絶対私は悪くない~福井県あわら市・義母逆恨み殺害事件①~

平成14年8月21日

福井県芦原町(現・あわら市)。
この日、いつもは早起きの祖母が起きてこないことを気にかけた孫は、祖母が生活する離れに向かった。
納屋に隣接する離れの入り口は施錠されておらず、孫は祖母を起こしに部屋へ入った。

「ばあちゃん…」

最初は単に布団がはがれているだけかと思った。しかし、あおむけの祖母の顔に、すでに生気はなかった。

事件概要


8月21日午前6時40分ころ、福井県芦原町の惣菜店経営・近藤賢さん(当時59歳)方の離れで、同居している母親の久栄さん(当時81歳)がパジャマ姿のまま、布団の上で死亡しているのが発見された。
寝室につながる納屋にあったタンスなどが荒らされていたことから、久栄さんは就寝中に襲われたとみられ、警察では殺人事件として捜査を始めた。
久栄さんは息子の賢さん夫婦、その長男(当時33歳)と次男(当時31歳)との5人暮らしで、当時賢さんと次男は仕事に出ていて留守だった。
通報してきたのは賢さんの妻で、司法解剖の結果、久栄さんは胸や首を相当な力で圧迫されており、胸骨が骨折したことでのショック死、または窒息死とみられた。

近藤さん宅が会社経営をしていたことや現場の状況から、警察はまず物盗りの犯行を疑った。ただ、もともと入り口は施錠されていなかったこと、タンスが物色されていたものの、現金などがとられていないことなどで、強盗以外の線も捨てきれなかった。

近所での聞き込みもはかどらず、捜査は難航。
しかし、その年の年末、賢さんが妻と離婚する。警察は聞き込みで得ていたある情報がこれを機に、真実味を増すことになった。
近藤家では、賢さんの妻とそれ以外の家族との折り合いが悪かったというのだ。事件の前日にも、大声で怒鳴りあう声が近所に漏れ聞こえていた。

平成15年2月3日。
県警捜査本部は、久栄さんの息子・賢さんの妻だった女を殺人容疑で逮捕した。

女のそれまで

逮捕されたのは、近藤家の嫁だった南満智子(当時57歳)。
満智子は賢さんと昭和43年に結婚、翌年に長男を、その後も次男、長女と子宝にも恵まれ、幸せな結婚生活を送っていた。
昭和52年、賢さんは職場の同僚だった女性・A子さんと総菜の店を共同で起業、以降自営業者としてそれまで以上に仕事に打ち込むようになる。
一方の満智子は、そんな夫を頼もしく感じる一方で、忙しさのあまり家を空けることの多い夫が自分から離れていくのではないかという思いも抱くようになっていた。
そしてそれには、共同経営のA子さんへの嫉妬心も加わるようになる。

賢さんの会社は順調に業績を上げ、昭和58年には新たに食堂の経営にも乗り出す。
この際、満智子は食堂の仕事を手伝うようになり、感じていた夫との距離も埋められそうに思えた。
しかし、今まで以上に賢さんとA子さんの姿を目にするうちに、些細な仕事上の会話や接触までもがなにか「意味のある事」に思えるようになっていく。
それまでにも、嫉妬心にかられた満智子は、A子さんにあからさまな嫌がらせを行っていた。にもかかわらず、賢さんとA子さんは仕事上のパートナーとして互いに成長する間柄であり続けたが、満智子は「二人は男と女の関係だ」と思い込み、さらに嫌がらせをエスカレートさせていく。

昭和59年ころから、A子さん宅には無言電話やA子さんを罵倒するような電話がかかるようになっていた。
電話の主は名乗ることはなかったが、その声はどう聞いても満智子の声だった。
たまりかねたA子さんは、しかたなく賢さんに相談することになる。録音された嫌がらせ電話の声を聞いて妻の声だと確信した賢さんは、その録音を満智子に聞かせたうえで、なぜこんなことをするのかと問いただした。
しかし、自分の声を聞かされているにも関わらず、満智子は頑としてそれを認めず、自分ではないとしらを切りとおしたという。

満智子のその態度はだれが見ても異様だった。
仕事を失うわけにいかない賢さんは、満智子との離婚を考えるものの思いとどまり、かといってこのまま一緒にいては良いことはないと考え、昭和60年、満智子を福井市内のアパートに住まわせて別居状態となった。
以降、離婚しないまま15年間にわたって満智子はそれまで暮らしていた賢さんの実家に出向くことはなかったという。

満智子は一人で生活しながらも、反省したり、他人を思いやったりすることを学ぶことができなかった。
15年の間に満智子が得たのは、「こうなったのは全部他人のせい」という激しい思い込みを伴う他罰的な人格のみだった。

母不在の健全な家庭

母親が家を出る状態で15年経った近藤家はどうだったのか。
子供たちはある程度の年齢になっていたとはいえ、普通で考えれば母親が一人家を出されるというのはいささか子供たちの成長に悪影響があるのでは、と心配だったが、子供たちは健全に育っていた。
そこには、祖母である久栄さんの慈しみ深い性格が関係していた。
久栄さんは息子夫婦のことに心を痛めつつも、年寄が口を出してはいけないとわきまえており、孫3人を恥じることない人間に育てることを一番に考えていた。
そんな久栄さんに、賢さんは支えてもらい、孫たちも非常に懐いていたという。とりわけ、長男は久栄さんに対して感謝やいたわりの気持ちを強く持っていた。

久栄さんは、そんな孫たちを見るにつけ、いつも満智子のことを考えていたという。確かに満智子は気が強く、思い込みの激しいところもあるだろうが、それでも大事なうちの嫁さんだ、孫たちのたった一人の母親じゃないか、と、15年間ずっと満智子のことを思っていた。
そして、平成11年。孫娘が結婚することになった際、これを機会に満智子を迎え入れてやってはどうか、と家族に提案した。
満智子の性格を嫌というほど知っている賢さんや長男は、久栄さんの提案に難色を示したという。同居していた際、満智子は久栄さんにも厳しい態度で嫌がらせをするなどしていたからだ。
しかし、娘の結婚式くらい、母親として席を設けてやってほしい、そういう久栄さんの思いに折れた。
家族らの了承を得た久栄さんは、さっそく満智子に電話をかけ、家に戻っておいでと伝えた。
さらに久栄さんは、これまでのように自分が一家の主婦として大きい顔をしていてはいけない、と考え、自らの居室を納屋の隣の部屋へ移し、満智子に気持ちよく生活してもらおうと努力していた。

しかし、満智子の他罰的な人格は直るどころかこの15年間でどうしようもない状況にまで肥大化していた。

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