「餓死日記」とその不可解〜寝屋川・主婦餓死事件〜

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寝屋川の文化住宅

昭和525月。大阪府寝屋川市の萱島にある文化住宅ではいつものように主婦たちが朝餉の準備に追われ、子供達は次々と学校へ走り、家々からは仕事に向かう男たちが駅へと急ぐ姿が見られた。

文化住宅は薄いベニヤの壁の向こうに隣の部屋があるという作りのため、隣の話し声はまる聞こえだった。

その長屋の一室で暮らす主婦は、朝の家事仕事の合間に聞こえる隣家の子供の泣き声が気になった。あの声は一番上のマー君やろか。隣は5人目が生まれたばかり、お兄ちゃんがかまってもらえず泣いてるんやろか。

最初はそう思っていたが、隣家の子供はいつまで経っても泣き止まなかった。

午前7時半。さすがに不審に思った主婦は、隣の玄関へ回ると泣いている子供に呼びかけた。
「マー君、どないしたんそんな泣いてからに・・・」
その家の9歳になる長男に玄関の鍵を開けさせ中に入った主婦は、絶句した。

その家の主婦が、布団の中で冷たくなっていたのだ。その傍らには、3ヶ月前に生まれたばかりの赤ん坊がすやすやと眠っていた。

日記

亡くなっていたのはこの家の主婦、河本トシ美さん(仮名/当時28歳。)。トシ美さんは目立った外傷もなかったが、ひどく痩せていた。
子供らの証言から、もうしばらく米などをトシ美さんが食べていなかったことも分かった。
警察ではトシ美さんが何か悩みを抱えていて、食事ものどを通らないような事態になっていた可能性もあると考え、もしかしたら遺書のようなものがあるかもしれないと自宅を捜索した。
すると、分厚い大学ノートが見つかった。

領収証などが貼られたその大学ノートは、いわゆる家計簿兼日記、といったものだったようだが、はじまりは昭和51年の11月1日。この年はトシ美さんの結婚十周年だったといい、おそらくそれを記念して書き始めたとみられた。

最初のページには、トシ美さんの身上が綴られていた。そして、子供たちの名前や生年月日、その日食べたものや購入したもの、来客やご近所のことなどごくごく普通の日常が記されていたが、昭和52年になると様子が変わってきた。

逼迫

「お正月なのにどこからも収入がない、どうしよう」
「お正月だけど現金はゼロ。家族みんなで家の中で過ごす」

この時点で、河本家には4人の子供がおり、しかもトシ美さんは5人目の子を妊娠中だった。
身重ながら、4人の子育てに追われつつもトシ美さんはサッシの金具を作る内職をして家計を支えていたという。夫の正敏さん(仮名/当時34歳)はこのころ体調を崩して入院したこともあり、定職に就けていなかった。
日記には、

「お父ちゃんは今日も酒を飲んで寝ている。仕事に行ってほしいなぁ」
「主人は今日で一か月も仕事をしていない。これだけ家族も多いのにどうするつもりだろう」

といった風に、体調を崩した夫を懸命に支えながらも、垣間見える夫の呑気さを不安に思う言葉が記されていた。

「今日で塩も米もなくなった。パンの耳を買ってくる。お金が欲しい」

トシ美さんは食べるものが底をつくと、近所のパン屋に10円でパンの耳を売ってもらい、それを子供達に食べさせて飢えをしのいでいたという。

生活が逼迫していく中、2月には5番目の子供が生まれる。しかしこの出産は普通の出産ではなかった。
トシ美さんはこの5番目の子を、自宅で産んでいた。そこには産婆もおらず、夫が手助けしながらの自力出産だったのだ。

「お金がないので自宅で産んだ」

この時代、自宅で出産する人がいなかったわけではないが、それでも助産師や産婆、母親や義母ら、近所の出産経験の豊富な先輩女性などの支えが前提であり、トシ美さんのようにお金がないから自宅で産んだというのには近所の人々も言葉を失ったという。

この長屋は六畳と三畳の二間しかなく、そこでの7人暮らしは同じ長屋で暮らす人々から見ても無理があったようだ。乳飲み子を抱え、働けない夫と育ち盛りの子供たちの7人家族は大変な状況にあったが、トシ美さんは対外的には家計の苦しさを訴えることはなかった。

ただ、あの大学ノートには、その胸の内を吐露し続けていた。

つかの間の喜び

夫の正敏さんだが、一切仕事を探していなかったわけではなかった。もともと材木関係の仕事をしていた関係で、製材所などでは即戦力として雇われることもたびたびだった。

が、正敏さんは無断欠勤をすることがあった。それでも会社の同僚らが心配し、自宅(当時は社宅)へ行ってみるとトシ美さんが申し訳なさそうに出てきては、
「バス代がなくて出勤できなかった」
というのだ。当時、正敏さんが出勤で必要なバス代は70円。当時の高卒者の初任給がおよそ8万円、ラーメンが280円の時代、バス代70円というのはさほど無理のある値段、とはいえない。
現に、同情した同僚らは正敏さんが出勤できるように、その都度500円、1000円をバス代にと、置いて帰っていた。

すると正敏さんは翌日きちんと出勤してきていたといい、怠け癖というよりは本当にお金の問題で出勤したくてもできなかったのだろうとみられる。
ただ、欠勤の分給料は少なくなるわけで、悪循環だった。

子供が5人、というのはこの時代はわりとあったように思うが、会社の人らは4人目の子供が生まれた際にはミルク代を寄付で集めて渡したこともあったという。
どの家庭にもこのころは当たり前に会ったテレビも、会社の社長が保証人になってくれて手に入れることができた。
愚痴ひとつ言わず、夫を支え子供たちを育てる良妻賢母の鑑のようなトシ美さんには、皆称賛を送っていたという。
だからこそ、会社の人々は正敏さんの無断欠勤も根気良く付き合った。正敏さんをクビにすれば、困るのはこの健気なトシ美さんだからだ。

しかしその会社は、正敏さんが胃を患ったことで退職せざるを得なくなった。社宅だったために、出ていかざるを得なくなり、終焉の地となった寝屋川の文化住宅へ越した。

5月に入り、正敏さんは職探しを続け、ようやく就職先が決まった。月給は18万円。悪くない額だった。
トシ美さんはあまりの嬉しさに、夫の好きな酒を買いに走り、夫とささやかな祝杯もあげたという。
奈良の会社だったため、正敏さんは出稼ぎ状態となったが、516日には前借金を送ってきてくれたため、支払いを待ってもらっていた米屋へのつけも支払えた。

トシ美さんは市役所へも赴き、5番目の子供のことを相談するなどして、ようやく希望が見えた生活に安堵しているかに思えた。

しかし520日、トシ美さんはその短い一生を終えた。

スクープからの総バッシング

この悲しい顛末を報じたのは、読売のスクープだった。
521日付夕刊で、衰弱死(餓死)という衝撃的な見出しで報じられたこともあって反響はすさまじかったという。
国民総中産階級化とよばれ、若き女性はこぞって肥満を気にし、それこそパンの耳など犬のエサか家庭的な奥さんが作るちょっとしたおやつ、程度のものなのに、それをかじって飢えをしのいでいた若い母親の存在は強烈すぎた。

特に、戦中戦後を生き抜いた世代からは涙涙の電話が相次いだという。中には、とりあえずの養育費として100万、長男が高校を卒業するまで毎月10万円を仕送りすると公表する会社社長なども現れた。

とにかく日本中が、トシ美さんの気持ちに寄り添い、共感を示した。

と同時に、トシ美さんの夫や、文化住宅があった萱島東3丁目の人々は、「お前たちはいったい何をしていたんだ」という世間の批判にさらされた。
夫の正敏さんのみならず、九州の親兄弟親戚までもが「九州男児の恥さらし」と揶揄され、近所の人々は「自分たちだけよかったら近所の困っている家庭はどうでもいいのか」「人情もくそもない」などと言われるだけではなく、萱島に家があるというだけで会社の人たちから「あんた萱島でっしゃろ!ひどいやないの、自分はたらふく食うとるくせしてからに!」と怒鳴られる人も出る始末。
この萱島という地域は、もともとレンコン畑が広がる場所だったが、昭和40年ころから新興住宅地ができたのだという。そして、その奥にひっそりと、トシ美さんさん一家が暮らす文化住宅があった。
新しく建てられた一戸建ての住民と、この文化住宅街の人々とは交流はないどころか、使う商店まで別だったという。

けれどそんなことは世間は知らず、萱島という地名だけで散々な目に遭う人が続出した。

トシ美さんが亡くなる直前に支払いを済ませた米屋の主人も凄まじいバッシングに晒されたという。この米屋はたしかに、トシ美さんからつけの代金を支払ってもらったわけだが、それもそもそも、米屋の主人がトシ美さんに子供が多いことを慮って支払いを特に猶予していたという事情がある。
米屋の主人は、「河本さんは遅れても必ず支払いをしてくれたから、こちらもできるだけ待っていた」と話していたのに、まるでこの米屋がトシ美さんの最後の金をむしり取った強欲ジジイのように言われてしまった。

批判されたのはなにも夫の正敏さんやその親族、近所の人だけではない。トシ美さんの親兄弟まで批判された。
というのも、トシ美さんと正敏さんは同郷で、大分県に近い宮崎県東臼杵郡の出身。主だった産業はハマチ養殖と農業で、戦時中でも食うものには困らなかったという地域である。
「金は稼げんでも、腹ば空かすことは絶対にないけん」
そういわれるほどだった。
ならばせめて米や野菜だけでも送ってやっていれば、餓死することなどありえないわけで、それをしなかったからトシ美さんは死んだのだと決めつけた人々が新聞に投書するなどして抗議したのだ。

自分は食べずとも、子供たちにはしっかりと食べさせた尊い母の愛。
たしかに子供たちはまるまると肥えており、健康に何の問題もなかった。

しかし時間が経つにつれ、他の報道各社や雑誌などが取材を行っていくと、どうもこの餓死事件は謎が多いということが分かってきた。

辞退された生活保護

河本家は先にも述べたとおり、正敏さん、トシ美さんふたりともが宮崎県の出身である。
中学を出たトシ美さんは、5人兄弟の長女ということもあって集団就職で東京に出た。17歳でUターンし、実家近くの診療所で看護助手をしていた頃に正敏さんと出会った。
18歳と24歳という若い夫婦だったが、家も新築し、それなりにやっていけるはずだった。3人の子宝にも次々と恵まれた。
農業だけでは現金収入が乏しいことから、この地域の若者は出稼ぎに出ることは珍しくなかった。正敏さんもトシ美さんの兄らと共に、川崎製鉄や水島コンビナートなどへ出稼ぎに行った。
しかし家のローンの返済は思ったより厳しく、正敏さんはいっそ大阪で仕事をしたほうが稼げるのではないかと考え始める。
家族は一緒にいなければ、と思っていたのか、新築した家があるにもかかわらずトシ美さんも夫について大阪へ出ると言い出した。もちろん、3人の子供も連れてである。

新築の家は処分したのかどうか定かではないが、それでもローンは返しきらなかったと思われる。

女房子供を連れて会社周りをする正敏さんを不憫に思って雇ってくれる会社もあった。社宅もあり、それなりになんとか親子5人の生活は出来ていたようだったが、正敏さんは仕事が長続きしなかったらしく、関西地方を転々としていた形跡があった。

そして流れるようにたどり着いたのが、萱島の文化住宅だった。

正敏さんが胃を患った頃、生活保護を受給し始める。しかし、わずか3か月で生活保護は打ち切りとなる。理由は、トシ美さんからの申し出だった。

「私も働きますから、生活保護はいりません」

きっぱりとトシ美さんは言い切り、事実、その後の市役所の調査でもトシ美さんは数万円程度ではあるが収入を得ていたという。
しかし、10万円の生活保護費でも家族7人の生活は無理があるのにそれにも満たない額でやりくりしようとするトシ美さんの頑なな態度には違和感もあった。

実はこのころ、夫の正敏さんは仕事を世話されて始めても、長続きしなかったのだという。そんな夫を見ていたトシ美さんは、生活保護という受け皿があるから、一家の長としての自覚が芽生えないのではないかと思っていた可能性があった。
そこで、夫を奮起させるために、わざと生活保護を打ち切り、自身は内職を請け負って必死で夫のやる気が起きることに望みをかけたのではないか、という見方をする人が多かった。

しかし月々せいぜい35万円にしかならない内職だけでは、一家が暮らしていくことは難しかった。

つかめない人物像

トシ美さんの行動への疑問はほかにもある。
餓死日記とうたわれた大学ノートには、お金がない、食べるものもないという切実な言葉が並ぶ。
「私は子供のころひもじい思いをしたことがないのに、子供たちのおなかをいっぱいにしてあげることができない」
しかし実際の子供たちは、よく肥えていた。実際の写真もあるが、みなこの年代の平均的な成長ぶりで、特に4番目の女の子はふっくらとしたほっぺが愛くるしい。
トシ美さんの子供たちがパンの耳を買いに行ったというパン屋の主人も、パンの耳はおやつにでもするのだと思っていたという。そのくらい、子供たちからは極貧の状態をうかがうことはできなかった。

ただ、付き合いのあった近所の主婦は、トシ美さんの子供に飴玉をあげた際、
「おばちゃんとこはいつもお菓子があるんやね」
と言われたことがあった。
また、別の主婦によれば、子供らは元気そうではあったものの、冬でも半袖だったり、メリケン粉を舐めたのか口の周りを白くしていたことから、かわいそうにと思ったことはあったという。

ある時、トシ美さん宅の次男がよその家に配達されたヤクルトを飲んでしまったことがあった。その際トシ美さんは烈火のごとく怒り、丸坊主にしてしまったという。
また、託児所の子供を預けた際、子供たちが「パンが欲しい」と言ったことから、保育士がパンを食べさせたことがあった。
なんのことはない、何の意味もない、ただかわいらしい子供たちに、と思って保育士がしたことだったが、トシ美さんはその後数日、子供たちを託児所に預けなかったという。
保育士の行動が、トシ美さんには「施し」にうつったのではないか、という人もいた。

プライドの高い人だったから、という話もあるが、一方で真逆の話もある。
無断欠勤した正敏さんに対し、会社が「クビだ!」と告げると、なんと会社にトシ美さんが現れたという。しかも、幼い子を背に負い、残りの子供の手を引いてはるばる訪ねてきたのだという。バス代もなかったと、その状態で何キロも歩いてきて、倒れそうな様子で「社長さん、クビにしないで」と懇願されて門前払いできる人でなしはそうはいまい。
他人に情けをかけられることを嫌う一面がありながら、夫のこととなるとなりふり構わない一面もあった。

夫に対するそれはほかのことからもうかがえる。
米も塩もないと言いながら、毎日のように夫のために酒を買う姿があったという。見かねた人が、「買えばあるだけ飲んでしまうから、一升瓶で買わないほうがいいよ」と忠告して以降も、それでも一合ずつ買いに来ていた。
正敏さんの名誉のために言うが、たしかに仕事が長続きしない面はあったが、胃を患ったことも関係していたし、トシ美さんに対して暴言や暴力などはなかった。
就職出来た際には、いの一番に前借を申し込んでそれを電報為替でトシ美さんに送ってもいた。

実際にトシ美さんの死後、家の中には米が20キロ、卵にインスタントラーメン、年末に社会福祉協議会が届けた味噌、醤油などの調味料も残っていた。
現金は、正敏さんが言ったとおり、送金した5万円のうち4万円が残っていたのだ。

さらに、餓死日記にあった正月の様子とは違う事実があった。
餓死日記には正月だというのにお金がない、という記述があった。しかしその直前の年の暮れ、トシ美さんはお産のために宮崎の実家へ帰っていたのだ。
実家に病人が出たことで里帰り出産をあきらめたものの、それでも14日までは宮崎の実家で過ごしていたのだ。さらに、実家を後にする際現金4万円を持たされており、「現金ゼロ」ということでもなかったようなのだ。

しかしその数か月後、トシ美さんは瘦せ細った状態で死亡した。これはいったいどういうことか。

悲劇のヒロイン

「餓死なんてでたらめです。たしかに生活は苦しかったけど、妹(トシ美さん)が亡くなったとき、あのうちにはお米が20キロも残っていたんですよ。弟だって意志の強い方です。」

そう涙ながらに訴えたのは、正敏さんの姉だった。葬儀の手伝いに萱島に来ていた際、週刊現代の取材に答えている。
身内びいきを差っ引いたとしても、たしかにこの状態で餓死するというのは、自殺の意思があったか、何か病気だったのではないかと考えるほうが自然だ。
現に、正敏さんが帰宅するまでトシ美さんに付き添った警察官は、自殺の可能性を視野に入れて遺書を探していてあの大学ノートを見つけたのだ。

現金収入は少なかったとはいえ、2月には子供たちの児童手当として8万円も入っていた。

「警察からも、妹の死因は産後の肥立ちが悪かったことからの急性心機能障害だと言われたんです。」

正敏さんの姉が言うとおり、実際にはトシ美さんの死因は餓死というより病死だった。もちろん、栄養不良と過労が産後の肥立ちを悪くしたのだろうし、無関係とはいえない。
しかし直後に見つかった餓死日記の切実な言葉、新聞や雑誌に掲載された健気な子供たちの姿と痩せ細り、言葉は悪いが幽霊のような表情のトシ美さんの写真が何もかも決めつけた節がある。

正月の描写も、事実とは異なることが書かれていた。それはなぜなのか。

「悲劇のヒロインを気取ってたんです、妹は」

正敏さんの姉は手厳しかったが、あながちハズレでもないかもしれないとは思う。

トシ美さんの窮状を知る会社の人らが労いの言葉をかけると、
「好きで一緒になったんですから」
とトシ美さんは笑ったという。
故郷の友人にも、正敏さんとの結婚には「競争相手がいた」とのことで、文字通り好きで好きで一緒になった二人だったのだと思われる。

トシ美さんの実父も週刊誌の取材に対して力なくつぶやいた。
「子供を連れて実家に戻ってきたこともある。そうしたら(正敏さんが)『交通事故に遭った』というニセの電報を打って呼び戻すんですわ。片時も離れていられない亭主だった。」

これはおそらく、正敏さんだけでなくトシ美さんもそうだったのだろう。だから、夫のことならどんな手を使ってでも、何をしてでも助けようとしたのではないか。

しかし一方で、困窮を極める生活に疲れていく中で、その現実を受け入れるためには悲劇のヒロインになりきらなければ自分を保てなかったのではないか。
大学ノートに綴った餓死日記は、そんなトシ美さんの本音と酔いが交錯しているように思える。
正敏さんがかつて勤めていた木材工場の人は、事件後に週刊誌の取材に答えた。
「みんながびっくりしたのは、子供があのころから一人増えていたことだよ。いくら天からの授かりものとはいえ
やつれたトシ美さんが次々と妊娠するのを見かねて、近所の主婦が
「使いはるんやったら
とコンドームを差し出したこともあった。しかしトシ美さんは「ううん、いいの」と言うだけだった。

死の前日、餓死日記にはやたらと「疲れた」「しんどい」という言葉が並んだ。近所の人にも、熱っぽくてだるさが取れないとこぼしていた。
そして、走り書きのような筆跡でこう書かれていた。

「はやく田舎に帰ろう、お父さん、お母さんに会いたい」

餓死日記と、トシ美さんの命の灯は閉じられた。

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参考文献
週刊読売 わが子かばい〝衰弱死〟の母「涙の日記」と28年の軌跡 /読売新聞社, 1977-06
週刊現代 衝撃レポート 五人の子を残して衰弱死した“28歳の母“”飢餓日記
講談社, 1977-06

月収3万円、5人の子のために餓死した28歳母の「飢餓日記」
(総力特集 昭和&平成 「貧乏」13の怪事件簿) 新潮45  2008.9 p.4850 来栖彰子著