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2006年、2月。
その日は冷たい雨が降っていた。54歳になる息子は、86歳の母親の車いすを押しながら、思い出深い京都・伏見の桂川遊歩道を歩いていた。
まだ人影もない、真冬の早朝。ふたりは前日の夜中から、あてもなく極寒の冬空の下を彷徨っていた。
「もう生きられへん、ここで終わりやで」
そういう息子に、母は動揺もせずに答えた。
「そうか、あかんか。」
母との最期の言葉をかわし、息子はその母の首に手をかけた。
数時間後、自身も首を切って自殺を図った息子と、息子のそばで息絶えた母親が発見された。息子は死にきれなかった。
京都・伏見で起きたこの事件は、認知症の年老いた母親をたったひとりで抱える息子の苦悩と、福祉サービスの限界などもクローズアップされ、他人事ではないと感じる多くの人から同情が寄せられた。
判決は、懲役2年6か月、執行猶予3年という入れとも言える温情判決であった。
まっとうに生きることと、母親の認知症
(注:登場人物について、当初は仮名も考えましたが、当事者がすでに死亡していることと、書籍やネットの報道などでも容易に本名が把握できる点から、すべて実名としています)
西陣織の職人であった父を持つ康晴は、高校卒業後その父に弟子入りする形で修行を積んでいた。
厳しい父であったが、ゆえに康晴はその父を尊敬し、まじめで人様に恥じない生き方にも共感していた。
時代は移り、昔のように呉服産業が伸びなかったこともあり、康晴は35歳の時に他で働くこととなる。工場やホテル、警備員など職種はさまざまであったが、まじめな勤務態度や人柄で特に問題もなかった。
父のもとでの修業期間もあって、この年まで結婚はしていない。しかし、両親と共に暮らすことで日々の生活は十分に成り立っていたと思われる。
1990年、厳しくも尊敬していた父親が死去。
年老いた母親・小ふじと、40歳を超えた独身男の二人暮らしが始まるが、時を同じくして母親の言動に不審な点が出てきた。
最初は、「狐が出た」といった妄想とも夢ともつかないようなことや会話が噛み合わない、物忘れといった症状であったが、やがてそれは「認知症」と診断された。
2001年に家を引き払い、親類のつてで安くアパートを借りることが出来移ったが、母親の認知症の症状は進行しており、時々徘徊することもあった。
まじめな康晴は、人様に迷惑をかけてはいけないと常日頃言っていた父親の言葉を思い出しては、ひとり徘徊した母親を捜し、警察や関係者に頭を下げて回った。
仕事をしていた康晴だったが、夜中も頻繁に母に起こされ、また、勝手にうろつかないよう気にかけていたため全く眠れず、その日々の仕事にも支障をきたすようになる。
康晴は昼間の仕事を退職せざるを得ないと思うようになる。これも、会社の同僚らに迷惑をかけることを恐れたのが何よりの理由であろう。
職場の上司や同僚は理解があった。康晴がそれまで築いてきた信頼は揺るがなかった。事情を話すと、上司は「大変やな、気をつけて休め」と気遣ってくれた。派遣社員であるにもかかわらず、同じ職場で5年も働けていたのも康晴の誠実な人柄が評価されていたからだ。
同年6月にいったん休職のかたちをとってはみたものの、正規雇用でないがゆえに職場の上司らの温情だけではことはうまく運ばなかった。
2005年9月。康晴は勤務していた工場を退職した。
介護の現実と、社会の事情
昼間の仕事を辞めた康晴は、自宅で母親の介護をしながら出来る仕事を探した。
しかし2005年と言えば大卒でも就職できないような時代であり、体力があって自由な若者でも正社員になるには難しく、一度会社組織から外れてしまうとなかなか正社員はおろか、職につくことも難しかった。
中年の、特に資格も持っていない康晴には当然職の空きは回ってこない。生活費は徐々に減り、とうとうカードローンなどでキャッシングをしてしのがなければならなくなった。
工場をやめる少し前、伏見区の福祉窓口で介護申請していたものが認められ、アパートから車で10分程度の特養「淀の里」に通うことが出来るようになっていた。
ケアマネは細かいところに気がつく女性で、康晴が一人介護していることを考慮して、介護認定が通るまでに暫定でデイサービスを受けられるよう手配してくれた。
プランは、週5日午前10時から午後4時まで、施設で母親をみてもらえるようになった。当時ほぼ無収入であった康晴に、2万円以内でプランを組んでくれるなど良くしてくれたが、自費で払わなければならない食材費などはどうしても削れなかった。
この頃の母親の介護判定は、要介護4と生活のほとんどの場面で介護が必要な状態であった。自力歩行や食事は出来るものの、それ以外の生活行動は一人では行えない状態だった。
この、「自力歩行ができる」というのは実際に経験した人なら良くわかるだろうが、寝たきりでないから良さそうに思えるが実は全く逆だ。
言葉を選ばず、わかりやすく言うとすれば「体力のあるボケ老人」ということになる。こうなれば、徘徊の危険度が高く、介護する家族は24時間目が離せないという事態に陥る。
実際に康晴の母親も、何度も自宅を抜け出し徘徊していた。
特養「淀の里」の康晴親子への待遇は非常に配慮のあるものだったという。迎えには一番早く行き、送りは一番最後にすることで、少しでも康晴が時間を確保出来るようにしてくれていた。
康晴はそんな配慮に感謝しつつ、いつまでも決まらない仕事に焦り始めていた
②に続く
「京都・伏見認知症母親心中未遂事件その顛末①」への1件のフィードバック
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