🔓それぞれの死~いくつかの被疑者、被告人の死~

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容疑者、被告人の死。

理由は様々あれど、関係者の多くにとってそれは残念な出来事だと思われる。
中には口封じとしか思えないような不可解な拘置所内での自死、事故死もないとは言わないが、いつの時代にも容疑者や被告人がその事件の犯人としての罪のあるなし、その量刑が確定しないまま何もかもが終わってしまうのはやはり、残念なことである。

有名な事件で言うと、尼崎の連続不審死で主犯格として逮捕された角田美代子氏だろう。彼女は事件が発覚し逮捕されたわずか2ヶ月後に、身柄が置かれていた兵庫県警本部の留置場の布団の中で、長袖のTシャツを首に巻き付け、自死していた。
事件詳細は関連書籍など山ほどあるので読んでいただくとして、北九州のあの事件と双璧をなすと言ってもいい事件の首謀者があっけなく自殺するものだろうかという疑問はあった。
結果的には、角田氏は逮捕直後からかなり弱気になっていたようで、状況的にも自殺と考えられ、その後、角田氏と行動を共にした人物らも刑が確定し、事件は終わった。

事件備忘録でもいくつか、逮捕されることを嫌い、また裁判を待たずに自ら命を絶った容疑者の事件を報告している(確定後の服役中の死亡は除く)。これとか、これとか、これとか、これとか、これとか、これとか、これとか、これとか。
刑が確定する前に、起訴された被告人が死亡すれば公訴棄却となり、事件は残っても死亡した人間には前科はつかない。
たとえ、現行犯で一旦逮捕されていたとしても、100%犯人でも、死亡した以上は被疑者死亡で書類送検となり、その後検察も被疑者死亡で不起訴の判断をするため、前科はつかないのだ。

先日公開した事件の中で、一審判決が下された直後に被告人が死亡したというケースがあったが、それについても控訴手続きが取られないままだったためにこのまま放置すれば判決は確定してしまう。
検察は、死亡した人間に前科をつけることはせず、あえて控訴し、その後高裁で公訴棄却となった。

判決はまだでも、現行犯などで犯人確定しているケースはある意味、自分の命で償ったとも考えることは可能だが、中には最初っから容疑を否認しているケースもある。
広島の警部補の自殺も、本人は容疑を否認していた中での自殺だった。

事件の大小にかかわらず、被疑者、被告人の死によって幕が降りた事件をいくつか紹介したい。

社長殺しの主犯格とされた女の死

平成8年4月、岡山刑務所内にて拘置されていた女が自殺を図った。女はこの時点ですでに強盗殺人と死体遺棄で起訴されており、すでに裁判も始まっていた。
女はすぐに救命措置が施されたが、5月9日に死亡した。

死亡したのは倉敷市のスナック経営・大和智恵美元被告(当時48歳)。

彼女は元暴力団の男らと共謀し、倉敷市内で配管工会社を営んでいた伊地知卓也さん(当時47歳)を自宅に監禁し、現金1600万円を奪った上に鳥取県内のキャンプ場付近で睡眠薬で眠らせた状態の伊地知さんを土に埋め、窒息死させた容疑で逮捕、その後起訴されていた。

事件の経緯としては、平成5年3月、刀剣の売買をめぐってトラブルになっていた元暴力団員の男らが、知り合いの智恵美元被告の自宅に伊地知さんを誘い出して監禁、その間、伊地知さんを脅迫して会社の金約1600万円を2回にわけてもって来させた上で奪った。
伊地知さんから会社に電話が複数回かかり、「5日に支払う給料を8日ほど先延ばしにするよう社員に伝えてほしい」などと言われたという。
その後、1度目は1000万円を社員が伊地知さんの乗用車内に置くよう指示され、2度目は600万円を伊地知さんの自宅まで持ってくるよう指示があった。

その後、伊地知さんと連絡が途絶えたことから会社が捜索願を出していた。

伊地知さんは妻子があったが、平成4年の夏に離婚しており、元の自宅は妻子に譲り、自分は新たに家を建ててそこで一人生活していたという。

警察が捜査を進めたところ、トラブルになっていた相手が伊地知さんが金を持って来させた時間帯に、それぞれ付近で目撃されていたことから、男二人と智恵美元被告を指名手配し、逮捕した。

智恵美元被告は捜査段階から伊地知さん殺害については関わりを否認。自宅に呼び出したこと、刀剣トラブルになっていたことは認めても、殺害はおろか、その相談すらしたこともなく、死体遺棄現場にも行っていないと主張していた。

裁判が始まってもそれは一貫していたが、一緒に逮捕された男たちからは主犯格であるとされていた。

事件から4年が経過した平成9年、岡山地裁は二人の男に対し、それぞれ無期懲役を言い渡した。
当初殺害を認めていた男の一人は公判で証言を翻し、殺人をしていないと主張していたが、物証と供述には矛盾があることなどから退けられた。

智恵美元被告は最初から最後まで殺人に関して否認していたが、本当はどうだったのか。自殺した以上、身の潔白を訴えることも、真実を知りたいという遺族の願いに応えることもできない。

判決前夜の死

「坊ちゃんをやっちゃった。殺しちゃった。」

平成15年3月4日、名古屋市中村区に住む75歳の女性は、その日の朝8時頃、親しくしている女性から突然の告白を受けた。
まさかと思い自宅に入ると、家の中でその女性の兄が息絶えているのを発見した。
兄殺しを告白したのは、その家で兄と二人生活していた市野かつ子元被告(当時66歳)。死亡していたのはかつ子被告の兄、貞夫さん(当時69歳)だった。
告白された女性は、長年二人を見守ってきた経緯があり、なぜこんな事態になったのか理解できなかった。ふと見ると、兄の傍に包丁が落ちていた。
かつ子元被告は、自分も死のうとしたものの、死にきれなかったとみられた。

24年の献身

兄と妹は、24年間ずっと二人寄り添い、懸命に生きていた。最近、入院する必要がかつ子元被告に生じたことで、一時的に貞夫さんを入院させたいと言う話は聞いていたが、なかなか調整できず、かつ子元被告はヘルパーの回数を増やし、夜間は家政婦を雇うことも検討していて、介護に行き詰まったと言うことでもないように思えたのだ。

ただ、かつ子元被告は警察の調べに対し、「介護に疲れてしまった」と話したという。

かつ子被告と貞夫さんは、昭和44年、に東京から母親と共に名古屋へ越してきた。
兄の貞夫さんには生まれつき重度の知的障害があったといい、貞夫さんは基本的に家の外には出ないで生活していたという。
貞夫さんの世話は母親とかつ子元被告が担い、1974年に母親が住まいを分けたのちは、かつ子元被告がたった一人、貞夫さんの世話をしていた。
かつ子元被告は結婚はおろか、目を離せない貞夫さんのために仕事に出ることもせず、生活保護費でずっとやりくりをしていた。
(母親と住まいを分けたのも、おそらくその辺りが関係していると思われる。)

もちろん、行政もかつ子元被告に任せきりで知らん顔をしていたのではない。今は若いから大丈夫でも、この先、頼る人がいない状態でかつ子元被告だけが抱え込んでしまうのは良くないとして、再三、貞夫さんを福祉施設に通わせる(今で言うデイサービス的な?)提案をしていたという。
日中少しでも自由な時間が取れれば、かつ子元被告への負担も幾分減るだろうし、他人や専門機関と繋がることで将来的に必ず発生する様々な問題にも余裕を持って取り組める、そう言う当たり前の考えがあったと思われる。
しかし、かつ子元被告は「私が坊ちゃん(貞夫さんのこと)の面倒を見る。それが生き甲斐なの。」と、他人の手を借りることをなかなか受け入れようとしなかったという。

ただかつ子元被告の人柄もあったのか、近所の人々も兄妹の生活を理解し、常識の範疇で色々と支えていたと思われる。
かつ子元被告は生活保護の倹しい生活の中で、玄関先に可愛らしい花を植え、日々の生活に彩りを持たせようとするなど、結婚も出産も仕事も、人が生きていく中で起こり得る様々な人生のオプションを全て捨てていても、まさに本人が言う通り、坊ちゃんとの生活はかつ子元被告にとって「生き甲斐」であるように周りからも見えていた。

平成4年には、長年心身障害者に対し献身的な介護を行なっている人に対して送られる、「心身障害者介護者表彰」をかつ子は受賞。愛知県知事から表彰された。

しかし、行政関係者らの不安は現実のものとしてひたひたと、かつ子元被告の背後に忍び寄っていた。

破綻

貞夫さんが60歳を超えた頃から、少しずつではあるが体力などに衰えが見え始めていた。
そして事件が起こる数年前からは、その衰えが急激に早まり、状態も悪化していった。
平成15年、今度はかつ子元被告の体調が崩れることが増えていた。年齢的なもの、とたかを括っていたが、検査の結果、2週間ほどの入院が必要と判断された。

かつ子元被告はようやく市に相談し、知的障害を伴う人を受け入れてくれる老人養護施設などに短期間入所させてもらえるよう申請した。
市も調整を試み、希望の期間受け入れ可能な施設は二施設見つかったというが、ただどちらも「相部屋」だった。
他人とあまり接触していない貞夫さんが耐えられるはずがないと、かつ子元被告は施設入所を断念する。

それまで週に3回だったヘルパーの派遣を増やし、夜間も家政婦を雇って調整しようしていたが、その頃からかつ子元被告は塞ぎ込むような様子が見られていたという。

確かにかつ子元被告は悩んでいた。
貞夫さんではなく、自分の死期が近いことを知ったのだ。

かつ子元被告は、癌だった。

「坊ちゃんがいるから、生きていける」

かつ子元被告は、自分の死期が近いと感じたことで、自分が死んだあと残された貞夫さんを思うとどうにかなりそうだった。
ここへきて、市の人が再三かつ子元被告を説得していたことの意味が身にしみていた。

しかし、もう、遅い。

かつ子元被告は大好きな兄の首を電気コードで締め上げた。悲しい気持ちよりも、おそらく安堵だったのではないかと思う。

死を待つよりいっそ、と、包丁を手にしてみたが、できなかった。

逮捕後、4月に手術をした。5月から裁判が始まり、起訴状の内容を認め、5月末には懲役5年が検察より求刑されていた。
6月、体調が悪化し入院。その時点で癌は肺に転移していること、そして、脳への転移も見られていることがわかっていた。

9月1日、体調が回復し、外出できるまでになったことで9月8日に判決の言い渡しを控え、名古屋拘置所に移されていた。
9月7日午後8時半、見回りの看守がすでに意識を失っているかつ子元被告を発見、医師によって救命処置が取られるも、息を吹き返すことはなかった。
吐いた食事を喉に詰まらせたものと見られていた。

かつ子元被告の死を知った近隣住民らは、「執行猶予付きの判決になると信じていたので残念」と肩を落とした。
住民らは千百人分の嘆願書を裁判所に提出もしていた。二人が暮らした家の大家は、かつ子元被告が戻って来られるよう、家をそのままにしてくれていたという。

8日に予定されていた判決言い渡しは中止、そのまま公訴棄却となった。

ところがかつ子元被告が死亡した後、当初吐いたものが喉に詰まって死亡したとされていたのが、実はあの日、朝からずっとかつ子元被告が体調不良を訴えていたことがわかった。
しかも、かかりつけの病院から肺と脳への転移を伝えられていたにもかかわらず、拘置所側は医師の診察を受けさせなかったばかりか、かかりつけ医への連絡もしていなかったのだ。

理由は、「日曜で当番の医者が休みを取っていたため呼び出すのが躊躇われ、かかりつけ医には週明けに連絡すれば良いと思っていた」という、信じられないものだった。

かつ子元被告はトイレに一人で立てないほど体調が悪かったという。それでも、拘置所側は「そこまで重篤な状態とは思わなかった」と言う釈明を繰り返した。

かつ子元被告は、どう思っているだろうか。
公訴棄却となったことで、かつ子元被告は前科のないまま旅立っていった。兄を殺したことは重大なことだが、かつ子元被告の何十年に渡る兄への愛情を、近隣の人も行政もみんな知っていた。
「坊ちゃんがいるから生きていける」
生前、そう語っていたかつ子元被告。坊ちゃんがいない今、その言葉通り、もはや生きてはいけなかった。

前科がつく前に、と、坊ちゃんが世話になったかけがえのない妹をそっと連れ出してくれたと考えるのは感傷的すぎるかもしれないが、多分そうだと思う。

小2男児を轢き殺した厚底サンダルの主婦の死

平成10年頃から平成13年頃にかけて、世間は厚底ブーツが若い女性の間で大流行していた。
もっと昔からそして現在にかけても、ウエッジソールやサボサンダルなど、厚底と呼ばれる靴の種類はあるし、昭和の終わりから平成初頭にはバンドマンや追っかけギャルの間でラバーソールもめちゃくちゃ流行っていた。

ところがこの平成11年(1999年)頃から流行り出した厚底というのは、その厚みがとんでもなく厚いものも中にはあった。靴底からかかとまでの高さが15センチとかざらだった。
ファッションモデルやアーティストなどがショーで履くのではなく、それらとんでもない厚みの靴を、日常で多くの女性が履いていた。
そして中には、その厚底靴で自動車を運転する恐れ知らずの女性たちもいた。

厚底の靴が原因の事故

平成11年11月1日未明、茨城県ひたちなか市の県道で、25歳の事務員女性が運転する軽自動車が道路左側の道路標識に激突、助手席に乗っていた24歳の事務員の女性が全身打撲で死亡、運転していた女性も大怪我を負う事故があった。

調べでは、当時50キロ程度で走行していたというが、厚底ブーツを履いていたことからブレーキを踏む感覚が鈍り、また足の長さが長くなることでハンドルまでの距離も遠くなり、ハンドル操作を誤りやすくなったとみられた。
運転していた女性は、普段はその危険を認識していて厚底ブーツでハンドルを握らないというが、その日は友人と1キロほど先の場所へ移動する途中だったといい、少しなら大丈夫と油断したのが大変な事故につながってしまった。

厚底ブーツはのちに焼却処分されたという。

平成12年、今度は高知で事故が起きた。
土佐市新居の県道で、宇佐町の飲食店勤務の女性(当時23歳)が運転する乗用車が、対向してきた赤岡町の59歳の男性が運転する軽自動車と正面衝突した。
この事故で、運転していた男性と、男性の車に乗っていた75歳の義父が死亡、男性の妻(当時50歳)も腰の骨を折る重傷を負った。

23歳の女性も首に軽い怪我をした。

その後の調べで事故は女性がハンドル操作を誤り左側のガードレールに接触したのち、制御不能となり、対向車線にはみ出してたまたま走行してきた男性らが乗った軽自動車にぶつかったと判明。
女性は厚底ブーツをはいていた。

女性は友人宅から帰宅途中、男性らは四国八十八か所巡りに出かけたところだったという。

女性は業務上過失致死で逮捕されている。

そして同じく平成10年の9月16日、埼玉県熊谷市で起きた事故も、加害車両を運転していた主婦が厚底サンダルを履いていたことからまたか…という印象を持って当初語られたが、その後の展開はなんとも言えない結末を迎えてしまった。

【有料部分 目次】
 ふてぶてしい主婦
北海道・矯正不可能強姦男の死
 もう一人の女性と男の死
 その男
 難航する捜査
 受け入れ続ける家族