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平成16年2月25日
冬の空に日差しが戻ったその日、1台の車が瀬戸内の橋を渡っていた。
昨日よりも5度ほど気温も高く、海風は冷たいながらも心地よいものだった。
助手席にいる母の横顔を、男はなんどもなんども確認した。
皺が刻まれた母の顔。女手ひとつで自分たちを育ててくれた、母。
どうしてこうなってしまったのか。
使われていないフェリー用の桟橋に車を乗り入れると、男はそのまま海へとアクセルを踏んだ。
事件概要
広島県豊田郡安芸津町(現・東広島市安芸津町)風早の大芝島で、1台の車がフェリー用スロープから海へと転落した。
車はそのまま沖へ30mほど流され、水深5mに沈んでいたが、通行人の通報により救急隊が捜索したところ、沈んだ車の中から高齢の女性の遺体が見つかった。
さらに、全身ずぶ濡れの中年男性も救助され、その男性の話から、女性は母親であることが判明。何らかの事情でスロープから車ごと落ち、男性は自力で脱出できたものの、母親はそのまま亡くなってしまったようだった。
亡くなったのは、安芸津町在住の岡本佳子さん(仮名/当時78歳)。佳子さんはガンを患い、その後認知症の症状がひどくなったこともあって、県内の介護施設に入所していた。
一方、男性は佳子さんの長男で、西宮市在住の範夫(仮名/当時58歳)。この日は27日まで母の佳子さんを実家へ泊らせる予定で、河内町にある介護施設に迎えに行っていた。
介護施設暮らしの母親とのひと時のドライブが、なぜこんなことになってしまったのか。警察では事故と事件の両面で捜査を考えていたところ、26日になって、範夫が「無理心中をしようと思った」と供述したことから、竹原署は殺人の疑いで範夫を逮捕した。
認知症だった佳子さんの介護疲れで起こした犯行かに思われたが、佳子さんの介護を日常的にこれまで行ってきたのは範夫の妹だった。事実、範夫は西宮に自宅があり、時折様子を見に実家に帰ることや、佳子さんを預かることはあっても、日々介護に追われるといった状況ではなかった。
ではなぜ、範夫は母親と心中しようとしたのか。
その理由は、範夫が送ってきたそれまでの人生にあった。
軋み続ける人生の歯車
範夫は広島県で生まれ、地元の豊田高等学校の醸造科を卒業。その後は西宮の酒造会社へ就職した。
酒造会社で得た知識や人脈などを生かして居酒屋経営に乗り出した後、西宮市内の不動産会社勤務となった。
時代はバブル景気真っただ中であり、おそらくこのころ範夫は経済的にも順調な人生を歩んでいたと思われる。
当然、良き伴侶にも恵まれ、ふたりの男の子も授かっており、まさに幸せな未来が範夫の目の前には広がっているかに見えた。
しかし、平成11年。人生の歯車は軋み始めた。
体調不良続きだった妻が、直腸がんであることが判明したのだ。しかも、余命はあと半年と、末期の状態だった。
それでも妻は手術や入退院を繰り返し、生きる希望を捨てなかった。
範夫も同じで、不動産会社の仕事が歩合制であったことからある程度の時間の融通がきいたこともあり、妻の闘病を全力で支えた。
介護だけでなく、家事もこなし、さらには余命いくばくもない妻に少しでも良い環境をと、それまで暮らしていた賃貸マンションを出て、一戸建てに移ることまで考えていた。
平成12年の春、範夫は総額3300万円の融資を受け、西宮市内に一戸建てを新築して家族で移り住んだ。
時代背景を知る読者の方ならもうすでに不穏な空気を読み取っていると思われるが、この選択はかなりのバクチだったと言わざるを得ない。
バブルは崩壊し、歩合制の範夫の仕事は立ち行かなくなっていた。加えて、妻の介護や家事に追われ、そもそも仕事どころではなくなっていたのだ。
案の定、平成12年に受けた融資の返済は、すぐに行き詰まった。裁判資料によれば、平成12年に入ってすぐにすでに収入が断たれた状態になっていたという。にもかかわらず、融資が受けられたのは前年までの年収があったからだろう。
おそらく、融資を申し込んだ時点ですでに収入は激減していたと思われる。
生活費や住宅ローンの返済には、範夫が所有するクレジットカードのキャッシングを利用し、それでも足らないときは消費者金融にも頼った。
平成14年になったころには、もう家計は火の車だった。返済のために新たな借金をし、それらは少しずつ少しずつ膨らんでいき、範夫の自転車操業だけでは追い付かなくなっていた。
その年の10月、闘病生活を送っていた妻がついに他界してしまう。範夫や家族の献身的な支えのおかげか、余命半年といわれた妻は、それよりも長く生きることができた。
妻には生命保険があり、700万円の死亡保険金が下りたが、それらはあらかた借金の返済で消えてしまったという。
このころ範夫は会社に本格的に復帰し、以前のような不動産の営業をしていたが、3年も現場を離れていたせいか、はたまた不景気のせいか、手ごたえは皆無といってよかった。
歩合制という立場も災いした。範夫は仕事をしても、まったく収入を得られなくなっていたのだ。
平成15年、範夫の借金は住宅ローンを含めて4300万円に膨れ上がり、もはや家は手放さざるを得ず、さらには勤務していた会社の経営者が病に倒れたことで休眠状態になってしまい、範夫はいよいよ追い詰められていった。
佳子さん
一方の佳子さんはどんな人生だったのだろうか。
佳子さんは昭和22年に結婚し、範夫をはじめ二男一女に恵まれた。
昭和39年に夫と死別したのちは、保険外交員として働きながら立派に3人の子供を育て上げた。
3人の子供がそれぞれ就職などで実家を離れて以降も、保険外交員を続けながら、嫁ぎ先の家を守って一人暮らしていたという。
定年まで仕事をつづけた佳子さんは、平成11年に体調を崩すことが続いた。当初は腎盂腎炎と診断されていたが、その後の検査で胃がんが見つかり、夏に胃と脾臓を摘出する手術を受けた。
70歳を超えたばかりだったが、すでにこのころから佳子さんには認知症の症状があらわれていたという。
11月に退院してからは、そんな佳子さんを一人にしておけないと、広島市に住んでいた長女が実家に戻って佳子さんと生活を共にしていた。
平成14年、認知症の症状が進んだ佳子さんは、妄想や感情の暴発、長女を泥棒扱いする、さらには生まれたばかりの孫にチョコレートを食べさせるなどの行動が見られ、とてもひとりにさせることはできなくなっていた。
そうはいっても、介護士としてはたらく長女は24時間付きっ切りにもなれず、日中は長女が勤務する介護施設のデイサービスを利用するなどしてなんとか日常を送っていた。
しかし、長女ももはや限界であった。
長女はできる限りのことをしていたが、それでも報われない佳子さんとの生活の愚痴を、兄の範夫に時折こぼすようになっていた。範夫も妹一人に押し付けている負い目もあり、また、妻を介護していることから妹の負担も容易に想像できたことで、合間を見ては広島の実家へ顔を出していた。
ただ、電話で聞かされる妹の話と、実際に範夫が見た母、佳子さんの様子は乖離があったという。
しかし、平成15年に佳子さんを西宮の自宅へ連れて行った際、汚れた下着をタンスにしまったり、いまだに保険外交の仕事をしていると思い込んでいたり、さらには範夫や範夫の子供たちの名前を忘れるなどの症状があったことから、妹が訴えていたことが真実であると確信した。
そこで、このまま妹一人が面倒を見ていたのでは共倒れになってしまうと考え、妹に施設入所について相談を持ち掛けた。しかし、当の妹はそれに難色を示す。
自身が介護の仕事をしていることや、その当時の介護への考え方や施設の取り組みに戸惑いがあったのかもしれないが、この時点では妹もまだ頑張れると思っていたようだった。
冬になり、妹は衝撃的なものを目にしてしまう。
自宅にあったストーブのそばに、燃えた新聞紙があったというのだ。
おそらく、佳子さんがストーブをつけようとしたと思われるが、もう看過できない状況にあった。妹はようやく決心し、春先までには施設に入れるよう手配すると範夫に話したという。
平成16年2月、佳子さんは賀茂郡河内町の特別養護老人ホームに入所が決まった。
その日
範夫は施設に入所した母、佳子さんが、以降認知症の症状がさらに悪化したことを知る。
それまでの妹の苦労を思うと申し訳ない思いと、同時に母親に対する不憫な思いが交錯した。
介護施設に入所したとはいっても、おそらく佳子さんの認知症の症状は重度だったと思われる。私も知らなかったことだが、いわゆる老人ホームというところは場合によっては退所勧告がなされるケースもあるという。
佳子さんが入所していたところがどういったところかの詳細はわからないが、亡くなるまでそこで暮らせるかというと、絶対とは言えないようなのだ。
よくあるのが、認知症が進み徘徊や暴力行為などがひどい場合など、本人や他の入所者、スタッフに命の危険が及ぶ場合などは該当するという。
佳子さんがどこまでひどくなっていたかは定かではないが、範夫は将来的に佳子さんが対処せざるを得なくなった時のことを不安に感じていたようだ。
そこに、自分の今の状況が重なってしまった。
範夫も、自身の生活が立ち行かない状況に変わりはなく、返せるめどが立っていない親族からの借金もあった。
事件の一週間ほど前には、息子にこんなことを漏らしていた。
「もし自分に万が一のことがあったら、生命保険で借金を清算してくれ」
2月25日、外泊したがっていた佳子さんのため、27日までの予定で外泊許可を取った。
午後2時、範夫は佳子さんを連れて実家へ戻ると、そのまま大芝島へつながる橋を渡り、2時50分、海へ入った。
愛ゆえに
裁判では、範夫の行動は身勝手で短絡的、かつ、命の尊厳を無視しているとして、厳しく断罪された。
また、親の介護で悩む人々も多い中、そのような人々にも深い悲しみと衝撃を与えたとし、社会的な影響も無視できないとした。
そもそも、この事件の根本は佳子さんの認知症や介護問題ではなく、範夫自身の借金問題にあった。範夫は自身の借金を自分の生命保険で清算する意思があり、そこに佳子さんを道連れにした、というのは厳しい言い方にはなるが、間違いない。
しかも、当の自分は沈みゆく車から自力で脱出しているわけで、結果としても印象がよろしくなかった。
さらに言うと、佳子さんは心中を拒否していた。
範夫は、車中で佳子さんに対し、一緒に死のうと持ち掛けていた。それを佳子さんは明確に拒否していたのだ。
一方で、範夫のそれまでの人生については同情を禁じ得ないといった言葉もあった。
範夫はギャンブルや自己の見栄などのための浪費で借金をしたのではない。妻に最大の労いと、少しでも良い環境をと願ってした行動が結果として莫大な借金につながってしまった。
怠けていたわけでもないし、むしろ家族のために、家族を思って行動していたと思われる。
妹をはじめ、親族、近隣住民らもみな同様に範夫に対して温情判決を求める嘆願書を提出していた。
だからこそ、やるせない。
判決は、求刑懲役6年に対し、懲役4年。執行猶予はつかなかった。
心から気の毒だと思うし、裁判所の言うように範夫の「愛情」がその動機の一つとして存在していたことは否定できない。
これはひょっとすると無関係かもしれないが、実は範夫と同姓同名の人物が、平成6年ころとある広島県在住の人物の脱税事件の証拠として名前が挙がっている。
その人物は、霊能力で体の悪い部分を治す、そんな触れ込みで人々からお布施のような形で金を受け取っていたにもかかわらず、申告していなかったというもので、その金銭を支払った側の人物の一人に、範夫と同姓同名の人がいるのだ。
もしかすると、範夫は体調不良を訴えた妻や佳子さんのために、この人物を頼っていたのかもしれない。
ただ、それでも思ってしまう、その結果がこれである以上、その家族への「愛の結末」を正当化はしてはいけないと。
あえて言うけれども、妻のための住宅ローンはいくらなんでもその状況下では無理があったし、妻の死後おりた生命保険700万円も、その一部は家族用の「自動車購入」に充てられた。
違うやろ、違うやろーーーーと、他人が言ってしまうのは酷だとわかっている。
親族に金を借りる前に、債務整理をすべきだったと、後から言うのは酷なのもわかっている。しかしどうにも、思わずにいられないのだ、死を選択するくらいなら、と。
範夫は母とした最期のドライブで、海が見える場所を選んだ。
海の近くで生きた母が、山奥の介護施設に入ったことで海を見せたいと思ったという。
範夫と母が写った写真をコンソールに忍ばせ、島で売っていたみかんを、母と二人で分け合って食べた。
それはどんな味がしただろうか。
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参考文献
判決文
朝日新聞社 平成16年2月26日地方版/広島
読売新聞社 平成16年2月27日大阪朝刊
お久しぶりです。
こちらの記事を見るたびに、色々考えさせられるので、非常にありがたく思っています。
(今回は、身の丈に合わない買い物をしない、とか借金で首が回らなくなったら無理せずに自己破産する、とかですかね?合ってるか分かりませんが…)
確かに俯瞰して見ると、主人公たちの行動に「こうすれば良かった」と言えますが、自分がその場にいたら正しい行動ができるか…正直分かりません。
いつかの記事で、「正常な人間なら踏みとどまるブレーキがある」という話をされていましたが(子殺しの時だったかな?)、自分も正常な人間であれるよう、常に振り返っていたいな、と思いました。
これからも更新を楽しみにしております。
大変な時期が続きますが、ご自愛してお過ごし下さい。
今回も興味深い記事をありがとうございました。
もりぞー さま
いつもコメントありがとうございます、励みになります。
彼は確かに家族を愛していたし、母や妹、妻のこともとても大切にしていたと思います。
ですが、だからこそこの結末がどうにかならなかったのかと歯痒いです。
彼は既に出所してましたが、事件当時に暮らしていた西宮の同じマンション(妻のための一戸建ては売ったようです)に暮らしていて、2012年に破産しています。
妻が亡くなった時に、この決断ができていれば結末は変わっていたのでしょうか…