あの事件のその後~札幌歯科医師妻殺害事件の保険金~

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平成19年3月26日、札幌地方裁判所はとある民事裁判において原告の請求を棄却する判決を言い渡した。
それは保険金請求事件。妻を亡くした夫が請求した保険金の支払いを、生命保険会社が「消滅時効期間」がすでに経過していることによって支払いを拒否してきたため、起こした訴訟だった。

ざっと見れば、揉める要素などなさそうな事件に思えるが、実はこの裁判には複雑な事情があるにはあった。

原告の男性は、過去に保護責任者遺棄罪で有罪が確定していた。そして、その被害者が、今回請求された生命保険の被保険者だったのだ。

平成14年7月、北海道札幌市で起きた歯科医師妻が殺害された事件。
原告の男性は、その事件で逮捕された老女の息子で、被害者の夫だった。

あの事件

詳細については、超有名事件である程度調べることができるのでここでは簡単に時系列で記しておく。

事件が起きたのは平成14年7月12日。札幌市清田区の住宅から110番通報が入った。子供の声で、母親が倒れているというもの。
救急隊員と豊平署員が急行したところ、その家の主婦・吉村夕佳さん(当時39歳)が階段昇り口で血を流して倒れており、すでに死亡していた。
当初は事故とも思われたが、血しぶきが周辺に飛び散っていたり、階段から転げ落ちた割にその出血やけがの具合が大きいこと、そしてなにより通報してきた夕佳さんの息子(当時6歳)が、「お父さんがお母さんを殺した」と言っていたことから、警察は夕佳さんの夫の歯科医師に事情を聴いていた。
ところが、事件の5日後、弁護士に連れられて出頭してきたのは夫ではなく、夫の母親だった。

夕佳さんを殺害したとして逮捕されたのは、夕佳さんの義理の母親にあたる女(当時77歳)。義母の自供によれば、夕佳さんとは長年に渡って確執があり、たまたまこの夜、酔って階段から落ちて意識がはっきりしない状態になっていた夕佳さんに対し、「非力な自分には今しかない」と思い、殺意を持って夕佳さんの頭部を階段の角に複数回ぶつけてケガをさせた後放置したというものだった。
77歳の老女が犯人だったことに加え、いくら確執があったからと言ってここまでの暴力がふるえるのか、という思いもあったのか、警察はその後も夕佳さんの夫への事情聴取をやめなかった。
そして、夕佳さんの夫の自供などから殺害行為に直接関わってはいないものの、母親の暴力があったことを知りながら大怪我を負っている夕佳さんを救護することもせずにいたことから「不作為の共同正犯」として殺人の容疑で逮捕した。

結局、検察は夕佳さんの夫については殺人には問えないとして保護責任者遺棄、保護責任者遺棄致死罪で起訴。
夕佳さんの夫は自分が夕佳さんを発見した際にはどう見ても死亡しているのが明らかな状態であったと主張、救護する必要はもはやなかったとし、保護責任者遺棄ならびに保護責任者遺棄致死は成立しないとして無罪を主張した。
札幌地裁は平成15年11月27日、保護責任者遺棄罪で懲役2年6月の判決を言い渡す。
その後最高裁まで争われたが、平成17年10月14日に最高裁は上告を棄却、平成16年10月14日の控訴審判決である懲役2年6月が確定した。

つっぱねられた保険金請求

男性は出所後の平成18年4月11日、夕佳さんが被保険者である生命保険金の請求を行った。
その保険は、平成11年9月1日に死亡保険金受取人を夫である男性、被保険者を夕佳さんとして締結されたものだった。掛けられていた生命保険の額は1億円。
月の保険料も相当なものだったと思われるが、男性は歯科医師であり、そのあたりは特に問題なかったのだろう。

ところが生命保険会社は、その後の5月26日、男性に対してこの保険金請求は夕佳さんの死亡からすでに3年以上経過していることから消滅時効期間が過ぎているとし、保険金を支払わない旨通知した。

保険会社としては被保険者の死亡の事実を知ってから3年以内に請求しなければならないという規約があり、男性は当然それを知っていた。もちろん、3年の間に請求者が請求できないという法律上の障害があったわけでもないのだから、請求権は時効によって消滅したと主張。
対する男性側は、そもそも保険契約の失効などは厳格に判断されるべきで、このケースの場合は特段の事情があるとして、請求に至らなかった理由を以下の通り説明した。

男性は逮捕後の平成14年9月9日、実兄を通じて生命保険会社に相談している。その際、生命保険会社の社員より、「夕佳さんの分の保険金は刑事裁判の結果で支払われるかどうかの判断がなされる」との回答を得たことから、現時点で請求をしたとしても拒否されると受け止めた。
加えて、当時の客観的事情(刑事裁判になること、逮捕勾留されていること)に照らせば、判決が出るまで権利を行使できない特段の事情があったというべき、と主張した。

ただ保険会社はそれ以外の理由として、商法683条1項が準用する656条が「危険の著増、すなわち、保険期間中に危険が保険契約者又は生命保険における保険金受取人の責めに帰すべき事由によって著しく増加した時は、保険契約が失効する」旨を規定しているとし、今回の保険金請求はこの部分に照らしてもすでに失効していたと判断していた。

男性は夕佳さんの事件が起きるよりも前に、無理心中未遂、夕佳さん殺害未遂などを起こしていたと認定されていたのだ。

いくつかの事件

夕佳さんの家庭では確執のあった姑との間のみならず、この夫との間でもいくつかの事件が起きていた。
夕佳さんと姑の間で諍いが起きるたび、男性は間に入っていたというが、男性からすれば悪いのは夕佳さんであり、そのため夕佳さんに対して
「こんなことが続くなら一家心中するぞ」
などと脅したことがあったという。

夕佳さんの人柄については、自分に厳しいため、それが時に気の強さとなって周囲に表れることもあったというが、第三者らの評価はおおむね良いものである。
しかしこの姑とはどうにもこうにもならなかったようだ。
平成12年、ゴールデンウィークに北海道内をキャンピングカーで旅行した際、夕佳さんは男性に首を絞められたと妹にFAXを入れた。

さらにその年の11月3日、男性と夕佳さん、そして長男の3人で沖縄へ旅行した際、漁港から3人が乗った車が海に転落するという「事故」が起きた。
もっともこの際、たまたま息子の座っていた場所のドアロックがはずれていたことで、まず長男が脱出し、夕佳さんも男性も脱出できている。
これについても、夕佳さんが無理心中に巻き込まれたと思い込んで妹に伝えた。この時点で、夕佳さんの実母や妹らは男性やその母親のことをかなり嫌うようになっていた。

これ以外にも、あまりに母親への態度がひどいことを思い悩み、就寝中の夕佳さんの首を絞めようとするなどの行為があったとされた。

これらをもって、夕佳さんが殺害されるより以前に、保険契約者である男性によって危険が著増していたと保険会社は判断して、すでに失効していたと主張した。

一方、男性側の反論とすれば北海道旅行の際の事件は夕佳さんが大げさに妹に吹き込んだとし、また、旅行中に撮影された写真などからも、二人の間にそのようなことは起きていないとした。
また沖縄旅行の事件はブレーキとアクセルを踏み間違えたことによる完全な事故であると主張した。

加えて、平成12年の時点で夕佳さんが身の危険を感じていた、いわゆる危険が著増していたとするならば、再三家族旅行に行き、その後麻酔なども使う歯科の治療を夕佳さんが危険人物である男性に委ねるなど考えられないとした。

また、刑事事件の裁判において男性が無理心中を企てていたと認定された要因の一つとして、夕佳さんが殺害された後の取り調べにおいて、沖縄での転落事故を知った担当刑事から、
「おふくろさんのためにはその事故でみんな死んでしまった方がよかったんじゃないのか」
と言われた際、男性が
「そうかもしれませんね」
と返答したことが挙げられていた。
ただこれは、男性にしてみれば無理心中が成功していればよかったという意味ではなく、事故で死亡していれば、という意味に過ぎなかったのだという。
担当刑事がその返答の後、調書に無理心中を図った、と記載したのを見て刑事の罠だった、と思い、慌てて訂正するも取り合ってもらえなかった、と反論した。
そして、後になってその刑事の取り調べの背後に検察官がいたことを知った、とも述べた。

男性は刑が確定し、無罪主張が受け入れられなかった後も一貫して、自身に科せられた保護責任者遺棄という罪に納得していなかった。

裁判所の判断

この民事裁判は、あくまでも男性が請求した夕佳さんの生命保険金支払いを保険会社が拒否したこと、その理由についての審理がなされた場であって、夕佳さんが殺害された事件について審理するものではなかったが、その性質上どうしても夕佳さんの事件をもう一度掘り起こさざるを得なかった。

似たようなケースとして、藤沢のOL放火殺人がある。ただそちらの場合は刑事事件の過程では男性の関与があったかどうか確定するより前に、民事裁判で関与があったと確定していた。原告の狙いも、保険金ではなくあくまで被害者の名誉を守りたい、というものだった。

この札幌の場合は男性自身は無罪主張だったものの、すでに有罪が確定し、その内容として確かに男性の言い分にも耳を傾けるべき部分があるにせよ、夕佳さんが瀕死あるいは死亡している可能性が非常に高いと思われる場面で通報や救護措置をとらなかった、そしてそこに母親を守りたいという「故意」があった以上、生命保険会社が慎重になるのは当然に思える。

しかし男性からしてみれば、一貫して無罪主張なのだから、当時の夫として保険契約者として生命保険を請求するのは当然のこと。
にもかかわらず生命保険会社が消滅時効だけならともかく、自分としてはそんなつもりなどなかった過去の「事故」あるいは夕佳さん、親族の思い込み、捏造によって自身の正当な権利が認められないのみならず、一貫して否定している無理心中を企てていたなどという自分の名誉に関わる理由では、絶対に納得などできなかったろう。

平成19年3月26日、札幌地方裁判所の笠井勝彦裁判官は、男性の請求を棄却。生命保険会社の言い分をほぼ認めた。

法律的にどうこう以前に

裁判所は、男性が主張する無理心中などおこしていない、という点については、刑事裁判での判決などから事実であると認定した。
男性が無理心中を企てて未遂に終わり、夕佳さんがそれを知っていたのが事実ならばその後麻酔などを使用する歯科治療を男性に任せるはずがない、とする点も、だからといって無理心中を企てていなかったとするには足りない、とした。

また、保険契約における危険の著増というのは、例えば保険金殺人を目論んだケースの場合、その実行に着手した時点で保険契約は失効するのであって、たとえそれが未遂に終わって殺害計画が取りやめとなったとしても、すでに失効した契約が復活するものではない、とした。
男性のケースの場合、かねてより「夕佳を殺して自分も死ぬしかない」と心の中で思っているうちは保険契約は失効しないが、就寝中の夕佳さんの首を絞めたり、沖縄で海に車ごと転落したりという夕佳さんを殺害するため(既遂、未遂は関係ない)の実行行為を行った時点で、すでに失効していると判断したのだ。
事件で有罪になったから失効したのではなく、そのはるか前の時点で失効していたのだ。

さらに、消滅時効についてはもはや完全論破だった。

確かに、男性は自身が勾留されていることなどから思うように動けないため、兄を通じて複数の保険契約の解約などの手続きを依頼している。
裁判所は、消滅時効が進行開始するにはその権利の行使について法律上の障害がなく、かつ、権利の性質上、その権利行使を現実に期待することができるようになった時から進行する、とし、本件においては夕佳さんの死亡という支払い事由が発生した時が進行開始である、とした。

もちろん、男性が主張するように、当時の客観的状況に照らし、その時(夕佳さん死亡)からに権利行使が期待できないような特段の事情が存する場合は、それが行使可能になった時以降において消滅時効は進行するとした。

その上で、危険の著増で平成14年7月12日より前に契約が失効していたと認められること、たとえ7月12日時点で契約が有効であったとしてもすでに3年以上が経過していることから、消滅時効は完成していると判断した。

加えて、男性は実兄を通じて行なった問い合わせを持って、夕佳さんの保険金請求を行なったとも主張しており、その際に保険会社側から刑事裁判の結果で決まる、と言われたことから、刑事裁判の結果が出るまでは権利行使できないわけであるから、特段の事情に該当し、かつ、消滅時効も進行していないと主張していたが、これについても、そもそも実兄は必要な書類すら提出しておらず、また、保険会社が行った説明はあくまで通常の保険金の支払いに要する日数より夕佳さんの保険については調査を要する、そういう意味での説明であり、この時点で直ちに支払いを拒否した、と認めることは無理があった。

さらに、男性は特段の事情があったから保険の請求手続きが出来なかったといいながら、自身を被保険者とする別の保険に関しては、実兄を通じて保険会社とやりとりをし、身柄拘束中でありながら何の問題もなく解約できていたのだ。
これらを考えれば、男性の主張はやはり通らない、というのが裁判所の判断だった。

裁判所の判断を待たずとも、ぶっちゃけ素人から見ても「ですよね」としか言いようがないようにも思える。
確かに保険契約者であるのだから保険金の請求は当たり前かもしれない。たとえ自分の母親が殺害した相手が被保険者であっても、法律的にはそこは多分問題ではない。法律的には。

ただ男性の行動をみると、なんというかことの重大さを本当にわかっていたんだろうか、とも思える。

男性は出所後、自身でサイトを開設し、再審に向けての支援を募っていた。平成22年で更新はストップしているが、要は裁判の全てが茶番であり、検察による捏造、それを見抜けない無能な弁護士によって裁判が進み、裁判官までもが正しい判断をできないこの司法は間違っている、という感じの仕上がりだ。

冒頭、なぜ事件が起きたのかという部分でも母親が夕佳さんに対して持ち合わせていた「日頃の恨み」をわざわざ赤文字で強調。
母親が殺人罪なのは当然としながら妻だった夕佳さんへの哀悼の言葉はなく、さらには息子の実名を載せ、その息子が通報の際に「お父さんが殺した」と言ったことで疑われた、そしてそれは、夕佳さん同様に男性の母親を虐げていた夕佳さん側の親戚が警察にそう言わせたのだという、かなり感情的な書き出しで始まる。

確かに男性視点でみれば、事実と違うことを訴えているのだから大変有意義なものだと思う。
しかし、なんだろうこの湧き上がってくる嫌悪感は。

新潮45において過去にこの事件のルポが発表された際、男性の人となり、歯科医としての評判、そして夕佳さんと結婚するより前の2度の結婚離婚についての色々が書いてあった。
それが全てではないにしろ、かなりパンチが効いていた。

詳細は是非、新潮45「その時殺しの手が動く」を購入していただきたいとして、そこに書かれてある男性の興味深い点がいくつかあった。
まず、歯学部に5浪していること、3回留年した後の歯科医師免許の国家試験で落ちていること。彼は北大の歯学部だったが、そこで落ちた人間は男性を含め過去に400人中3人だけだったという。
さらに、卒業に関しては教授から、「開業しないというならば卒業させてやる」という信じられないような条件までつけられる程だったというのだ。
要は、技術、知識的に歯科医として独り立ちできるレベルにない、ということに思えるが、ふと、男性自身の資質みたいなことも含まれていたのかな、と感じた。これはあくまで私が個人的に感じただけである。

夕佳さんと結婚する前の2度の結婚生活や、破綻した後のエピソード。そして夕佳さんと結婚してからの、家庭内での様子。もしそれらが全て真実だとするならば、非常に人としてかなり特殊な考え方を持っているような気がする。

それは男性が開設したサイトにも、そこはかとなく漂っているのだ。

そして何より、殺人事件が家族内で起き、その加害者が自身の母親であり、自身も認めていないとはいえ司法によって保護責任があったのに果たさなかったと認定されているのに、よくもまぁその被害者の保険金を請求できたものだと思う。
いや、請求するのは権利だろう、しかし夕佳さんは男性の実母に殺害されたわけで、その親や妹ら親族も男性に対してかなり強い拒否感を持っている状況で、請求するのみならず受け取れなかったからと言って裁判に打って出るという、誰も止めんかったんかと言いたくなる惨状である。

請求はしてみたとして、すでに時効ですよ、と言われたならば普通は、この状況ならば普通は、「もういいか。」と思うのではないか。
裁判してでも、という感覚が、どうにも理解し難い。

男性は夕佳さんとの結婚前にもうけていた子どもに会うためには手段を選ばず、辟易した元妻からやめてくれと言われても、

「僕は父親だ。父親として忍んで会うくらい、許されるだろう」(新潮45 その時殺しの手が動くより)

と言ったという。この元妻に対しては、母親と連れ立って中傷ビラを巻き、様々な嫌がらせを行っていた。にもかかわらず、この言い草である。ちなみに養育費は払っていなかった。
自分の権利は主張するが、自身の義務や相手の感情にはどこまでも鈍感な印象がある。

男性はその時点で再審への支援をサイト上で募っていた。同時に、弁護士も募集していた。

平成20年に開設されたそのサイトの総閲覧者数は、令和5年2月時点で1万人にも達していない。サイト内にある手記のダウンロードもリンクが機能していない。

そして現在、更新もされていない。

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参考文献

新潮45 その時殺しの手が動く

冤罪は検察の捏造調書で作られた