いておきたかったのか、いったんは航空機整備関連会社へ就職している。
しかしそこはあまり長続きしなかったとみえ、化粧品の販売員をする傍ら、夜の世界へと足を踏み入れた。

ある意味ここが、和代さんの人生の分岐点の一つだった。

400万円の毛皮

大阪キタ新地の高級クラブ「ROUX(ルー)」でホステスとして働きだした和代さんは、その美貌とビジネススクールで学んだ知識を武器に瞬く間に売れっ子となった。
実は和代さんはこの店に入店する1年半ほど前から水商売のアルバイトをしていたと言い、その当時からいわゆるパトロン的な存在の男性もいたという。

うなぎ上りに給料は上がり、事件の1年前には月収が100万円を超えた。
同時期に、住まいも土佐堀通の家賃12万円の高級マンションへ変えた。
毛皮や腕時計など、和代さんの身の回りには高級品があふれかえっていた。

この頃、妹の美香さんと山内との関係にも変化があった。
美香さんはかねてからの夢だった、ブティックの経営が実現する運びとなったのだ。ただ、場所は大阪ではなく地元の徳島だった。新しくできたショッピングモールの中のテナントとして、美香さんがお店を出せることになっていた。
そのため、美香さんは10月から徳島へ戻っていた。生活の基盤も、徳島にあった。

山内は月に1~2度、徳島の美香さんの元を訪ねており、家族とも顔合わせは済んでいた。
しかし結婚には至っておらず、翌年1月にグアムで結婚式を挙げ、会社にも婚姻の届けを出したにもかかわらず、正式には入籍していなかった。

実は、美香さんの家族は山内に対し不信感を抱いていたのだ。

うさんくさい男

最初に不快感をあらわにしたのは祖母だった。
山内が訪ねてくるたびに、どこかこの男は信用ならない、胡散臭いと言い続けていたという。
山内はギャンブルにも興味がなく、会社での評判としても人柄はいいが営業マンとしては……というもので、いわゆる詐欺師のような口から出まかせと言ったタイプではない。
しかし祖母の見立ては当たっていた。
山内には250万円ほどの消費者金融からの借金があったのだ。

さらに、山内は美香さんや美香さんの両親に対して見栄を張っていたと思われる節があった。

美香さんはある時、山内に対し
「給与明細を見せてほしい」
と話している。これは、実は美香さんの父親が言い出したことなのだという。
山内は、金銭的な面で見栄を張るタイプだったと、後に会社の同僚が証言しているが、おそらく、徳島での山内の言動は、そのサラリーマンの給与に見合っていないものだったのではないか。
田舎の人間はそういうところに厳しい。ましてや、商売をしている美香さんの両親らからすれば、どこか胡散臭い印象を嗅ぎ取っていたのではないか。

しかもその山内の見栄は、調べればすぐにわかってしまうような、稚拙なものだった。

どうも、その場だけしのげればいい、そんな考えで行動しているようにも思えた。

美香さんと結婚式を挙げたものの、入籍に至っていなかったのも、自分の借金がバレてしまう可能性を恐れてのものだった。

結婚するには、なんとかしてこの借金を清算しておかなければならない……
しかし清算する金などあるはずはなく、山内は切羽詰まっていく。

そして山内は、かつてのある出来事を思い出した。

「これくらいはあるんやで」

昭和63年10月5日、クラブROUXに出勤していた和代さんは心ここにあらずだった。
店が終わると、同僚ホステスらとのおしゃべりもそこそこに帰り支度を始めたため、同僚がどうしたのかと尋ねると、
「徳島のばあちゃんが危篤なんや、急いで帰らんと」
とこわばった表情で話したという。
さらに、「迎えの車が来るから」とも話していた。
その後、店からほど近い全日空ホテルのロビーへと、和代さんは入っていった。

それ以降、和代さんの足取りはつかめていなかった。

祖母が危篤との知らせを和代さんに伝えたのは、山内だった。そして、迎えに来たのもまた、山内だった。
山内はホテルのロビーで和代さんと落ち合うと、そのまま和代さんの自宅マンションへ送り、帰省のための準備をさせたという。
その後、「なぜか」東淀川のかつて和代さんも暮らしたあのアパート(当時は山内の自宅)の部屋へと誘い込んだ。

そこで、山内はおもむろに和代さんに対し、危篤の話は嘘であることを白状すると同時に借金の申し込みをした。

山内には算段があった。和代さんはかつて、山内に対して100万円の帯のついた札束を見せ、
「いつもこれくらいはあるんやで」
と話していたのだ。ならば、かわいい妹のためでもあるのだから、頼めば250万円貸してもらえるのではないか、と思っていたのだ。
400万円するという毛皮や、250万円の腕時計のことも知っていた。

しかし予想に反して和代さんは激怒、「そんな、電話ひとつかけたらバレるような嘘言うて、私から借金しようとしたやなんて……」そう言ったかと思うと、徳島の実家に電話をかけようとした。

「こんな人と妹は結婚させられへんわ!」

吐き捨てるように言った和代さんの背後に立った山内は、そこにあったテレビのアンテナ用のコードで和代さんの首を絞め、殺害したのだった。

「そこまで考えが回らんかった」

和代さんを殺害した後、当然遺体の始末をしなければならなかった。
山内は、自身が勤める会社が8日から和歌山へ一泊二日の社員旅行が予定されていたことを思い出し、そこで会社が休みになる8日の早朝に遺体を会社の工場へ持ち込んで始末しようと考えたのだ。

しかしなんと山内はその日寝坊してしまう。信じられないアホだ。あの名古屋ドラム缶殺害の実行犯らも、被害者を待ち疲れて寝てしまったことがあったが、なぜ、寝る、寝られる。
さらにその後の行動も理解不能だ。山内も旅行に参加する予定だったため、和代さんの遺体を工場まで運び隠すだけ隠してそのまま旅行へ出発したのだ。
旅行中、山内に変わった点はなく、宴会ではカラオケを歌い、帰りのバスの中でも漫画を読んだりして楽しんだ様子だったという。

そして10日の朝、さぁいよいよ片付けようと山内がとった方法は、住宅街のド真ん中にある自分の会社の工場で、和代さんを焼くというものだった。
後に警察が、「そんなところで焼いたら、煙やにおいでバレると思わなかったのか」と聞いたところ、「そこまで考えもしなかった」とうなだれたという。
山内は全裸にした和代さんをドラム缶に押し込み、ガソリンと軽油を振りかけてライターで火をつけた。
そして、思いのほか大きく立ち上った炎にびっくりして、慌てて消火器を、しかも2本撒き散らしたのだ。
炎は収まったが、今度は煙が充満し、完全に閉めていなかったシャッターの隙間からもうもうと外部に立ち上ってしまったのだ。
空き地でドラム缶で何かを焼いていてもさほど気に留まらないかもしれないが、工場のシャッターの向こう側から煙が出ていればそれはわずかであっても通報ものだ。普通はそう思うところを、山内は違っていた。

さらに、「姉さんを殺しておいて、その妹とまともな結婚生活を送れると思っていたのか」という問いにも、
「そこまで考えが回らんかった」
と呟いた。

平成元年8月、大阪地裁は山内に対し、求刑通りの無期懲役の判決を言い渡した。

男と女

山内は借金が理由だと話していたが、実際のところ、ほかに理由があったのではないのか、とする声もあった。
入籍していなかったのは事実だったが、それは美香さんの両親の許しが得られていなかったこと、それから条件として、会社を辞めて徳島で美香さんの店を手伝うようになってから、というものがあったとも言われている。

しかしそれでもグアムで挙式をし、会社に対しては婚姻の届けを出していた。

にもかかわらず、入籍だけはしなかったその理由は、本当に借金がバレるから、だけだったのだろうか。

東淀川で3人が同居していた際のアパートの住民は、週刊誌の取材にこう証言している。
「あいつ(山内)は姉の方ともなんかあったんかもしれんな。」

山内は和代さんの遺体と丸二日、同じ部屋で過ごしている。当時昼間は気温が20度を超えていたが、死臭のようなものはなかったという。
代わりに、部屋には和代さんが好んでつけていたというシャネルの香水の香りがいつまでも漂っていた。

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参考文献
毎日新聞社 昭和63年10月11日東京朝刊、
中日新聞社 昭和63年10月11日朝刊
朝日新聞社 平成元年8月8日大阪朝刊
AERA  昭和63年11月29日号 「次々起こる図々しい殺人」
週刊現代 「大阪発 内縁の妻、その姉の3人で同居 義姉絞殺しドラム缶で焼いた男の三角関係」