但し、条件によって無料でご利用いただけますのでこちらを参考になさるか、jikencase1112@gmail.comまで連絡ください。なお、有料記事を無断で転載、公開、購入者以外に転送した場合の利用料は50万円~となります。
**********
文京区の無理心中
平成20年2月。東京都足立区の日光街道沿いにある二階建て店舗兼住宅は不穏な気配に包まれていた。
比較的交通量も通行人も多いというその通りに面したその家は、1階の間口がシャッターになっていた。その閉められたシャッターの下から、どす黒い大量の血が流れ出ていたのだ。
通行人の何人かがその異変に気付いていたようだが、誰もがその理解しがたい光景を信じたくなかったのか、通報しなかったという。
午後3時半、ようやく通報がなされ警察官が駆け付けた。シャッターを開けるとそこは、まさに地獄だった。
家の中ではこの家の家族5人のうち3人が死亡、1人が両手首切断という重傷を負っていたのだ。しかも、その後の調べで死亡した父親による犯行と断定された。
当初は家業がうまくいかない事での経済的な事情が原因かとされたが、不動産にまつわるトラブルも抱えていたといい、さらには無理心中を企てた本人が死亡していることからそれが真に明らかにされることはなかった。
その凄惨な事件から1か月後。
今度は文京区で、同じく父親による一家無理心中事件が発生した。しかしこの文京区の父親は、一命を取り留めた。
先走ったお父さん
平成20年3月28日未明。文京区小石川の歯科医の男性から、隣の家で事件が起きていると110番通報がなされた。
警察が駆け付けたところ、家の中では高齢の男女と30代くらいの女性が心肺停止の状態で倒れ、幼い男児二人も刃物による傷を負っていた。
さらに、40代くらいの男性が腹部から血を流していたが、意識はあった。警察官の問いかけに、男性は呻くように
「おれがやった。みんなやった」
と言った。
心肺停止の男女3人はその後搬送先の病院で死亡が確認されたが、男児二人は命に別状はなかった。
そして、犯行をほのめかした男性も重傷ながら回復するとの見込みだった。
この家には実はもう一人、家族がいた。12歳の長女である。
長女は夜中に家の中で物音がすることで目を覚まし、家族の姿を探していたところ、信じられない光景が飛び込んできた。父親が、母親の首を絞めていたのだ。
長女に気づいた父親は、「夫婦喧嘩だ」と言ったというが、尋常ではない様子に長女は家を飛び出し、隣家の歯科医宅へ助けを求めたのだった。
警察に対し、長女は「お父さんが先走ってしまった、家の中が血まみれでみんな倒れている」と話していたという。
家族を手にかけたのは、子供たちの父親。
先走ってしまったこの父親の心に何が起きていたのか。
真面目社長の苦悩
家族を殺傷したとして逮捕されたのは、江成征男(当時42歳)。死亡したのは、征男の両親である江成三男さん(当時74歳)、敏子さん(当時70歳)、征男の妻・伸子さん(当時37歳)だった。
警察は、長女の話などから征男が自身が経営する製本会社の先行きが芳しくないことを悩み、ストレスを抱えていたことが犯行の動機にあるとみて征男の退院を待って事情を聞いた。
征男の会社は、父親の三男さんが創業した会社だった。製本業のほか、近隣の製本会社の下請けとしてチラシなどの折り込み加工作業なども行っていたという。
15年前に三男さんから事業を引き継いだ征男は、職人気質で厳しい半面、性格自体は穏やかで真面目、取引先にも信用があり従業員からも信頼があった。
平成3年には法人化、売り上げも月商で400~500万あったといい、会社の規模からすればその経営は順調だった。
平成6年に結婚した妻の伸子さんも気さくな性格で身だしなみもきちんとしていて夫婦は幸せそうに見えたと近所の人らは話す。
その後子供たちにも恵まれ、一家は都内に分譲マンションを購入した。
平成16年、小石川の実家で暮らしていた三男さんと敏子さん夫婦だったが、当時三男さんは体が不自由になっており、また自営業者にありがちな、年金が少ないという事情もあって、征男の家族が小石川の実家で同居するという話が持ち上がった。征男は実家兼工場を改築し、家族7人での暮らしを始める。
平成19年、世間はインターネットなどが普及し始め、印刷業界には軒並み不況の波が押し寄せていた。
小石川という地域はいわゆる地場産業としての製本、印刷業が盛んだったというが、古くからの工場や会社は後継者不足もあって廃業するところも少なくなかった。
また廃業はせずとも、事業の効率化を図って埼玉や千葉などへ移転するところもあったという。
そういった他社の動きは、それらを主要取引先とする征男の会社にもダイレクトに影響を与えた。
一方で、小石川の自宅兼工場の道路を挟んだ向かいに、11階建てのマンションが建設されることを知る。全40戸ほどのマンションは、そのベランダがすべて征男の自宅兼工場の方向に設置されると聞いて、征男は不安を抱いた。
小石川のあたりは、大通りから少しそれると離合もままならないような細い道路もあり、そのマンションにも駐車場が設けられると聞いた征男は、「工場の前に路駐しているリフトなどが邪魔になったりしないだろうか、そもそも騒音で苦情が来るのではないだろうか?」と思い悩み始めたのだ。
もともと、弱味や悩みを他人に相談しない、出来ない性格だったという征男は、この頃から急速に自分を見失っていくことになる。
「これでよし」
平成20年3月、件のマンションの建設業者があいさつ回りで征男宅を訪れた。その後、騒音問題を気にして知り合いのテント業者に防音目的のシートの見積もりを行った。
この頃、征男は漠然と「死にたい」という気持ちが心の隅にあったというが、家族、特に妻子を遺してはいけないという気持ちが死にたい気持ちを抑えていた。
しかし得意先である会社から、4月分の仕事の発注はあるものの、数は今後少なくなるということを告げられ、さらには別の得意先が廃業するという報せを受けて動揺する。
このところ、征男の会社の業績は思わしくなく、廃業するにしてもおいそれと簡単に事が進むわけでもなかった。
3月27日午前。征男はサイズを間違えて裁断するというとんでもないミスをやらかした。また、受注のために電話を掛けた得意先から、すでに発注済みの仕事が進んでいないことを指摘される。征男は普段なら絶対にしないようなミスの連発に焦りを感じると同時になにかおかしくなってしまったのではないかとすら思っていた。
さらに、焦りからか普段はあまり付き合いのない会社に営業電話を掛けた際、へりくだる自分の姿を想像していたたまれなくなった。
ひとり、会社で裁断作業を続けているうちに、征男はもう自分はダメだと思い込んだ。そして、家族が遺されてはかわいそうだというならば、連れて行けばいいじゃないかという「解決策」にたどり着いた。
夕食を食べた後も、征男の頭の中には家族全員で死ぬにはどうすればいいか、ばかりが駆け巡っていた。
そして、両親、妻、子供の順に殺害することを決め、さらにはその殺害方法として刃物で心臓を刺せば簡単、と考えた。
母親の敏子さんを最初に殺すと決め、包丁にタオルを巻いて機会を窺ったものの、チャンスはなかった。
そこでその日の殺害は諦め、仕事場へ降り明日の仕事の段取りをするためノートを開いたものの、なぜか思うように字が書けなかったという。
もはやこれまで、仕事ももう手につかなくなってしまった……
征男は、子供用の布団を抱えると、包丁を手に両親の寝室へと向かった。
すでに眠っていた敏子さんの顔に子供用の布団を押し付けると、そのまま心臓めがけて包丁を突き立てた。抵抗する敏子さんだったが、10回ほど刺すと動かなくなった。
同じく、介護用ベッドで寝ていた三男さんにも、10数回にわたって刺突行為を繰り返した。抵抗は弱かったが、大声を出した三男さんの口をふさぎながら、征男は何度もその胸を刺した。
次は、妻の伸子さんだった。簡単だと思っていた刃物による殺害は思いのほか手間取ってしまったことから、伸子さんは絞殺しようと決めた。
首を絞められた伸子さんが騒ぎ、激しく抵抗したため、持っていた包丁で心臓付近を繰り返し突き刺したが、はずみで包丁を取り落とした。
そこで、手近にあったハサミを握ると、そのハサミを心臓めがけ突き立てた。
子供たちも同じように仰向けにして突き刺したが、致命傷を与えるまでには至らなかった。長女が逃げ出したことは知っていたが、もう追いかける気力はなかった。
残るは、自分。
征男は包丁を自分の胸に突き刺そうとしたが、骨にあたってうまくはいらなかったという。落ち着け。そう言い聞かせて、包丁をみぞおちあたりに突き刺すと、刃物が自分の体に入ってくる感覚を得た。
「これでよし」
騒がしくなる外の気配を感じながら、征男はそんな気持ちになっていた。
心神喪失か、それとも
裁判では当然ながら弁護側は心神喪失を主張した。
どの無理心中事件でもそうだが、親が子を殺す、一家を皆殺しにするなどという事態で頭がどうにかなっているとしか思えないが、そう簡単な話でもない。
征男の場合、犯行当時は重度のうつ病だったとする弁護側に対し、検察は計画的な一面があることや、殺害の手順を考えたり合理的な行動が見られるとして完全責任能力を主張した。
裁判所は、征男が事件当夜、突然に殺害行為に及んだのではなく、殺害を思いついてからも4〜5時間逡巡していたこと、一旦はその日の犯行を諦めたこと、また家族皆殺しという犯行に及んだのは本来の人格とかけ離れた行動というよりも家族に辛い思いをさせるのは忍びないという考えがむしろ日頃から家族を大切に思っていた征男「らしい」ものとも言えるとし、征男に対して完全責任能力を認めた。
判決は求刑懲役30年に対し、懲役25年。妻、伸子さんの兄弟らは悲しみと憤りの中でも、征男の心情には一定の理解を示したという。子供達の命が救われたことだけが、救いだった。
法廷で、子供達の写真を見た征男は、涙を拭った。
征男は控訴せず、確定した。
大阪の孫殺し
昭和58年夏の終わり。京阪電鉄京橋駅のホームに、幼い男の子の手を引く老婆の姿があった。
通勤ラッシュが過ぎたものの、人の姿はまだあった。ホームに電車が滑り込んで来てそしてまた出ていく。
何度か電車を見送った後、老婆は幼子の手を握ったまま、ホームに近づいていった。
働き者のおばあちゃん
大阪市都島区のアパートで、幼い男の子の遺体が発見された。男の子は首を絞められたことによる窒息死だったが、その顔には白いハンカチがかけられていたという。
警察は、その男の子の親族らから話を聞いたところ、いつも母親がわりで世話をしている祖母の姿と、男の子の兄の姿が見えないということで捜索すると、付近をさまよっている祖母と弟を発見。事情を聞いたところ、祖母が男の子を殺害したことを認めたために緊急逮捕となった。
逮捕されたのは都島区のアパート管理人、妹尾キミ(仮名/年齢は不明だが、おそらく60代)。キミはその日の午前、家族を仕事へ送り出したのちに孫を殺害していた。
殺害されていたのはキミの息子の次男、志郎ちゃん(仮名/当時6〜7歳)。
のちの供述で、キミは志郎ちゃんを殺害した後、兄も殺害するために連れ出していたことが分かった。駅のホームで飛び込もうとしたが、兄が抵抗したため死にきれなかったという。
キミは当時アパートの管理人をしながらそのアパートの一室に住み込み、息子とその子供二人との4人で生活していた。真面目でしっかり者だったというキミは、なぜ可愛い孫を殺したのか。
それまで
キミは三重県の生まれ。尋常小学校を卒業後、看護婦の見習いなどをしていた。昭和14年に結婚、その後は夫の仕事で台湾へわたり、終戦を機に帰国した。
その後、夫が大阪市内の材木会社に就職したことから、昭和34年には家族で都島区にあるアパートに引っ越し、キミはそこで住み込みの管理人の職を得た。
夫婦には4人の子供がおり、昭和49年には次男夫婦がキミ夫妻が暮らすアパートの別の部屋へと越してきた。
次男夫婦にはその後二人の男の子が誕生、そのうちの次男が今回殺害された志郎ちゃんだった。
息子夫婦と可愛い孫との同居は、さぞ幸せだったと思いきや、実はすでにこの頃からキミは結構辛い生活を送らざるを得なくなっていた。
というのも、夫が体調を崩し、入退院を繰り返していたのだ。生活費のみならず、夫の医療費を捻出するためにキミは管理人の仕事のほかに、ビル清掃の仕事を掛け持ちして働いていた。
看護婦の見習いの経験もあったキミは、夫の看病も献身的に行なっていたが、夫は昭和56年に死亡した。
一方、ほとんど同居に近い状態だった次男夫婦だったが、次男はタイル工として出張が多かった。まだ若い次男の妻は、寂しさから浮気をするようになったという。それに気づいたキミは、なんとか次男夫婦が元の鞘に収まってほしい一心で色々と手助けもし、時には仲裁に入ることもあったというが、その心労は相当なものになっていた。
しかし昭和57年、次男の妻は子供を置いて家を出てしまう。子供達はキミの娘が一時的に引き取ったというが、嫁ぎ先への遠慮もあって結局キミが孫二人を引き取ることになってしまった。
この頃、妻に逃げられた次男は酒に溺れるようになっており、それもキミの心に負担となっていた。すでに老齢の域にさしかかって、さらに幼い孫二人の面倒を見ながら仕事もし、深酒に溺れる自分の息子のことも気にかけ、キミは不眠、胸部圧迫といった精神的、身体的な症状にも悩まされることとなった。
異変
家出した妻は、借金を残していたという。それ以外にも、次男の家族のために老後の貯えから多額の出費をしてもいた。妻が残した借金の返済もキミが手伝うこともあった。
仕事をしていたキミは、たまにどうしても都合がつかないときにアパートの住民に孫たちを預けることがあった。しっかり者で他人に迷惑をかけるのをことのほか嫌う性格のキミは、その際に必ず謝礼を渡していたというが、この頃にはその謝礼にも事欠くようになっていた。
人様に迷惑をかけてしまう、そのことはキミの心労をさらに重いものにした。
キミは嫁いでいた娘に頻繁に電話をしては、次男の酒浸りや孫のことを愚痴るようになっていた。それまで、子供たちの相談相手になっても自身の悩みや愚痴をこぼすようなことはなかったため、娘らも気にはしていたようだが、それでもキミはそれまでどおりに責任感を持って日々生活しているように見えたためにキミの心労に気づけずにいた。
しかし夏が終わるころにはその長女への愚痴の電話が深夜に及んだり、何度も同じことを愚痴るなど明らかにキミの言動には異変が見えていた。
二男に対しても、唐突に「私が死んでも葬式なんか出さなくていい」などと話してもいたという。
キミは深刻な希死念慮に囚われていた。
それでも踏みとどまっていたのは、世間に対してだけでなく、幼い孫たちへの責任感がかろうじてあったからだという。自分が死んだら、母親に捨てられたかわいそうな孫たちはどうなるのか。おばあちゃんにまで捨てられたと思ってしまうのではないか。
それはあまりにも不憫だった。
ふたりとも連れて行こう。
ふっと、気持ちが軽くなった気がした。
限界を超えた人
裁判所は、キミに対して心神耗弱を認め、懲役3年執行猶予4年の判決を言い渡した。
弁護側は重度の病的な精神状態にあったとする鑑定結果を提出し、心神喪失で無罪を主張していた。
キミはまじめで律儀、仕事熱心な責任感も強く、そもそもうつ病に陥りやすい性格であるという鑑定結果があった。それに加えて断続的に起きた家庭内のトラブルなどが心労を引き起こし、またキミの年齢的なこともあり、さらには孫たちの世話という「生活苦難状況」を体験したことで不眠や倦怠感が希死念慮へと発展し、結果として無理心中に至ったと考えられた。いわば、限界を超えていた、ということだった。
裁判所もその鑑定を認めたが、ただ、心神喪失状態であるとは認めなかった。
事件当日も、キミの生活は普段通りだった。志郎ちゃんを殺害した後の行動も、もう一人の孫を道連れに死に場所を探して彷徨ったと言いつつも、いざ実行しようとして孫に抵抗されて断念していた。
その後は娘の嫁ぎ先へ行き、犯行を告白する置手紙をし、自宅アパート付近に戻り自宅に忘れていた財布を孫に取りに行かせたりしていた。
それらの行動についても逮捕直後からしっかりと供述しており、前日夜に遺書をしたためていたことからも、発作的なものではないと判断された。
その上で、心神耗弱状態であったことは認め、執行猶予付きの判決となった。
家庭内の事件では、加害者の立場によっては遺族でもあるほかの家族は複雑な思いを抱くだろう。キミの家族や親類らも、志郎ちゃんの死を嘆きつつも、ここまでキミを追い込んでしまった自責の念のようなものもあった。もう少し、自分たちがキミの苦労を思いやれていれば……
親類らは、今後はキミを支え、キミの生活環境に配慮すると話した。
キミの余生は、親類らとともに志郎ちゃんの冥福を祈るためのものにすべき。裁判所の判断は、その後のキミの人生にどう影響しただろうか。
函館の義母殺し
「ひとを、殺しました。」
その夜、一人の女が110番通報してきた。声は震えていたが、はっきりと自宅の電話番号を伝えた。
その女の背後で、女の夫が立っていた。
「ばあさん、殺したのか。」
夫からの問いかけに、女は「うん」とうなずいた。
介護する主婦
平成12年11月23日、通報を受け駆け付けた函館中央署員は、その家の2階で高齢の女性が口から血を流して死亡しているのを発見した。
死亡していたのは、石神イツさん(当時77歳)。首には絞められたような跡が残っていた。
警察は家にいたイツさんの息子夫婦から事情を聞いたところ、息子の「嫁」が殺害と通報を認めたたため、翌24日に逮捕となった。
逮捕されたのは石神冨貴子(仮名/当時49歳)。調べに対し、介護に疲れ将来を悲観した、と話していた。
イツさんは介護認定を受けており、要介護度は2だった。しかし認知症の症状が4年ほど前から出ており、そばで介護をするものからすれば寝たきりの要介護度5などの人よりも精神的に厳しかった。
この時代、介護はまだまだ家族、特に嫁が受け持つものという感覚が強い人は多かった。冨貴子も、当然のように義母・イツさんの世話を一人で担っていた。
ただ、その介護はイツさんにとって非常に手厚いものだったといい、イツさん本人も冨貴子の姿が見えないと不安症状を呈するほどに、冨貴子を信頼していた。
日々進行する認知症だったが、それでもこの時期、イツさんには意識がはっきりしている時間もそれなりにあったことで、冨貴子も自宅での介護が耐えられていたという。
しかし目を離せない、トイレや着替えなど一人でできていたことが、次第に「奇行」へと変わっていくのも早かった。
徘徊が始まり、食事をとったこともすぐ忘れ、冨貴子に食って掛かった。冨貴子の息抜きでもあるデイサービスにも行くのを渋り、施設でも職員に悪態をついたりして途中で帰されることも度々だった。
それでも冨貴子はイツさんのことが好きだった。
そんな、大好きだった義母の信じられない行動を目の当たりにした夜、冨貴子は義母を殺すことにした。
弄便
それは衝撃的なことだった。
ひとりでトイレに行けていたイツさんが、朝、トイレに入ったときのことだ。なにか、いつもと違う。大便をすれば多少臭うものだが、この朝は強烈だった。
不審に思って冨貴子がトイレをのぞくと、そこには肛門に指を突っ込み、その大便に塗れた指を壁になすりつけているイツさんの姿があった。
「おばあちゃんが、壊れてしまった」
とにかく片付け、イツさんを着替えさせるなどした後、起きだしてきた夫にそのことを伝えたという。しかし夫は、「汚ねぇ」と言い放っただけで、なんの関心も持っていないかのようだった。
その夜、冨貴子はよそ行きの服に着替えた。すでに入浴も済ませ、寝る支度も整っていたが、冨貴子は着替えたうえにきちんと化粧も整えた。
そして、スカーフを手にイツさんの寝室へむかうと、イツさんの首を絞めあげたのだった。イツさんが苦しそうに顔をゆがめるのを見て一瞬、その手が緩んだという。しかしここでやめればおばあちゃんはもっと苦しい思いをするだろう……そう思い、必死でイツさんの首を絞め続けた。
口から出血し、そしてイツさんは動かなくなった。それを確認した冨貴子は、110番通報したのだった。
身支度を整えたのは、逮捕を覚悟してのことだった。
本当の動機
当時、介護疲れによる家族間の殺人は少なくなかった。年寄りは家族がみるもの、そういう感覚が多かった時代、冨貴子のように嫁の立場になくても一人息子や長男がその責任感から一人でしょい込み、結果、どうにもこうにもならなくなるというケースもあったし、情報に疎い高齢者同士の老々介護の末の無理心中などもあった。
冨貴子の場合も、仲の良い嫁姑であっても嫁という立場での苦労があったのでは、と推察された。
ところが、平成13年2月からはじまった裁判において、冨貴子がイツさんを殺害した動機に衝撃が走った。
なんと、冨貴子がイツさんを殺害したのは、「夫への報復」だったというのだ。
実はこの石神家は、すでに崩壊している家庭だった。
この事件を取材したノンフィクション作家の加藤仁氏によると、冨貴子と夫とのなれそめは趣味のテニスがきっかけだった。当時函館の女子校で体育教師をしていた冨貴子は、広告代理店勤務の男性と知り合った。後の夫である。
洗練された外見と会話に、冨貴子はたちまち魅了されたという。早稲田を目指していながら受験勉強の途中で実家の父が倒れ、進学を断念せざるを得なかった、という話も心をつかんだ。
二人は結婚し、長男をもうけたが、すでに夫の化けの皮は剥がれていた。
夫はとにかく、逃げる人だった。
広告代理店も結婚後すぐに辞め、次に勤めた会社の営業職もまともに務まらなかった。嫌なことからは逃げ、平気で嘘もついた。あの、大学進学を家の都合で断念せざるを得なかったというお涙頂戴話も、なんのことはない、受験勉強に嫌気がさしただけだったし、実家は劇太の資産家だった。夫は特に仕事をせずとも、十分に余裕のある暮らしができる人間だったのだ。
いくら金があろうとも、そんな人間には本当の魅力はない。しかし気づいたときには、冨貴子は逃げ出せなくなっていた。
生活力もなく、また実家の母親が病弱だったことや、その実母が暮らす家をイツさんが建ててくれていたことも離婚できない理由になった。
女癖も悪く、当時はやりだしたメル友もたくさんいたという。その中には肉体関係を持った女性も数知れずいた。
父親が遺した遺産を食いつぶしながら、夫は自堕落な生活を謳歌していた。冨貴子を顧みることもなく、イツさんのことも冨貴子にすべて押し付けた。
そんな息子の姿に、実母であるイツさんも愛想をつかしており、あまりのひどさに未遂ではあったが自殺騒動を起こすほどだったという。そんな出来損ないの息子と夫を共有する立場として、イツさんと冨貴子の間には一種の絆のようなものも出来ていたようだ。
そんな、苦労を共にしてきたと言っても過言ではないイツさんを、冨貴子は夫への報復として殺したと話した。
どういうことか。
無視され続けた人格
冨貴子は、当初夫を殺害しようかとも考えていた。しかしそうなれば自分は殺人犯として逮捕され、残されたイツさんの面倒は冨貴子の息子が担う可能性が高い。それだけは避けたかった。
当時、冨貴子の息子は別で暮らしており、バンド活動に勤しんでいたという。そんな、青春を謳歌している息子に弄便の症状が出ている祖母の介護をさせるわけにはいかない。
かといって、夫に任せて自分一人家を出たとしても、あの夫がきちんと介護できるなどとは到底思えなかった。
冨貴子は夫が憎かった。自分という存在を無視し続け、平気で浮気を繰り返した。仕事もせず、好き勝手な生活を続けていた。夫としても親としても資産家の息子としての矜持も自覚も持ち合わせていなかった。
踏みにじられ無視され続けた冨貴子の人格。ならば夫に思い知ってもらおう。
それが、冨貴子のイツさん殺害動機だった。
裁判所は、夫の無理解に悩み続けた冨貴子に同情の余地は多々あるとしながらも、イツさんに落ち度はなく、その罪は重いとして懲役6年(求刑懲役7年)を言い渡した。
ノンフィクション作家の加藤仁氏の取材によって夫のその後も知ることが出来た。
冨貴子は夫に思い知らせるためにイツさんを殺害したが、当の夫には1ミリも響いていなかった。
事件後、夫は自宅に女を連れ込み、身の回りの世話をさせていた。冨貴子への謝罪の気持ちも、微塵も持ち合わせていなかった。ただひたすら、自己正当化に終始した。
そもそもあの夜も、冨貴子が110番しているのを夫は黙って突っ立って聞いていた。夫にとっては、冨貴子の行為は報復でも何でもなく、莫大な資産を独り占めさせてくれたうえに、便臭を纏うボケた母から解放してくれた超ラッキーな出来事でしかなかったのだ。
それでも夫は「冨貴子を愛している」とのたまった。
**************
参考文献
朝日新聞社 平成20年3月28日東京夕刊
読売新聞社 平成13年7月10日東京夕刊、平成20年3月28日、29日東京夕刊
毎日新聞社 平成12年11月24日北海道夕刊、平成13年2月14日北海道朝刊、平成20年3月28日、平成21年6月4日東京夕刊
産経新聞社 平成20年3月29日、平成21年2月17日東京朝刊
サンケイスポーツ 平成20年3月29日
新潮45 2002年4月号 嫁姑泥沼介護殺人ファイル 加藤仁 著
判決文